中国人強制連行
― 満 州 連 行 ―

― プロパガンダに同調する日本の学者 ―
⇒ 小島中尉「 労工狩り」証言

又は、⇒ 落ち行く先、万人坑



 つづいて満州への"強制連行"について検討してみましょう。

1 膨れあがる中国人強制連行数

 すでに記したように、中国の『国恥事典』は、華北から569万人が労働力として強制的に連行されたとしています。念のために記しますと、「三光作戦」による民衆の虐殺(将兵を除く)は318万人 にのぼったとします。最近では強制連行された中国人2000万人説がネット上に見られるようになりました。
 この途方もない数字は、北朝鮮が日本に補償を求めている強制連行数840万人と同様、政治的な数値なのでしょうが、これらを真に受ける日本人がいるから困りものです。

(1) 同調する学者たち
 『「三光作戦」とは何だったのか』(岩波ブックレット、1995年、左下画像)の著者、姫田 光義・中央大学教授は、同書で以下のように記しています。

 〈人力・労働力の強制徴発、いわゆる強制連行も「奪いつくす」に入れてもよいかもしれない。この点に関しては彭 徳懐将軍は早くも1941年末の報告の中で次のように述べている 。
 「敵が公表したものによれば、1937年、壮丁で関外に出た者は32万3,689人、1938年は50万1,686、39年は95万4,882、40年は120万、合計298万0,257人であった。
 これらの壮丁の大部分は武力によって連行されたものであり、一部は騙されて出て行ったものである。今年はさらに110万が計画されており、敵はこれを達成するためにいたるところで強制連行するであろう。
 "人" はわが民族の抗戦の最も貴重な宝物であり、5年間で400万もを関外につれ去るということは、われわれにとって、注目すべきことである。」〉

岩波ブックレット、『「三光作戦」とは何だったのか 』  1937(昭和12)年から1941年までの5年間に400万人というのですから、終戦時(1945=昭和20年)までの合計は、『国恥事典』のいう569万人という数をさらに上回ることになりそうです。
 なお、1937(昭和12)年、関外に出た者 「323,689人」 という朱で記した人数は、後に関係してきますのでご留意ください。
 関外は長城の外という意味ですから、これらの膨大な数は満州への強制連行ということになるでしょう。
 そして、姫田教授は、この数字は大げさなものではないとして、以下のように記しています

〈日本側はこれら労働者を「出稼ぎ」としているが、
中国側はこの時期の、この指摘から明らかなように、経済封鎖や物資の略奪とあわせて
人力の強制徴発・強制連行を「三光」の中に入れて認識していたのである。〉

 つまり、これら膨大な数の"強制連行"は、「三光政策」の一環として実施されたという認識を示しています。
 藤原 彰・元一橋大学教授論考、「『三光作戦』と北支那方面軍」(「季刊戦争責任研究」、1998年)の次の記述が想起されます。

 〈ここでは姫田光義が中国側の公表された数字をもとにしてあげた「とりあえず華北全体の被害は将兵の戦死者を除いて247万人以上」によっておきたい。
 これだけでも、南京大虐殺の10倍もの犠牲者がでていることになるのである。〉

 〈この他にも、強制連行され労働力として満州その他に送られた膨大な人々、犯された女性、奪われた財産、焼かれた家、数えあげれば際限のない「三光作戦」の被害は、ようやく最近その一端が紹介されるようになった。〉

(2) 中国の筋書き
 中国が「死傷者3500万人」と主張していること、満州各地で見つかったという「万人坑」を3500万人の有力な根拠にしていること、そして万人坑を支える膨大な数の強制連行、これらを合わせて考えれば、中国の意図する筋書きはハッキリしているというべきでしょう。

 つまり、日本軍は抵抗する中国人を手あたりしだい殺害(三光作戦)し、また労働力になりそうな壮丁を「労工狩り」という手段で連行する。ひとたび鉱山や工事現場に連行すれば、さんざん酷使したうえで、使いものにならなくなると生きたままでも 「ヒト捨て場」に投げ込む、それらを積み重ねると3500万人になるというわけなのです。

2 彭徳懐報告は政治的プロパガンダ

(1) 数字の詐術
 まず、次の表「1926以降、中国労働者入離満数」をご覧ください。この表はここまでに何度か参考にした『満洲國史』(1971年刊)からとったものです。


 数値の出所が書いてありませんので断定はできませんが、満鉄か満州国の統計と思います。いずれにしても、表(数字)の信憑性は高いといってよいでしょう。
 というのも、1937年の「入満」欄を見ますと、「323,689人」となっていて、この数字は上に朱で記した1937年における連行数「323,689人」と、下1桁までピタリ一致した数字になっているからです。
 他の年度については、完全一致こそしていませんが、ほぼ似た数になっていますので、1941年末に行った彭徳懐将軍の報告の数字の出所は、この表と同じ出所、つまり満鉄か満州国の統計の可能性が高いでしょう。

 さて問題は、「百団大戦」の指揮をとった彭徳懐が行った報告の中身です。
 彭があげた数字は、華北などから満州国に入った数、つまり「入満数」をあげているだけで、逆に満州国から華北など他地区にもどった「離満数」をまったく勘定に入れていません。
 つまり数字の詐術、「政治的プロパガンダ」なのです。

 例えば、1936(昭和11)年を見ますと、
入満数 364,149人
離満数 366,761人
 ですから、差し引き2,612人もが満州から多く離れたことになります。

 1932(昭和7)年、つまり満州国が建国された年ですが、この年にいたっては、
入満数 372,629人
離満数 448,905人

 したがって、76,276人も多くの人が満州を離れたことになります。
 ですから、「離満数」を数に入れず、「入満数」だけ積算するという単純な数字の詐術を信じる方がおかしいのです。
 念のために1937(昭和12)〜1941年までの5年間を計算しておきましょう。
 人満数は 4、038、942人、実に入満数の60%にあたる 2,435,717人が離満していますから、5年間の純入満数は、1,603,225人となります。

 つまり、彭徳懐のいう400万人は、プロパガンダということにならざるをえないでしょう。もちろん、160万人が強制連行なら大問題に違いありませんがこれも事実ではありません。

3 華北労働者についての概要

 ここで華北労働者(工人=こうじん)について、『満洲國史』から重要と思われる点を拾いだしてみます。
 ここに書かれていることは、私の読んだ満州最大の撫順炭鉱(満鉄経営)の各記録および証言とも合致しているなど、信頼できるものと思います。
 工人は「苦力」(クーリー)と同義ですが、とくに民族協和を標榜する満州国の建国後は、侮蔑的意味を持つとして公式には「苦力」を使用せず、しだいに「工人」「華工」「労工」が印刷物を中心に定着していきます。ただ、一般人の会話には「クーリー」は使われました。

(1) 出 身 地
 1936(昭和11)年、大東公司(後出)を通じての入満者41万人調査によると、山東省57.6% 、河北省40% となっていますので、両省で実に97.6% を占めることになります。

(2) 入満者の出身地における職業
 満鉄経済調査会労働班の2000人調査(1936年)によれば、農業が64.3%で大部分を占め、一般労働者28.2%となっています。

(3) 離村(入満)の原因
 自然的原因、社会的原因、政治的原因など4つをあげています。
 自然的原因は、「毎年どこかで旱魃(かんばつ)、水害、風害、蝗害があり、 多い年には罹災者4千万といわれ、農民は家郷を捨てて他に職を求めることが多い。」としています。
 社会的原因では山東、河北の両省は人口密度が高く出稼ぎが多いと説明。また、「積年の内乱、土匪の横行、税金の過重」を政治的原因としてあげています。

(4) 入満者の特徴
 「北支労働者の多くは縁故をたどり集団として雇用され、苦力頭(把頭)により統率される。
 その組織は1班14、5名より成り、三頭(班長)、二頭を経て苦力頭に至るピラミッド型の統制を形造っている。
 苦力頭は日本でいう人夫頭または鉱山の納屋頭に相当し、自分は労働せず、もっぱら労動者の管理と事業主との折衝にあたり、・・ 」
 とあるように、港での荷役作業、鉱山での採掘に関わる作業、あるいは港湾、道路、軍関係の工事など、把 頭(パートウ、パオトウと発音していました)が事業主に雇用条件等を折衝して雇われるのが普通でした。

 ですから入満にあたっては、把頭が引率して集団で就業先に向うことになります。もちろん、縁故があれば個人として入満し、商店などに雇用されることもありました。
 この場合、把頭が作業管理、労働管理一切を行う「請負式」のものと、事業主の直轄下にあって単に監督の仕事をするものに大別され、前者の請負い式になると、事業主から工人の賃金を一括して受け取り、その中から前貸し金(元利)、食費、宿泊費等を控除した賃金を工人に支払うことになります。
 しばしば、把頭による賃金のピンハネが問題になりました。

 つけ加えますと、当初は後者の形態が多かったのですが、日中戦争、日米開戦と忙しくなるにつれて、日本人従業員が兵役につくことが多くなり、必然的に事業主にとって管理に人手のいらない請負い式に移っていきました。それなりに問題も多くなりましたが。

(5) 高い離職率
 労働者の「移動率」(離職率)の高さ、つまり定着率の悪さは満州労働界の大きな特徴の一つでした。
 事業体によって違いはありますが、少ないところでも年間移動率は50〜60%にものぼります。平均勤続年数は6ヵ月に満たないというわけです。多いところになると、200〜300%といいますから、2、3ヵ月でやめていくことになります。

 このことは、やめる、やめないは工人の自由意志で決められることを示していて、工人たちが強制連行されたものではなく、「出稼ぎ人」であったことがわかります。
 撫順炭鉱の例でいえば、賃金など少しでも条件のいいところがあれば、すぐにやめていきます。そして、撫順炭鉱の方がよいとなれば、またもどってくるといった具合でした。
 定着率の悪さは炭鉱にとって、頭の痛い問題だったのです。

4 強制連行について

 では、いわゆる「強制連行」の該当者はいなかったのかといいますと、そうではありませんでした。本人の意思に反し、労働力として満州に送られてきた人たちがいたことは間違いありません。
 それは、主に八路軍兵士の捕虜で、一部に国府軍捕虜、帰順兵も含まれていたといわれています。そして、鉱山などで使用する側は、彼らを「特殊工人」と呼び、一般の工人とわけて管理していました。

・ 撫順炭鉱の「特殊工人」
 満州最大の炭鉱、満鉄・撫順炭鉱の例を見ます。
 「特殊工人」という用語は、機密でも隠語でもなく広く使われていました。炭鉱勤務者ばかりでなく、撫順市内に住む商店主など一般の日本人の間でも使われていたようです。

@ 時期および人数
『撫順炭鉱終戦の記』  まず、毛利 松平の「手記」(『撫順炭砿終戦の記』、満鉄東京撫順会。1973)をご覧にいれます。
 この時、毛利は国会議員で、自民党副幹事長の要職にありました。後に環境庁長官などを歴任しています。
 「終戦時の満洲の思い出」と題した手記のなかに、3年近く中国人捕虜(つまり特殊工人)に接したとして、ごく短く次のように書いています。

〈撫順炭礦では昭和17年から約3千人の中国人捕虜を所定の監視の下で働かせていた。
彼らの作業態度は真面目で整然ととし、秩序正しかった。〉

 特殊工人の撫順炭鉱移入が、1938(昭和13)年にあったとする記録が指摘されています。
 東条内閣が華人労務者の内地移入方針(「華人労務者内地移入に関する件」)を閣議決定したのが、1942(昭和17)年11月、実際に移入が開始されたのは翌年4月(試験移入)以降でしたから、「特殊工人」の満州移入はかなり早いことになります。
 また、3000人という数について、私の聞き取った炭鉱人の話とほぼ一致しています(下記注参照)。
  (注) 2014年7月、中国の公文書館が中国戦犯のうち、有罪となった45人分の「自筆供述書」を公表しました。このなかに撫順市警察局長だった柏葉 勇一も含まれています。
 供述によりますと、「俘虜工人約4万人、約半数が逃亡」とあります。問題は供述全体の信頼性ですが、少し検討すると問題点が浮かび上がります。ここでは指摘にとどめます。


A 特殊工人と一般工人
 炭鉱にとって、特殊工人は"迷惑な存在" だったと複数人から聞いています。軍部から無理に(?)押しつけられたから、仕方がなかったのでは、と話していました。
 前出の『撫順炭砿終戦の記』は次のように説明しています。

〈(特殊工人の)受入れに際してとられた次のような措置が幸いした。
それは、軍命令はあくまで捕虜として扱い、電流鉄条網でその宿舎を囲い逃亡者は射殺せよというものであった。
しかし、これら捕虜の出身地は華北であり、一般工人の募集地と同地盤であることを考慮した板倉次長、
横山重雄勤労課長は軍と折衝し、その家族を招致し鉄条網を撤して一般工人と同様に遇するように改めた。
逃亡する者はいなかった。そしてよく働いてくれた。〉


 上記のように、当初は一般工人と隔離していましたが、彼らの出身地が主な募集地(山東省、河北省)と重なるため、募集への悪影響を避けるために鉄条網を撤去し、一般工人と同じ扱いにしたというのです。

 同様の話を他の炭鉱人からも聞いています。また、見張りをつけるなどして働かせるのは、事実上無理とのことでした。
 というのも、終戦が近づくにつれ、炭鉱人も召集されて戦地に向いましたので、人手が足りず非効率だというのです。ですから、炭鉱にとって特殊工人はお荷物だったという話には理もあるのです。
 また、「逃亡する者はいなかった。そしてよく働いてくれた」ということについて、なんとなく違和感を持つ人もおいでかと思います。炭鉱人の手前ミソもないとは言えないでしょうが、そうばかりではないと思います。

 「豊満ダム」の特殊工人(約500人)についても、同じような説明があります。「よく働いてくれた」と。
 というのも、八路軍兵士といっても筋金入りばかりではありません。農民からのにわか兵士が多かったのですから、不思議な話ではないでしょう。
 そして、ソ連の参戦。在撫順邦人4万人を通化方面に疎開させるよう軍命令、本社指令が出るのですが、炭鉱施設を離れては社員の存在意義はないとこれを受け入れず、極力生産活動をつづけることにしたのです。そして、特殊工人に対して次の方針で臨みます。

〈治安対策上、華北よりの特殊工人、
現地徴用の満人勤労隊を直ちに帰郷させ、
一方、治安確保のための自警体制をとる。〉


 ですが、輸送機関の混乱などから、結局、特殊工人の華北への送還はできませんでした。ただ、終戦になっても日本人への報復に動くことはなかったとあります。これも、一般工人と同じ扱いにしたことが幸いしたのだとしています。


⇒ 小島中尉「 労工狩り」証言
又は、⇒ 落ち行く先、万人坑
⇒ 総 目 次 へ