―ある「戦犯」の「手記」より―
以下、日本人抑留者が「認罪」に至るまでの経過を記します。
(1) 学習先行組
撫順戦犯管理所は、病室を含めて7棟あり、1棟は16室ほどの小部屋に分かれていました。
抑留者は約17人が1組になってこの小部屋で生活します。部屋ごとに「学習組長」「生活組長」が各1名選出されました。学習組長は資料をもとに同室者に対して講義するなど「学習」の推進役、生活組長は支給品の分配、清掃など身の回りの事柄にあたります。
先に記述したように、朝鮮戦争時、抑留者は呼蘭収容所、ハルビン収容所などに一時、移りましたが、尉官以下が収容された呼蘭収容所では、学習の先行組が選出されました。
尉官以下700人の改造教育にあたった呉 浩然の記録によれば、「調査研究の結果、学習を望んでいた80余名をまず組織し、6つの学習小組班」をつくり、6人の学習組長は「下層階級」を中心にして、国友俊太郎、大河原 孝一、小山 一郎らが選ばれました。
そして総括責任者に国友 俊太郎 が選出されます(国友俊太郎の収容所時代の回想記が中帰連のホームページに、また、著作『洗脳の人生』があります)。
学習組長の学習はレーニンの『 帝国主義論』などの学習資料を回し読みし、その後、「その基本精神をのみこんでから、実際と結びつけて討論」し、解答が見つからないときには管理所側の管理教育課が答えを出す手順を踏んだとのことです。
はやくも成果が現れました。1951(昭和26)年2月、つまり移動後約4ヵ月になりますが、「松川事件」 (東北本線・松川駅付近で起きた死者3人を伴う列車転覆事件。1949=昭和24年8月)で、「鈴木信氏など20人の進歩的労働者を迫害した」 として抑留者7人連名で日本政府に抗議文を出しています。
もちろん、7人に与えられた松川事件にかかわる情報は、中国側の一方的情報に違いなく、「洗脳要件」のひとつ「情報遮断」が行われていたわけです。
もどった撫順戦犯管理所で、この学習先行組80人が「意識的に」各組(小部屋)に分散、配置されました。
(2) ソ連時代とくらべれば
撫順組はソ連抑留を経てきましたので、いやでも両者の「待遇」の差を考えるでしょう。
ソ連抑留の酷さ、つまりノルマによる過酷な長時間労働、極端に少ない食事量(カロリー不足)、人間の食べ物と思えない劣悪な質など、さまざまなことが語りつたえれています。それにくらべれば、中国抑留中「待遇」との差は大きかったといえます。
また、入所してからしばらく、中国側の方針等が定まっていなかったのでしょう。個々に取調べは行われましたが、厳しいものではなかったと聞いています。軽労働はあったものの、「時間を持て余した」という話も出たくらいでした。「水の不便と南京虫には泣かされ」たといいますから、監獄生活が快適であるわけもありませんが。
〈食事は在ソ当時とは違って普通の御飯でした。しかしちょっと淋しかったのは、最初は高粱(コーリャン)、次に粟、2年目頃より漸く米の御飯が与えられ、何れにせよ腹一杯食べられた ということは嬉しいことで、在ソ当時の様に「空腹を抱えて・・」という事はありませんでした。〉
上記は終戦時、下士官だった星野幸作元軍曹が書き残した「中国六年間の生活」 からの引用です。
氏の回顧は抑留生活を知るうえで興味深いものですので、関連ヵ所を引用しながら、「認罪」への道を概観してみます。
(3) 「認罪運動」のはじまり
〈何時の間にか2年余の月日が経ったある日の朝、係員が、
「所長の話があるから全員外にでる様に」と伝えてきた。
屋上で並んで待つこと約十分。やがて所長が中央に用意された一段高い壇上に上り、
「やあ、諸君待たせてしまって申訳ない。皆元気かね。・・諸君の両親や兄弟は諸君の帰りを待っていることでしようね。・・
ところで労働しながら、過去中国でどんな事を、つまり何人中国人民を殺し、どんな風に被害を与えたか、
即ち「焼く」「殺す」「犯す」等々を、何処でどうして行ったかを、
良心的にありのままを書いて出しなさい」
と、通訳が訓示を説明して呉れた。〉
部屋にもどると、鉛筆、ノートの不足分が補充されます。「やっぱり、くるときがきたなあ」と思いながらも、所長の態度から深刻に考えなかったと星野軍曹は書いています。ですが、これが「認罪運動」のはじまりだったというのです。
「焼く」「殺す」「犯す」等に分類して「罪行」を書かせるというのは、書きやすいということもあるのでしょうが、いやでも「三 光」との結びつきを考えさせられます。
(4) そして恫喝
〈入中以来3年後の昭和28(1953)年の確か9月の中旬だったと思うが、
全員屋外整列させられ所長の来場を待った。いやな予感がした。
皆も何やら心配そうな顔である。所長が壇上に立った。
「諸君は中国人民を何だと思っている。中国人民は君達の様な帝国主義思想の持ち主は絶対に許さない。
中国人民は、日本帝国主義軍隊に一貫して斗ってきた。そして勝利したのだ。君達は負けた。
即ち日本帝国主義軍隊は破滅したのだ。にも拘らず、君達は何等思想的には変化を見せず、
帝国主義その儘である。環境を考えろ、環境を!」
と叫ぶように拳を握って、更に言葉を続けた。
「中国人民は君達を招待したのではない。勝手に日本帝国主義者が、
武装して海を渡りわが中国に乱入したのだ。そして我々の同胞を殺し極悪非道の犯行を平気でやって来た。
それは誰だ! お前達ではないか!
その重大な犯罪を中国人民は許すと思うか! 絶対に許さない。
お前達を殺すも生かすも、中国人民の権利であり、自由意志である。 ・・ 」〉
無言のまま部屋に帰ると、数分後、全員が各棟ごとに廊下に集合させられました。
そして、
〈一部の提案から全員の賛成を得、民主委員なるものが誕生し、「認罪運動」を秘めた学習方法が提唱され、統一された具体的方向が決った。
これは皆さんがよくご存知の通りの、在ソ当時の民主運動と殆んど同じ様なものでありましたが、その内容は一歩も二歩も前進したもので、決して生じっかな考えは許されなかったのです。
かつて東郷元帥が「皇国の興廃此の一戦に在り」と言ったそうですが、我々も又「日本の地を2度と踏むも踏めないも、此の認罪運動に在り」といっても過言ではない悲壮な雰囲気でした。〉
この記述から、「認罪運動」を推進する裏側に、常に「2つの態度と2つの道」という選択が抑留者の脳裏につきまとっていたことがわかります。そして「認罪運動」が始まりました。
〈在ソ当時、よくあった批判会は過去のもので、今度目の前にある批判会は、過去旧軍隊当時の出来事、やった事、見た事、聞いた事などの事実の晒しあいでした。・・
毎日毎日幾度となく繰り返されるこの「認罪」、この「反省」、寿命が縮まるとはこの事でしょう。それもその筈、何時自分が槍り玉にあがるか分からないからです。
万遍ともなく繰り返される「学習」「討論」「認罪」、・・〉
こうして数ヵ月が過ぎた日、再度、「供述書」の提出を命ぜられ、紙切れ一枚たりとも残さず提出し全員が屋外に並びます。
「どす黒い日焼けした顔、骨太の体格、血走った目つき、これに金棒を持たせたら閻魔大王にそっくり」の所長が口を開きます。
この所長は時期から考えて孫 明斉と思われます。孫は撫順監獄の開所当時から所長だった人物です。
〈今日の私が閻魔様に見えるか、それとも仏様に見えるか・・どちらに見えるかは君達自身が決めることである。真面目に学習し、真面目に思想改造に努力している者には仏様に見えるだろうし、学習をサボり、まあまあ人並みに机に座り、なんとか人にくっついて行けさえすりゃあ思想改造はどうであろうと、皆と一緒に帰れるンだと考えている者には、閻魔様に見えるだろう。〉
〈認罪とは、素直な気持で自分の罪行を認め、素直に書き出す事であて、決してむづかしい事ではない。
誤魔化そうとする者に限って、むづかしく考える。これは悪質である。
即ち、『焼く』『殺す』『犯す』の重大犯行を、何時、何処で、何を、
誰が、何をしたか、を具体的に供述する事である。
最初は野菜を取りましたとか、豚をとりましたとか、又ちょっと時間が経つと、戦争で弾丸を射ちましたので、
若し当っていれば人を殺したことになりますとか、或は1人殺しましただの、いや2人位だったと思いますだの・・。
君達は中国人民の生命をどう考えているのだ。鉛筆の走り具合で1人が2人になったり、3人が4人になったり、
そうかと思えば忘れましたとか好き勝ってな事を言っている。嘘を言うな嘘を!
残虐非道の人殺しをしていて、忘れましたで済むと思うか?
大虐殺の実行者が、その虐殺を覆いかくし、「葱」だ「豚」だと書き出して、
「私は認罪が終わりました」と知らん顔をしている者もいる。図々しいのも甚だしい。・・ 〉
ここまでお読みになって、抑留者の「証言」つまり、「手記」や「供述書」に書かれた「罪行」(犯罪行為)の信頼度について、どう思われますか。法律論を別にしても、彼らの「証言」は事実である、あるいはほぼ事実を反映したものであるとは、とうてい言えないのではないでしょうか。
むしろ、このような強制下に置かれた「証言」が事実と認めるのは困難で、はっきり言えば、命との引き換え、帰国との引き換えに「言わざるを得なかった、書かざるを得なかった」がゆえに、特段の信ずべき根拠がないかぎり、信じるのはムリと考えるのが常識というものでしょう。
かりに今、日本でこのような「証言」を根拠に裁判に訴えようものなら、訴えた検察側に批判の嵐が起こるのは必至で、法廷の維持などできるわけがありません。
ですが、朝日、NHK以下のメディア、学者らは抑留者の証言を根拠に、日本軍叩きに力を注いだという事実をどう理解すべきなのでしょう。また、国民が同調したことも思い返して欲しいものです。
星野軍曹の話をつづけましょう。
所長はここで、「2、3の比較的真面目に学習した君達の仲間」を紹介するといって壇を下りると、かわって宮崎 弘らが登壇、次々と自らの犯行を告白する演説をはじめました。この演説こそが、抑留者の「坦白」「認罪」の大きな転換点となったのです。
(5) 宮崎中隊長の告白、そして認罪
星野軍曹は、宮崎以下の告白演説にはふれていませんが、この告白が「認罪運動」の成果を収める重要な役割となったのは間違いないところです。
第39師団232連隊の宮崎 弘機関銃中隊中隊長は、部落襲撃にあたって、老人子供を銃剣で刺殺、逃げ遅れた妊婦を裸にして、皆の前で刺殺した、といった猟奇的な行為を、全身を震わせながら告白しました。
さらに第2、第3の宮崎が現れます。宮崎中隊長以下の演説は、抑留者に衝撃をあたえ、一気に動揺がひろがったといいます。当然のことでしょう。
尉官以下の思想改造にあたった呉 浩然(左写真)は、この全員を前にした告白について、次のように書いています。
〈罪行は厳重だが、認罪態度の比較的よい元日本軍中隊長大尉の宮崎 弘に、全所の戦犯の前で、認罪・告白・摘発の模範的発表をさせた。
このように身をもって説く典型的な発言は、強烈な影響力 があり、その他の戦犯の認罪にしっかりした推進作用を引き起こした。〉と。
宮崎中隊長らの演説は「思想改造」が成功を収め、それゆえに管理所側が計画した演出 だったにちがいありません。
星野は以下のように書き残しています。
〈 一体、国に帰れるのか、それとも殺されるのかと不安な空気が部屋中に充満する。
そのうち、手洗水の原液を飲んで自殺する者、便所で自殺する者も出はじめる。
このため、屋外の便所のドアは取り外され、便器の口を木で狭めたりして自殺者の出ないよう措置がこうじられた。
こうした中で多くが末梢神経症にかかり、重症者は小便の出るのもわからない始末であった。
また、記憶にも錯覚が起こってくる。「俗にいう監獄病だよ」と誰かがいう。〉
そして、呉浩然の書くように、以下のような成果が得られたと言うわけです。
〈2ヵ月余りにわたる徹底した、綿密な工作によって、
尉官級以下の日本戦犯は、基本的に自己の犯した重大な罪行を明白に告白し、
また4000余件の摘発資料を書き上げ、上司、あるいは他の者の罪行1万4000余項目を摘発したのである。〉
(6) 免訴、そして釈放
1956(昭和31)年4月25日、全国人民代表大会常務委員会で抑留者の処置が決まりました。この夜、処置の内容が監房内に拡声器でつたえられます。
まず、拘留中の大多数が、程度の差こそあれ、改悛の情を示している事実を考慮した結果、これら戦争犯罪者に対して寛大政策に基づく処理が決定された旨の大枠が説明され、つづいて
〈主要でない日本戦争犯罪者、あるいは改悛の情がわりに著しい日本戦争犯罪者に対しては寛大に処理し、起訴を免除することができる。・・〉
とした放送が終わると、各監房は沸きたち、戦犯たちは涙ながらに声高く 「中華人民共和国万歳」「中国共産党万歳」と叫んだといいます。
こうして、「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」とした「二つの態度と二つの道」が効果を発揮し、「思想改造工作」は成功裏に終わったことになるのでしょう。
そして、1017人(太原関係120名含む)の免訴が決定され、この年に帰国の途に着きました。一方、起訴された45人(満州国高官を含む師団長、旅団長級の高級軍人ほか)は禁固8〜20年の刑が言い渡され、ほとんどは満期前に釈放されています。
説明が前後しますが、このような「認罪」にいたる「思想改造」は、次の3段階を経て達成されたと中国側は説明しています。つまり、「思想改造」の手法というわけでしょう。
第1段階 反省・学習
第2段階 罪行の自白
第3段階 尋 問
(1) 討論を通した誘導
ここで特に問題にしたいのは第2段階です。
撫順戦犯管理所の金 源所長は、次のように説明しています。金所長は上述の孫所長の後継者です。
『帝国主義論』『日本資本主義発達史』などを学習させた第1段階を、「彼らは帝国主義の本質、戦争を発動したその根源、日本軍国主義の中国侵略の罪行を初歩的ながら理解するようになった」と評価。
つづく第2段階は、「学習の反省と深化を基礎にして、彼らに自らの意志で罪を認め、反省を促す指導をすることである」とし、具体的には下記の「テーマ」で、座談形式の討論会を行ったとしています。
「テーマ」というのは、次のとおりです。
@ 誰が君たちを戦争犯罪人の道に押しやったか
A 戦争中の天皇をどのように見るべきか
B 現在の監禁生活を抜け出して新しい人生を始めるには、どうしたらよいか
これらを見れば、中国が期待(要求)する答えは一つしかありません。つまり、「自らの罪行を認め、その責任が天皇にあることを学んだ」ことを表明する以外、どんな回答が可能でしょうか。討論とは名ばかり、明らかに誘導でしょう。
現に中国は、「二つの態度と二つの道」つまり、「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」と散々吹き込んできたのですから、罪を認めないかぎり帰国の望みが絶たれる と抑留者は考えざるを得ません。
しかも坦白(自白)が主体となれば、中国側が納得する内容で「自白・認罪」する以外に、一体、どのような選択が残されているのでしょう。故国への思いがどのように強いものかを考えれば、取りうる道は一つしかないのは明らかです。
この討論会を通じて、「大部分の戦犯は、真面目に認罪、反省の道を進んでこそ、中国人民の寛大な処遇を勝ち取ることができるのだ、ということを認識するようになり、次から次へと多くの罪行を告白するに至った」(金所長)というのも不思議ではありません。
また、呉浩然の記すところによれば、
〈撫順戦犯管理所に拘禁中の700余名の尉官級以下の日本人戦犯、次々に自己の罪を認め、悔悟し始めた。
彼らは自分が進んで犯した重大な罪行だけでなく、同僚や上司の罪行についても大胆に暴露し、摘発した。〉
というのです。
ここで、自己の「自白・認罪」のみならず、同僚、上官などの「罪行」までも暴露する「暴露合戦」のような様相を呈してきていたことが読み取れます。
その結果、以下の“成 果”に結びついたのです。
〈2年から3年の学習と認罪教育を経て、80パーセント以上の尉官級以下の日本人戦犯は、
2980項の罪行を告白し、637件の摘発資料を書き出した。
これは最高検察院が組織した東北工作団の尋問工作によい基礎作りとなった。〉
(2) グル−プ認罪へ
そして個人認罪の段階から、「グループ認罪」へと向かいます。なにせ、中国検察は十分すぎるくらいの「罪行」を手中に収めているのですから。
「グループ認罪」について、「中帰連」の会長職に長くあった富永 正三(39師団232連隊中隊長)は、私との「正論」誌上の論争の中で、次のとおり記していますので、その一部をここに引用します。
なお、富永会長は抑留者の「証言」は「すべて事実」と強調してきたことは、すでに何度か述べたところです。
〈1954年中ごろから進歩分子による自分の犯した犯罪行為の告白 ―これを坦白といった― が始った。それは死刑を覚悟する、勇気の要る行動であった。
やがて中央から派遣された検察官 ―私たちの犯罪に対する豊富な資料を準備していた― の前で、
お互いにその行動を知っている同じ部隊、同じ職場の者、十数名ずつの組を作り、一人ずつ立って坦白を行った。
仲間から「まだかくしている」、「お前の態度には被害者に対して相すまない、という心からの謝罪の気持ちが現れていない」
、「殺される被害者の無念の思いがわかっていない」等々の声が上がった。
何回もやり直し、食事もノドを通らぬ状況もあり、自殺者も出た。内容が検察官の資料と一致し、改悛の情が認められてやっとパスする。〉
「この深刻な、命がけの自己批判と相互批判」が数ヵ月つづき、佐官、将官クラスはそれ以上に時間がかかったといいます。そして、富永は、
〈こうして1955年から56年にかけて、個人差はあれ、ほぼ全員が、
これではどのような刑罰を受けても止むを得ない、むしろ当然である、といった心境になった。
この時期に自分の過去の行動、犯罪行為を反省を込めて綴ったが『三光』にでている手記である。〉
以上は、コレラ菌を撒いて運河を決壊させるなどして、数万人(あるいは20万人)の村民を殺害したとする「手記」は事実無根、と書いた私の論考に対して、富永中帰連会長が「手記」内容は事実であると「反論」してきた一文からの引用です。
富永会長は、上記のように「命がけの自己批判と相互批判」の結果、反省をこめて書いた「手記」が「ウソ」だとは何事かというのですが、このような経過を経てでてきた「手記」「供述書」だからこそ、信頼性に重大な疑問がある、だからこそ「検証」が必要と考えるのが当然と思うのです。この反論をよく読めば、「洗脳」がどのようにして行われたのかをよく示していると思うのですが。
別項、「731部隊とコレラ作戦」は、おそらくこの「グループ認罪」によって導かれた「集団虚偽事件」であったことが証明された唯一の例と思います。どうぞ、お読みになって下さい。
(3) これでも信用するのですか
昭和が去り平成に入ってからですが、金 源所長は抑留者が告白した「罪行」について、日本人の取材に対してこう話しています。もう一度、引用しますのでご覧になってください。
〈あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を惨殺した後、
その肝と脳味噌を食べたのである。
このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は枚挙にいとまがない 〉
撫順戦犯管理所の1職員の言ではありません。金源は日本人が入所以来、日本語通訳として撫順管理所に務め、管理教育科科長などを経て、所長にのぼりつめています。つまり、管理所の最高責任者の話なのです。
だから、「手記」「供述書」あるいは中国側の「被害証言」などを、頭から信じる方がどうかしているのです。真面目に考えるのもアホらしいことですが、こんな話が日本では通用するのですから。
いや「信じていない」「信じているのはごく一部」とお考えになるかもしれませんが、この種の残虐行為を記した「供述書」「手記」などが日本人の歴史イメージ(歴史観)にどれだけ影響力を持ったか、ぜひお考え下さい。
また、日本将兵の猟奇的な残虐行為であふれている『天皇の軍隊』(本多勝一、朝日文庫)が、今なお売られている現実もあわせてお考えいただければと思います。
一言、つけ加えておきます。
日本人が肝臓やら心臓を煮てくったのという類の「証言」が非常に多いのは紛れもない事実です。もちろん、日本にこのような風習はありません。ですが、中国にあることは『食人宴席』(鄭義、光文社)を読めばよくわかります。
遠い昔の話ではありません。文化大革命中に広西省全域に広がった食人事件を記しています。
人体から肝臓を取り出すさいのそのさばき方、とても想像で書けるものではありません。
以上、「洗脳」および「認罪」にいたった経過を記してきました。戦犯(抑留者)証言の信頼性については検証例をお読みのうえご判断ください。