労 工 狩 り

中国人強制連行
― 8千人強制連行証言ほか ―
⇒ 東部ニューギニアの強姦・殺害



1 朝日が報じた小島中尉の強制連行


 まず、下の新聞切り抜きをご覧ください。
 1993(平成5)年7月15日付け「朝日新聞」で、見出しは次のとおりです。

「私は中国人を強制連行した」
元機関銃中隊長 しょく罪・告白の行脚 



 6段扱いの記事ですから、実際の紙面では非常に大きなスペースとなり、嫌でも目に飛び込んできます。
 それに「私は中国人を強制連行した」との4段見出しとなれば、一目見て「あゝ、またか」と読者は思ったでしょう。

 記事中の立ち姿の写真は、北京の 「中国人民抗日戦争記念館」で聴衆を前に謝罪する機関銃中隊の中隊長・小島 隆男中尉です。
 元機関銃中隊長とあるのはその通りで、強制連行を実行したとする時は、第59師団・独立歩兵第44大隊の機関銃中隊の中隊長(中尉)でした。
 第59師団は約260人という最大の中国抑留者(中国戦犯)を出した師団で、小島中尉も戦犯の一人だったのです。
 見出しにつづくリードは次のようになっています。

〈「私は山東省で、中国の人たちを強制連行しました」。
戦時中に日本に連行されて死んだ人の遺族や生存者を前に、
今月初め北京で、一人の日本人が頭を下げた。
「ウサギ狩り」「労工狩り」と呼ばれた
強制連行作戦の一員として、
かつて村を包囲し、機関銃で撃ちまくった。
「本来なら生きて帰れぬ罪を犯しております」。
謝りおおせるものではないけれど、
気持ちを伝え戦争を語っていくしかないと、
近年、被害者たちに向き合っている。〉


2 「労工狩り」「ウサギ狩り」って何?


 記事は「労工狩り」「ウサギ狩り」の中身について次のように書いてあります。

 〈「1942年、第12軍が、日本に労働力として中国人を送るため、どうやったらたくさん捕まえられるか研究し訓練した。そこに私はいました。
 半径16キロの包囲網を作り、それをだんだん縮め、機関銃などで撃って追い込んで捕まえようと決めたのです」。・・缶をたたいてウサギを追い詰める方法を応用したことから、「ウサギ狩り」と呼ばれた。
 大勢に囲まれたと見せかけるため、日の丸の旗を大きく掲げた。まず、脅かすために機関銃を撃ち、逃げた者をさらに狙い撃つのが小島さんの役割だった。
 捕まえた人たちの中から、憲兵が働けそうな男を選び、後手に縛って数珠つなぎにした。・・〉


 この「労工狩り」「ウサギ狩り」の話、少し考えれば変だと思うはずなのです。だって、おかしくありませんか。
 相手は田畑にいる武器を持たない農民ですよ。その農民を捕まえるのに、なんで機関銃を撃つ必要がありますか。第一、機関銃は重く、軽機関銃でも10キロ前後、重機関銃となれば50キロ以上、こんなものを携えて、手ぶらの農民を追いかけ、捕まえるのですか。また、日本軍にとって弾丸は貴重品、映画にでてくるアメリカ軍とわけがちがうのです。

 それに、半径16キロなら直径32キロの包囲網、どれだけの兵力が必要だと思いますか。別のところでは飛行機まで飛ばしたと小島は話しています。実はこの話しの出所、おおよそ分かっているのです。
 しかし、ほとんどの読者は記事を頭から信じて冷酷非道な日本軍という印象を脳裏に刻み込んだことでしょう。
 ただ、読者が信じておかしくない背景はあったのです。この記事のでた1993(平成5)年7月前後の新聞、テレビといえば、明けても暮れても「従軍慰安婦」報道であふれかえり、強制連行、強制連行と騒がれました。また、小島中尉の「しょく罪、告白」報道はこの一回だけでなく、いく度となく朝日新聞は報じましたから。

 河野 洋平・内閣官房長官が真面目くさった顔で「朝鮮人慰安婦の強制連行」を認める談話を発表したのは直後の8月4日でした。慰安婦のいうがまま、日本側の裏づけを取らなかった、取ろうともしなかった、そして認めてしまったという過程を知っている日本人は、この頃はごく少数でしたでしょう。
 また、NHKの手で発見された中国人連行に関するいわゆる「外務省報告書」について、放送された時期とも重なります。

 強制連行にかぎらず、日本軍による「悪行」といえば、報道のたびに「またか」と嫌悪感を持つものの、それらが事実かどうか、検証されたものかどうか、といった基本的な問題に思いが浮かばないよう私たちは習慣づけられてしまったのかもしれません。
 そして、報道と一緒になって眉をひそめ、日本軍非難の合唱をする、これが大方の日本人の行動パターンとなったのでしょう。

3 小島中尉、「8000人強制連行」をアッサリ撤回


 小島中尉は1994(平成6)年1月、秋田テレビにも出演し、中隊長として作戦に加わり、「8000人強制連行」を実施したと証言しました。
 この放送は日本テレビ系列で全国に放送されました。また、放送は秋田教職員組合の手でビデオ化され、秋田県下の全中学校に配られましたので、歴史教育に利用されるなど、大きな影響がでたものと思います。

 「労工狩り」(=うさぎ狩り)については、別項「労工狩り 10余人の証言」をご覧いただくことにして、ここでは「8000人強制連行」証言について記すことにします。

・ 戦友会反発
 第59師団は8個の独立歩兵大隊を基幹に編成されていました。小島隆男中尉の所属していた独歩(どっぽ)44大隊の戦友会に調査協力を依頼したところ、会をあげて熱心に協力してくれました。非常に珍しいことなのです。

 戦友会の千葉 信一会長は小島中尉と盛岡予備士官学校の同期生(5期)で、ほぼ同時に2人は中尉に昇進しています。小島中尉が「8000人強制連行」に加わったとする機関銃中隊中隊長の時期、千葉会長は同じ独歩44大隊の歩兵第2中隊の中隊長だったのです。しかも、戦後も小島中尉夫人を含めた交流の時期がありましたので、2人はお互いをよく知っていたわけです。

 ところが、千葉中尉は「労工狩り、ウサギ狩りなど知らない」というのです。また、小島中尉の部下だった内田行男軍曹も「ウソ話だ」と断言しますし、肯定する人は一人も見当たらないのです。
 経緯は略しますが、千葉会長の努力で、小島中尉側の3人と千葉会長を含めた戦友会側5人との間で会合が持たれました。小島側の同席者2人は、いずれも「中帰連」の会員、独歩44大隊の兵士でした。この会合に、小島中尉の直属の部下であった金子 安次も小島側の一員として参加する予定でしたが、当日になって体調が悪いとのことで、参加しませんでした。
 強制連行に関する千葉会長と小島中尉のやりとりは次のとおりです。

会 長 8000人の強制連行が中隊長のときとあるが、そのようなことを私は知らないが。
中 尉 それは44大隊のときではなく、12軍の予備隊付きで勤務したときの話である。
会 長 それではウソではないか。
中 尉 ・・・。
会 長 8000人を捕らえたというが本当か。
中 尉 いろいろ特殊な作戦が12軍の直轄予備隊で行われた。連行作戦もあったのだ。ただ、自分が8000人捕まえたものではなく、12軍が情報で流したもので私は確認していない。どこへ送られたかも知らない。
会 長 80人の間違いではないか
中 尉 あちこちでこれらの行動を話しているうちに、マスコミなどで数字が変わったような気がする。


 このやりとりの間、小島側の出席者の一人は「そんな大きなことをいうからだ」と小島中尉をたしなめる場面もありました。
 小島は「これらの問題の批判追及はいくら受けてもよい。それ以上に是非、承知して貰いたいことがある」とし、抑留中の中国の指導に心から感謝し、今後とも日中友好に全身で当たっていきたい、などと熱弁を振るったと戦友会側の出席者は話しています。

 以上のことを、少し詳しく月刊誌「正論」に書き、また産経新聞でかなり大きく報じられました。8000人強制連行証言が虚偽とわかったのですから、大きく報じても不思議はないでしょう。もっとも、報じたのは産経新聞だけでしたが。
 このときも、当然のごとく、朝日新聞は独歩44大隊側のだれ一人として調べることもなく、知らん振りをつづけたのです。

報道責任なんてどこ吹く風。
新聞倫理綱領でも読んで報道機関として
自分の罪の深さを自問すべし。


 などという元気も起こりません。

4 裏付けを怠るからこうなる


 「40数年間に延べ4000人から聞き取り調査を行ってきた」とするノンフィクション作家・保阪正康の著作『戦場体験者 沈黙の記録』(2015年刊)があります。
 このなかに、小島隆男中尉の強制連行の「証言」が以下のごとく紹介されています(102ページ)。

〈中帰連の埼玉支部で活動を続けていたK氏は、東京外語出身の学徒兵であったが、昭和十九年、二十年初めに
中国の東北地方で強制連行のために中国人青年の「狩り」を行ったことを克明に証言している。
K氏によると、この作戦は「うさぎ狩り」といわれていて、・・・ 〉



 「K」氏が、小島隆男中尉に間違いありません。
 小島中尉(最終階級は大尉)が東京外語(現在の東京外国語大学)出身とあるのはその通りで、ロシア語が専攻でした。また、埼玉県に居住、中帰連の役員(反戦平和部部長)として活動していたことも間違いありません。
 小島中尉は自らの意思でNHKテレビ等に出演、また大阪を含む全国各地で講演するなど、積極的に「日本軍の悪行」を糾弾しつづけました。ですから、匿名にする理由があるとは思えません。

 この種の内容を語る証言者は特別の事情がない限り、名前を明らかにすべきです。さもないと、他の人が証言が事実かどうかの検証ができないからです。
 そこで、小島証言が事実かどうかですが。
 保阪は「K氏に話を聞いたのは1990年代の初めのこと」としていますので、上記の朝日報道や「8000人強制連行」証言より前に話を聞いたはずです。
 保阪はこうも記します。

〈K氏は自らも加わった「うさぎ狩り」作戦に、戦時下では何の疑問も持たなかった。
旧満州国の農村地帯を取り囲んでそこで村の人びとを追いだしていき、
その中から日本に強制連行する青年たちを選びだすことを罪悪とは思わなかったと証言している。
とにかく自分達の部隊に課せられた人員を確保することにのみ頭がいっていたという。〉


 ここまでに引用したわずかな行数の「証言」が、はからずも小島中尉の虚偽を証明しているのです。というのも、小島中尉の軍歴が、証言が「真っ赤なウソ」と語っているからです。
 結論を先に記せば、小島証言の満州(引用文にゴジック)における「うさぎ狩り」なる強制連行はありえず、明白な虚偽なのです。
 そこで、必要な軍歴を記します。

 小島中尉所属の第59師団は、1942(昭和17)年4月、独立混成第10旅団を基幹に山東省の省都・済南に新設されました。新設とともに小島は32師団から59師団独歩43大隊・機関銃中隊に配属され、ただちに第12軍司令部勤務(済南)となります。
 ここで、各部隊から集めた直轄予備隊(250名からなる混成中隊)の機関銃小隊に少尉として任務に就きます。
 その後、59師団にもどり、独歩44大隊(大隊本部・臨清)機関銃中隊の小隊長に(正確な時期?)。1944年2月、中尉昇進とともに同中隊の中隊長に就任しました。

 終戦直前の1945年4月、師団は北朝鮮に転進、咸興(かんきょう)で終戦を迎えました。小島中尉は師団の転進とは別に1945年5月、関東軍司令部(新京)に転属となります。
 ここでの任務は小島自身が説明する〈特殊情報部隊でのソ連軍の「暗号解読」〉で、転属理由は「ロシア語の習得」にあったのです。

 (注)関東軍司令部における「暗号解読」任務について、より詳しくお知りになりたい方は、小島中尉の手記「『精鋭』軍の末路」(『天皇の軍隊〈中国侵略〉』所収、中帰連編著、日本機関紙出版センター)をお読みください。

 したがって、軍歴が示すように小島中尉の満州勤務は、1945年5月から終戦までの約3ヵ月間だけですから、小島証言の「昭和十九年、二十年初めに中国の東北地方で強制連行」はありえないのです。
 それに、昭和19年初めから20年の5月まで、独歩44大隊機関銃中隊の中隊長であったことに間違いありません。

 したがって、満州での「うさぎ狩り」と両立しようがありません。それに、「うさぎ狩り」などやろうにも、引き連れる部下がいるはずもありません、なにせ「暗号解読」という屋内での「特殊任務」だったのですから。
 ですから、満州における「うさぎ狩り」はホラと断定できるのです。証言の裏付けを取らずに書くから、見え透いた虚偽が事実となって拡散してしまうのです。

 このほかにも、保阪は「平頂山事件」について記していますが、間違いが目につき、ノンフィクションならぬフィクションの世界に見えてしまいます。これも、訪中時に聞いたままを裏付けなしに書いたがためでしょう。
 このホームページの「731部隊コレラ菌散布事件」をご覧になってください⇒ こちら。裏づけのない「証言」はいかに危険であるかが分かると思いますので。

 保阪はまた、「戦争の真実を語り継ぐ」のタイトルのもとに発行された季刊誌『中帰連』を紹介し、富永正三中帰連会長が書いた「発刊の趣旨」全文を紹介しています。
 「もとより私はこの趣旨に全面的に賛成するわけではなく、かつ共鳴しているわけでもない」と断っているものの、「季刊の趣旨」には「『自由主義史観』を提唱する藤岡信勝一派は、従軍慰安婦問題を教科書から削除する運動を始め・・」、あるいは「(中帰連の)出版物である『三光』その他を『自虐史観』の根源とみなし、『三光政策はなかった』・『彼らの証言は脅迫によるものでウソである』などと主張しています。」等の記述があります。

 保阪はこれらを受けてこう記します。
 「彼らは何を次代に伝えようとしているか、そのことについてきわめて歴史的意味のある証言を行うだけでなく、重要な文書や資料を紹介している。私はまずその労を多とすべきと考えているのである」
 ですがね、「虚偽」「誇大」に記された文書や証言は資料とは呼べないと私は思うのですが。
 

5 宣伝に一役買ったNHK


 中国抑留者(=中国戦犯)と彼らで組織された「中帰連」(中国帰還者連絡会)の存在が広く知られるようになったのは、1989(平成1)年8月15日に放送されたNHKの〈“戦犯たちの告白” 撫順、太原戦犯管理所1062人の手記〉が始まりだったと思います。


 この番組は12%の高視聴率をとり、再放送、再々放送されましたので、延べにすれば約1000万人が見たことになるでしょう。
 この番組がキッカケとなって、中帰連に対して新聞・テレビなどのメディアから数多くの取材申し入れがあり、また講演依頼も多くなったといいます。事実、彼らによる多くの証言がメディアに登場するようになりました。
 メディアにとって中帰連は日本軍叩きの重要な取材源となったわけで、学者、研究者らにとっても彼らの証言の重要さが一層、増したに違いありません。

 また、中帰連がメディア対策(利用)に力を入れたのは事実で、1990(平成2)年3月、今まであった「反戦平和部」を強化し、メディアの取材に積極的に協力する態勢を整えたのもこの番組が契機でした。この反戦平和部の長が小島 隆男中尉です。


 小島中尉の講演、取材に応じるなどの「活躍ぶり」は、おそらく抑留者のなかで5本の指に入ることでしょう。
 左写真は番組に登場した小島中尉(終戦時は大尉)で、

〈当時、私は懸賞金がついていたでしょう、おそらく。
小島中尉を捕まえればどうだ、殺せばどうだという
懸賞金がつけられていたと思いますよ。
いわゆる日本軍の鬼の典型だったわけですよ。大変な私には重荷なんですよ。
(中国に)行ったら土下座して誤るほかないと思いますよ。〉


 などと語り、自らを懸賞金がつくほどの「鬼の中隊長」だったとしています。
 番組では小島中尉、金子 安次ら数名が山東省の臨清に出向く場面がでてきます。
 別項に報告したように、臨清は独歩44大隊の駐留地で、小島中尉ら10余人が証言する「堤防決壊事件」「731部隊コレラ事件」の“発生現場”です。
 なにせ2万人以上、あるいは20万人以上の農民を殺害したというのですから、農民の前で土下座して謝罪するのかと思いましたが、一向にその様子はありませんでした。


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