南 京 虐 殺(7−2)

―殺害数の上限を知るために その2―
⇒ そ の 3

2 スマイスによる調査報告


 次に民間人の死者がどの程度あったか、上限は考えられないのでしょうか。これには前述の「スマイス調査」が参考になります。
 ルイス・スマイス(Lewis Smyth)・金陵大学社会学部教授(アメリカ人)の指導の下に、「戦争被害」調査が行われました。スマイス教授は安全区国際委員会の書記でしたから、委員長のジョン・ラーベ(ドイツ人)につづく地位にあり、調査時点では安全区国際委員会の後身にあたる国際救済委員会の委員でした。
 ちなみに金陵大学は、アメリカ系のクリスチャン学校で、このときより50年ほど前に設立された著名な大学でした。

 調査結果は『南京地区における戦争被害 ― 1937年12月から1938年3月・都市および農村調査』(War Damage in Nanking Area, Dec.1937 to March 1938,Urban and Rural Surveys)として報告されました。1937年12月から1938年3月頃までの約100日間の戦争被害です。
 調査は国民党国際宣伝処顧問でもあったティンパーリィの依頼によって行われ、調査報告の前文を書いたベイツ教授も中華民国政府の顧問であったという事実は、頭においておく必要があるでしょう。

(1) 調査対象と調査方法
 調査は1938(昭和13)年3月(一部は4月)、農村部(南京近郊)と都市部(南京城内と近辺)に分けて実施されました。
 調査方法は都市および農村ごとにそれぞれサンプル(標本)を抽出、調査は調査員による聞き取りでした。

・ 都市部の調査
 調査は1938年3月9日から4月2日まで、補足作業が4月9日から23日まで行われました。
 日本軍は1月下旬から安全区の避難民に対し、安全区を出てそれぞれの居所にもどるよう勧めていて、調査時点では住民は元の居所にもどっていました。また、城外に避難していた住民もどの程度かはっきりした数字はわかりませんが、戻ってきています。
 調査対象地域は城内とその周辺で、城内は安全区、難民収容所、それに城西、城東、城北など8地区に分け、城外は下関、中華門外、水西門外の3地区を調査対象としています。
 聞き取り調査は2人1組で行われますが、各地区に1組が派遣されたのか、2組あるいはそれ以上が派遣されたのか、明記されてないためよくわかりません。

 サンプルは50世帯につき1世帯の割合で抽出され、サンプル数は城内906、城外43、合計949世帯となっています。ですから、調査で得られた結果を50倍すれば、都市部全体が算出できることになります。
 一例をあげれば、949世帯の家族数の合計人数は4,423人と調査結果がでましたので、これを50倍した数、22万1,150人が全人口と推定されることになります。

 余談ですが、この数字から1世帯あたりの人数は5人に足りません。何となく大所帯と思っていましたので、予想外のことでした。
 報告では、「この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表したものであろうし、・・・」と記してします。

・ 農村部の調査
 農村部の調査は同年の3月8日から3月23日まで、16日間かけて行われました。
 調査対象は南京特別市行政区の6県(後述の地図参照)でしたが、手がけたものの実際に調査できたのは江寧県など4県と六合県の南半分でしたから、4県半ということになります。
 4県半の面積は6,315ku、東京都の面積が2,155kuですから、東京都の面積の3倍という広さになります。また南京城内の面積は約40kuですから、調査した農村部は約160倍という広大な地域になります。
 「2人の調査員が、6つの県へそれぞれ派遣された」とありますので、調査員は各県に2人、合計12人 になります。1県といっても、広い県では東京都に近い広さですから、わずか2人の調査員で16日間かけて行う調査というのは、都市部調査と比べてかなり粗雑という印象を持たざるをえません。電話はもちろん車も使えなかったでしょうから。
 調査の仕方についてこう説明されています。

〈調査員は主要道路にそって進み、それから8の字を描きながらその道路をジグザグに横断して戻り、
道路の後背地にある地域をカバーするように指示された。
この一巡のさいに道筋にある村3つから1つをえらんで村落調査表を作製し、
それらの村で帰村している農家のうち10家族に1家族を選んで農家調査表に記入することにした。〉


 つまり、主要道路を中心に3村から1村をまず抽出し、この1村から10家族に1家族の割合でサンプル農家を決め、調査したことになります、
 ですから、得られた殺害など被害結果に対し、調査時の県別総家族数を乗じれば県単位の推定値が分かるというのが一応の理屈です。ですが、総家族数がつかめていないために、スマイスは1931年に金陵大学農学部が行った水害調査で把握した数値(県別家族数)を使用、算出します。

 この水害調査報告は、『中国における1931年の水害』(ロッシング・バック教授)として公になっているとのことです。この年の水害は大規模なもので、「満鉄月報」 で読んだ記憶ですが、日本で募金活動が行われ、救援金を送っているはずです。
 この調査で得た県別家族数は平時のものであり、これを使用することがどの程度、誤差に影響するかは検討が必要でしょう。ともあれ、結果的に206家族に1家族の割合でサンプルを抽出した勘定になりました。

・ 調査の問題点
 この調査報告、とくに都市部調査を大虐殺派が使用しない顕著な傾向への批判はすでに記しました。この調査には不備があり、信頼に値しないというのでしょう。
 その理由の1つがサンプル数が少ないことであり、もう1つはサンプルに偏りがあり、正確さを欠くというものです。この2つの理由は、今日行われる各種の世論調査でもしばしば言われることで、珍しいことでもありません。

 例えば、内閣、政党支持率調査では、おおむねサンプル数は1200程度、この場合の標本誤差は±2.8%と計算されています。調査対象は(たぶん)全有権者でしょうから9000万人程度(母集団)にはなるでしょうか。この母集団に対して1200人の標本ではいかにも少ないと思うのも無理はありません。
 ですが、統計学の教える所は、サンプルに偏りさえなければ、数は十分なのです。ですから、都市部調査でのサンプル数949(50戸に1戸)は、決して少なくないはずです。

 ただ、サンプリング調査の正確さは、サンプル数の問題もありますが、全体の縮図になるようにサンプル抽出ができるかどうかにかかってきます。それに、調査員の中立性の問題も大きいはずですし、調査対象者の識字率も問題でしょう。

 例えば、農村調査を見ると、抽出した家族の多くは主要道路あるいはこれに準じる道筋にあるようですので、相対的に被害の多い家族がサンプルとして選ばれる傾向はなかったのでしょうか。県に2人の調査員では主要道路から遠くはずれた農家の調査は無理なため、それらを除外せざるをえなかったのであろうことは想像できるからです。だからこそ、1県半の調査は途中放棄(?)されたのでしょう。
 ですから、このような偏りを持ったサンプル集計を基に全体を推定する(具体的には県別の総家族数を乗じて算出)と、殺害等の被害数は大きくなるに違いありません。しかも、総家族数が平時のものを使用していますので、誤差はプラスにより大きく振れることでしょう。

 もっとも、大虐殺派の笠原 十九司教授は他の理由から、都市部、農村部とも「犠牲者はまちがいなくこれ以上であった」とします。また洞 富雄もスマイス調査の結果に笠原と同様の理由をあげて異議を唱えていますので、「大虐殺派の主張(8−1)」でもう一度見ることにします。

(2) 調 査 結 果・・都市部
 まず、都市部の調査結果をご覧ください。

死 傷 原 因 別 ・ 死 傷 者 数(都市部)

 日   付 
( 1937〜1938 )
死 亡 原 因 負 傷 原 因 拉 致
された人
死傷者
総 計
軍事行動 兵士の暴行 不 明 軍事行動 兵士の暴行 不明
12月12日以前 600  50 650
12月12,13日  50 250 250 200 550
12月14日〜
1月13日
2000 150 2200 20037004550
1月14日〜
3月15日
250
日付け不明 200 150 600 50 501000
 合  計 8502400 150 503050 25042006750


 15万、20万人以上の大虐殺といわれるにしては、出てくる数字の小ささに、意外に感じた人も多いのではないでしょうか。

 まず「兵士の暴行」による死亡、つまり虐殺されたのは2,400人になっています。「軍事行動」(爆撃、砲撃、銃撃など)による死者850人 について、即虐殺とは言えないでしょう。

 「拉致された人」の4,200人が全員殺害されたと解釈しても、虐殺された人数は6,600人(2,400+4,200)、不明の150人を加えても6,750人です。
 したがって、この数が都市部における虐殺数の上限になるでしょう。念のために記しておきますと、6,750人の虐殺があったと解釈しているのではありません。あくまで上限を知るための試みです。

 重要と思われる指摘があります。殺害された2,400人のうち、「独身・単身者」の割合が44.3%(スマイス報告)と異常に高く、平時における「独身・単身者」の推定割合が5.2%であることから考えて、2,400人のなかには多数の便衣兵が含まれていたはずだというのです(丹羽 春喜・大阪学院大学教授論考、月刊誌「自由」、2001年4月号)。
 安全区に兵や便衣兵が多数入りこんでいたことはラーベ日記などから明らかですから、「拉致された人」の中に、相当多くの便衣兵がいたことは、間違いないところです。

 となれば、6,750人の死者に兵士、便衣兵が多数含まれていた、つまり民間人の死者がその分、少なかったであろうことは間違いないところで、「虐殺数」の上限はかなり低くなるはずです。
 同時に、「南京暴行報告」 が示す約50人 の死者数とどう関係してくるかという問題がでてきます。ベイツ教授は「南京暴行報告」が載っている『南京安全地帯の記録』は「南京で起こった事件のすべてを明らかにする」 と説明していますので、2,400人とした「民間人殺害」はかなり怪しくなってきます。

(3) 調 査 結 果・・農村部
 農村部の調査対象は「南京市特別行政区」の6県(江寧県、句容県、りっ水県(「りっ」はサンズイに栗)、江浦県、六合県、高淳県が対象となりましたが、実際に調査できたのは高淳県を除く4県と六合県の南半分でした。調査結果は下表のとおりです。

死 傷 原 因 別 ・ 死 傷 者 数(農 村 部)

県名 住民総数 死亡者
総  数
死   因 被殺害者
総 数
被殺害者数
(住民千人当)
暴  行 病 気
江寧433,30010,7507,1701,9901,590 9,16021
句容227,3009,1406,700 1,8306108,53037
りっ水170,7002,3701,540 5602302,10012
江浦110,9005,6304,990 6304,99045
六合
(半分)
135,8003,0602,090 9702,09015
合計 1,078,00030,95022,490 4,3804,08026,870 25


 表から読みとれるように、暴行が原因の死者数は男女合わせて2万6,870人(茶色欄)となっています。また、病気による死者数も県別に調査されています。
 一見して、この数をどう考えてよいのかわかりにくいので、少し関連次項を見ておきましょう。

・ 調査対象の5県について
 調査対象となったのは南京近郊の6県ですが、実際に調査できたのは4県と六合県の半分です。
 この地域がどの程度の広さを持つのか、まず地図で概略を確かめておきます。

 調査対象となった近郊 5県図 
南京郊外図


 上地図がその5県を示しています。
 揚子江の北側に六合県、江浦県の2県が、南側つまり南京城側に江寧県、句容県、りっ水県の3県です。地図中の☆ 印は日本でいう県庁所在地である県城を表します。調査できなかったのは高淳県でりっ水県の南にあたります。
 南京城の図(黄色)が大きくなってしまいましたので、実際の面積と較べれば、4県半の面積は南京城の約160倍の広さになります。
 地図を見てすでにお気づきになった方も多いことでしょう。調査で得られた数字は「南京大虐殺」と直接結びつくものではないことに。
 「南京大虐殺」の定義と比較すれば明らかなことです。東京裁判の判決は、
@ 日本軍が占領してから最初の6週間に
A 南京とその周辺で
B 殺害された一般人と捕虜の総数

 でしたし、中国の主張もほぼ同じです。
 となりますと、「南京とその周辺」が地理的範囲になりますから、江寧県の一部は範囲に入るでしょうが、揚子江の対岸の2県および句容県、りっ水県は範囲外でしょう。ですから議論からはずしてもよいのでしょうが、除外した県の死者が日本軍によるものかどうか気になるところです。

・ 清 野 作 戦
 まず、次の新聞報道(東京日日新聞、1937年12月9日付け)をお読みください。

〈南京城外数百の村落は敗退する支那軍の放火によってことごとく焼き払われ、
黒煙もうもうとして空をおおっている。焼き払われた各村落の住民は着のみ着のままで市内の避難区に陸続と遁入、・・。
市内では暴徒が民家の掠奪破壊をはじめた。・・〉
―NY12月7日発同盟通信・AP南京電―


 また、自動車で南京東部の戦線を視察したNYタイムズ・ダーディン記者もほとんど同じ内容の記事を送っています。

〈首都陥落を前にして支那軍はなおも最後の足掻きに必死になっており、
7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、
日本軍の進撃に便宜を与えるような物はすべて焼き払わんとしているため、
南京市はもうもうたる黒煙に包まれてしまった。
・・・焼け落ちた家々からは今まで今まで踏みとどまっていた村民の群が、
僅かばかりの家財道具を背負ったり、小脇に抱えたりしてよろめきながら城内指して逃げ込んで来る。・・ 〉
―NY特電12月7日発、9日付け朝日―


 敵に便宜をあたえるものは一切残さないという「清野作戦」をもって、中国軍が日本軍の進撃に対処していた様子がよくわかります。
 前に引用したダーディン記者の次の話(古森産経記者インタビュー、1989年)も想起されます。

〈中国軍はすべての建造物を焼き払って撤退したので
住民も大多数は日本軍の進撃してくる前に避難しており、
虐殺というような話は当時、聞いたことはなかったし、目撃もしなかった。〉


 また、ラーベ日記(12月8日)にも「城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと(安全区へ)送られてくる」と書いています。
 一方、日本軍兵士の「陣中日誌」、たとえば句容県を通過した20連隊の「牧原日記」等を読めば、部落での殺害、放火等の行為があったことは事実でしょう。
 ただ、記述されている殺害数はほとんどは数人といった1桁規模であって、これらの例をもって、2万余の殺害は説明がつきません。

 以上のことから考えて、スマイス調査のいう万を超える民間人(ほとんどが農民)が、日本軍の犠牲になったとはとても考えられないでしょう。また、これらの犠牲者のほとんどが中国軍によるものとも考えにくく、となれば、調査数字そのものに欠陥があると考えなくては話が合いません。

(4) 上限はこの程度?
 ここでごく大雑把に、日本側に厳しい見方をとった上限を示しておきます。
 まず都市部ですが、2,400人の死者、それに連行された人が全員殺害されたとして4,200人、さらに不明者150人も殺害されたとして加え、合計6,750人弱となります。
 もちろん、既述したように「南京暴行報告」が示す数字は、この2,400人の犠牲者がかぎりなく50人程度に近づくことを示しています。
 また連行された4,200人については、かりに殺害の対象になったとして、その場所は城外ですから、他の出来事の犠牲者と重複して数えられる可能性がでてきます。

 農村部については、江寧県の一部が該当すると考えなくてはならないでしょう。県下一帯から得た数字(9,160人)のうち、どのくらいが日本軍の責任になるのか、材料不足で確定的なことはいえません。それに、数字の信頼性(過大)の問題もあります。
 農村の若者が兵士として連行されるのはそう珍しくなく、いろいろ記録に残されています。ですから、兵士として戦闘に参加、死亡した例も少なくないはずで、調査数にはこれらの戦死者も含まれているでしょう。
 また村民が事前に避難したことを考え合わせれば、日本軍による村民の犠牲者は相当に低くなると推定できます。数分の1以下であってもおかしくないでしょう。

(5) 調査を信頼する人しない人
 まあ、当然といってよいのでしょうが、このスマイス調査について、「信頼できる」とする人と「信頼できない」とする人とに分かれます。一例をあげましょう。

 大分前ですが、〈「南京大虐殺」の核心〉と題する誌上討論会の記録が月刊誌「諸君!」(1985年4月号、左写真)に掲載されました。
 「激論6時間」におよんだという討論会の出席者は、洞 富雄、鈴木 明、秦 郁彦、田中 正明の4人、司会は文藝春秋編集委員長の半藤 一利でした。
 このなかで、スマイス調査について鈴木明はこう話しています。

〈スミス調査というのは、日にちまで非常に細かく書いてあります。
(昭和)13年3月8日から23日まで、まず、農村調査があり、
引きつづいて都市調査が行われています。
これは50世帯に1世帯の割で調査したもので、精度は非常に高いものです。〉と。


 「ただ、当時の調査方法が現在のようには進んでいないので、誤差は若干ありますね」という司会者・半藤の質問に対して、次のように答えます。

〈ええ、統計上のミスというのはあると思います。ただし、スミスは調査員をわざわざ養成して、
さらに農業経済部で養成された経験者が管理者として加わった、と言っていますから、その点では信用度は高い。〉


 50世帯(都市部)に1世帯の(高い)割合で行われた(都市部)調査、それに調査員をわざわざ養成したといった理由から、スマイス調査の信頼性は高いと鈴木明は判断しています。
 また、田中 正明(拓殖大学講師、松井石根大将秘書)も、

〈スミス博士の『戦争被害』調査が、一番科学的で信憑性のある数字だという話がありましたが、
そのスミスの調査によると、日本軍の暴行による南京市民の被害は2,136人です。
また、金陵大学の学生が南京周辺の6県を全部調査しているんです。農作物、農機具の破損状況、家屋の破壊状況をです。
学生が2人1組になって農民から聞き取りしているんですが、
「ここで何人もの農民や兵隊が殺された」などという話を彼らは全然、聞いていません。
聞いていればそのことをスミスは「注記」か何かに記録するはずです。〉


 このように田中はこの調査結果を肯定的に捉えています。
 この田中の発言に対して、大虐殺派の洞富雄は次のようにいいます。

〈あれは推計調査ですから、調査員が周辺の町村で軍民大虐殺の話を聞いたからとて、
まとめられた調査報告にそのことが書かれるわけもないでしょう。〉


 スマイス調査の信頼性について、洞はこの討論会で直接、言及していませんが、ほとんど、あるいはまったく信頼を置いていないことは著作物から明らかです。調査結果の数字は低くすぎるという判断があっての主張と思えるのですが。
 秦郁彦はとくに意見を述べていませんが、『南京事件』(中公新書、1986)に次のように書いています。
 〈難点は、市街地で50戸に1戸、農村地区(江寧県以下6県)では206世帯に1世帯の抽出調査になっていることで、世論調査ならともかく、この種の被害を計るのに適切かどうか疑問を付す人も多い。〉
 まあ、当たらずさわらずの見解といってよいでしょうか。
(注) 鈴木明は50世帯に1世帯、秦郁彦は50戸に1戸の割合と表現していますが、原文から「世帯」よりも「戸」とするのが妥当と思われます。

 “激論5時間”も「大虐殺」に対して各自の見解が示されるだけで、当然のことでしょうが、結論に至ることはありませんでした。
 この激論は、スマイス報告がティンパーリィを通した国民党の働きかけ、しかも国民党からでた金を使って行われた調査であったということなどが、まだ明らかになっていなかった時点のものです。

 横道にそれますが、司会者・半藤一利のシメの言葉に、強い違和感を持ったことを憶えていますので、その部分を紹介します。

〈議論はなおつきないと思いますが、一応これでとどめます。
お話を通して感じられたことは、今日のわれわれもまた、武力こそ使っていませんが、
世界の各地で経済的な「南京事件」を引き起こしているのではないか、ということです。
その意味で、大変な歴史的教訓を本日は学んだといえると思うのです。本日は有難うございました。〉


 この当時、日本の経済進出に勢いがあったとはいえ、経済問題と南京を舞台にした「大虐殺事件」とを同じ土俵にのせ、歴史的教訓と受けとめるなどは、良識ぶった人間の物言いだと思いました。
 「これだから、インテリは嫌だ」と欄外に私の感想が書きとめてありました。

(6) 大虐殺派に不都合な調査結果
 10万人、あるいは15万人、20万人以上などと主張する大虐殺派にとって、このスマイス調査が不都合な結果であったに違いありません。上に記したように、大虐殺派の先駆者・洞富雄はスマイス報告をほとんど評価しておりません。
 田中正明は、

〈戦争直後のこの科学的な貴重な証拠を東京裁判は却下した。
その理由は死亡者数があまりにも少なかったからである。
以後「虐殺派」はこの第1級資料である調査データを用いることをしない。〉


 と、「(大)虐殺派」への恣意的態度を批判しています。
 田中の指摘は理のあるところで、たしかに大虐殺を主張する人に、この調査結果を用いない傾向は見てとれます。
 となれば、大虐殺派はこの問題にできるだけ触れずに相も変わらず大虐殺を主張するか、あるいは別の方策を考え出さなければならないでしょう。その一つが、従来の「南京大虐殺」の定義を拡大することでした。
 つまり、日本軍の虐殺は上海戦ですでに始まっていたという論法です。

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