― 共通する異様な残虐性 ―
⇒ 731部隊「コレラ菌散布事件」
ある人は手記集『三 光』や『天皇の軍隊』(朝日文庫)等を読んで想像を絶する日本軍将兵の残虐を知り、ある人は抑留者自身が犯したという悪寒を覚える冷酷非道な行為を講演会などで知ったことでしょう。
また学校で教えられ、あるいは抑留者の証言を報じた新聞、テレビなどで知った人も多いはずです。その結果、昭和前期の日本軍および日本の歴史は異常なものであり、嫌悪すべきものと深く心に留めたに違いありません。
こうした役割を果たした抑留者の「証言」を私流に分類すると次の3つになります。
@ 抑留中に書き残した「手記」
A 取り調べの結果、自ら記した「自筆供述書」
B 帰国後に語り、あるいは書籍等に記した「帰国後証言」
彼らの「証言」がその「真実性」ゆえに、私たちの歴史観に影響力を持ち得たのでしょうか。あるいは、「異様な残虐性」ゆえに、センセイショナルな話に飛びつくメディアに取りあげられ、教育現場や家庭に入りこんだ結果だったのでしょうか。
おかしなことに、彼らの証言を丸呑みするばかりで、「検 証」は、ごく一部を除いてまったくといってよいほど行われませんでした。
彼らが帰国するまでの約6年のうち、大部分を過ごした撫順戦犯管理所(=撫順監獄)の金 源 所長は、自らの体験を活字にし、あるいはインタビューを通じていろいろと発言しています。そのうち、2つをお目にかけます。
金 源所長は日本人戦犯が収容された当初の1950=昭和25年6月から、日本語通訳として撫順監獄に勤務し、管理教育科科長、副所長などを経て、所長にまでなった人物です。
ですから6年間をこの管理所にあって抑留者の指導・監督にあたったわけで、彼ら(=日本人戦犯)にとっては忘れられない人物なのです。
まず、金所長の総括とも言えそうな、日本兵の残虐ぶりについて次のように記しています。
〈あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を撲殺した後、その肝と脳味噌を食べたのである。
このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は、枚挙にいとまがない。〉
まずこの発言、信じられますか。中国人を殴り殺して、その肝臓と脳みそを食べたという日本兵がいたことを。しかも、枚挙にいとまがないと形容するほど、同種事例が多数あったことを。
実にばかげた話と思うのですが、抑留者の手記集や、帰国後の証言で成立している『天皇の軍隊』(本多勝一ほか、朝日文庫)等を読んで、日本兵の所業を信じるならば、この金所長の発言は「事実の裏づけがある」ということになるでしょう。
現に、こうした話を信じる日本人が少なくないのですから嫌になります。こちらをご一読のうえ、参考になさってください ⇒凄まじい日本兵の残虐。
また、別のところ(インタビュー)で、金 源所長は抑留者の「思想改造」の過程を説明する下りで、次のように発言しています。
〈罪行は確かな事実のみを記すこと。拡大しても縮小してもいけない、と指導し、
あくまでも本人の自白を尊重して、こちらからこの事件についてどうだ、
こうだということは決して聞きませんでした。〉
金所長にかぎらず、戦犯管理所の職員は異口同音にこのように言います。
となりますと、脳みそをや肝臓を食べるといった人間性の一かけらもない行為は、日本兵自らが進んで自白した、ということになります。
これが事実なら、そこに何かカラクリ、つまり強制や誘導があったと考えるのが常識というものです。
彼らの「手記」「供述書」「帰国後証言」について、「すべてが事実」と富永・中帰連会長は公言します。
・ 「口裏合わせのウソ証言」と中帰連会長
一方の私は、手記や供述書のいくつかを検証、それらが事実無根、虚偽であることを主張しました。
これらに対して富永会長が反論を寄せ、私が会った元日本兵は「口裏を合わせ」てウソの証言をしているのであり、「戦争体験のない田辺氏にはそれが分からない」とし、私の検証報告を全面否定してきたのでした。
富永会長らの主張と私の主張のどちらが正しいのか、その結論をくだすには、検証例をお見せし、その上で読者に判断を委ねるのも、公正な一方法でしょう。
実は、「手記」が書かれるまでの経過、いわばその「内実」を説明した「証言」が存在します。
これを読めば、富永中帰連会長や「手記」を事実として報じたNHK,朝日、毎日等のメディア、それに学者らの主張は根底から覆り、成立する余地などありません。
しかも証言者は同じ「中共戦犯」で将校(終戦時中尉、最終階級はいわゆるポツダム大尉)ですし、中帰連の活動家の一人でしたから。
『生きている戦犯 金井貞直の「認罪」』(歸山則之、芙蓉書房出版、2009)の金井貞直中尉がその将校(59師団110大隊機関銃中隊長、旧姓田村)です。
この書は、中帰連の解散(2002)後、約7年を経て、著者・歸山が金井から直接聞きとった記録で、2段組300ページと長いものです。
ただ、解散後7年も経つだけに、抑留者の高齢化もあって、彼らの「悪行」に対する議論も低調で、世間の関心もうすれていきました。そのためか、あまりこの書が話題にならなかったようです。
「金井さんにとって、話すのを若干、ためらうようなことも聞いてしまったが、それも事実は事実として残しておきたいという意向である」との言を著者は「はじめに」の結びとしています。
一通り目を通しましたが、記述に違和感は少なく、「日本人戦犯」の実像を知るうえでこの書の価値は高いと思いました。
・ 「手記の異様さ」の説明はつきている
まず、「手記」を書く「創作学習」について金井はこう証言します。
「 “創作”とは自己の罪行、
または当局の寛大な処遇に取材し、
小説を書くというものだった」
とし、「手記は小説」だと断じます。
つづけて、こう語ります。
〈 創作の内容は「戦争の残虐性」「平和の欲求」と、「中国人民の寛大処遇」の三つに限られた。
しかも、実録ではなく自分の鬼の姿を“創作”すればよいとされた。
帰国がかかっているなら仕方がない、
みんな競うようにペンをとり、中国共産党の青年なら日本人をこう見るだろう、
八路軍の兵士なら自分をこう見るだろう、などと想像して小説を書いていった。〉
しかも、あらかじめ室長(中国人)に「題と粗筋」を提出、認可を得てから執筆にとりかかります。
毎日書き上げた分を室長や学習委員(選出された日本兵)が検閲、添削の上で各自にもどし、これに「加筆訂正していく」のだというのです。文章の上手い日本人戦犯は何人分もの代筆をこなしていったとも加えます。
また、繰り返し指導されたという「創作学習の根本」を以下のように説明します。
〈日本を侵略国と認めた以上は、
中国人を強く正しく清いものとして描き出し、
日本人はあくまで醜く悪辣に書く、
ということが認罪の正しい態度である。
日本人には一片の良心もあってはならない。〉
さらに、「創作は実際の罪行とは関係ない。事実でなくても、真に迫っていればよい、その気持ちがよく出ていればよいのだ・・」と。
こうして出来上がった「手記」が「すべて事実」であるはずもなく、逆に「おおむね事実」を記した「手記」がいくつも存在しない可能性だって低くはないでしょう。
金井中尉の説明で、「手記」の大部分が日本人の想像を超える「異様な残虐行為」であふれ、また「さも憎々しげにつぶやいた」などと自らを形容する不自然さも氷解します。
ですから、「手記」の事実関係について、ハナから議論の余地などなかったのです。
そして、「鬼畜の姿がよく描かれたとされる優秀作品が選ばれた」のでした。指導員はこれらを出版し、世界に公表するといっていた話も書かれています。
その出版物である『三光』等をわれわれ日本人は信じ込まされ、反省を迫られたのです。
以上は「手記」に関するいわば内輪話ですが、「供述書」についても同様の「指導」「誘導」が行われたと考えるのが理にかなうことでしょう。
金源所長は、平成に入ってからですが、日本人の取材に応じてこう語っています(再掲)。
〈罪行は確かな事実のみを記すこと。
拡大しても縮小してもいけない、と指導し、
あくまでも本人の自白を尊重して、
こちらからこの事件についてどうだ、
こうだ、ということは決して聞きませんでした。〉
(月刊「世界」、1998年5月号)
・ 創刊 季刊誌「中帰連」
『生きている戦犯 金井貞直の「認罪」』刊行の10年ほど前、1997年8月18日付け朝日新聞は、〈「加害ウソ」に反論〉等の見出しを立て、季刊誌「中帰連」の創刊を以下のようにつたえました。
中帰連(富永正三会長、約500人)は、「日本軍の加害行為の証言を残してきたが、最近になって一部の学者らから『証言はウソだ』『自虐的だ』と非難する主張が出てきたため、反論のための出版を決めた」とし、初版2千部が2週間で売り切れ、急きょ2千部増刷するなど反響を呼んでいると報じます。
創刊号には3人の日本兵の加害証言が載り、その一人・植松楢数は八路軍の行方を言わない老いた農民7人の後頭部に短銃を押し当て次々射殺、「心ひそかに喜びさえ感じた」と書いているとし、富永会長は「会員は若くても70歳代半ば。活動力の減衰は否めないが、さらに力を集めて若い世代に先の戦争の真実を語り継ぐ必要性を痛感せずにはいられない」と述べたとあり、中帰連事務局の電話番号を記しています。
毎日新聞も朝日の先をいく1997年6月18日付けで、「好意的な報道」(中帰連)を行い、また岩波の月刊誌「世界」も大きくとりあげました。
朝日、毎日の掲載日以降、しばらくの間、全国からの問い合わせで中帰連事務所の電話が鳴りどおしとのことでした。
農民7人を射殺し、「心ひそかに喜びを感じた」という植松楢数は終戦時、特別警備隊(承徳?)第4大隊情報班憲兵軍曹で、抑留者の一人でした。
植松軍曹は、「生き地獄」(死にきれず悶える人々を焼殺)と題した「手記」を書き、『天皇の軍隊〈中国侵略〉』(中帰連編、日本機関紙出版センター 1988)に収録されました。
朝日が報じた老人7人射殺の話は、この「手記」にあるもので、植松が承徳憲兵隊在籍当時、村々を襲った際の話なのです。村は老人ばかりで、植松らは子供を含む農民「27名」を撃ち殺し、まだ息のあるかれらを焼き殺すという蛮行でした。
この「生き地獄」と題した「手記」も、金井中尉の説明にある「日本人はあくまで醜く悪辣に書く、・・日本人には一片の良心もあってはならない」と繰り返し指導された「創作学習の根本」に忠実に従ったときに、はじめてこうした日本兵の残虐行為が誕生するといってよいのでしょう。
朝日記者は怪しげな「手記」を引用することによって、彼ら日本人戦犯の「証言」に対して疑問を呈する側を批判しているのです。
(注) 熱河省を任地とする承徳憲兵隊にかかわる事件を調べたことがあります。犠牲者4万6千人を出したとする「水泉溝万人坑」でした。小著『「朝日」に貶められた現代史』(1994)に収めてあります。
同憲兵隊の隊員・柴田富士雄は「承徳隊に八年居りましたが、憲兵隊の現地人虐殺など聞いたことがありません」と記すなど、多くの隊員から話をききとりました。
ただし、この調査は、手記「生き地獄」を調べたものではなく、水泉溝万人坑の調査中に得た証言です。この時点で、手記「生き地獄」の存在を知りませんでした。
・ 季刊誌「中帰連」の編集長に
「中帰連」創刊号の企画段階から参加していた金井中尉は、理由はわかりませんが6号(5号?)から編集長を務めました。金井は言います。発行は「新しい歴史教科書をつくる会」に対抗するためだったと。
ただ、「手記」が事実とかけ離れたことを熟知しながら、金井が「つくる会」に対抗する季刊誌の編集長を引き受けたことが分かりにくいのです。編集長就任後も、季刊誌の内容に大きな変化は見えませんし。
金井中尉が「どうしても分かってほしい」とする記述がありますので、そのまま引用します。
〈中帰連を攻撃する側は、「戦犯」の証言は強要されたもの、
洗脳された人間から出されたもの、だから信用できないとしていた。
それは金井さんたちにとって
真実を見ようとしない偏見としか言いようがない。
中国政府が戦犯にとった人道的政策、
その待遇によって自分たちがいかに人間的良心に目覚めたか、
これが分からなければ中帰連を理解することはできないであろう。
金井さんたちは、それだけはどうしても分かってほしいし、
伝えていかなければならないのである。
季刊『中帰連』はそんな思いが込められて発刊されたものである。〉(296ページ)
この主張、首を傾げてしまいます。
虚偽を虚偽と指摘することが、どうして「真実を見ようとしない偏見」という解釈が出るのでしょう。「虚偽」と知りながら認めるでもなく、逆に「すべてが事実」と強弁し、国民に不当な贖罪意識を植え付けたことに、中帰連幹部はまず、向き合うべきでしょう、
そのうえで、抑留者諸氏が中国の「人道的政策」に感謝するのは自由でしょうし、そのことを日本人に訴えること自体、批判する気はありません。
(注) 私が首を傾げた金井中尉の主張は、中尉からすれば矛盾がないのでしょう。「あの老婆の眼差しが忘れられない」としたインタビューに答えた記録が『私たちは中国でしたこと―中国帰還者連絡会の人びと』(星 徹著、緑風出版、2006年増補改訂版)に収められています。興味のある方はご覧ください。矛盾を解く参考になるかもしれません。
なにも学者先生でなくとも、並みの大人なら、これら抑留者証言に少しは疑問を持ってよさそうに思うのです。ですが、実態はフリーパス。朝日、NHK、共同通信、ジャパン・タイムズ など、日本軍といえば悪し様に報道するのを旨とする報道機関の情報源となり、ことごとく事実とし、かつ好意的に報じられたのです。
抑留者によって「語られた事実」は必ずしも「事実に非ず」、あるいはまったくの虚偽と証明するには、ときには細かな資料や証言の提示が必要ですし、説明についても手順を踏む必要があります。
この項では、要点を記すにとどめました。
2014年7月3日、中国中央公文書館は裁判の上、有罪となった「戦犯45人」の供述書を、公式サイトで1日1人の割合での公開を開始しました。北京で記者会見した副館長・李 明華は、公開の理由を次のように説明しています。
〈日本の右翼勢力が種々の悪行などを否定していることに反撃し、
侵略中の反人道的な暴行を暴きだす。〉
そして公開トップの「栄 誉」に輝いたのは陸軍中将・鈴木 啓久(すずき ひらく。終戦時、第117師団長)でした。
いわゆる中国戦犯の総数は1,109人(収容中の死亡者42人等)を数え、大部分が約6年間の収容所(監獄)生活の後、起訴猶予となりました。
罪状が重いとの理由でしょう、軍事法廷に45人が起訴され、いずれも有罪。それぞれ8年〜20年の禁固刑を受けました。
このなかに、鈴木中将を含む3人の師団長(いずれも階級は陸軍中将)、ほかに旅団長数人、それに満州国総務庁長官の武部 六蔵、同次長の古海 忠之らが含まれていました。
ただ、この45人の供述書は今回はじめて公になったわけではありません。
1998年4月5日付け朝日新聞は、この45人の「供述書」を報道写真家(新井 利男)が入手したとし、
〈 行為の「全体像」浮かぶ 〉
などの見出しをつけて大々的に報じたことでした。
新井は入手した供述書を、朝日新聞と共同通信社に持ち込みましたので、ブロック紙、地方紙の多くが報じたようです。全国紙の読売、産経、毎日は報じませんでした。
なぜ今頃になって公開?、と思わないでもありませんが、「供述書」がおよそ信用できないとした検証例が増えたため、黙っているわけにいかないと、中国が反応した結果なら、それはそれでまた意味のあることだと思っています。
鈴木中将については、中将の「手記」2編が残されており、また副官2人、近親者を含む20人近い元部下から話を聞いていますので、ある程度のことはわかっています。
供述書のなかに、婦女を誘拐し「慰安婦」にしたという記述もあり、テれビ朝日は「慰安婦強制連行」として報じましたが、これなどは事実無根です。概略は各項をご覧ください。
なお、45人の自筆供述書は、2014年8月、全11巻(要約英語版1巻)として発行されました。
つづいて、裁判で起訴免除になった1000人余の中から、31人の「自筆供述書」がネット上に公開されました。2015年8月11日から1日1人、連続31日間にわたりました。ただし、全ページではなく、各自とも頭から3分の1程度と思います。
前回の45人と違って、今回は下級将校(中尉や少尉等)が少し、他は下士官(伍長、軍曹、曹長ほか)ですので、各人の「罪 行」も中国兵、農民に対する具体的な残虐行為であふれています。女と見れば見境なく強姦、輪姦、そして殺害も。31人の多くが強姦という破廉恥な罪を自供しています。
また、起訴免除になった800余人の「自筆供述書」が第1巻50冊、第2巻70冊、計120冊、2万6千ページの大著になったとの報道がありました。出版されたのは間違いありませんが、まだ目にする機会がありません。