―鈴木師団長が見た実相―
鈴木啓久中将は1940(昭和15)年8月、南京とその周囲一帯を警備地区とする第15師団第67連隊の連隊長(大佐)としてはじめて中国に渡り、ここで13ヵ月間の任務に就きました。
次いで、1941(昭和16)年10月から27師団隷下の第27歩兵団長(少将)として冀東地区(きとう。冀は河北省の古称)の警備にあたりますが、この2年3ヵ月間が苦労した期間であり、記録の中心をなしています(左写真は唐山においた第27歩兵団司令部)。
その後、独立歩兵第4旅団長を経て、新設された117師団長に就任しますが、すぐに終戦を迎えました。したがって、終戦までの約5年間が中国での軍隊生活となります。
鈴木中将が「中北支における剿共戦の実態と教訓」(以下、「剿共戦」)および「第百十七師団長の回想」(以下、「回想記」)の「手記」2編を書き残したことはすでに記述しました。
この記録は手記「剿共戦」の副題にあるように、「中共軍と戦った5年間」ということになります。なお、南京の警備経験もあったわけですが、「南京虐殺」については一言の言及もありません。
簡単に、華北の状況を見ておきます。
日本軍は將介石軍と中共軍(北支・満州では八路軍)の双方を相手に戦っていました。1941(昭和16)年5月にはじまる日本軍の大規模な掃討作戦であった「百号作戦」(中原会戦)の打撃などで、將介石の「直系中央軍」は重慶方面に退きましたが「傍系軍」はいまだ多く、徹底抗日をさけんでいました。
これらの傍系軍を日本軍が駆逐しても、時を移さずその後に中共軍が進出してくるといった具合です。
というのも、日本軍は駆逐した地帯を確保するだけの兵力がなかったからです。
將介石軍を叩くことは中共軍の進出に手をかすという見方は当時からあり、中共軍こそ先に叩くべしという声もあったのです。まれに見る大勝利という「百号作戦」にしても、中共軍の浸透を許すから、という理由で作戦自体に反対の声が方面軍の参謀からもでていたくらいでしたし、戦果をあまり評価しない向きもありました。
というような次第で、鈴木27歩兵団長(少将)の北支時代は「百号作戦」の後になりますので、主敵は共産八路軍ということになります。
支那駐屯歩兵1連隊〜3連隊の3個連隊が少将の配下になりますが、1個連隊が師団直属になったりで、3個連隊を自由に指揮することは少なかったのです。
では、共産軍はどのような軍隊だったのでしょうか。鈴木中将は次のように書き残しました。
〈この共産軍は正規の軍隊、つまり自他共に常時軍隊として現れてくるのではなくて、
或る時は「正規」の軍隊の姿で現れ、或る時は便衣(べんい)に鉄砲といった形で現れ、
或る時は一般住民の姿として存在しているのであって、
今日は部隊をなして現れているかと思うと、明日は全く姿を隠してしまい、
昨日は程遠い処に居るとの情報を得たかと思うと、今日は足下近くから飛び出てくるという始末であって、
数時間も経たない前は全く安全で通った処が、其数時間後には、
雲でも湧き出たようにいつの間にか大軍となって目の前に迫ってくる。〉
記述から明らかなように、共産軍の主な戦法というのは、「ゲリラ戦法」であったことがわかります。
列車妨害、電信柱は切り倒され、電線は持ち去られる。主要な道路に地雷は埋められるといった具合です。
しかも、日本軍にとって一般人との区別がつかない敵と戦うのですから、難しい問題を抱えこむことになります。
討伐行動も中共軍によって常に察知されますので、この敵と戦うには確かな情報をいかに手に入れるかが重要になります。情報の量と質は居住民の協力にかかっていましたので、中共軍を駆逐し、いかに住民を味方につけるかの戦いといってよいのでしょう。つけ加えておきますと、密偵の情報の確度は一般に低く、当てにできなかったようです。
当時、治安の状況に応じて、以下のように地域を分けて対策をとっていました。鈴木中将の記述そのままに書きますが、方面軍の参謀部も同様な分類をしていました。
・ 治 安地区 単独兵でも危険なく行動できると認められる地区
・ 准治安地区 小部隊(分隊程度)が危険なく行動できると認められる地区
・ 未治安地区 中隊以上の部隊でなければ行動に危険を感じる地区
日本側は治安地区に生活必需品や医薬品などを配る、運動会までするといった対策をこうじ、准治安地区を治安地区に引き上げようと図るのですが、時の経過とともに治安地区が准治安地区に、准治安地区が未治安地区へと次第に変貌していったと記しています。
このような状況ですから、情報の質はますます落ち、討伐行動は非効率になっていきます。敵集結との情報を得て出動しても、到着してみれば「もぬけの殻」、といった状態が頻発します。
中将は「空 撃」という言葉を多用してこの状況を説明していますが、北支時代にかぎらず、南京時代にも討伐出動の多くは「空撃」だったとし、カラ振りつづきの実態を説明しています。そして、
〈大部隊を補足することは極めて稀であって、
多くの場合、空撃するのは常〉
〈魯家峪で殲滅したような成果を挙げたのは
全く例外で、其他は殆ど空撃であった。〉
と記します。この「魯家峪」での戦果を「約300殲滅」(「剿共戦」の数字。「回想記」は「200人余り」)とし、このような大戦果は、
〈八路軍と交戦した5年間で只1回のもの〉
であったと書いています。
5年間という長い期間での最大の戦果がこの程度ですから、私たちが持つ戦闘のイメージとは違いすぎるといってよいのではと思います。
ですが、これが実態だったのだと思います。というのも、華北と背中合わせにある熱河省(満州国)でも、同じように八路軍と対峙していたのですが、多くの参戦者から私が聞き取った話と酷似しているからです。
この「魯家峪の戦い」を、中国側は「住民虐殺事件」だとし、引き合いに出してきます。
別項の「鈴木 啓久中将」のなかに記したように、「妊婦の腹を割り・・」といった残虐な罪状が問われていました。この出来事は中将の代表的な「罪行」にあたりますので、別途、取り上げる予定にしています。
中将の「手記」はさらに興味深いことを記しています。
〈だが、討伐はいつも空撃であろうか、
いやそうではなく之は大部隊を以って討伐した場合のことで、
小部隊で出掛けると殆ど補足するのである。
しかし、此の場合には之亦、殆ど例外なく不利な戦斗となるのが多い。〉
というのも、「日本軍が優勢の場合は地下にモグッテ何事もない平穏で、武装部隊などは絶対に居らないように見せあげ、日本軍が著しく劣勢だと見ると、どこから湧いて来たかのように此の平穏な地区に突如として相当有力な部隊が現れる」からだというのです。
日本軍は見えない敵に翻弄される実状がよくわかります。鈴木中将も負傷しています。
そして、初めて目にして驚いたのですが、次のように記しています。
〈全般に公表されることが少ないので、一般からはあまり目に立たないのであるが、
損害を累計すると敵に比して我が方が非常に多いことになるのである。〉
人的損害が中共軍より日本軍の方が非常に大きかったというのは、初めて読みましたし、漠然と考えていた中共戦線との違いに驚いた次第です。でも、こうだったのかもしれないのです。
中国の人的損害「3500万人」、言いもいったりです。