―プロパガンダに躍る学者たち―
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「三光」が「殺光」「焼光」「搶光」(略光、奪光とも)を表し、それぞれ「殺しつくす」「焼きつくす」「奪いつくす」という意味の中国語であることはご存じのとおりです。
ところが、「三光作戦」を日本軍が実行したというあたりから、話が分かりにくくなります。もっとも、話が分からない、分かりにくいと受け止めるのは少数派で、ほとんどは疑問を持たずに受け入れているといってよいでしょう。
その証拠と言っては何ですが、ネット上で「三光作戦」「三光政策」を検索すると多数がヒットし、書籍の紹介(宣伝)をはじめ、学者、大学の関連機関、各種団体を発信者とした記述が列挙されます。また、弁護士等の「有識者」のサイトも目を引きます。
いずれも、「三光作戦(政策)」は疑いのない事実として記述され、疑いありとする反論や感想等にめったにお目にかかれません。まして、大学など教育機関、研究機関からの異論を目にすることは、まずありません。
となれば、ネット検索の上で訪れた学生や社会人らは、「三光作戦(政策)」を疑う余地のない「歴史的事実」として受け止めます。異論にぶつからないのですから、疑問の持ちようもありません。ですから、誤りがあってもその誤りをただすのは至難となります。
こうした傾向は、「中国人強制連行」「万人坑」「中共戦犯証言」などでも同様で、パソコン、スマホ等に表示される情報はほぼ一色といった特徴が示されます。
付け加えれば、「三光政策」という用語の使用は下火傾向にあり、逆に「三光作戦」の力が勝り、一般的な表現になっていると思われます。「三光作戦」の方が日本語として分かりやすく、また、「殺光、焼光、搶光」を連想しやすいからかもしれません。
「三光作戦」(三光政策)と呼ぶ日本軍の軍事作戦を歴史的事実と解釈するには、基本中の基本というべき事項に、しかるべき説明がついていないと思うのです。
もう少しハッキリ書けば、朝日新聞など大手活字メディアが報じた「解釈」に引きずられ、未検証の「事実」を泥縄式に歴史学者らが追認または黙認した結果、「三光作戦」が今日の地位を確保できたのだと私は理解します。
以下、疑義を2、3記しますが、その前に、次のことを基本知識として、念頭においていただきたいと思います。
日本軍は自らの作戦に
「三光作戦」あるいは「三光政策」という用語を使用した事実はない
ということです。このことに間違いありません。
・ ベストセラー『三 光』
戦後、共産中国に戦犯として捕らわれた日本人将兵ら約1100人のうち、「有志」200人強が抑留中に自らの「悪行」を「手記」に残しました。
戦後、手記の一部が日本に持ち込まれ、その中から15編が選定されて、『三 光 ― 日本人の中国における戦争犯罪の告白』として1957(昭和32)年3月、光文社(カッパブックス)から発売されました。
たちまち大きな反響を呼び、わずか2ヵ月間で20万部が売れたとのことです。
書籍『三光』は、「三光」という言葉を日本人が知ることになった、いわば記念碑的手記集です。
また、『三光』という書名は、収録された本田義夫少佐(仮名)の「三光」と題した手記名からとったのは明らかでした。
注目すべきは、手記「三光」が本名・小田二郎少佐の作品であり、しかもまったくの「作り話」だったことです。
それも、単なる作り話というだけでなく、小田少佐の部下が読めば、手記「三光」が虚偽であることが分かるようにメッセージを込めた作品だったのです。
手記の検証結果は⇒ 検証・手記「三光」をご覧ください。
また、「三光」という用語が使われているのは、書名の「三光」と小田少佐の手記名の「三光」だけで、本文には「三光作戦」はもちろん「三光政策」「三光」も出てきません。それどころか15編の手記のどこにも、「三光」「三光作戦(政策)」は登場しないのです。
ですから、日本における「三光作戦(政策)」なる用語の使用例は、1957年の時点でほとんどなかったといって間違いないでしょう。この事実は留意してよいことと思います。
加えれば、殺しつくし、焼きつくし、奪いつくすという手記名の「三光」は、手記の内容と較べ、とってつけたような違和感があり、小田少佐自身が名付けたとは思えないことです(傍証は十分あります)。
さらにつけ加えますと、『三光』が発行されて25年後の1982(昭和57)年8月、手記集の2番手として『新編 三 光 第1集』(中帰連編)が同じカッパブックスから刊行されました。
『胎 児 ― 妊婦の腹を裂く』『群 鬼 ― 捕えた農民の生き胆をとる』『強 姦 ― 赤ん坊を殺し母親を犯す』など15編が収められています。この中にも、三光、三光作戦(政策)の字句は見当たらないのです。
・ 毛 沢東の講演「学習と時局」
とは言え、「三光作戦」「三光政策」の出どころは中国と考える人が大部分でしょう。でも、違うのです。
日本軍のある時期の掃討作戦に対して
中共が「三光政策」と呼んで非難した例はいくつかあります。
ですが、「三光作戦」と呼んだ例は出てきません。
中国共産党が「三光政策」という用語をはじめて使用したのは、1941(昭和16)年12月16日付けの「解放日報」とされています。翌日の12月17日にも使われました。
「三光政策」が何かを具体的に指摘した点で、1944(昭和19)年4月12日、延安の高級幹部会議で行われた毛 沢東の講演「学習と時局」があげられます。
毛はこのなかで、「抗日の時期におけるわが党の発展は3つの段階に分けられる」とし、第2段階を以下のように論じます(防衛庁防衛研修所戦史部、『北支の治安戦1』より引用、1968年刊)。
〈 第2段階は1941年と1942年である。
日本帝国主義者は反英反米戦争を準備し遂行するために、彼らが武漢陥落ののち既に改めた方針、
つまり国民党攻撃を主としたものから共産党攻撃を主としたものに改めたその方針を、
その主力を共産党の指導するすべての根拠地の周囲に集中し、
連続的な「掃蕩」戦争、残忍な「三光」政策を行ない
わが党に打撃を与えることに重きをおいた。
そのため、わが党は1941と1942の2ヵ年の間、きわめて困難な地位に立たされた。〉
これで、「三光政策」の“生い立ち”、それに期間(1941、42の2年間)などがわかります。また、三光政策の対象を「共産党の指導するすべての根拠地」とありますので、「抗日根拠地」は共産党の勢力範囲である華北にほぼ限られてきます。
話は飛びますが、2000年前後、中国最大の検索エンジン「Baidu」(百度百科)を引いて調べたことがあります。「三光政策」は多数がヒットする一方、「三光作戦」は一つもヒットしませんでした。
また、「三光政策」の説明中にも「三光作戦」なる用語はなかったのです。よく調べたので、見落としはなかったはずです。
もう一例ご覧ください。同じ『北支の治安戦1』からの引用で、原典は『抗日戦争時期における解放区概況』(1953年、人民出版社)です。
・ 「百団大戦」と日本軍の反撃作戦
1940(昭和15)年8月、中共八路軍が大兵力をもって仕掛け、日本側に大損害を与えた「百団大戦」に対し、日本軍のとった反撃作戦(第1期、第2期晋中作戦)を「三光政策」だとして中共は非難します。
日本軍の掃討作戦を「三光政策」とし、非難した代表例がこの「百団大戦」への日本軍の反撃作戦です。
〈(1940年)8月、百団大戦では第120師、山西新軍及び地方武装勢力の全力をあげて参戦し、
太原、・・大同に進入し、50日間に316回の戦闘を交え、敵に甚大なる損害を与えた。
敵は報復のため急遽2万余の兵力をもって、冬季大掃蕩を発動し、
晋西北に対し残酷な「三光政策」を行った。
わが軍は35日間、300余回の戦闘を交え、遂に敵の掃蕩を粉砕した。〉
次の点にご留意ください。
上の引用文が示す通り、中共が仕掛けた百団大戦、および日本軍の反撃作戦(冬季大掃蕩)の双方とも、互いに武器を持った兵士の戦いであったと、中共側が認識していること。
しかも、前者は50日間で316回、後者は35日間で300余回の戦闘が行われたというのですから、まれに見る大戦だったことの2点です。
一見、当たり前のことに留意をお願いした理由は、日本の学者の主張する「三光作戦の定義」に直接かかわってくるからです(後述)。
この奇襲攻撃「百団大戦」に対する日本軍の反撃作戦を中国側が「三光政策」と難じた「はしり」ですので、日本人学者、研究者らの「三光作戦(政策)」に関する論考は、ほぼ例外なく「百団大戦」に対する日本軍の反撃作戦がいかに残虐であったかを強調します。
ですが、この反撃作戦を「三光作戦」「三光政策」だと指弾しているにもかかわらず、日本軍が何人の敵兵(八路軍)を殺害したのか、肝心の「戦果」が提示されません。
犠牲者数、つまり「殺光」の具体的人数を示さずに、どうして「三光作戦(政策)」などと結論づけられるのでしょう。
日本軍の「戦果」が分からなかったためでしょうか。どうも違うようなのです(これも後述)。
となると、おかしなことになります。
中国側も日本軍も使用した形跡のない「三光作戦」は、いつ誰の手によって創られ、蔓延したのでしょう。歴史書はもちろん、歴史事典、歴史教科書等に「三光作戦」は当然のごとく使われています。
広辞苑で「三光作戦」を引くと「三光政策に同じ」とあり、以下、
〈日中戦争中、日本軍が行なった苛烈で非人道的な掃討作戦の、中国側での呼称。
三光とは、殺光(殺しつくす)・搶光(奪いつくす)・焼光(焼きつくす)をいう。〉
とした説明がついてます。
「三光作戦」の出どころが不明確である以上、三光作戦=三光政策に根拠がなく先走った解説と言えます。
また、よく見かけるのは「燼滅作戦(三光作戦)」とする記述で、燼滅作戦=三光作戦だというのです。
1940~1942年頃の日本軍の華北根拠地掃討作戦の作戦名に「燼滅作戦」と明記されているのなら、燼滅作戦=三光政策もまあ、わからなくもありません。ですが、「三光作戦」の出番があるはずもありません。
では、「燼滅作戦」なる作戦名があったのでしょうか。怪しいと思っています。
「燼滅」「燼滅掃蕩」の使用例はありますが、「燼滅作戦」という4文字の作戦名は見当たらないのです。
また、〈「燼滅」作戦〉という表現を見かけます。これは「燼滅作戦」という名が見つからなかったための苦肉の表現かとも思われます。時とともに「燼滅」のカッコがとれて(あるいは意図的にとって)「燼滅作戦」とし、三光作戦と同義だとした可能性もあるでしょう。
また、「燼滅掃討作戦」も見かけます。「三光作戦」と同じというのですが、これなどは牽強付会と思います。
その後、調べることもなく放置してきましたが、あらためて「Baidu」(百度)をのぞいて見ますと、「三光政策」の説明中に、「“三光”政策又称“三光”作戦」と出ていました。また、「燼滅作戦」も日本軍が使用していたとの記述もあります。
出所の怪しい日本発の「三光作戦」がめでたく中国で認知され(「燼滅作戦」も)、こんどは逆輸入されて「中国も三光作戦といっているではないか」と日本人学者の解説、主張が出てくるとしたら、滑稽な話として済ませる問題ではありません。
なかには中越戦争(ベトナム戦争、1979年2月~3月)中、相手の軍事行動を「三光政策」と批判する例があって笑ってしまいました。ただ中国語音痴のため、出どころ等が読み取れませんでした。
・ 朝日連載「中国の旅」に見る「三光作戦」
となれば、誰がいつ、いかなる根拠で「三光作戦」なる用語を使用したかを問わなければなりません。
そこで、1971年末に朝日紙上に連載された「中国の旅」を改めます。4部構成の第4部「三光政策の村」と題した日本軍による残虐事件です。これを読んだほぼ全員が「三光政策」なる用語をはじめて目にしたはずです。
以下、文庫本『中国の旅』(朝日文庫、1981)からの引用です。
冒頭、本多勝一朝日記者は次のように総括します。
南京大虐殺は、大量の南京市民や捕虜を無差別に殺害したが、それでも「軍の最高方針による虐殺事件ではなかった」と断じ、以下につづけます。
〈 蘆溝橋事件のあった同じ1937年の12月、
つまり日中全面戦争の初期にあったこの大虐殺は、
侵略軍というものの持つ本質的性格が、日本軍の場合にも典型的に現れた結果であって、
いわゆる「三光作戦」として知られる計画的な「作戦」や「政策」としての虐殺ではなかった。
「作戦」としての皆殺し、「政策」としての計画的虐殺が本格化するのは、
八路軍の活躍が目立ちはじめる1940年頃からである。
住民と密着し、その強い支援で活躍する共産軍ゲリラに対して、
ドイツ=ナチスがやった報復殺害と同様、女子供を含む全住民の皆殺し作戦をもって応じた。〉
・ 常軌を逸した「全住民皆殺し作戦」
「南京大虐殺」は軍の最高方針による計画的殺害ではなかったが、〈いわゆる「三光作戦」〉は日本軍による計画的大量殺害であって、ナチス・ドイツと同様の全住民皆殺し作戦だった、と本多勝一記者は決めつけます。「三光作戦」の登場です。
根拠の説明を欠いたこの解釈が歴史学会、教育界に相当程度、受け入れられたことは、歴史教科書、事典等が参考文献として「中国の旅」を挙げていることから読み取れます。わが国の歴史学者の一定数は朝日新聞の言説につきしたがったのです。
ですが、本多が報じた「三光政策の村」の惨状は、日本人の私から見て常軌を逸した残酷さ、とても信じる気になれません。こんな具合です。
〈 ・・機関銃掃射の2度目の休止のとき、
はいってきた兵隊の一人がこの妹(注、5歳)を母から奪った。
その両足をつかんでさかさにすると、
振り子のように大きく振って頭を石にぶつけ、たたき割った。
半狂乱の母が、即死したわが子の上に倒れて抱いた。
その背中を兵隊の銃剣が貫いた。 〉
また、こんな場面もあります。
〈 当時この村には20人から30人の妊婦がいたが、
機関銃掃射で殺されなかった場合は、ほとんどがこういう殺され方をした。
腹を裂かれた妊婦ばかり4人が、
馬の餌箱の周辺に散乱しているのも、のちに生存者が見ている。 〉
「こういう殺され方」というのは、ある村民の妻は「軍刀で両足のつけねを一度に切り落とされ」、妊婦は「銃剣で腹を裂かれ、腸とともに胎児も放り出され、動く胎児は突き殺された」といった現地人の証言です。
このような残虐行為が何の疑問もなしに書き連ねられるのも、「殺光」をはじめとする「三光作戦」は事実とする思い込みがあるからでしょうか。それとも日本軍を叩きたいという一心が書かせたのかもしれません。
日本兵の行為である「三光」の一つ「殺光」は単なる「殺害」ではなく、このような常軌を逸した残忍非道な行為と対になっていることを念頭に置くべきと思います。
「三光作戦」を歴史的事実と認める学者らは、かかる日本軍の「残忍な行為」の存在とその真偽に言及することなく、歴史教科書や事典類に「三光作戦」を「事実」と記して平然としているように思えます。
「三光政策の村」で取り上げられた出来事について、日本側証言を含め調査しました。概略は⇒ こちら をご覧ください。
・ 「三光作戦」「燼滅作戦」の登場
本多記者は第4部「三光政策の村」の注記で、「三光作戦」を以下のように説明します。
〈中国語で「殺光」・「焼光」・「略光」を三光といい、
日本軍は燼滅作戦と呼んだ。「三光政策」ともいう。〉
つまり、三光作戦=三光政策=燼滅作戦だというのです。
さらに、〈三光作戦の発展過程に関する考察・分析は平岡正明「日本人の三光作戦」(季刊誌『日本の将来』第2号)にくわしい」とも記しています。
『日本の将来』2号は創価学会系の潮出版社から発行されたもので、「日本人の三光作戦」というタイトルの平岡レポートが掲載されています。1971(昭和46)年9月の発行ですから、朝日連載「三光政策の村」(1971年12月掲載)より、ほんの2~3ヵ月前になります。
また、このレポートは「南京大虐殺」「731部隊」や「中国人強制連行」にもページが割かれています。ここで言及するのは「三光作戦」に関連する記述のみであることを付記しておきます。
翌年、レポートは加筆され同出版社から単行本『日本人は中国で何をしたか』となりました。したがって、本多記者は発行されたばかりのレポート「日本人の三光作戦」を参考に、「三光政策の村」のなかで「三光作戦」「燼滅作戦」という用語を躊躇なく使用できたことでしょう。
平岡正明は1960年代に台頭した新左翼の運動家で、著作の多さに驚かされます。もっとも、芸能ダネも多く、硬派とも思えないほどです。竹中労らとともに、平岡を「新左翼3バカ」の一人と評す向きもありました。
・ 「中共戦犯」 城野 宏登場
注目すべきは、平岡レポート「日本人の三光作戦」は中共戦犯(いわゆる太原組)であった城野 宏(じょうの、下画像右側)の証言に多く依拠しているという事実です。
平岡は記します。
〈 『潮』7月号“特集・大陸中国での日本人の犯罪”によって、
われわれは三光の具体的側面について、さらに多くをつけくわえることができた。
まだ足りず、さらに多くの証言が、日本人の骨にしみこむまで集められねばならないが、
ひとまず、この段階でわれわれは三光の軍略的な全体像をつかむ仕事にとりくんだ。
この方向での研究を、われわれは多くを城野 宏氏(山西野戦軍副司令官)に負っている。〉
事実、レポート「日本人の三光作戦」も単行本『日本人は中国で何をしたか』も、「三光作戦」関連は城野証言で成り立っています。むろん、15編を収めた手記集『三光』のすべてを事実としたうえで、平岡は論を展開します。
「手記」の検証が必要などとは考慮の外です。
城野は東京帝大法学部出身という学歴に加え、山西野戦軍副司令官という高級軍人を想起させる階級となれば、ほとんどの日本人は城野証言を信じたに違いありません。
城野証言のうち、三光作戦の「全体像」にかかわる証言を一つ、お目にかけます。
1940(昭和15)年(月日は不記載)、北京の北支那方面軍司令部で兵団長会議が開かれ、第1軍司令官・飯塚中将(篠塚中将の誤り)が中心になって「晋西北作戦」が下されたのだといいます。
この作戦では、大前提として「燼滅作戦を実施す」となっていて、末尾に注意事項として次のように書いてあったというのです。「燼滅作戦」の登場です。
以下、原文通りの引用です。
〈 ① 敵地区ニ進入セバ、食料ハスベテ輸送スルカ焼却シ、敵地区ニ残サザルコト。
② 家屋ハ破壊、又ハ焼却スベシ。
③ (原文はおぼえていませんが)敵地区に人を残すな、
敵と協力するおそれのある人間は治安地区に居住させる等の手段を講じて、
その場に存在させないように、というイミのことが、かかれてありました。〉
城野は「軍略的」側面にとどまらず、妊婦の腹を裂くなど日本兵の加害行為を証言するなど、結果的に本多記者の記述を裏付けている点も見逃せません。部分的にせよです。
ですが、「山西野戦軍副司令官」は日本軍の正規の階級ではありません。城野は高級軍人ではなく最終階級は第6師団(熊本)隷下の輜重兵第6連隊所属、幹部候補生上がりの陸軍中尉だったのです。
城野の証言とその信頼性についての概略は、⇒ 城野 宏証言をご覧ください。下級将校の城野が「兵団長会議」の内容を知る機会があったかどうか、軍歴が教えてくれます。
一言、加えます。城野の長文の「自筆供述書」に、「三光作戦(政策)」および「三光」なる用語は見かけられません。
・ 岩波新書『昭和史』より
ここまでで、「三光作戦」の使用例が1971年まで遡れることが分かりました。これ以前はどうでしょうか。そこで、朝日連載「中国の旅」をベタ誉めにした藤原彰・元一橋大学名誉教授の著作を取り上げましょう。
藤原元教授は支那駐屯歩兵第3連隊の将校(中尉)として華北に駐留経験があり、戦後、歴史学者として「三光作戦」の「研究」に熱心とのことですので。
遠山茂樹、今井清一、藤原彰3人の共著『昭和史』(1955初版、大幅に書き替えて1959年8月に新版)に次の下り(新版)があります。「三光」に関連する記述はここだけです。
〈 八路軍、新四軍は占領地域内で活撥な活動をおこない、
華北でも華中でも解放区の建設がすすんだ。
これにたいして日本軍はたびたび大規模な掃蕩戦をくりかえしたが、
効果がないので、あらゆる物資を奪い去ったり、部落を焼き払ったり、
無抵抗の住民を大量に虐殺したりする残虐な戦法をとった。
八路軍はこれを日本軍の三光(焼きつくせ、殺しつくせ、奪いつくせ)戦術と呼んだが、
この徹底した破壊活動も、かえって中国人民の戦意をたかめたのであった。
「大東亜共栄圏」は、経済的にも砂上の楼閣と化していた。
藤原は「三光作戦」でなく「三光戦術」と書いています。共産八路軍が日本軍の戦法を「三光戦術」として非難した例がなかったとは断言できませんが、仮にあったとしても「例外的」とだけは言えそうです。
もし、「三光作戦」「三光政策」を執筆時点で藤原らが知っていたならば、間違いなく使用したはずです。「戦術」より「作戦」「政策」の方が概念が広く、それだけ日本軍の「残虐な戦法」が広範囲に行われた証と主張できるからです。
『昭和史 新版』に紹介されている参考文献(多数掲載)を見ますと、〈 日本軍の戦争犯罪の記録に中国帰還者連絡会編『侵 略』(58年、新読書社)がある。〉として、書籍『侵 略』が記載されています。
ですが、藤原教授らが読んだはずの『三光』(1957年)が載っていないのです。
実は、書籍『侵 略』はいわくつきのもので、手記集『三光』が各方面からの批判の前に発行元・光文社は出版継続を断念しました。代わりに翌1958年、中帰連編として手記1編を加え、書名を『侵 略』としたうえ、出版社を替えて発行された経緯があるからです。
このため、参考文献として『三光』を避け『侵 略』を挙げたのでしょう。
・ 「三光作戦」はいつから
以上のことなどから、「三光作戦」は『昭和史 新版』が発行された1959年以前の使用例はなかったといってよさそうです。
一方、上述のように1971年後半に平岡正明論考「日本人の三光作戦」が、また同年末に連載された「中国の旅」の「三光政策の村」で使用されていたのでした。
したがって、1959年~1971年の使用の有無が問われることになりますが、私の知る範囲で見つかっておりません。もっとも、この間の詮索はそれほどの意味はなく、分かるに越したことはないのですが、無駄な労力とも思います。
といいますのも、「三光作戦(政策)」が注目され、歴史教科書、歴史事典類に広く使用されるようになったのは、朝日連載「中国の旅」の圧倒的影響力にあったと断定して間違いないと思うからです。
・ 『世界戦争犯罪事典』の記述
2002年8月、『世界戦争犯罪事典』が文芸春秋社より発刊されました。編者は秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一の3人です。このなかに〈「三光作戦」と中国戦場〉として、以下の説明があります(下画像)。前半の7行は下記の通りです。
〈日中戦争期の1940年秋以降、
中国共産党(八路軍)の指導する華北の根拠地を覆滅するために、
日本軍が実施した軍事作戦に対する中国側の呼称。
三光とは「焼光(焼きつくす〉、殺光(殺しつくす)、搶光(奪いつくす)を意味する。
中国側は「三光政策」と呼んだが、日本軍は三光作戦もしくは三光政策という用語を使用したことはない。〉
執筆者は「三光作戦」は日本軍の軍事作戦に対する「中国側の呼称」と確定した事実のように記します。ですが、根拠となる「三光作戦」にかかわる中国側文献(使用例)の提示がありません。
そして、この解釈がほぼ通り相場、疑問を呈する人は皆無に近いといえます。ただ、著名な研究者の一人、森松 俊夫(故人、元防衛研修所戦史編纂官)は「問題あり」と明確に認識していました、
加えれば、「三光作戦」の開始が1940年秋以降とあるだけで、いつまでの作戦か期限に言及がありません。終戦まで続いたという見解でしょうか。
1940年秋としたのは、たぶん百団大戦への日本軍の第2期反撃作戦を意識したものでしょう。
次は日本軍の掃討作戦の実態が中国のいう「三光政策」とどの程度、合致しているかでしょう。
中国が「三光政策」と非難する日本軍の掃討作戦を、そのまま「三光作戦(政策)」だと断罪する日本人学者らは、百団大戦における日本側の「戦果」、つまり何人の敵(八路軍)あるいは住民を殺傷したのか、肝心の死傷者数を示した例が見当たりません。
戦果が不明のままでは、「殺光」の有無、あるいはその規模の判断はできないでしょう。このことは「三光作戦」の有無を論じるさいの重要な事柄になるはずです。
上述のように、1940(昭和15)年8月、八路軍は従来のゲリラ戦と異なり、大兵力をもって山西省東部の石門と南部の省都・太原を結ぶ石太線の沿線一帯に2次にわたって攻撃をしかけました。中国のいう「百団大戦」です。
1団は1個連隊相当の兵力を意味するとのこと、したがって100個連隊による奇襲攻撃でした。
予期しない攻撃のため、日本軍警備隊の拠点20ヵ所が陥落、犠牲者も少なくなかったようです(人数?)。また、橋梁爆破73件、線路破壊114件、通信施設破壊142件ほか、あるいは井陘(せいけい)炭鉱は約6ヵ月間、出炭不能となるなど大損害を出したのでした。
これに対してとった日本軍の反撃作戦、つまり第1期晋中作戦、第2期晋中作戦を「三光政策」として中国は非難します。日本軍の作戦を具体的に「三光政策」と名指し、非難した代表例がこの「百団大戦」への日本軍の反撃作戦でした。
作戦という以上、作戦名、目的、参加部隊、作戦経過は、その戦果とともに戦闘詳報等に残すはずです。にもかかわらず、三光作戦だ、三光作戦だと非難しながら「戦果」が明示されません。
こんな理不尽な話もないもので、「戦果」を不明にしたまま、どうして「三光政策」「三光作戦」などと言えるのでしょう。
実は、この2期にわたる反撃作戦の「戦果」は完全ではありませんが残っているのです。多少の不明さはありますが、重要な判断材料と思います。
ですが、「三光作戦」といえば必ずといってよいほど言及される「百団大戦」と日本軍の反撃作戦を記しながら、日本軍の「戦果」を記したこの資料が使われていないのです。
使わない理由はその存在を知らないのか、あるいは知ってて書かないのかは分かりません。もし、知らないとすればやはり問題でしょう。この資料については後述します。
では、日本軍の「三光作戦」は、具体的に何を指しているのでしょう。実は、しだいに範囲が広がり、あれもこれもといった感じになっているのです。
・ 藤原 彰元教授の見解
以下は季刊誌「戦争責任研究」に掲載された〈「三光作戦」と北支那方面軍(1)(2)〉(1998年夏季号)からの引用です。この論考は藤原教授の「三光作戦」に関する研究の中心をなすものと思われます。
現に、笠原十九司(元都留文科大学教授)は藤原論考を挙げ、「歴史研究として本格的な分析を加えた嚆矢(こうし)」と絶賛します(『日本軍の治安戦』、岩波現代文庫、2023、後出)。
「中帰連」と深い関係があったフォト・ジャーナリストの新井 利男が、中国軍事法廷で有罪となった45人分の「自筆供述書」を中国から持ち帰り、朝日・共同通信社に持ち込みました。
朝日は1998年4月5日(日曜日)付け朝刊で大々的に、また共同通信社の配信のもとブロック紙や多くの地方紙もトップ記事などで報じました。
また、45人の「供述書」のうち、10人の「自筆供述書」を収めた『侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書』(新井利男・藤原彰編、岩波書店)が発行されました。1999年8月のことです。
10人のうち6人が「三光政策」の関連であり、鈴木啓久中将(すずきひらく・第117師団長)以下6名が含まれました。
したがって、以下の引用は藤原元教授が「自筆供述書」を入手し、十分検討を加えたうえでの論考ということになるはずです。
〈北支那方面軍の抗日根拠地にたいする燼滅掃蕩こそが、
中国共産党が名付けた「三光作戦」そのものであることは、
すでに何人もの研究者によって指摘されている。〉
と藤原は記し、2人の大学教授、江口圭一と姫田光義の定義をまず紹介します。
元愛知大学教授・江口圭一の「三光作戦」の定義は次の通りです。
〈南京事件に代表される残虐行為は、それ自体が日本軍の作戦目的とされていたのではなく、
ある攻略作戦・侵攻作戦に随伴して発生したものであるが、
一定地域の住民の殺戮そのものを
当初からの作戦目的としておこなわれたのが、
華北の抗日根拠地にたいする「燼滅掃蕩作戦」「粛正作戦」を
典型とする三光作戦(三光政策)である。〉
江口教授のこの定義を読み、強い違和感を覚えました。
華北の抗日根拠地に対する「三光作戦」なるものは、武装した八路軍を(主な?)敵とせず、その支配下にあった反日根拠地の「住民の殺戮そのものを目的」とした作戦だというのですから。
こんな作戦あるはずがありません。机上の空論でしょう。それとも、証拠があるというのでしょうか。
となると、先に留意をお願いした『抗日戦争時期における解放区概況』(人民出版社)の記述、つまり百団大戦では「50日間に316回の戦闘を交え」て、敵(日本軍)に甚大なる損害を与えたこと、また、敵・日本軍は報復のために2万余の兵力をもって残酷な「三光政策」を行ったものの、「わが軍は35日間、300余回の戦闘を交え、遂に敵の掃蕩を粉砕した」とする中共の見解と、江口元教授の見解とどう整合するのでしょう。
百団大戦で激しい戦闘があったと中共が認識しているのは明白で、日本軍が行ったとする「三光政策」に、「住民の殺戮そのもの」が目的だったとは読みようがありません。住民犠牲者について一言も触れていないのですから。
朝日・本多勝一記者の「三光作戦」の定義は上述の通り、「ドイツ=ナチスがやった報復殺害と同様、女子供を含む全住民の皆殺し作戦をもって応じた」としています。酷似しているといってよさそうです。
また、姫田光義・元中央大学教授の「定義」を藤原は以下の通りに記します。
〈姫田光義の『「三光作戦」とは何だったか』(注・岩波ブックレット)では、日中戦争のある時期において、
「中国共産党と八路軍が支配して活動する地域と人民にたいして
日本軍が展開した燼滅作戦・掃蕩あるいは掃討作戦・治安粛正作戦」での被害を総称して、
中国人が「三光」「三光政策」といったのだとしている〉
この姫田定義、一読しただけでは内容がつかみにくいのですが、「三光政策」の対象は八路軍ではなく、「抗日根拠地の住民」とする点で、やはり江口教授の説と同じといってよいでしょう。
藤原自身の見解は冒頭にある次の下りです。
〈日中戦争間の日本軍の大規模な残虐行為として知られるのは南京大虐殺であり、
その存否や規模をめぐり論争が行われてきた。
しかし残虐行為の本質からいっても、犠牲者の人数からいっても、
それ以上に深刻で、しかも規模が比較にならないくらい大きいのが
華北の共産党軍根拠地にたいして行った燼滅掃蕩作戦である。
中国側では、日本軍の抗日根拠地にたいするこの作戦をさして、
「焼光」(焼きつくす〉、「搶光」(奪いつくす)、「殺光」(殺しつくす)
の「三光政策」とか「三光作戦」と呼んだのである。〉
藤原の定義は、江口、姫田両教授と異なり、「燼滅掃蕩作戦」の目的を「住民の殺害」と特定していません。ですから、両者の定義には大きな相違があるように読み取れます。
でも、違うようです。藤原元教授も江口、姫田両元教授と同様、日本軍の作戦相手は「抗日根拠地の住民」なのです(次項参照)。
・ 「三光作戦」による犠牲者数
では、南京大虐殺と比較にならない規模の犠牲者を出したとする「三光作戦」で一体、何人の犠牲者を出したというのでしょう。
藤原元教授は日本軍の「燼滅掃蕩作戦」にあれこれ説明を加え、次の下りに至ります。
〈だが、(これらの掃討作戦が)失敗に終ったとはいえ、
未治安地区にたいする日本軍の燼滅掃蕩作戦、
これにともなう遮断壕の構築や無住地帯の設定によって、
華北の民衆の蒙った被害ははかり知れないものがある。
人命の被害だけでも、それを総計すれば、
南京大虐殺や細菌戦の犠牲者とは桁違いの多数に上るだろうことは確かである。〉
では藤原は、日本軍の掃討作戦によって何人の犠牲者があったと言っているのでしょう。
「しかし、その数を明らかにすることは難しい」とし、「加害者側の数字が一切ないのだから、被害者側の数字に頼るより他はないのだが、これもきわめて大ざっぱな数しか示されていない。・・」と記し、「三光作戦」の被害者数について以下の「結論」を導きます。
〈ここでは姫田光義が中国側の公表された数字をもとにしてあげた
「とりあえず華北全体の被害は将兵の戦死者を除いて『247万人以上』」によっておきたい。
これだけでも、南京大虐殺の10倍もの犠牲者が出ていることになるのである。〉
この「247万人以上」 という膨大な死者数は、『「三光作戦」とは何だったか』(姫田光義、岩波ブックレット、上画像)からの引用です。それにしても、お手軽なものです。
しかも、この死者数は将兵の戦死者を除くというのですから、「抗日根拠地の住民」を指すのでしょう。すると、八路軍兵士の死傷者数は考慮外になります。
日本軍の八路軍との戦いは「失敗だった」、つまり戦果はとるに足りないものとして考慮外においたのでしょうか。それとも藤原説も江口、姫田らの定義と変わりがないために、そのまま数字を借用したのでしょうか。
「247万人以上」とする姫田説がどの程度信頼できるか、その判断材料に興味深い書籍があります。
姫田・陳平の共著『もうひとつの三光作戦』(青木書店、1989)で、ここに「無人区」化政策による犠牲者数が記されています。この犠牲者数がどの程度信頼できるのか、⇒ 興隆県の無人区化政策をご覧になってください。
上に記した笠原十九司元教授の『日本軍の治安戦』に、「三光作戦の被害概数」(252ページ)とする一項が設けられています。
ここには、華北の抗日根拠地の人口を合わせると、
〈もとの人口は9363万306人であったが、日中戦争の8年間に、
一般民衆で直接・間接に殺害された者が287万7306人、
傷害者が319万4766人、日本軍に拉致連行された者が252万6350人、・・〉
とあります。
さらに、「日本軍により強姦と性奴隷の被害を受け、あるいは性病にかかった女性は62万388人」におよび、華北の抗日根拠地において、平均50人に1人以上の割合で強姦のうえ性病を移された等々の「統計数字」が示されます。
笠原元教授のいう根拠地住民で殺害された「287万7306人」は、姫田元教授の「247万人以上」とかなり似た数になっています。
そして笠原は、次のように記して、この項を締めくくります。
〈以上、膨大な数字になるが、経済関係の統計については本書で紹介してきた研究書もあり、
関連史料も多く所蔵していると思われるが、
人的な被害については、個別事例は別としても、
中国側の提示する数字を参照する以外に方法はないように思われる。〉
つまり、笠原のあげた「人的な被害」についての統計数字は、すべて中国に負っていることになります。はたしてこれで、どの程度「実際の数字」に迫れたことになるのでしょう。
私は、ほとんど意味がないというより、誤解を招く度合いの方が大きく、「ほんの参考に」とでも注釈をつけないかぎり使える数字ではないと思います。
(関 連 事 項)
この「三光作戦の被害概数」のすぐ前に、「細菌戦 ― 山東省」(243ページ)と題した10ページほどの記述があります。
山東省に駐留していた日本軍(59師団)が通称「コレラ作戦」のもとで引き起こした「大量住民殺害事件」が俎上に乗ります。この話は手記集『三光』、10人以上の「自筆供述書」、それに『天皇の軍隊』(朝日文庫)等に「詳述」されています。
大量殺害を具体的にいえば、「2万人~20万人以上」、最近では「40万人以上」と中国は主張しているようです。
実はこの出来事、だいぶ前に調べ、「沈黙が支える日本罪悪史観のウソ」と題した小論を月刊誌「正論」(1996年10月号)に書きました。ここに記した事実関係に間違いありません。
この「大量住民殺害事件」は作り話で、証明はできているはずです。
概要は当ホームページの⇒ 731部隊「コレラ作戦」をご覧になってください。
日本人学者、研究者らの事実認識がいかに中国の主張する「事実」に引きずられ、歪んでいくのか、この一例がよく示しているはずです。
「コレラ作戦」にかかわるこの問題が、「大量殺害事件」とする結論に至る過程を、少しでも多くの日本人が知ったほうがよかろうと思います。
さらに言えば、「三光作戦」の実例として「魯家峪虐殺事件」(232ページ)が取り上げられています。該当する戦闘(出来事)はたしかに存在します。
ですが、記述のほとんどが鈴木啓久中将の供述、手記、それに中国発の「資料」に依拠しているため、日本側がいう「事実」との差は大きく、資料の選択など少々意図的な間違え方だと思います。
魯家峪における戦闘は、小著『検証 旧日本軍の「悪行」』(自由社、2003)に報告してあります。
以下、「百団大戦」にかかわる死傷者数に話をもどします。
・ 百団大戦と死傷者数
当然のことながら、藤原元教授も「百団大戦」について記しています。要点は以下の通りです。
〈百団大戦は、日本軍にとってはまったく予想していなかった不意打ちであった。
したがってそれに対する反撃作戦は、押っ取り刀で飛び出した不準備さは否めず、
八路軍の主力はいち早く退避したのでこれを捕捉することはできなかった。
そこでもっぱら根拠地覆滅という方法をとったのである。
しかも、思いもよらぬ莫大な被害、とくに小警備隊の多くの全滅という悲劇を出したことから
そのことへの報復として、燼滅掃蕩という残虐な手段がとられたということができる。〉
前述の通り、この「百団大戦」に対し日本軍の2次にわたる反撃作戦が「三光政策」だとして中共が非難する代表例でした。
この報復としての反撃作戦を「三光作戦」だとする藤原元教授ら日本人学者、研究者は、日本軍の「戦果」に触れることなく、「三光作戦」を肯定し、「残虐だった」と強調します。
上記引用文を丁寧に読めば、藤原はこう記しているのでしょう。
百団大戦は敵の不意打ちのため大損害となり、日本軍(第1期)の反撃は敵(八路軍)を捕捉できず、したがって敵との戦闘にいたらなかった。つまり、「戦果ナシ」、あるいは「微々たる戦果」に終わってしまった。
そこで、第1期に加え、さらに第2期反撃作戦では、「抗日根拠地の住民」を「燼滅掃蕩」の対象にて「残虐な手段」をとったというのでしょう。
ここで、百団大戦に対する反撃作戦の「戦果」をご覧ください。
下表は、第二次作戦綜合戦果〈第一軍参謀部「第一軍作戦経過ノ概要(第二十一章 晋中作戦)」1940年〉です。
上述のように、日本軍の反撃作戦は2次にわたって行われました。
表の説明に「第二次作戦綜合戦果」とあるように、「第2期晋中作戦」の戦果表です。
第1期分もあるはずなのですが所在不明(?)と見えて、目にする機会がありません。ただ、独混4旅の戦果の一部は戦闘詳報からわかっています。
表から、日本軍の参加部隊は独混4旅(4bs)、独混16旅(16bs)、それに36師団(36D)で、交戦敵兵力、遺棄死体等が記載されています。
よく読んでいただければと思います。武器を持った八路軍と日本軍との間で多くの戦闘があったからこそ、この結果が生じたはずです。
以下、分かる範囲でまとめてありますので、お手数ですが⇒ 反日根拠地 の後半をご覧ください。
・ その他の根拠地掃討作戦
「三光政策」はこの百団大戦への反撃作戦にとどまらず、多くの華北の抗日根拠地の掃討が指摘されています。
藤原元教授は、「治安粛正作戦が活発に展開された1942年の3つの作戦をとりあげ、燼滅掃蕩作戦の実態を検討することにする」とし、以下の掃討作戦を論じます。
1 第36師団の大行地区粛正作戦
2 冀 中 作戦(3号作戦)
3 冀 東 作戦
注 「冀」は河北省の別称で「き」と読みます。
これらの検証の必要性はいうまでもありません。が、手間のかかることでもあり右から左というわけにはいきません。ただ、3の冀東作戦の中心をなす「魯家峪(ろかよく)」における「大量殺害」は一通りの調査は済んでいます。
この出来事は、上述した笠原十九司元教授の『日本軍の治安戦』に「三光作戦」の実例として記されている「魯家峪虐殺事件」と同一のものです。
つまり、笠原元教授とともに同一の出来事をとりあげながら、藤原元教授も同じように間違っているのです。
別途、調査報告をと思っています。
藤原教授は上記論考で次のようにも書いていますので、ご覧に入れます。
〈この他にも強制連行され労働力として満州その他に送られた膨大な人々、犯された女性、奪われた財産、焼かれた家、数えあげれば際限のない「三光作戦」の被害は、ようやく最近その一端が紹介されるようになった。
これらについては、被害者である中国側の調査が、より精密になることが期待されるが、それよりも加害者側の責任として、日本での史料の発掘、聞きとりの徹底など、為すべきことがたくさん残っているといえるだろう。〉
というような次第で、「三光作戦」の範囲はどんどん広がっています。
もっとも、「南京大虐殺」はどう頑張ったところで、マキシマム30万人程度ですが、「三光作戦」ならいくらでも被害を膨らませることが可能です。となれば、死傷者3500万人に向けて、あらたな「三光作戦」が加わってくるかもしれません。
そう、細菌戦もその一つで、上述の「コレラ作戦」は有力な候補に該当するでしょう。すでに、「三光作戦」と位置づけられているかもしれません。
以上を整理しますと、
① 反日根拠地への掃討作戦
② 遮断壕の構築
③ 無住地帯の設定
④ 強制連行
⑤ 毒ガス使用
⑥ 細菌戦
以上が、主な「三光作戦」の中身のようです。
藤原彰・元教授は、
〈日本での史料の発掘。聞きとりの徹底など、
為すべきことがたくさん残っているといえるだろう〉
と書きます。
この認識に賛成です。ですが、「三光作戦」関連の日本側将兵からの聞き取り調査中、1人の学者、1人の報道人、1人の研究者にも出会ったことがなく、調査に来た痕跡さえありませんでした。概要は、それぞれの項をご覧ください。
「付 記」
「反日根拠地の掃討作戦」、「遮断壕」、「無住地帯」、それに「中国人強制連行」のそれぞれに日本軍将兵による肯定証言が存在します。ただし、これらが「三光作戦」の一環として行われた、あるいは「三光作戦」そのものだと主張する証言者は、ほぼ「中国(中共)戦犯」に限られていることにご注意ください。
「中国人強制連行」を例にとれば、「中国戦犯」証言が支えます。つまり、中国戦犯証言を除くと日本軍将兵の証言がほとんど無くなるというおかしなことになってきます。
「三光作戦」を肯定する学者、研究者、新聞記者らの取材源は「中国戦犯」の証言に偏りすぎです。このことも、私と出会わなかった一因でしょう。
― 2024年9月 加 筆 ―
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