―ま と め―
⇒ 「南京大虐殺」まえがき
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ここまで、何をもって「虐殺」と判断したのか、とくに書きませんでした。「虐殺なのか、それとも戦闘行為なのか」等の問題は、常識的に判断する方がよいと考えたからです。
というのは、南京問題(慰安婦問題も)の厄介なところは、真実の追究というより、政治目的を達成する手段として使われることにあって、宣伝の主要な場がアメリカ、カナダなど英語圏に拡散している現実があります。
南京や慰安婦にかかわる世界記憶遺産への登録申請がこのことを示しています(2015年10月、「南京大虐殺文書」が登録、「慰安婦関連資料」は却下)。
そのうえ、南京事件から80年以上経過すれば、虐殺の判断基準も年の経過とともにより厳しく捉えるようになっていますし、さらに言えば日本への偏見(利害も含めて)も加わっていることでしょう。このことは、「従軍慰安婦」の米下院における非難決議案の採択が雄弁に語っていることです。
虐殺数の問題は多数の投降兵が存在したこと、中国特有の便衣兵が多数含まれていることで、その処置をめぐっての判断の基準が複雑になり、日本での議論が収束する見込みはなさそうなのです。
となれば、「何をもって虐殺とするか」の判断は、あまり理屈に偏るのではなく、分かりやすく、受け入れられやすいことが必要と思い、「常識的判断」によろうとしたわけです。むろん、「常識的判断」といっても基準はあります。
まず、一般市民(民間人)についてですが、
・ 武器を所持しない無抵抗の市民の殺害は虐殺。
ただし、戦闘中に巻き込まれた犠牲者は原則的に除く。
投降兵(正規兵)については、
・ 武装解除の上、一度捕虜として受け入れた投降兵の殺害は虐殺。
・ ただし、捕虜の敵対行為が原因で殺害した場合、状況により全部または一部を除く。
・ 投降とほぼ同時に殺害した場合、戦闘中、戦闘行為の継続中ととるか、虐殺ととるかは個々に判断。
便衣兵については、安全区内の摘出と処置が主な論点となりますが、
・ 便衣兵は「陸戦法規」による交戦資格がないため、捕虜とは異なり保護を受ける資格はありません(下記参照)。
だからといって、殺害が自動的に正当化されるとも思えません。もちろん、武器(手榴弾等も含む)を隠して所持するなり、逃亡、あるいは敵対行為があれば正当化されるでしょう。これも個別に判断するしかなかろうと思います。
・ 「交戦者の資格」について
「交戦者の資格」は1907年、ハーグで締結された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則(「ハーグ陸戦法規」)の第1章で次の4条件を備えていることが必要と明記されています。
1 部下の為に責任を負う者其の頭に在ること
2 遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有すること
3 公然兵器を携帯すること
4 其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること
意味の取りにくい点は、以下の原文を参照下さい。
1 To be commanded by a person responsible for his subordinates.
2 To have a fixed distinctive emblem recognizable at a distance.
3 To carry arms openly.
4 To conduct their operations in accordance with the laws and customs of war.
したがって、便衣兵は交戦資格を持たないため、捕虜になる資格、つまり捕虜としての保護を受ける資格がないことになります。この条件は正規軍にかぎらず、市民軍、義勇軍( militia and volunteer corps )にも適用されます。
ただこうした基準も実効性となるとはなはだ疑問ですが。
もとより大雑把なものですが、私の見た概数を記しておきます。
@ 中 国 兵
虐 殺 数 (概算)
NO. | 捕らえた場所 or 殺害した場所 |
発 生 時 期 | 関係した部隊 | 概 数(人) |
---|---|---|---|---|
1 | 幕 府 山 | 1937年 12月16日 12月17日 |
13師団65連隊 (山 田 支 隊) |
1000− (16日分) 0〜3000 (17日分) |
2 | 雨下門外 | 12月12日 | 66連隊第1大隊 (114師団) | 1,657− |
3 | 城 内 ⇒ 玄 武 門 | 12月14日 | 20連隊第1大隊 (16師団) | 328 |
4 | 安 全 区 ⇒ 漢 中 門 | 12月16日 | 部隊名? | 500±程度 |
5 | 安 全 区 ⇒ 下 関 | 12月14〜16日 | 9師団7連隊 | 6,670− |
6 | 下 関 | 12月10日〜13日 | 33、38連隊 (佐々木支隊) | 1000± |
7 | 馬 群 | 12月14日 | 16師団20連隊 | 200〜310 |
8 | 城内と近郊 (兵民分離) | 12月24〜1月5日 | 30旅団 33・38連隊 | 1000± |
9 | 漢中門外 | 12月16日 | 6師団13連隊 | 3桁? |
合計 | ― | ― | ― | 10300程度 〜16000 |
1 事件は12月16日と17日の2日連続で起こりました。17日は捕虜を「釈放」目的で移動中、予期しない出来事を契機に発生した事件とする解釈に紛れはないと思います。となれば、事の経過は「戦闘行為」であって「虐殺」ではないとする解釈が出るのは自然なことでしょう。
一方、武器を持たない犠牲者が多数にのぼったこともあり、「虐殺」とする解釈があります。
ただ、16日事件のほうは、江岸への連行が「釈放目的」であったとする証言が、角田第5中隊長ひとりに負っていて、証言として弱いと思います。「釈放目的」を補強する証言なり資料が別にあれば、虐殺数は大幅に少なくなると考えます。
2 第1大隊戦闘詳報の記述通りの数値です。
高松証言の「当時第1大隊各中隊で満足に行動できる兵は7,80名程度であった。また、捕虜の数も1,657人の半分以下で、第4中隊が処分した数は100名ぐらいであった」が他証言、資料等によって補強されるまで、戦闘詳報の数字を取らざるを得ないでしょう。
3 第4中隊の陣中日誌の記録です。
4 ラーベ日記の「数百人」に折田少尉の陣中日誌を加味しました。
5 安全区(難民区)掃討にあたった第7連隊の戦闘詳報の数字です。
6 33連隊戦闘詳報の3,096名から太平門1,300名を減じ、これに38連隊戦闘詳報(500)等を勘案のうえ加え、その結果の約半数を該当数としました。「約半数」の根拠についてはっきりした説明はできません。
7 牧原上等兵「日記」の310名、佐々木元勝の証言(200名掃討)を取りました。
8 佐々木到一少将「手記」の数字(数千処分)から勘案しました。佐々木少将手記に書かれた数字は「著しく過大」(33連隊複数幹部)とする見方に理があると判断します。
9 材料不足ですが、3桁程度としました。
A 民 間 人
民間人の人数に言及した資料として、スマイス調査報告がありました。
・ 農村部について
対象になるのは江寧県の一部で、1000人以下と推定します。
・ 都市部について
スマイス報告では「兵士の暴行」によるもの2,400人、「拉致されたもの」 4,200人とあります。
一方、安全区国際委員会から日本大使館に提出された「南京暴行報告」によれば、安全区内における「殺人」はわずか50人という数字でした。
スマイス報告でいう2,400人の死者全員が日本軍が原因とはいえず、また安全区内だけの調査数字ではないのですが、それにしても双方の差が開きすぎています。ですから、どちらを重視するかで数字が大きく異なってきます。
また、「拉致されたもの」の4,200人についても、拉致された後、どうなったかが分かりませんし、数字の信頼性もはっきりしません。
ただ、安全区で摘出された便衣兵、兵士と誤認された民間人が相当程度が重複していると思われます。
したがって、農村部で1,000人以下、都市部で2,000〜3,000人(うち拉致1,000人〜2,000人程度)としておけば、これより大きな数字は出ないと思うのですが。