「続」 平 頂 山 事 件

一 守備隊長不在説が「瓦解した」の愚論

― 反証無視の恣意的論法 ―


1 事 件 の 概 要

 すでにお読みいただいたように、1932(昭和7)年9月15日の深夜から翌朝にかけて、いわゆる「反満抗日」勢力が大挙して撫順炭鉱を襲撃。炭鉱職員ら5人を殺害、施設・宿舎などを焼き打ちした後、引き揚げて行きました。
 9月18日、つまり満州事変1周年を前に「抗日勢力」、日本側でいう「匪賊」が決起し、満州各地の日本人居住区を襲撃してくるだろうと予測されていました。満州最大の炭鉱を持つ撫順市も例外ではありませんでした。当時の逼迫した状況、日本側の厳戒ぶりは、現地の日本語新聞 「満洲日報」 を読めばよくわかります。

 撫順に駐留していた守備隊(1個中隊、250名)は、炭鉱に勤務する現地人の部落の住民が匪賊の襲撃に手をかしたという理由で、翌16日の昼頃、近くの窪地に住民を誘導し、ほぼ全員を射殺したうえ、翌日以降に炭鉱防備隊の手で埋めてしまいました。

 その犠牲者数を3000余名と中国は主張していますが、多くの証言、資料から600±200人、つまり約400人〜800人 というのが私の得た結論です。
 なお、600人というのは守備隊員が大雑把ながら数えた人数(複数証言)であり、それに私が200人という誤差を見たものです。

 敗戦後、現地で責任追及の声があがります。ところが、守備隊関係者は四散していたため、事件当時、炭鉱次長であった久保 孚(くぼ・とおる)ら炭鉱人が獄舎につながれます。
 満州で唯一の法廷であった瀋陽裁判で平頂山事件関連で11人が起訴され、うち久保・炭鉱次長をはじめ7人が死刑、4人が無罪 判決となりました。1948(昭和23)年1月のことです。

2 守備隊主力は出動中


 この一連の事件について、私は『追跡 平頂山事件』 (図書出版社、1988)のなかで、以下のように記述しました。

 ・ 襲撃のあった日、川上守備隊長は約120名の守備隊主力を率いて討伐に出動し、撫順を留守にしていたこと。
 ・ 残る約80名が留守隊として撫順の守りについていたこと。
 ・ したがって、襲撃は守備隊長の留守中に起こったわけで、守備隊側にすればウラをかかれ、多分、失策であったと思われること。
 ・ 住民虐殺事件は留守をあずかる井上中尉の独断専行であったことなど。

 もっとも、守備隊長不在説(出動説)は私が最初に言い出したわけではありません。戦後の著作物(複数)に、また事実を知り得る立場にあった数多くの人の証言が、ほぼ例外なく 「不在説=出動説」 であってみれば、それ以外の答えがでてくるわけもありません。

 例えば、江口 圭一 ・元愛知大学教授(故人) は『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(小学館、1982)のなかで、次のように書いています。

〈炭鉱を警備していたのは独立守備隊歩兵第二大隊の第二中隊であったが、
中隊長川上精一大尉は不在だったため、井上清一中尉らが留守をあずかっていた。
・・不覚をとった井上中尉は、ゲリラに通じているとみなした平頂山部落へ部隊を出動させた。〉


 江口教授は川上中隊長を「不在」としていますが、「出動中」とまで踏みこんではいません。ですが、名のある歴史学者が根拠もなく 「不在」 とは書けないでしょうから、関係資・史料を検討したうえでの結論であることは間違いないはずです。

 また、大江 志乃夫 ・元茨城大学教授(当時、故人)から手紙(1989年2月1日付け)がとどきました。要点を書き抜きます。

 〈御著書『平頂山事件』を読ませていただきました。・・御著書でお書きになった結論は、実は私がすでに、『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(1982年9月刊)のなかで公表しております(昨年文庫版発売)。
 この著書は現在まで10万部以上売れていますので、かなりの人が読んでいるものと考えています。
つまり川上精一大尉が事件と無関係であることは、かなり知られているとお考えになってよいかと存じます。
 江口圭一氏の『昭和の歴史4』をお読みいただきながら、私の著書がお目にとまらなかったことを残念に思います。・・〉


 大江教授は1995年、『満州歴史紀行』(立風書房)を出版し、その中で以下のように一歩、踏み込んだ内容を記しています。

〈川上大尉は中隊主力をひきいて他方面に出動中で撫順にいなかった。
もちろん、平頂山の虐殺事件の当日もまだ撫順に帰還していなかった。〉


 ところが、実は守備隊長は撫順にいて、敵襲に対して自ら指揮をとっていた動かぬ証拠が出たというのです。
 したがって、虐殺事件もやはり川上精一大尉(守備隊長)の命令であったとの結論が導かれるという主張です。


3 不在説「瓦解」と井上教授


 「決定的資料を発見した」 と豪語するのは 井上 久士・駿河台大学教授で、「特集 消えない記憶― 平頂山事件 ― 」(『季刊「中帰連」第30号』、2004年9月)に「平頂山事件再考」と題し、「1932年9月15日夜、川上精一大尉は本当に撫順にいなかったのか」 論を展開します。

 ちなみに井上 久士教授は「南京事件」による犠牲者数を「少なくとも10数万人」とする、いわゆる“ 大虐殺派” の1人です。井上教授はまず、

〈筆者は最近、中国・大連図書館で、田辺氏、大江氏、江口氏などの主張する
川上大尉不在説を根底的にくつがえし、住民虐殺を示す、日本側の記録した決定的資料を発見した〉


 とし、撫順で発行されていた日本語新聞「撫順新報」の記事、および日本語雑誌「月刊撫順」の特集記事の2点をあげ、在隊説を展開します。
 これらの記事に、川上守備隊長が撫順にいたことが明記されているというのです。まず、その要点を論文より摘記します。

(1)「撫 順 新 報」より
 「撫順新報」という日本語新聞のあることは承知していました。ただ、国会図書館などにも残ってなく、記述内容を知ったのは小著出版後、大分経ってからのことでした。それが中国・大連の図書館に保存されていたというわけです。

 敵襲のあった翌日、つまり9月16日に「撫順新報」は号 外を出し、そのなかに次の記述があるというのです。

〈右の情報一度至るや守備隊は川上隊長指揮の下に全員出動 、
まず栗家溝の敵と衝突、之を楊柏堡方面に追跡、茲に於て敵は楊柏堡採炭所に據り頑強に我に交戦した。
守備隊は時を移さず之を包囲総攻撃をなし、敵20余名を斃し、
また川上隊長は楊柏堡華工宿舎に東ヶ岡に転戦し敵を四散せしめて午前5時守備隊に引揚げた。〉


 したがって、「川上大尉が中隊主力を率いて外出中であり撫順不在だったとの説は瓦解する」と井上教授は結論づけます。

(2) 「月 刊 撫 順」より
 1932年10月号(10月7日印刷、10日発行)に「防備の辛苦誰か知る」と題し、襲撃についての特集記事が掲載されているといいます。
 この月刊誌があったことは耳にしていましたが見たことはありませんでした。ですから、「新発掘」であるのは間違いないと思います。


 特集記事は井上中尉、 炭鉱の自衛組織である「防備隊」の大橋隊長と土生副隊長、それに山本朝光という防備隊員の4人の話を編集部がまとめたものといいます。

 なお、井上中尉の談話については全文(約2ページ、上画像)が掲載されていますが、他の3人については井上久士教授が引用した部分しかわかりません。
 したがって、井上中尉の談話から川上中隊長に関連する部分を抜き出してみます。

 冒頭に「当守備隊は15日夕方まで何らの情報に接せず、午後7時より8時にかけて各地よりの報告を得たが、これらを総合すると」、敵は東方張家甸子方面に300名、別方面に700名集結、その監視線は厳重を極め、「日本人は勿論、支那人の通行をも厳禁して」いる。西方には約300名集結し、「今夜を期し、八方面より撫順を襲撃せんと称す」とあり、以下の記述につづきます。

〈川上隊長は、直ちに意を決し、防備隊員の招集を命じ 、
春成特務曹長をして、午後8時小銃1ヶ分隊、公安隊30名の1ヶ小隊を指揮せしめた。(一部略)
大橋防備隊長は直ちに所属員の招集を行い、午後10時塔連、新屯、万達屋各方面に配置を完了した。
大橋防備隊長の意見具申に依り、川上隊長は午後11時から12時頃迄、
山砲の威嚇射撃を此の方面に行いたるに効果覿面、・・・  〉


 などとあり、また、終わりは、

〈午前3時頃千金寨、青草匂の両方面に呼子の笛、馬の嘶きしきりに聞え、敵は集結中らしい。
偶々大津上等兵飛んで至り中隊長命令 、「井上小隊、帰れ」と。乃ち兵を集結して黎家溝を後にして引揚げた。
中隊の主力は4時頃華工社宅、東ヶ岡附近一帯の掃蕩を完了して、
楊柏堡にて井上小隊と合し、東天ほのかに白む頃守備隊に凱旋した〉


 と結んでいます。
 上記の井上中尉談話中、「当時守備隊の在営兵力は僅々50余名で、他は全部瀋海線、撫順城方面に出動中にて・・」とありますので、守備隊の大多数が撫順を離れていた ことは、この談話によっても裏づけられます。なお、住民殺害については一言も触れられていません。

 となりますと、「撫順新報」「月刊撫順」を見るかぎり、川上大尉が撫順にいたことは証明されているように見えてしまいます。
 井上中尉が独断で、しかも公の場でウソ発言をするとは考えられませんので、川上大尉「在隊説」は疑いようもないととるのが普通でしょう。

 現に、ここまでお読みになった方のほとんども、「不在説が瓦解した」 と主張する井上教授説に得心したことでしょう。となると、住民虐殺は井上中尉の独断専行という話も怪しくなり、川上大尉の主導であったとする井上教授説に理があると思うはずです。

 では、「不在説」 をとった江口圭一元教授、大江志乃夫元教授、それに私が間違っていたのでしょうか。 問題はここからです。
 事件の起こったこと自体は周知のことですし、だれが指揮していようが大した問題ではないと考える人もいるでしょうが、そうではないのです。

(3) 『平頂山大屠殺惨案始末』・・中国公式記録
 というのは、事件にかかわる中国側調査報告 『平頂山大屠殺惨案始末』(下写真は全30余ページの最初のページ )の信頼性とのかかわりがあるからです。
 この報告書の信頼性は著しく低いと私は断定し、そのように小著にも書きました。

 その理由は数多くあるのですが、川上大尉が出動中だったことが最大の理由でした。
 というのは、調査報告書には川上守備隊長が刑死した久保炭鉱次長らを集めて、全員殺害の「共同謀議」 を主導したとし、その謀議の模様が描写されていたからです。

 となりますと、報告書の信頼性が低いという多くの理由をそっちのけにし、川上大尉の不在説が破綻したという理由だけをもって、「共同謀議」は事実であり、したがって事件は組織的、計画的な日本軍の犯罪であって、『平頂山大屠殺惨案始末』は正確な報告書であるとの主張が幅を利かすことになるでしょう。
 現に、井上久士・駿河台大学教授もそのように主張しています。
 そのうえ、私が手がけたほかの調査も杜撰なものに違いない、などとする批判が、何かにつけて出てくるに相違ありません。

(4) 川上守備隊長と私の関係
 そして、この事件についての新聞報道、著名人や学者の著作が肝心の守備隊側、炭鉱側の調査もなしに、中国のいうがままに書きまくっていることに唖然としたものでした。
 一例をあげれば、日本側のどこを探しても「犠牲者3000人」を裏づける資料、証言はありません。
 ですが、新聞はもちろん、歴史事典、歴史教科書、論文を見てもすべて「3000人」、またNHKテレビの調査報道でも「3000人」と放送する始末。

 私が日本軍・民が犯したとする「残虐事件」の調査活動に入ったキッカケはこの事件でした。
 というのは、私の連れ合いが川上大尉の一人娘だったからです。ただ、この事件に私の義父が関わっていたこと、まして虐殺事件の「首謀者」であったことをまったく知りませんでした。

 たまたま、妻が『もうひとつの満洲』(澤地久枝、文春文庫、1986)を読み、平頂山事件の記述中、『中国の旅』から引用された父親の名と出会ったのです。私も急いで目を通し、「あの事件のことか」と気づかされたのでした。同時に強い違和感を覚えました。1986年秋のことでした。

 1971年、朝日新聞夕刊に連載された「中国の旅」を斜め読みながらも目を通していましたので、薄々ながら事件の概要を記憶していました。ただ、「平頂山事件」という名称まで覚えていなかったのです。

 義父が軍人であったことは承知していましたが、朝日連載には「守備隊長」とあるだけで「川上」の名が記されていないため、気が付きようがなかったのです(単行本、文庫本『中国の旅』は個人名の記載があります)。
 大分前に、「父の留守中に大変なことが起こった」と妻から聞いたことがありました。ただ、平頂山事件の名はもとより、「大変なこと」の中身を妻は知らなかったこともあって、話はそこどまりだったのです。

 事件を知った私は、まだ存命中であった川上夫人、つまり義母に確かめたところ、「お父様の留守中に井上中尉さんが大変ことを起こした・・」と話すだけで、それ以上のことは分かりませんでした。
 『中国の旅』や新聞報道等を読むにつけ、私の聞き知っていた義父のイメージと報じられた首謀者としての義父との差が広がる一方でした。そこで、どのような結論になるにしても調べて見なければと思ったわけです。

 幸い、1986〜87年の時点で、守備隊員の生存が期待できそうだったし、事件を知り得る立場にあった撫順炭鉱の職員も同様と思われたため、「まだ、間に合う」と思いました。実際に、手間はかかりましたが調査の障害は大きくなかったのです。
 炭鉱側からすれば、軍部がしでかした事件のとばっちりで、人望の厚かった久保炭鉱次長(後に炭鉱長)ほか数人を冤罪のために失ったのですから、調査をする私に矛先が向いてもおかしくないと覚悟はしていたのですが、ごく一部を除いてほとんどの炭鉱人からむしろ好意的に受け入れられたのです。

 理由は簡単でした。事件が「守備隊長の討伐中に起こった出来事」というのが、炭鉱職員、撫順在住の日本人の共通認識だったからです。
 ですから、刑死した久保次長の子息、久保寛氏からも協力が得られ、久保次長の残した「申弁書」等の資料も心よく提供されましたし、氏が他界するまで私との文通がつづきました。

・ ウキペディアの匿名制は問題
 話は飛びますが、こうした事件を知りたいとき、多くの人が検索のうえ、ウキペディアの説明を読むことでしょう。
 事件の説明を一見すると、はば広く情報を集めていますが、結論をはじめ誤りも目につき、信頼性に欠けると言わざるをえません。
 この種のテーマでの匿名執筆は問題があると思います。やはり、責任の所在を明らかにするためにも、制度として実名を記すよう定めるべきと思います。匿名による他者批判では反論のしようもありませんので。

4 「不在説」(出動説)に間違いなし


 何かを判断する場合、反対側の見方、主張なりを確かめるべし、という意見に異論をはさむ人はいないでしょう。ここでいう反対側の見方、主張とはもちろん「不在説」を指します。
 調査中、事件を知りうる立場にあった人たちに会い、電話、手紙などで連絡をとりました。

 具体的に言えば、事件に加わった、あるいは事件に加わらないまでも事件当時、守備隊員であった人たち。
 また、炭鉱の守備につき、守備隊とともに敵襲と戦った炭鉱の自衛組織「防備隊」の隊員、さらに炭鉱職員や撫順市に居住していた人たちです。
 ですが、すべてが「不在説」(出動説)なのです。「在隊説」をとる人に出会ったことがありません。

 また、当たりまえのことですが、資料についても調べました。ですが、こちらも「不在説」が多く、「在隊説」ととればとれそうな資料が2点ありました。この2点に、今回の新発見資料2点が、おそらく「在隊説」をとる日本側の資料と思われます。
 以下、資料から1点、守備隊員1人の証言とりあげ、その一部を紹介します。
 ただ、この問題に決着をつけるには、さらに証言、資料を提示し、丁寧な説明が必要すし、新発見資料2点いついても検証が必要になります。となりますと、相当のページ数が必要です。
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@ 「撫 順 秘 話」から
 1953(昭和28)年初版の『秘録 大東亜戦史巻7』(富士書苑)に所収された「撫 順 秘 話」 が、最も早く、かつ詳しいものでしょう。全10巻で構成された『秘録 大東亜戦史』はよく売れたそうで、巻7は「満洲編」 に当たります。また、復刻版もでています。


 筆者の毎日新聞東亜部副参事・上妻 斉 は、「撫順秘話」のほかに、「運命に泣く浩子姫」という長文の作品を書き、この戦史集に収められています。
 まず、「日本が満洲国を承認した昭和7年9月15日の夜半、撫順炭鉱は紅槍会の匪賊に急襲され、2万の邦人は戦慄の坩堝にたたきこまれるという大事件が勃発した」 との書き出しにはじまり、

〈一方当夜の守備隊は隊長のK大尉が、部隊の過半数を率いて他におもむいており、
N中尉が留守部隊長として約80名の兵を指揮し、
一部を守備隊に待機させ一部を古城子、楊柏堡、千金牧場、塔連方面に分散配置していた。・・〉


 とし、守備隊長は過半数の兵力を率いて出動したことを明記しています。
 もう1ヵ所、次の記述が見えます。

〈一方守備隊としてはK大尉が留守で、兵力も少なくなっているのが、なによりも黒星であった。
留守の責任をあずかるN中尉も意外な匪賊の来襲で邦人が殺害され、
莫大な物的損害をあたえられるという不運な立場に立った。〉


 以上のとおり、K大尉が川上大尉を指しているのは明らかでしょう。一方のN中尉ですが、井上中尉ですから「I中尉」とならなければならないところです。おそらく筆者が、まだ生存している可能性が高い井上中尉や両親、家族を慮ってのことではと推測しています。

A Y ・ 関 口の証言・・小著では辻井亮三。6年後期徴集、事件当時2等兵
 事件前の討伐中、敵弾による負傷のため、事件当時、関口は入院していたといいます。
 ですが、事件については以下のような事情で大変に詳しく、私の質問に3回、ていねいに回答を送ってくれました。
 まず、関口は次のように記します。

〈昭和6年徴集兵後期入営、昭和7年6月1日撫順守備隊入隊、同2日入隊式。
総員45名、この主力が9月16日事件の関係者になりました。〉


 つまり、事件に関係したのは、関口と同じ6年後期兵が多かったというのです。
 ということは、撫順守備隊に入隊してわずか3ヵ月余り、第1期の教育(約3ヵ月間)を終えたばかりで、討伐に出ることはまだ少なかったのです。そして、事件関係者は井上中尉率いる重機1ヵ分隊をふくむ初年兵主力40余名であったといいます。

 「右の様な次第で現場に居らなかった私が、同年兵を代表して証言申し上げても、何か物足りなくお考へになるかも存じません。然し、下士官に任官後も昭和11年6月奉天移駐まで撫順に在り、事ある毎に研究の対象となりました 」

 「事ある毎に研究の対象となりました」は、事件について「仲の良い同期兵4人と寄るたびに話しあった」という意味です。関口は事件への参加を余儀なくされた同年兵から直接話を聞いていたのですから、詳しくて当然でしょう。
 そして、以下のように書きます(下写真、1986年7月17日付)。

〈一、 川上中隊長殿は事件当時撫順には所在して居りません
 其の理由
  9月始め頃より、撫順匪襲の情報頻繁となり、
中隊長は各種の情報を判断され敵の企図を破砕すべく、
14日夜隠密裡に中隊主力を率ひ討伐に出発され、
16日にはまだ帰隊されて居りません。
 二、9月16日の謀議事実は右出動の為め有りません。
 (以下、略)〉


 「9月始め頃より」は、行間に書き加えられたもので、この画像ではよく見えません。
 当時、中隊主力の討伐といえば、「約120名」が普通だったとのこと。というのは、中隊本部の2個小隊が出動するからだというのです。

 一方、留守をあずかる守備隊は、井上中尉以下、約80名だったといいます。後藤中尉 は討伐に同行、角田中尉 は別方面(法庫門附近?)に出動中とのこと。
 中隊主力が出動する場合、中隊長が率いるのは当たり前でした。中隊長以外の将校が、特別の事情があれば別でしょうが、主力を指揮することはなかったのです。また、留守隊のなかに、初年兵(6年後期兵)が多かったというのも話の辻つまが合います。

 出動先について、関口は「私の推測」 として、「撫順東南方約20キロ、大東州東社方面。9月8日乗馬斥候が襲撃され、戦死1、負傷2、斥候長の佐藤騎兵軍曹は未だに行方不明 、之が捜索を兼ね、同地は当時撫順近辺の一大勢力匪首の王樹山約300名の根拠地である」としています。

 「佐藤騎兵軍曹の行方不明」 については、「満洲日報」も詳しく報じています。
 このほかの守備隊関係者から多数の話を直接、私は聞いていますし、小著に記してあります。撫順中隊が所属した第2大隊の戦友会にいく度となく出席しましたが、中隊長の撫順留守説以外の話、つまり撫順に在隊していたという話を聞いたことがありません。

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 このほかに、「不在」を記した資料、証言は多数あります。ですが、井上教授論考はこうした資料に言及するでもなく、ほとんど無視しています。不公正なのです。また、私の推定した被害者数400人〜800人を過小評価と断じ、中国と同じ3000人を主張します。ですが、主張の根拠が非論理的で首を傾げてしまいました。
 追 記 山川出版の『日本史小事典』(2016年)に、国際連盟で中国側が主張した「死者700余名、重傷者6、70名、軽傷者約130名」とする数が採られているとのこと。一歩、前進かもしれません。

・ 『レポ−ト「撫順」1932』に見る資料改ざん、証言の捻じ曲げ
 また、井上教授は「在隊説」をとる小林実の『レポ−ト「撫順」1932』(私家版)を引合いに、小林が私の不在説を「批判している」として、教授自らの「在隊説」を補強しています。

 終戦時に撫順中学の生徒であった小林が著すこの書は、資料の改ざん、悪質な証言の捻じ曲げがあり、信頼できる代物ではありません。井上教授が見抜けなかっただけの話です。
 ですが、引用されることが結構多いようですので、今回の電子書籍に〈資料改ざん付き「小林レポート」〉の一項を設けました。ご覧になっていただければと思います。

 また、発見された新資料、「撫順新報」の記事、日本語雑誌「月刊撫順」の検証も必要です。上述したように、そのためには相当のページ数が必要であり、また、記録として残す必要もありますので、上記タイトルの電子書籍としてアマゾンから発行した次第です、価格は200円です(⇒ こちらへ )

 内容は少々硬いかもしれませんが、事件についての知識があまりない方にも分かるように記述したつもりです。また、偽証を崩す「推理もの」として読んでいただいても面白いかもしれません。ご覧いただければ、ありがたく思います。

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