洞 富雄元教授の鈴木 明への反論


決定版・南京大虐殺  鈴木明の批判に対する洞反論を以下に掲げます。
 出典は『決定版 南京大虐殺』(徳間書店、1982年)第二部「“南京大虐殺”はまぼろし化工作批判」です。反論部分を略さずに引用します。なお、改行は適宜、増やしました。

 〈 旧著『南京事件』同様、本書もまた、南京アトロシティーズに関する記述は、1937年12月14日、両角部隊すなわち第13師団所属の会津若松歩兵第65連隊が、南京近郊の幕府山砲台付近で、城内から潰走してきた士官学校の学生多数を含む15,000人にもおよぶ中国兵を捕虜にした、と報道している『東京朝日新聞』の記事の紹介にはじまる。
 そして、同部隊の従軍作家秦賢助氏 の「回想記」(1957年2月25日号『日本週報』所収)を援引して、これらの捕虜が数日後、揚子江畔の草鞋峡(そうけいきょう)で全員銃殺されたことを述べておいた(処刑場を草鞋峡としたのは、極東国際軍事裁判に提出された中国側の書証による)。

 ところが、福島・仙台方面の第13師団関係者から取材した鈴木氏は、わたくしたちのいうところには事実誤認があると、指摘されたのである。氏はまず、秦賢助氏の記文には信憑性がないと主張する。
 かんじんの「回想記」の筆者秦氏はすでに物故していた。それで、鈴木氏は、日中戦争勃発と同時に『福島民友』の特派員として華中戦線の郷土部隊(若松歩兵65連隊は昭和12年9月編成、翌月出征)に従軍したという坂本氏なる人を訪ねて、秦氏のことを聞いている。

 坂本氏の話だと、秦賢助氏がはじめて中国へ渡ったのは、昭和14年であったという。これが事実であれば、秦氏の文章は「回想記」ではなく、伝聞記録にすぎないということになる。
 わたくしは秦氏の稿の末尾に「元白虎部隊従軍作家」と記してあったところから、それを「回想記」と速断してしまったのだが、これはどうやらわたくしのはやとちりだったようである。なるほど、そういわれてみれば、秦氏の文章には現場で目撃した事実であるとは一言もいっていないのである。こうした伝聞では証拠力に乏しい

 わたくしも秦氏の文章を読んで、両角部隊が1万人以上もの捕虜の大集団をいったん南京城内に引きこみ、さらにまた太平門から城外につれだして、みな殺しにした、といっている点を不審に思ってはいた。
 
秦氏は、両角部隊が捕虜の大群をいったん城内に入れたのは、入城に際してのことであったとし、さらに、八方から続々と南京に入城した各部隊は、いずれもおびただしい数の捕虜をつれていた、とも言っている。
 この捕虜を連れての入城について、鈴木氏は「“八方から入城した部隊が捕虜を連れていた”というが、捕虜を連れた戦闘部隊が南京攻略を行なうなどということがあり得ないことは、子供にだってわかる。僕は前記の多くの記者の方たちにそのことをたしかめてみたが、“捕虜を連れた部隊”などあり得ないことは念をおすまでもなかった」といわれる(単行本『「南京大虐殺」のまぼろし』187頁)。

 捕虜をつれた部隊が八方から入城したという表現がおかしなことは、わたくしにもわかるが、それはかならずしもありえないことではない。「捕虜を連れた戦闘部隊」が「南京攻略」をおこなったのではなく、一部部隊による城内掃射がいちおうおわったあと、多くの部隊が中支那方面軍司令官の命令を無視して、一斉に入城してしまったのが実際であるから、それら部隊が城外で「獲た」若干の捕虜を城内につれこんだという場合が想定されぬでもない のである。
 ただし、両角部隊にかぎって考えれば、そうした想定はなりたちそうもない。

 また、鈴木氏は、「幕府山にいた2万もの捕虜を市中行進させて、太平門をくぐり、さらに草鞋峡から下関に至る一帯に連れていって殺したというが、2万といえば信じられないぐらいの大群である。それを往復30キロ以上のところを行進させるなどということは、常識から考えてあり得ない。このようなことを信ずる方もおかしい」(単行本、187頁)ともいう。
 しかし、大捕虜集団に行進させた里程を30キロ以上とみるのはすこしオーバーのようである。幕府山下から和平門を通って城内に入り(約3キロ)、中央路を進んで、中山北路との交差点を東に折れて太平門にいたり、この城門から城外玄武湖の東岸を通り和平門外に出て、さらに草鞋峡にいたる経路を引きまわされたとすれば、その間の里程は約20キロである(金川門から入り中山北路を通ったとしても、1キロ弱多くなるにすぎない)。
 すこし遠回りをして中山東路を通った場合でも22、3キロである。この程度の行進ならありえないことでもない。 だが、数日間ろくに食料もあてがわれなかった捕虜に、20キロもの行進を強要することはあまりにも残酷である。

 秦氏の文章には、こうした事実にあわないのではないかと思われることが書かれている。それに、だいいち記文そのものが伝聞記事 である。
 だがしかし、そうだからといってそこに書かれている事柄がすべてフィクションだといってしまってよいのだろうか と疑う。秦氏はのちに両角部隊に従軍したとき、同部隊の南京での行動についていろいろ知識を仕込んでいたであろうからである。
 それで、両角部隊が幕府山下で「獲た」大量捕虜軍の末路について秦氏が書いているところも、そういちがいに否定するわけにはいかないのではないか と思う。〉
 

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