太田寿男少佐「供述書」

「南京大虐殺」の証拠と大報道


 中国抑留者が残した「供述書」の検証が、ほんの1、2の例を除いて手つかずのままだったと書いてきました。太田寿男少佐(終戦時、中佐)の「供述書」は、この1例にあたるものです。
 1990(平成2)年12月14日付け「毎日新聞」(下の写真)は、

「南京虐殺」の供述書入手
「15万体処理」克明に


 の見出しをつけて、「南京大虐殺」の証拠をスクープしたとばかりに大々的に報じました。

 抑留者について、あるいはどのような経緯で「供述書」が残ったのか、予備知識のないほとんどの読者は、元少佐が自ら記したという供述を読んで、20万人、30万人 という膨大な中国人を殺害したとする「南京大虐殺」を信じたことでしょう。すでに、朝日新聞などから怪しげな報道をさんざん読まされていたこともありますし。
 もっとも、このような内容が記された太田「供述書」のあることは、研究者の間で知られてはいました。

1  太 田「供 述 書」


(1) 報 道 の 概 要
 まず、リードから重要な部分を引用します。

〈・・中国側の好意で毎日新聞社記者がこのほど供述書全文の写しを入手した。
「抗日捕虜及び(中国)住民の死体約7万体を揚子江(長江)に流し、約3万体を焼却した」など
虐殺の“実態”をうかがわせる記述がなされている。
その後の死体処理を人海戦術で行った生々しい描写は日本で初めて紹介されるもの。
「南京大虐殺」の論争に一石を投じる貴重な資料になりそうだ。〉


 「中国側の好意で」の意味するところはお分かりでしょう。毎日新聞なら中国の狙いに沿った記事に仕立ててくれるという思惑(確信)があって、毎日新聞記者に「供述書」を提供したのです。それも「好意で」と恩を着せながらです。


 供述書を手にした毎日記者は一大スクープだとばかりに天にも昇る心地だったことでしょう。
 そして、本文で次のように書きます。

〈供述書は太田寿男・陸軍中佐(終戦時)が
1954年8月3日(57歳)付で書いた「太田寿男罪行総括書」。16行の便せん44ページ。
・・自筆の供述書全文が見つかったことで、死体処理の経緯などがわかり、
旧日本軍の侵略の実態が裏付けられた。〉


 リードでは、「貴重な資料になりそうだ」と断定を避けた表現になっていますが、本文になると「旧日本軍の侵略の実態が裏付けられた」というのですから、文脈から「南京大虐殺」が裏付けられたと断定したことになるでしょう。
 そして、江口 圭一・愛知大学教授は、

〈記載内容は信用できると思う。
こうした資料で、日本が加害者だった“戦争”の姿を明らかにしていくことは、
アジア諸国との国際交流のギャップを埋めるためにも必要なことだ。〉


 とした評価を加えて報道を締めくくっています。江口教授は「大虐殺派」の一人です。
 「供述書」を入手した毎日記者と毎日新聞社の「してやったり」の得意顔が浮ぶようです。記者も毎日新聞社も「供述書」が長期にわたる拘禁下で書かれたものであること、つまり、証拠能力に問題がありそうという常識など、どこかに置き忘れた報道ぶりでした。
 しかもこの記者は、「ある事実を知っていた」にもかかわらす、それを隠してこのような報道をしたことが明らかになっています。

(2) 太田少佐の供述内容
 太田少佐はどのような「供述書」を残したのでしょうか。
 供述の重要部分は要約され、産経新聞(1990年9月4日付)に報じられましたので、引用いたします。 この産経報道が毎日報道より約3ヶ月前であったことにご注意ください。

〈私(太田少佐)は昭和12年12月15日に南京に到着。
16日から18日まで3日間、安達少佐と分担して死体処理を行い、私は1.9万人、
安達少佐は1.6万人の死体をそれぞれ揚子江に投じた。
私が到着するまでの14、15日の2日間はすべて安達少佐が担当し、
6.5万人の死体のうち3.5万人を揚子江に投じ、残り3万人を対岸の浦江まで運び、焼却・埋葬した。
 南京碇泊場司令部が12月14日から18日までの5日間に処理した死体数は10万人に達した。
その中には重傷を負いながら殺された者が2千100人もいた。〉


 素直に読めば、南京碇泊場司令部だけで、捕虜や一般住民の死体が10万人 に達したというのですから、この供述書が大筋で事実と認められるものならば、中国の主張する「南京虐殺30万人説」 の大きな根拠となり、犠牲者数の論争が決着に向けて大きな一歩になるのは疑いありません。

 毎日記事では、(供述書は)「同司令部以外の南京攻略部隊が約5万人の死体を処理したと記述し、同司令部処理分と合わせた約15万人が殺害されたと記している」とあることから、〈 「15万体処理」克明に〉の見出しになったのでしょう。
 ところが、「太田供述書」を根底から覆えす日記が存在していました。

2 太田供述を覆した梶谷日記


(1) 梶谷軍曹「従軍日記」
 南京攻略戦に参戦した梶谷 健郎軍曹の「従軍日記」です。
 1990(平成2)年の春、梶谷は「生きているうちに知っておいてもらいたい」と、この日記を南京事件に詳しい板倉 由明(故人)に託しました。これら日記、写真等は防衛庁防衛研究所戦史部(当時)に寄贈されています。

 板倉由明から「梶谷日記」(左画像)を見せてもらったことがありますが、力強いしっかりした筆致という印象を今もよく憶えています。
 どういうわけか騎兵畑の梶谷が、1937(昭和12)年11月、物資の陸揚げなどを任務とする碇泊場司令部要員として召集されました。日記は1937年11月5日から1938年10月まで書かれているとのことです。

 日記によれば、梶谷軍曹は12月12日午後、先発隊として安達 由巳少佐 とともに無錫(むしゃく)を出発、12月14日正午、中山門より南京城内に入ります。念のために記しておきますと、日本軍の中山門占領は13日の早朝でした。
 そして、城内を通り抜け、14日の午後には下関(シャーカン)変電所を宿舎とします。下関は南京の船着き場として有名なところで、この付近に大量の死体が目撃されていることもあって、南京事件の議論にしばしば顔をだしてきます。

 太田供述との関連でもっとも重要な記述は12月25日 にでてきますので、頭の部分を書き出します。(上画像の上欄が12月25日、下半分が26日です)

朝来寒気殊に甚しきも快晴なり。
正午頃常熟より太田少佐外来る。
津倉、泉原来り久し振りにて歓談す。・・


 太田供述と照らし合わせて見ましょう。
 太田少佐は「12月15日に南京到着。16日から18日まで3日間、安達少佐と分担して死体処理を行い、私は1.9万人、・・」と供述していました。
 ですが、太田少佐が常熟からここ(下関)に到着したのは、12月25日と明記されているのですから、太田少佐の3日間の死体処理はありえないことになります。この頃、太田少佐は常熟付近かそれより遠方にいたことになりますので。
 そして、同司令部による遺体処理について梶谷軍曹は次のように記しています。

〈12月26日・・午后死体清掃の為、苦力40名を指揮し悪臭の中を片附く。
約1千個に及べり。・・〉


 苦力は「クーリー」と読み、現地の労働者を指します。つまり、現地の人を雇って、遺体処理をしたわけです。
 「私が現場責任者となって、日本兵10人、中国人苦力40人とディーゼル機動の船5隻を使い、 12月26日から2日半かけて行った。・・遺体数が10万人なんてとんでもない。」と板倉に梶谷軍曹は話しています。

 また、安達少佐は梶谷軍曹と行動をともにしていますから、14日の遺体処理はまずなく、15日の1日だけで6万5千体を処理するなど物理的に不可能ですし、このような大量の死体処理があれば、当然、梶谷日記に記述があるでしょう。
 さらに、12月17日は日本軍の入城式、18日は方面軍慰霊祭が行われましたので、佐官クラスの将校は出席していたはず、という傍証もあります。あれやこれやで太田供述、とうてい事実を記したものとはいえません。
 もう少し、梶谷日記から別の日を見てみましょう。梶谷が下関に着いた直後の12月16日、17日の2日間の記述です。

 〈12月16日 午前2時頃機関銃の音盛んに聞ゆ。敗残兵約2千名は射殺されたり。揚子江に面する下関に於て行はる。・・
 12月17日 午前1時頃より約1時間に亙りて残兵2千名の射殺あり。親しく之を見る。・・〉

 16日は射殺現場を見たわけではないようですし、2千名という人数の出所について疑問が残ります。17日については明らかに敗残兵殺害を目撃しています。
 この下関の敗残兵の殺害自体は事実であって日本軍の大きな汚点と思います。「南京虐殺」について、私がゼロ説をとらない理由の一つにこの殺害があります。

(2) 毎日報道への大いなる不信
 さきほど、「産経報道が毎日報道より約3ヶ月前であったことにご注意ください」と書きました。
 というのは、3ヵ月前の産経新聞(下画像)の報道は、南京碇泊場前に立つ梶谷軍曹の写真を左に配し、上述の射殺した目撃について「千人単位の銃殺目撃、遺体も処理」と見出しに立て、同時に梶谷日記を引きながら太田「供述書」に強い疑問を投げかけたものだったからです。


 では、毎日記者やデスクは産経新聞の記事を知らずに書き、OKを出したのでしょうか。
 また、江口圭一教授はいかなる根拠をもって、「記載内容は信用できると思う。・・」とコメントしたのでしょうか。
 驚くべきことに、毎日は、

梶谷日記を知っていたばかりでなく、
江口教授のコメントを正確につたえなかった、というより逆の作文


 を書いて報じたのです。
 信じられないという方もおいででしょう。ですが、間違いのない事実です。
 この問題を追求した板倉は、著作『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会、1999年)のなかで、江口教授の竹田・毎日記者に宛てた書簡(1990年12月16日付け)を公表しています。
 それによれば、江口書簡は毎日報道後のもので、

〈 ・・いずれにせよ、梶谷日記は『太田供述書』の信ぴょう性を疑わせるに足る内容を持っています。
それだけに、梶谷日記にまったく触れない今回の記事は
はなはだ説得力に欠けると申上げざるをえません。〉


 などと、梶谷日記を故意に落とした竹田記者に苦言を呈したものでした。
 また、江口教授は、「新聞のコメントが記者の作文であり、しばしばコメンテイターの本意を満足に伝えていない、ということは、恐らく御体験のことと思いますが、今回の件はその一典型に該当するもので、私のコメントそのものについてはその種のものとして御理解下さいますようお願いいたします。」

 とした手紙を板倉に送っています。

・ 毎日との抗議やりとり
 板倉由明と記事を書いた石川水穂・産経記者が毎日新聞社を訪れ、江口書簡を示しながら抗議を行っていますが、そのときのやりとりも同書にでていますので、全文を引用しておきます。
 なお、毎日側は小原 博人・地方部出稿デスク(デスクは次長クラス)です。

板 倉 抗議してから半年になるのに一向に誠意が見られないが、記事の狙いは。

小 原 確かに長い。記事の目的は大量虐殺を補足・補完する、価値ある事実の紹介である。戦後教育を受けたデスクには、小中学校での南京大虐殺の共通認識がある。

板 倉 毎日新聞社では、自白と物証のどちらを信用するか。

小 原 自白と物証が一致しない場合は検証が必要である。日記を検証したか。

板 倉 もちろん、1次史料と矛盾しないことは検証した。では、江口教授も無条件に信用できないと言うのを記事にする以上、毎日新聞社も供述書を検証したと思うがその資料は。

小 原 中国がそう言うから。

板 倉 正しいと判定する主体は中国なのか、毎日新聞社なのか。

小 原 正しい、ではなく信用したのだ。

板 倉 信用した客観的理由は。

小 原 @中国は日本軍にやられた、といっている。A東京裁判判決が20万人以上、埋葬数15万以上、オーダーが合っているので信用した。現在も信用している。

板 倉 原稿にあった梶谷日記がなぜ記事から消えたのか。

小 原 消えたのではなく、最初から無かった。9月の原稿(江口教授が10月10日に見た原稿)は「差し止め」ではなく「差し戻し」「書き直し」であった。12月に来た原稿には梶谷日記は無かった。デスクは前の人と違っていたので、疑問を持たなかった。

板 倉 調べてもらいたいこと。A 江口談話が変わったいきさつ。B 梶谷日記の落ちた原因。C 太田供述書と梶谷日記の現在の評価。

小 原 こちらとしてもやりたい。
板 倉 竹田記者は10月の江口談話で、供述書があてにならないことを承知していたはずだが、なぜ正反対の江口コメントが出たのか。改めて正しい江口コメントを載せるか。

小 原 江口氏と竹田記者との間には折り合いがついているので、その必要は無い。
 ここで石川記者(注、同席した産経記者)も「折り合い」に強く抗議。ついに静岡支局との連絡簿を出す。

小 原 この通り江口氏とのやり取りは知らなかった。梶谷日記については何らかの形で記事にする。ただし、間違っていた、という記事にはできない。

 このやりとり、どうお読みになりましたか。読者などはそっちのけ、理屈も何もあったものではありません。
 新聞記者の事実認識のお粗末さ、この手の言い逃れ、無責任さは、報道機関がとかく非難の対象とする官庁のお役人のそれとかなり共通点があると思います。
 こと南京事件にかぎらず、報道人が持つ旧日本軍への先入観はどうにもならないレベルにあって、処置なしとも思えるのですが。

 毎日は1991年7月10日夕刊の〈 取材帳から/『南京虐殺』の真相〉に、「衝撃的な記録映画の証言/規模、総数なお論争」という記事の一部として以下のように載せたということです。
 全文95行のうち32行がこの問題にあてられ、太田少佐の遺体処理供述に触れた後、

 〈これに対し、「偕行社」の高橋登志郎『南京戦史』編集委員会代表は、
@ 拷問も考えられる捕虜収容所で供述
A 太田少佐と同じ部隊にいて死体処理を指揮した梶谷軍曹の日記では約千体を処理したとしている
B 太田少佐が死体を処理したと供述している期間に、同少佐が南京にいたことも死体を処理したことも梶谷日記には書かれていない
 ―などを理由に「やってもいないことを書かされたのでは」と信頼しがたいと主張している。〉

 もちろん、小原デスクの言明通り、間違いを認めず、したがって読者への「お詫び」もありませんでした。


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