第1審判決を受けて
― 2008年 3月29日付け ―
沖縄戦の集団自決は、旧日本軍の「命令」で行われたのか否か――。
高校日本史教科書の沖縄戦の記述をめぐる教科書検定問題との関連でも注目された判決だった。
集団自決を命じたとの虚偽の記述により名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元将校らが作家の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償などを求める裁判を大阪地裁に起こしていた。
判決は、旧日本軍が集団自決に「深く関与」していたと認定した上で原告の訴えを棄却した。
しかし、「自決命令それ自体まで認定することには躊躇(ちゅうちょ)を禁じ得ない」とし、「命令」についての判断は避けた。
昨年の高校日本史教科書の検定では、例えば「日本軍に集団自決を強制された」との記述が「日本軍の関与のもと、配布された手榴(しゅりゅう)弾などを用いた集団自決に追い込まれた」と改められた。
軍の「強制」の有無については必ずしも明らかではないという状況の下では、断定的な記述は避けるべきだというのが、検定意見が付いた理由だった。
史実の認定をめぐる状況が変わらない以上、「日本軍による集団自決の強制」の記述は認めないという検定意見の立場は、妥当なものということになるだろう。
沖縄の渡嘉敷島と座間味島の集団自決をめぐっては、戦後、長い間、隊長「命令」説が定説となっていた。沖縄の新聞社が沖縄戦を描いた「鉄の暴風」などが根拠とされた。
しかし、渡嘉敷島の集団自決の生存者を取材した作家の曽野綾子氏が1973年に出した著書によって、隊長「命令」説は根拠に乏しいことが明らかになった。
これを受けて家永三郎氏の著書「太平洋戦争」は、86年に渡嘉敷島の隊長命令についての記述を削除している。
座間味島についても、元守備隊長が自決命令はなかったと主張していることを、85年に神戸新聞が報じた。隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったが断られたという女性の証言を盛り込んだ本も、2000年に刊行された。
一方で、日本軍が自決用の手榴弾を配布したとの証言もある。
ただ、集団自決の背景に多かれ少なかれ軍の「関与」があったということ自体を否定する議論は、これまでもない。この裁判でも原告が争っている核心は「命令」の有無である。
原告は控訴する構えだ。上級審での審理を見守りたい。
控訴審判決を受けて
― 2008年11月 1日付け ―
結論は1審判決と変わりはない。しかし、受け止め方によっては、沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述に、新たな混乱をもたらしかねない判決である。
集団自決を命じたと虚偽の記述をされ名誉を傷つけられたとし、旧日本軍の守備隊長だった元少佐らが、作家の大江健三郎氏と岩波書店に出版差し止めと損害賠償を求めた控訴審で、大阪高裁は1審判決を支持し、原告の控訴を棄却する判決を言い渡した。
裁判では、隊長命令説が長い間定説となっていた渡嘉敷島と座間味島の集団自決について、軍命令の有無が争われた。
控訴審判決は、集団自決に日本軍が深く関(かか)わっていることは否定できず、「これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」とした。1審判決にはなかった見解である。
集団自決の背景に軍の「関与」があったこと自体を否定する議論は、これまでもなかった。
昨年春の教科書検定では、沖縄の集団自決に日本軍の「関与」はあったが、「強制」「命令」は明らかでないとする検定意見が付けられた。「関与」と「強制」「命令」を混同した議論など、決してあってはならないことだ。
一方で判決は、隊長が集団自決を命令したという事実の有無については、断定することはできないとした。
渡嘉敷島の集団自決の隊長命令説をめぐっては、生存者を取材した作家の曽野綾子氏が1973年に出した著書によって、その根拠が大きく揺らいだ。
座間味島の守備隊長に、自決用の弾薬をもらいに行って断られたという証言を盛り込んだ本は2000年に刊行されている。
判決は、新資料が出現して、従来の主張の真実性が揺らいだ場合でも、「社会的な許容の限度を超えると判断される」などの要件を満たさなければ、直ちに書籍の出版を継続することが違法になると解するのは妥当でないとした。
公共の利害に深く関わる事柄については、論者が萎縮(いしゅく)することなく、批判と再批判を繰り返していくことが、民主主義社会の存続の基盤だとも指摘した。
「言論の自由」を守るということでは、その通りだ。
しかし、控訴審判決でも日本軍が集団自決を命令したと断定されなかった以上、「軍の強制」といった記述は認めないとする教科書検定意見の立場は、今後も維持されるべきだろう。