―これも三光作戦―
⇒ トップ頁へ
大分前になりますが、「三光作戦」下の「毒ガス作戦」という新聞報道がありましたので、紹介します。
これ以降の中国の「研究成果」を知りたいと思い、気を付けて新聞報道等を見てきましたが、見当たりませんでした(見落としの可能性はありますが)。
1992年8月13日付け毎日新聞(朝刊)は、「北京12日共同」として、「死傷者8万人以上も」とする白抜きの大見出しをかかげ、中国軍部がまとめた「旧日本軍の毒ガス作戦」の研究成果を以下のように報じました(共同の配信ですから、地方紙では河北新報など、多くが取り上げたはずです)。
〈研究では、盧溝橋事件の起きた1937年から日本敗戦の45年までの8年間に、共産党ゲリラ掃討作戦を含め少なくとも2091回毒ガスが使用され、民間人を含む死傷者は8万人以上に上ったことを突き止めている。
毒ガス戦の全体像に迫る中国の研究成果が明るみに出たのは初めて。〉(以上、リードより)
研究は、人民解放軍化学防御指揮工程学院研究室が、公文書館で見つかった当時の軍事電報や、日本兵捕虜の供述等を検証したものだといい、昨年6月、軍の内部発行研究書『化学戦史』に掲載されたものとします。
〈同書によると、旧日本軍は華北地方を中心とした「三光作戦」(焼き、殺し、奪い尽くす)を含むゲリラ掃討作戦でも少なくとも423回わたって毒ガスを使用し、3万3千人以上の兵士・民間人が死傷していたことが判明した。
正規戦での毒ガス戦は少なくとも1668回、中国側軍人の被害は4万7千人以上でこのうち約6千人が死亡した、と推計している。〉
そして、「毒ガスが多用された掃討戦として、五台包囲攻撃など5例を詳述、百団大戦、太行抗日根拠地掃討、5・1大掃討ではイペリットなど致死性ガスが使用されたことが確認された。」と報じます。
また正規戦では、晋南粛正戦、南昌作戦、かん湘会戦、武漢会戦、それに宣昌(ぎしょう)、常徳、長衡の各作戦では、「催涙ガスなど刺激性ガスとともに、致死性ガスが使われた」と研究書は指摘しているとしています。
・ 粟屋憲太郎教授の肯定発言
粟屋憲太郎・立教大学教授(日本近現代史)の話を以下のように記しています。
「旧日本軍の毒ガス戦に関する中国側の本格的研究が明らかになったのは初めてで注目される。
共産党軍の軍事電報など正式な資料を基にし、われわれの研究を引用した部分もきちんと明記しており、信頼性は高い。旧日本軍の資料と符合する部分も多く、これまで未解明だったゲリラ掃討作戦での毒ガス使用の概要が分かった意義は特に大きい。」
以上が毎日報道の概要です。
私自身、日本軍の「毒ガス作戦」について、系統的に調べたことがありません。したがって、断片的な知識しか持ち合わせておりませんが、上記の「五台包囲攻撃」、「百団大戦」等に少しですが触れておこうと思います。
2 五台包囲作戦
「五台作戦」は1939(昭和14)年5月8日~6月25日の間、山西省を舞台に行われた第1軍主導の作戦でした。台懐鎮(五台山)は、中台をはじめ5つの山頂に修行の寺院があり、中国仏教の聖地として有名なところだそうです。
当時、山西省は、閻錫山(えん・しゃくざん)率いる山西軍と蔣系中央軍が進出し、同時に中共軍の進出拡大も日本軍にとって頭の痛い問題でした。
五台山とその東方の山岳地帯は第1軍隷下の第109師団の作戦地域にありましたが、日本軍の駐留がなく中共勢力の浸透が著しかったといいます。
このため、第1軍(司令官・梅津美治郎中将)は、
〈五台山山岳地帯に蟠踞する敵を掃蕩し、
爾後(じご)、その要点に駐兵し、該地帯を徹底的に粛清する。〉
との方針のもと、作戦を4期に分けて実施しました。
中国のいう「五台包囲攻撃」は、日本軍の第1期(台懐鎮付近の掃蕩)につづく第2期(西部五台山の掃蕩)が該当すると思われます。
その第2期は「おおむね既定計画に従い、作戦を続行」することとなり、第109師団および独立混成第3旅団(独混3旅)が実行部隊となりました。期間は5月13日から約3週間と記録されています。
109師団から第6中隊、独混3旅から2個中隊を基幹とする部隊をもって、四周から一斉に掃討に移ったものの「大なる敵と遭遇しなかった」(『北支の治安戦1』、157ページ)といいます。
そこで、独混3旅の諸隊は原駐地に帰還(20日)、109師団諸隊は主要地点に一部を駐兵し、作戦を終了しました。
・ 山崎 大尉の回想
当時、109師団参謀であった山崎重三郎大尉(後、中佐)は、以下のごとく回想します(『北支の治安戦1』)。
1 1939(昭和14)年5月の五台作戦は1938年秋の作戦に次ぐ再度の剿共(そうきょう)作戦であったが、戦果は初回同様に全くあがらなかった。
2 作戦間、共産軍の動向をほとんど掴むことができず、その姿さえ確認できず、従って戦闘らしい戦闘も行なわれず、戦果はなかった。
また、戦場の民衆は文字どおりの「空室清野」を実行しているので、第1線部隊は作戦行動間、住民にもぶつからなかったのである。
3 作戦開始に当たり方面軍から「作戦部隊はあくまで敵を急追して捕捉せよ。戦場の遺棄物などは別途編成する収集班これに選任する。軍紀風紀を厳正にせよ。共産軍の中には女兵士が多数含まれている。・・」というような訓令がでた。しかし結果は共産軍の遺棄物はなく女兵士の姿を見た者もなかった。
・ 小堀 中佐の回想
第3,4期の作戦に加わった第36師団参謀であった小堀 晃中佐も似た回想を残しています。同じ、『北支の治安戦1』(159ページ)から抜きます。
1 共産軍は五台の寺院群の周囲に根拠地を持っていたので、その状況は逐次判明すると考えていたが、作戦開始後の敵情はさっぱり分からず、雲をつかむような、狐に鼻をつかまれたような作戦であった。
2 満州で行なった分進合撃の治安討伐方式を用いたが、共産側の情報活動は周密巧妙で、肩すかしを喰らい、空をついた結果となった。
3 省 略
4 日本軍の装備は個人、部隊ともに過重であり、共産軍の軽快な行動を追跡することができなかった。
といった次第で、日本軍の五台包囲戦は失敗だったといってよいのでしょう。
敵の動向がつかめず、あるいは間違った情報のため、出動しても敵(中共軍)は見当たらず、逆に隙をつかれて翻弄されるのも、珍しくなかったようです。
北支の戦場にあって、長い間、中共軍と戦った鈴木啓久中将(第117師団長)の「空撃」が常態だったする回想と酷似しています(⇒ 「中共軍との戦闘実態」)参照。
また、熱河省(満州)興隆県に駐留した241連隊第1大隊(下道部隊)から聞き取った状況とほとんど変わりませんでした。
したがって、中国の「研究成果」である三光作戦下、大量の死傷者を出したとする「五台包囲攻撃」に伴う毒ガス戦を事実とするには、大きな疑問符が付くといってよいでしょう。
・ 独混3旅の聞き取り
独混3旅の将兵が行ったとする「残虐行為」の調査の際に、同旅団の戦友会(福島)に出席するなどして多くの元将兵から話を聞きました(⇒ 「城野宏証言」の終わりの項、「4 お馴染みの残虐証言」を参照ください)。
独混3旅は、独立歩兵第6大隊~第10大隊の5大隊を基幹に、砲兵隊、工兵隊、通信隊等で編成されていました。このうち、第8大隊はこの包囲戦後の1939(昭和14)年7月から終戦まで、五台に大隊本部を置き、五台山一帯を警備地域として担当しましたので、隊員にとっては記憶に残る馴染みの駐留地だったのです。
ですが、五台包囲作戦中の毒ガス使用について確かめたところ、知る人に出会うことがありませんでした。というより、毒ガス使用についても否定するばかりだったのです。
冨田茂男中尉(第8大隊第4中隊、階級は終戦時)、鈴木良(同大隊下士官)、佐々木孝(8大隊4中隊)の3人とは幾たびとなく会うなど、他界するまで文通がつづきました。とくに冨田中尉、鈴木下士官は読書家でもあり、独混3旅に関連する書籍類の提供を受けました。
鈴木良は「昭和18年4月29日に赤筒を使用したことがありました」と3人と私が近くの温泉地で一泊し、夜の聞き取り中に話をしてくれました。4月29日は昭和天皇の誕生日でしたから、はっきりと記憶していると話します。
時期から「18春太行作戦」(東姚集攻略)と思われますが、敵に向け鈴木ほか何人かの兵が赤筒を投げたものの、「風が逆に吹いて(煙が)もどってきた」といい、効果は皆無だったとのことでした。
赤筒(あかとう、通称アカ)はくしゃみ性のガスを充填した筒状のもので、500ミリリットルのかんビールほどの大きさと聞いています。
この東姚集の攻略戦中に、友軍の飛行機が「機上射撃をしながら白雲山の敵陣地へ爆弾を投下した。その爆弾の中に瓦斯弾が入っていたことが後で判った」と杉本作美・旅団司令部参謀が独混3旅の部隊史『遥かなる山西 第一集』(1974年刊)に「東姚集の想い出」として記しています。「あとで判った」のは、白雲山の山頂で「瓦斯(ガス)ぶくれした遺体」を多数(数十体?)を見たためだといいます。
この「瓦斯ぶくれした遺体」を目撃したとの記述について、上記冨田中尉、鈴木良、佐々木孝は一斉におかしいと指摘しました。膨張した遺体は毒ガスによるものではなく、時間とともに自然に膨張したものとのことでした。
杉本参謀の手記の正確さは、他の証言なり資料に当っての確認が必要でしょうから、ここまでにします。
3 百団大戦と毒ガス使用
(1) 百団大戦について
「百団大戦」というのは、中国側の呼称で、「100個連隊による攻撃作戦」を意味するといいます。この攻撃作戦を中国は輝かしい勝利として位置づけます。
具体的には、1940(昭和15)年8月 、従来の中共軍のゲリラ作戦とは異なり、大兵力をもって鉄道、通信網、鉱山などの生産施設、あるいは日本軍を急襲した作戦をいいます。
日本側から見た共産八路軍のこの攻撃は大別すると前後2度にわたりました。
第1次 1940年8月22日~ 9月上旬
第2次 同 年 9月22日~10月上旬
まったく予期していなかった日本側は、各地で大きな損害を出しました。
北支那方面軍は、「作戦記録」に次のように記しています。
〈特に山西省に於て其の勢熾烈にして、
石太線及北部同蒲線の警備隊を襲撃すると同時に、
鉄道、橋梁及通信施設等を爆破又は破壊し、
井けい炭坑等の設備を徹底的に毀損せり。
本奇襲は我軍の全く予期せざる所にして、其の損害も甚大にして且復旧に多大の日時と巨費を要せり。〉
日本軍でいえば、独立混成第4旅団(司令部、陽泉)、第110師団(司令部、石門)の損害がもっとも大きかったといいます。
この攻撃が方面軍の方針変更、つまり共産軍の根拠地覆滅を促す誘引となったことは間違いないでしょう。
当然のことながら、この2次にわたる攻撃に対応、日本軍は2次にわたって反撃を開始しました。
第1次反撃 ⇒第1期晋中作戦
1940年9月1日 ~9月18日(18日間)
第2次反撃 ⇒第2期晋中作戦
1940年10月11日~12月4日(約50日)
この後、日本軍は中共軍の根拠地を覆滅する掃討作戦に力点をおくことになります。なお、「晋中作戦」の「晋」(しん)は山西省の別称です。
この2次にわたる日本軍の反撃とこれにつづく敵根拠地攻撃を「三光政策」だったと中国は非難します。
(2) 根拠地攻撃の実態は?
百団大戦につづく反撃作戦は、お手数ですがこちらをご覧ください(⇒ 根拠地と百団大戦)。
百団大戦に関連して、資料を多少読んだのですが、反撃作戦中に「毒ガス」の使用例にぶつかりませんでした。見落としもあるでしょうから、結論めいたことは言えませんが。
なお、⇒ 毒ガス写真事件 もご覧ください。「南昌作戦」「かん湘会戦」にかかわる毒ガス写真の誤用問題でしたので。