― 善人ぶって国の名誉はずたずたに ―
⇒ 中国人慰安婦狩り
1993(平成5)年8月、慰安婦募集に際して、「強制性」があったことを日本政府が公式に認めました。
宮沢 喜一内閣の官房長官であった河野 洋平が、官房長官談話としてこのことを内外に表明、これがいわゆる「河 野 談 話」と呼ばれるものです。
ところが表明後、事実上「強制連行」を認めるにいたった調査の過程が不透明かつ杜撰で、「強制性」の根拠を成す肝心の「元慰安婦16人」の証言が、実は根拠に乏しいとの指摘が数多く出るようになりました。つまり 「河野談話」は事実に基づかない「虚構」の談話だというのです。
しかも慰安婦の聞き取り調査は公表しないという前提で行われていますので、今もって公開されていないのです。ですから、真相究明も「闇の中」というわけです。
やがて、日本軍による慰安婦強制連行問題は国連人権委員会などでも問題となり、さらにはアメリカ下院本会議で慰安婦制度が、
〈日本政府による軍用の強制的な売春で、
20世紀最大の人身売買の一つ〉
だとする非難決議までが通る事態になりました。この決議案がカナダや他国に及ぼした影響は大きく、日本(軍)の悪辣さが国際的に認知されたといってよいでしょう。
原爆投下、東京大空襲、奴隷制などを持ち出し、アメリカに言われる筋合いはないと言ったところで、
〈アメリカも人権侵害の行為をとってきたが、
日本のように軍の政策として強制的に
若い女性たちを性の奴隷にしたことはない〉
とのファレオマバエンガ・米民主党議員の発言が示すように、鉄面皮然とした発言が堂々と通ってしまい、国際世論を形成してしまうのです。
発言力を含め国力の差が大きいことは分かりきった話ですが、何といっても日本政府が強制性を公式に認めた「河野談話」が存在する以上、「事実は違う」と反論したところで、ここを突かれれば説得力が欠けてしまうのも無理からぬことでしょう。
それに、わが方のメディアは朝日新聞以下、多くが「河野談話」を支持していますし、民主(当時)、共産以下の野党も同様ですので。
こうした国際的な風向きに韓国はさぞ気をよくしたことでしょう。ここぞとばかりに慰安婦像をアメリカ各地に建てるやら、「謝罪と補償」を求めるなど、中国とともに日本叩きに走っています。
河野談話がいう「強制連行」の疑いが濃厚になってからも、歴代政府はもちろん、ごく少数をのぞく国会議員も「知らぬ顔の半兵衛」を決め込み、これといった対策をとろうとはしませんでした。
もっとも河野談話を検証すべき、あるいは見直すべきなどと表立った発言すれば、たちどころにメディアの餌食(えじき)になってしまい、票は逃げるわ、内閣支持率は落ちるやらで、さんざんな目にあったに違いありません。
何もしなければ、「勝てる勝負」「勝たなければいけない勝負」だって負けるのは自明です。ですから有体にいえば、土俵にも上がろうとしなかった、つまり「不戦敗」つづきで今日に至っていると私は思っています。
(1) 17年間、寝ぼけっぱなし
ようやくというか、今頃になってというべきか、2014年2月20日、石原 信夫・元内閣官房副長官が衆院予算委員会において、「河野談話」の作成過程などについて証言しました。
前の年、つまり2013年10月、公開禁止だった慰安婦16人の「聞き取り調査報告書」を産経新聞が入手、その杜撰な内容を報道したことが呼び水となって、石原元官房長官の国会召致につながったのでしょう。
石原は「河野談話」作成の事務方トップでしたから、参考人としての発言内容には重みがあるはずです。
もっとも発言内容は、1997(平成9)年3月、つまり河野談話の3年半後、後述するように、石原は産経記者のインタビューに答えていた中身とほとんど同じでした。
ですから、今回の予算委員会の発言との間に実に17年の歳月が経過していたことになります。
この17年ほどの間、事実関係を詰めるなど、対策をとらなくてはならないにもかかわらず、歴代の日本政府も国会もほとんど何もしなかったのです。おそるべき先見力のなさ、問題意識の欠如、まったくもって失望の一語です。
もっとも、トコトン追いつめられるまで何もしないは、今に始ったことではなく、歴史問題に限らずなんとも困ったわれらの国民性なのでしょう。
(2) 慰安婦証言を鵜呑み・・裏づけ調査ナシ
予算委員会における石原発言から、要点をいくつか抜いてみましょう。
〈各省に資料を集めるように要請したが、女性たちを強制的に従事させるという種の文書は発見できなかった。米国の図書館まで行って調べたが、強制的に集めたことを客観的に裏付けるデータは見つからなかった。〉
〈(16人の元慰安婦証言の)事実関係を確認する裏付け調査は行われていない。〉
〈韓国側は「意に反して慰安婦とされた者がいる。そのことを認めてほしい」と再三言っていた。証言の結果として心証をもとに談話を作成し、韓国側はこれで過去の決着をしたという姿勢だった。(日韓の)意見のすり合わせが当然行われたと推定される。〉
〈慰安婦の募集は主として業者が行い、その過程で官憲や軍が関わった可能性があるという表現になっている、日本政府や日本軍の直接的な指示で募集したと認めたわけではない。〉
これだけで、河野談話の作成過程がよくわかります。
注目すべきことは、「強制性」を認める根拠となった慰安婦16人 の聞き取り調査で、裏づけ調査をしていなかったことが、国会の場でも明言されたことでしょう。
石原元官房副長官の発言を受けて、日本政府は腹をくくったのでしょうか。
2014年3月14日、参院予算委員で、安倍 晋三首相は、「河野談話」について、
〈安倍内閣で見直すことは考えていない。〉
と見直しを明確に否定しました。
談話の見直しをしないという見解は、菅 義偉官房長官によって表明されていましたので、首相があらためて見直さないことを確認したことになります。
安倍首相の発言に「ガッカリだ」「期待を裏切られた」と思った方も多いでしょうが、第1次安倍内閣でも「河野談話 」 「村山談話」の継承を表明していましたので、相当程度予測できたことでした。
この発言は、さっそく朴大統領から談話見直しがないことは「幸いと考える」との発言を呼びました。
もちろん、日本政府が「慰安婦強制連行」をあらためて認めたととったに違いありません。
一方で菅官房長官は、河野談話の 「作成過程の検証をきちんと行っていく」と何度か発言していて、この場でも同様の発言を繰り返しました。言葉通りに受け取れば、これでは何のための検証なのかわかりません。
しっかりした検証を行い、その結果を発信しつつ、事実上「河野談話」を否定するといった腹づもりなら、それも一方法かも知れません。
ですが、今までが今までですから、この検証作業、おざなりに終わる可能性だって小さくないでしょう。ウヤムヤの道を進むことも十分考えられます。
また、安倍首相はこうも発言しています。
「歴史認識については歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」
として、1995年の「村 山 談 話」の継続を表明、また、「歴史問題は政治・外交問題化されるべきものではない。歴史や専門家の手に委ねるべきだ」との見解も表しました。
「戦後のパラダイム変換」は誰の公約だったでしょう。似た発言、大平 正芳元首相が表明したことがありました。ですが、このときと情勢は大きく変わりました。
歴史問題が政治・外交問題になっていて、さらに急拡大する局面にあるといってよいでしょう。中国、韓国がそう仕掛けてきているのですから、当たり前の話です。
このような時に、「名を捨てて実を取る」といった確かな腹案があればいいのですが、評論家のような言で終わってしまうだろうと思っています。
もっともアメリカの圧力は相当に強かったようですから、安倍首相の言を批判しても始まらないのかもしれません。なにせ、肝心の国土防衛をアメリカに頼っている弱みがある以上、アメリカさんの意向を跳ね返すことなどできはしないでしょうから。
「河野談話」のおさらいです。参考のため、談話の全文を加えました。1997年当時の石原元官房長官の証言に、注意をはらってご覧いただければと思います。
ごく普通の国民が、慰安婦の強制連行が日本軍によって日常的に行われたことと理解しているのは、間違った理解にせよもっともだと思います。
強制連行が疑いようのない事実だとして大量報道したのは日本のメディアでしたし、河野 洋平元内閣官房長官の談話をとおして日本政府も認めたからです。
(1) 河 野 談 話
「従軍慰安婦」問題が頻繁に私たちの目に入るようになったのは、1991(平成3)年頃からです。
1991(平成3)年8月11日付け朝日新聞が報じた
〈元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く〉
としたソウル発の「スクープ」が発端となり、慰安婦問題が日韓間で急浮上することになりました。
「重い口を開いた」のは元慰安婦・金 学順で、4ヵ月後の1991(平成3)年12月6日、彼女ら慰安婦3人を含む元軍人、遺族ら「太平洋戦争犠牲者遺族会」(会員約1万5千人)のメンバー35人が、日本政府を相手に補償請求(2000万円)の訴訟を起こしたことで、報道は一気に加熱しました。
・ 第1次調査では否定、ところが
宮沢喜一内閣は調査に踏み切り、2次にわたって調査報告を公表しました。
第1次公表は1992年7月6日、慰安所の設置や経営・監督、慰安所関係者への身分証明書発給などの点で、政府が直接に関与していたことを認めたものの、「強制連行を裏付ける資料はなかった」として、強制連行を否定したのでした。
つづく第2次調査発表は1993(平成5)年8月4日、河野洋平内閣官房長官の手で行なわれ、同時に官房長官談話(「河野談話」)として政府の見解を明らかにしました。
この日は宮沢内閣が総辞職する前の日に当たっていました。
調査報告は1993年7月末、つまり発表のほんの1週間ほど前、ソウルで行われた元慰安婦16人の聞き取りがベースになっていましたので、この日の発表は駆け込みというか、唐突感のぬぐえない印象を残しました。
下写真は発表をつたえる8月5日付けの朝日1面トップと他面です。
見出しからも分かるように、政府見解は一転、「総じて本人たちの意思に反して行われた」「強制的な状況のもとで痛ましいものであった」として、事実上、「強制連行」を認め謝罪しました。
この談話が「河 野 談 話」 と呼ばれ、宮沢内閣以降の各内閣をしばりつづけ、今日に至っています。日本が公式に「強制連行」を認めたのですから、国際的な広がりを見せないはずもありません。
吉田清治の偽証にも影響されたのは確かでしょうが、日本政府が公式に認めたことにより、韓国に国家賠償請求の口実を与え、国連の人権委員会からは、
〈日本政府に「国家賠償と責任者の処罰」を求めるのが国連の責任〉
と勧告(クマラスワミ報告およびマクドガル特別報告)される始末です。そして、米下院での「対日非難決議案」の採択へとつながっていったのでした。この間の日本政府の無策、あきれ返ります。
(2) 河 野 談 話 全 文
ここで「河野談話」の全文をお目にかけましょう。
― 1993年8月4日 ―
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接、間接にこれに関与した。
慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したしたこともあったことが明らかになった 。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、弾圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究。歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
(3) 「強制連行」を認めた根拠
談話中、強制連行を認めた個所といえば、「慰安婦の募集について」以下のところがそれに当たります。もう一度、この部分を抜き出してみますが、内容から見て、前半@と後半Aの2つに分けて検討する必要があるでしょう。
〈 @ 〈軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、〉
A 〈更に、官憲等が直接これに加担したしたこともあったことが明らかになった。〉
@が示す通り、募集に当たったのは明らかに「業者」です。業者となれば、「甘言」を弄するのは古今東西の通例、不思議でも何でもありません。
「弾圧」については具体的に何を指すのかが分かりません。ただ「本人たちの意思に反して」集めたのは事実でしょうが、集めたのは業者であって軍ではありませんし、慰安婦の雇用は日本軍との間ではなく、業者(慰安所の経営者)との間で結ばれていました。
軍は不良業者を排除するため、募集に当たる人物の選定など、社会問題にならないよう配慮(関与)していたことは、資料などからも分かっていることです。
誰が好き好んで娘を手放すでしょうか、またどの娘が喜んで身を売ることに納得するというのでしょう。経済的に困窮し、切羽詰まった状況にあったからこそ、やむを得ず親が娘を手放したのです。「本人たちの意思に反して」は当然のことで、当時はそういう時代であったのです。
日本にあっても同様で、昭和に入って起こった5・15事件、2・26事件の背景の一つは、青年将校らが農村の困窮を見かねたことにありました。とくに5・15事件の前年、つまり1931(昭和6)年は東北の凶作のために農村は惨状を呈し、「娘、売ります」の貼り紙があちこちに見られたくらいでした。
当時は慰安婦の応募者が多数あったこと、日本官憲が朝鮮人の村落に入ることはなかったことなどは、日本側だけでなく韓国人の証言だって結構あるのです。
次にA ですが、「官憲等が直接これに加担したしたこともあった」となっていますが、この裏づけは具体的に何だったのでしょう。慰安婦の証言、それとも資料類だったのでしょうか。
「官 憲」というのは、軍人、巡査、村の職員などを指すのでしょうが、16人の慰安婦の証言に軍人が関与した例は一例もなかったようです。
ただし、巡査、村の職員が募集に立ち会うなどしたケースはあったようです。
村の巡査といっても全員が朝鮮人であり、職員もまた同じ朝鮮人で、言葉の分からない日本人が村々を訪れて募集に関与したとは考えにくく、しかるべき日本側の証言もあります。
(4) でも、変だと思いませんか
日本官憲に連行されたという元朝鮮人慰安婦が、韓国の日本大使館の前などで泣き叫んで日本を非難する光景はテレビ、新聞などを通じて、いやというほど私たちの目に入ってきました。これらの報道を見れば、強制連行を疑う人はほとんどいなかったはずです。
慰安婦数については諸説あるのですが、朝鮮人慰安婦だけでも数千人(数万人、数十万人説も)はくだらないでしょう。この慰安婦を日本側が組織的に連行したならば、軍、警察など当事者である日本人から数多くの証言者も出たことでしょう。
ところが「強制連行はありえない」と否定する証言ばかりで、肯定する声はほとんどででこなかったのです。1、2の例を除いては。
やはりおかしくありませんか。人数は問題ではない、1人、2人でも十分ではないか、と思うかもしれません。たしかに、信頼できる証言なら一定の重みを持つでしょう。
ですが、日本人の肯定証言は、いずれも「偽 証」だったのです。ただ、偽証と証明されるまでに10年も経過していました。この間、「勇気ある告白」などとメディア等で持ちあげられましたので、長期にわたって影響力を持たせてしまったのです。
また、強制連行が事実なら、日本、韓国の双方から証拠となる資料がでてきたはずです。ですが、そのようなものは見つからなかったのです。
もし、これらのことを知らなかったのなら、それは「知らされなかった」のだと思います。現に、「勇気ある告白」などと誉めたたえた新聞も、「偽証」であることが判明した後、「偽証」であったことを明示する報道はありませんでした。
また、NHK、民放テレビ局もろくに報じませんでした。知らなかったのも無理はないと思います。
そして、2014年8月、朝日新聞が特集「慰安婦問題を考える」を掲載、このなかで吉田清治証言に関する16回の記事を取り消しました。
最初の記事から数えて32年、偽証と証明されてから22年が経過、致命的ともいえる損害をわが国にもたらしたのでした。
1997(平成9)年3月9日付け産経新聞(画像は社会面)は、「河野談話」の作成過程を中心にした石原官房副長官のインタビュー記事を一面トップに掲載しました。河野談話の約3年半後に当たり、きわめて重要な内容を含むスクープ記事のはずでした。
・ 石原元官房副長官へのインタビュー
一面トップは、〈「強制連行」証拠なく 直前の聞き取り基に〉などとする見出しのもとに「河野元官房長官の謝罪」について報じられています。社会面(上画像)の見出しを拾ってみましょう。
左上に「慰安婦強制連行」と囲みの見出しがあります。
その右側に、「認めれば問題収まると・・・」とあり、石原前官房副長官の発言として 「河野談話は総合的判断」となっています。
なんとなく強制連行説を信じていた人もこの見出しを読んで、「ちょっと、変だな」と思うのではありませんか。
「認めれば問題収まると・・・」というのですから、認めなくてよいものを、認めれば問題が沈静化するだろうと期待して、政治的判断とやらで政府は「強制連行」を認めたのだと、私には読めます。
もしこの読み方が正しいのなら、強制連行問題の根幹が揺らぐ大変な事態だと私は理解しますし、政府発表に信が置けなくなって当然のことと思います。
また、今日の日韓等の現状を考えれば、「ことを荒だてまい」「問題化は避けたい」とした「その場しのぎ」の対応に終始した宮沢元首相、河野元官房長官ら政府責任者が、いかに我が国の歴史を貶め、名誉を失墜させてしまったか、その責任を追及して当然のことだと思います。
また、訂正に尽力しなかった歴代政府の罪も問われつづけなくてはならないでしょう。
(1) 慰安婦の証言以外に物的証拠ナシ
まず、リード部分を見てみましょう。
〈元慰安婦への謝罪談話を発表した宮沢内閣の加藤紘一、河野洋平両官房長官を官房副長官として補佐した石原 信雄氏(70)は8日、川崎市麻生区の自宅で産経新聞のインタビューに応じ、
「いくら探しても、日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、
韓国側にも通達、文書など物的なものはなかったが、総合的に判断して強制性を認めた」
などと語った。〉
どう思いますか。
日本側に強制連行を裏づける資料も証言もなかった、韓国側にも物的証拠はなかった、だけど「総合的に判断して強制性を認めた」 のだと、この問題に深くかかわった政府高官本人の話です。
悲しいほどにわれらが政府の愚さを見せつけた話ではありませんか。要するに、存在するのは韓国人慰安婦の証言だけだった、というわけです。
(2) 韓国の圧力に屈する
「ではなぜ強制性を認めたのか」という質問に、石原はこう発言します。
〈日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない。
加藤(紘一)官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、
韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた 。
その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で16人に聞き取り調査をしたところ、
「明らかに本人の意思に反して連れていかれた例があるのは否定できない」と担当者から報告を受けた。
16人中、何人がそうかは言えないが、官憲の立ち会いの下、連れ去られたという例があった。
談話の文言は、河野官房長官、矢野作太郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官らと相談して決めた。〉
韓国側の「強制性」を認めよという「要請」は非常に強く、日本が「強制性を認めないかぎり」外交的な決着はできないというものでした。つまり、強制連行の資料は発見できなかったために強制連行を否定した第1次調査ではダメだというわけです。
こうした強い要求の背景には、強制的に連行されたとしなければ、慰安婦たちは自ら進んで慰安婦になったことになり、「民族としての体面、自尊心が許さない」、したがって韓国民は納得しないというのが主な理由だったとして間違いないようです。
(3) 聞き取り調査「公表できない」
もう少し、インタビューをご覧ください。「聞き取り調査の内容は公表されていないが、証言の信ぴょう性は?」の問いに対して、石原前官房副長官は次のように答えます。
〈当時、外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援者らが押しかけ、泣き叫ぶような有様だった。
冷静に真実を確認できるか心配だったが、在韓日本大使館と韓国側が話し合い、
韓国側が冷静な対応の責任を持つというので、担当官を派遣した。
時間をかけて面接しており当事者の供述には強制性にあたるものがあると認識している。
調査内容は公表しないことを前提にヒアリングを行っており公表できない〉
また、「韓国側の要請は強かったのか?」との問いに対しては、
〈元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を通じて分かっていた。
ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞いていた。行って確認したということ。
元慰安婦へのヒヤリングを行うかどうか、意見調整に時間がかかったが、
やはり(担当官を)韓国へ行かせると決断した。
行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論はある程度想定されていた。〉
外政審議室には連日、慰安婦や多数の支援者がおしかけ、泣き叫ぶような状態、それに韓国からの圧力。善良ではあっても弱々しい政府の顔ぶれを見れば、ただただ困惑するばかりの彼らの様子が想像できそうです。
それにしても、聞き取り調査を「公表できない」というのは直接の利害を持つ自国民に対して失礼な話ではありませんか。政府が調べ、政府が判断したのだから、国民は「つべこべ言うな」ということなのでしょうか。
日ごろ、「国民の知る権利」を振り回すメディアも、ことこの問題となると「公表を求める」主張をほとんど見ることができませんでした。
念のために書いておきますが、石原前官房副長官は産経以外の取材にも応じていますので、この報道に間違いのないことは裏づけられます。
(4) 裏づけ調査ナシ
石原の発言のように、政府が「強制性」を認めた根拠といえば、韓国側が用意した元慰安婦16人の証言でした。ですが、呆れたことに、政府はなすべき「裏づけ調査をしなかった」のです。
1997(平成9)年3月12日、つまり「河野談話」の発表が1993年8月でしたから約3年半後にあたりますが、この日の参院予算委員会において、元慰安婦の聞き取り調査について問われた平林 博・内閣外政審議室長は、「元慰安婦も元軍人もいるが、証言を得た上で個々の裏づけ調査をしたことはない」と述べたのです。
また、平林室長は同年3月19日、自民党の中堅・若手議員の会合で、慰安婦強制連行を証明する文書など有無について、
〈(慰安婦の)募集段階で強制連行の事実(を裏付ける証拠)は出てこず、
官憲などが直接かかわることはなかった。〉
と述べています。
聞き取り調査の報告は公表しない、彼女たちの証言の裏づけ調査もしていない、これでは証言にどの程度の信憑性があるか検証の道が閉ざされたことになります。まったく、メチャクチャな話があるものだと、あきれ返るばかりです。
こんな杜撰な「調査」を根拠に「総合的に判断した」とかで一国の名誉が失墜する、得心できるわけもありません、16人の証言録は「外政審議会」に保管されているようですが、永遠に日の目を見ない"幻の報告書"となる可能性があるのです(下記に注)。
また、どういう環境のもとで聞き取り調査が行われたか、新聞報道などでわかってきました。期間は1993年7月26日から30日まで、調査の行われた場所はソウルの「太平洋戦争犠牲者遺族会」の事務所、元慰安婦1人につき2、3時間かけて行われました。
上述したように、「太平洋戦争犠牲者遺族会」というのは、東京地裁に提訴した団体で、この訴訟の弁護士も調査に立ちあったといいます。果たして、日本側の調査団は聞きたいことを聞けたのでしょうか。
(注) 2013(平成25)年10月16日付け産経新聞は、元慰安婦16人の「聞き取り調査報告書」を入手したとし、1面トップで「元慰安婦調査報告書 ずさん調査」「氏名含め証言曖昧」「河野談話 根拠崩れる」との見出しを立てて報じました。このスクープで16人の証言の杜撰さはこれまで指摘されてきたとおりであったことが改めて確認されました。
また、他面では石原 信雄・元官房長官のインタビューで、「日本の善意 裏切られた」などとした発言を載せています。石原発言は目新しいものではありませんが、これまでの発言がさらに補強されたものと言えます。
(5) 韓国は評価、一件落着を表明
では、第2次調査および河野談話を韓国側はどう受け止めたのでしょう。韓国政府(金 泳三大統領)の公式スポークスマンは、「(日本政府が)全体的な強制性を認定し、また軍隊慰安婦被害者に対する謝罪と反省の意とともに、これを歴史の教訓として直視していくとの決意を表明した点などについてはこれを評価する」と発表しました。
これとは別に、韓国外務省アジア局長は「これを機に、この問題は両国間の外交案件とはしない」とする見解を明らかにしました。
ところが外交案件にしないどころか、ますます韓国は2国間の問題だとしてアメリカや国連なども巻き込んで先鋭化させていきます。
2011年12月17日、来日した李 明博・韓国大統領は、首脳会談にのぞんだ野田 佳彦首相を前に、慰安婦問題を解決しなければ「日本は永遠に負担を抱えることになる」などと述べ、日本側に早期に解決するよう、また問題を蒸し返してきました。
「外交案件にしない」どころか、日韓間の最重要案件だとして問題を蒸しかえし、さらに、李大統領の次の朴 槿恵大統領になると、さらに反日度合いが増し、日本人の私から見れば、常軌を逸した行動をとり続けています。
そして、文 在寅大統領になると、あらたに「徴用工」問題を引っさげます。「上には上があるものだ」と、少なくとも私は感服しました。
なぜ、こんなバカな事態になったのか、不思議に思いませんか。
政府が新聞報道やテレビの報道に引きずられたのは確かでしょう。しかし、それ以上に宮沢 喜一、河野 洋平両人の個人的特性によるものが強いと思います。
「ハト派」と呼ばれることの多かった2人が、とくに朝日新聞からどう評価されるかを非常に気にしていたのは間違いない事実と思います。
朝日論調に沿った発言なり行動をとれば、朝日と朝日に追随するメディアの評価があがる、それがまた大向こうにも受けるだろうという認識が、2人が本来持ちあわせた特性に加わって、「河野談話」につながったのだと私は思っています。
なにせ、河野洋平は、自らの事務所の職員採用にあたって、朝日新聞とNHKが使う試験と同じ内容のものを使っていたというくらいですから(確かな話です)。
その河野元衆議院議長は、堂々日本国国家から「桐花大綬章」という栄誉を受けることになったのです(上画像)。
少しつけ加えておきます。16人の元慰安婦を含め、暴力的、強制的に日本官憲によって連行されたと申し立てた慰安婦の証言で、客観的な裏づけがとれたものは一例もないこと。彼女らの証言が一様に主語(誰が強制的に連行したか)が不明確ですので、証言を読むさいは注意を払っていただければと思います。
もう一つは教科書記述です。1997(平成9)年4月から使用される中学教科書(歴史分野、全7社)すべてに「従軍慰安婦」が取り上げられました。