― これも三光作戦なのだ ―
1941(昭和16)年、北支那方面軍は治安の実態を把握するため担任地域を、「治安地区」「准治安地区」「未治安地区」 と3区分し、傘下の兵団に報告を求めました。区分にあたっては、軍事、政治、経済などにわけ、基準を設けたのはいうまでもありません。
基準要素の一つ、「軍事」から一例をあげれば、
@ 治 安地区・・分隊以下の行動自由。
A 准治安地区・・おおむね中隊単位の兵力が必要で小隊以下の行動は安全ではない。
B 未治安地区・・おおむね大隊以上の兵力をもって、作戦討伐を組織的に継続する要がある。中隊以下の長期行動は危険である。
といった具合です。
1941(昭和16)年7月末、日本軍と中共軍の勢力浸透はおおむね同等で、約10%が治安地区、約10%が中共勢力圏、残る80%が勢力錯綜地帯というのが方面軍が得た結論でした。(以上は防衛研究所戦史部の『北支の治安戦1』より)
このため、日本軍は共産八路軍の勢力を浸透させないため、おおむね「准治安地区」と「未治安地区」との間に「壕」を掘って、自由交通を禁じる策に出ました。この壕が「遮 断 壕」と呼ばれるものです。「遮断壕」を「交通壕」などと呼ぶこともありましたし、壕に通水して「水 壕」とした例もあったそうです。
・ 「ベルリンの壁」と鈴木師団長
河北省東部を担当した第27師団が構築した遮断壕を見てみましょう。
上写真は1942(昭和17)年11月頃のもので、田浦・支那駐屯第1連隊長(右の立ち姿)が視察の際に撮ったものです。
ここまで何度も登場した鈴木啓久・少将(歩兵団長当時)は以下のように書き残しています。
1942(昭和17)年8月、方面軍司令官は27師団に対して、
〈八路軍支配地域と現政権支配地域とを徹底的に隔絶する様27師団に指令し、その隔絶線までも図上に示した。〉
としていることからも、遮断壕構築は方面軍の主導だったことがわかります。
また、遮断壕を「ベルリンの壁」 に見立て、次のようにも記しています。
〈そこで日本軍の支配地区と八路軍の威力の及ぶ地区とを隔絶して治安の確立を図った。
之がため両地区の境界線を定め、此の境界線上に壕を掘り之を厳重に監視し相互の自由交通を禁じた。
即ち、東西ベルリンの壁ならぬ壕が出来たのである。〉
〈此の「遮断壕」に上はば4米、深さ2米以上とし、
之を防護するため2階建ての堅固な望楼を設け、
相互に小銃射撃を以て其の通過を阻止し得る間隔を置いて構築し、
各々県警備隊20数人を配備して守備せしめた。
此の遮断壕の全長は200余粁であって、
万里の長城にあらず「万里の長壕」であった。
此の他、従来の鉄道及主要道路の両側に設けた壕の全長を加えると、
之は正に300粁以上となり望楼の数は万余に及んだ。〉
写真と以上の鈴木師団長の説明から、「遮断壕」についての見当がつくと思います。27師団だけでなく、110師団なども遮断壕構築にあたっていますので、総延長距離ははっきりしませんが、500キロを軽く超えるのかもしれません。
壕はだれが掘るのか、賃金は出ていたのか等々の疑問はありますが、これが、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」三光作戦といえるかどうかは判断できるでしょう。
日本軍の支配地域の住民には各自の写真を添付した「良 民 証」 を持たせ、また、八路軍の出入り、弾薬などの物資持込などの影響を排除するため、「遮断壕」を構築したのですが、どの程度、効果があったのでしょうか。
田副 正信中佐(独歩20大隊長、終戦時大佐)は次のように回想しています。
〈・・ 軍命令により主として、ろ県、臨沂間に遮断壕を構築した。
この壕は匪賊の横断を遮るのが目的で、
道路の一側に沿う幅4米、深さ3米、長さは約80粁に及ぶものである。
この大作業のため、付近の住民の協力を求め、約1ヵ月を費やした。
当初住民約3万人が参加したが、次第に人集めが困難になった。
遮断壕の構築により道路が良好となり、
敵匪の行動が制限され、警備討伐上は非常に有利となった。〉
遮断壕構築を日本軍側から見て、一定の評価を加えた例でしょう。
鈴木中将の回想によると逆の評価です。
〈第一目的である日本軍支配地区と其の他の地域との交通遮断は果たされただろうか?
否であった。そもそも此の壕によって分断された両地域は互に外国ではなく、
而かも昨日まで親しみ合い、物資の交流によって幸福を共にしあった人々である。〉
だから、警備にあたる県警備隊員(現地人)は 「隠密のうちに交通を黙許」するなど便宜をはかっていたといいます。
さらに、27師団が遮断壕を構築した時期(9月上旬〜11月頃)は、ちょうど穀物の収穫期にあたっていました。このため、収穫にあたる男子が狩りだされるため、女子どもが代わって働きますので、相当の減収になったといいます。また、衛生上の問題も起こっています。
賃金が支払われたとの記述が見当たりませんので、住民にとって、とんだ災厄であったことに疑いありません。
私が聞いた話では、構築にあたる住民を何度も見た長尾 次郎(支駐歩1)は、「あたかも雲霞のごとく」とその数の多さを形容していました。ただ、壕の深さについて、2メートル以上もなかった指摘する人が少なくありませんでした。
1943(昭和18)年7月頃、27師団は移駐し、そのあとに警備の任についた独混8旅の関口 務(下士官)は、「遮断壕はすぐに埋められてしまって、役に立ちませんでした」と明言、「三光作戦」との関連では、「何も知らない連中が勝手なことをいっている」と、吐き捨てるように話してくれました。
「遮断壕」は、やはり方面軍のエライ人の思いつき、机上のプランであって、失敗(大失敗?)と見るのが当たっていると思うのですが。
この遮断壕、どう見ても「三光」と関係ないでしょう。どこが、「殺しつくす」作戦だったのでしょう。どこが、「焼きつくす」作戦だったというのですか。また、どこが「奪いつくす」作戦というのですか。本当に何を考えているのか、意図を疑ってしまいます。