誤 魔 化 さ れ な い で !

朝日・狡猾な記事取消し釈明 2

― われわれに着せた濡れ衣を晴らすのが朝日の責任 ―
⇒ 問われるべきNHK



 次に事実関係が簡単にわかる4番目の〈「挺 身 隊」との混同〉を見ておきます。

2 「挺身隊」誤用、釈明のウソ

・ 国民を愚弄する「言い訳」

 朝日はこれまで、女子挺身隊=慰安婦として、報道しつづけてきました。
 そのため、子供までもが慰安婦として連行され、日本兵の慰み者になったという話が国連をはじめ海外につたわり、間違いのない事実として取り上げられました。
 その結果、国連の決議、米下院における対日非難決議やら、米各地に少女の慰安婦像や碑が建てられる始末となったのです。


 朝日は 〈 当時は研究が乏しく同一視 〉との見出しで、こう釈明しました。

〈女子挺身隊は、
戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、
慰安婦とはまったく別です。
当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、
記者が参考にした資料などにも
慰安婦と挺身隊の混同が見られたことから、誤用しました。〉


 お読みのように、女子挺身隊と慰安婦とは関係なく、まったくの別物と認めています。これまでずっと、女子挺身隊=従軍慰安婦として報じてきたのを、誤用であったと修正したわけです。
 これを読んだ少なからぬ人が、新聞社、記者にだって間違いはある、慰安婦と挺身隊を間違えたからといって、そう大した問題ではないと思ったことでしょう。とくに朝日読者はそう思い、逆に間違いを認めているのは流石だ、良心的であるとさえ思ったかもしれません。
 でもそれは、とんでもない誤りです。問題とすべきは、そんな情緒的な一般論で片づけて済むささいな問題ではありません。

(1) 認めるまで22年間

 1992(平成4年)1月11日付け朝日新聞は1面トップに、「慰安所 軍関与示す資料」「政府見解揺らぐ」などとした見出しを立て、大々的に報じました。この報道は、何かにつけ引用されるよく知られたものです。


 というのは、 宮沢 喜一首相の訪韓直前に報じられましたので、朝日はわざとこの日を選んだのだろう、そのために宮沢首相は8回も韓国大統領に謝罪する羽目になったなど、報道内容とともに何かにつけ非難されたものだからです。
 このなかに(画像右下の端)、慰安婦の解説がでています。全文をお目にかけます。

〈1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、
反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。
元軍人や軍医などによると、開設当初から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。
太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。
その人数は 8万とも20万人ともいわれる。〉


・ 女子挺身隊=慰安婦=強制連行
 この説明文が1992年以来の朝日の見解でした。つまり、女子挺身隊=慰安婦 というだけでなく、彼女らは強制連行され、その数も8万〜20万人にのぼったというわけです。
 ですが、この説明、当初から間違いを指摘する声が大きかったにもかかわらず、これを一切無視、今回の取消しに至るまで、なんだかんだと理屈をつけて強弁しつづけたのです。

 この説明文は、NHKを含む他の報道機関や学者らの論文、教科書、辞書に影響をあたえ、慰安婦=強制連行説の確たる証拠としてあつかわれました。もちろん、韓国のメディアがこれに飛びつかないわけがありません。
 ですがこの間違い、簡単に分かることなのです。でも、朝日は22年間、多くの指摘があったにもかかわらず、頑として間違いを認めませんでした。
   その結果、アメリカに建った慰安婦像の説明にも次のように書かれています。朝日見解とほほ同じ内容です。

 In memory of more than 200,000 Asian and Dutch women
who were removed from thire homes in Korea,China,Taiwan,Japan,
the Philippines,Thailand,Vietnam,Malaysia,
East Timor and Indonesia,
to be coerced into sexual slavery by the imperial Armed Forces of Japan
between 1923 and 1945.


(2) ウソつけ、知ってたくせに
 ところが、今回の朝日報道では、

〈当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、
記者が参考にした資料などにも混同が見られた〉


 と誤用を釈明します。こんな言い訳、通してはいけません。

・ お年寄りに聞けば簡単に分かった
 朝日が報じてから22年経過しました。22年前といえば、軍隊経験のある人、戦時中のもろもろの経験、知識を持った男女、女子挺身隊員として働いた女性だって多数、健在でした。ですから、確かめる意思さえあれば、周囲のお年寄りに一言、二言聞けば、簡単に確認できたことです。
 この確認を朝日の記者全員が怠ったとは、とうてい思えません。また、女子挺身隊が何たるかを記者全員が知らなかったとも考えられません。もし、知らなかったし、確かめもしなかったというなら、報道機関としての資格も、記者としての資格もありません。即刻、店をたたむべきです。

 それに、社内からだって、女子挺身隊は慰安婦にあらず、だから挺身隊の強制連行は不成立、との指摘があったはずです。でも、保身あるいは社内の出世を第1に考えて、大きな声をあげなかったのだろうと思います。
 月刊誌「Will」(2014年5月号)の巻末に、「編集長から」という欄があります。そこに面白いことが出ていました。

〈 社長インタビューと同時に、実は朝日記者、OB百数十人に、
返信封筒をつけてアンケートを申し込んだのです。
「従軍慰安婦」についてどう考えているかを。〉


 ところが、10通くらいの返事はと期待していたものの、ただの1通ももどってこなかったといいます。花田編集長は、

〈 社内に「答えるな」とお触れが回ったのかどうかは知りませんが、
あまりにも官僚的というか、自分自身の考えというのはないのでしょうか〉


 と感想を記しています。
 まあ、こんなところだろうと思います。でも、一人位はいてもよさそうに思いますが。朝日記者自身、自分もまた俗物との自覚が薄いのか、日ごろ偉そうなことを書くだけに余計に腹立たしいのです。

3 縮刷版から消えた「女子挺身隊」


 1991(平成3)年8月11日付け朝日新聞(大阪版)は、「ソウル10日発 植村 隆」 とし、〈思い出すと今も涙〉と大きく横見出しを掲げて、

元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く


 などと報じました。強制連行された元慰安婦の生存者1人が分かったというのです。「河 野 談 話」より2年前の報道です。


 植村記者のスクープといってよく、朝日は大喜び、本人もさぞ鼻高々であったに違いありません。なにせ、加害者側の「生き証人」である吉田 清治に加え、被害者側の生き証人もそろったことになるからです。
 記事の冒頭、植村記者は次のように書きました。

〈日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」 の名で戦場に連行され 、
日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、
1人がソウル市内に生存していることがわかり、
「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹 貞玉・共同代表、16団体約30万人)が
聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、
女性の話を録音したテープを朝日新聞社に公開した。・・〉


 この報道の最大の問題点は、この元慰安婦について、植村記者は肝心のことを故意に書かず、事実をねじ曲げたことにあります。どうねじ曲げたかは次項に要点を記しますが、この報道は同時に、朝日が慰安婦は女子挺身隊と無関係であることを知っていたことを証明しています。


・ 縮刷版から消えた
 上画像をご覧になってください。この画像は東京の日比谷図書館にある縮刷版からコピーしたものです。
 見にくいでしょうが、〈ソウル10発 植村隆〉とした記事の冒頭、次のように書いてあるのは読みとれるでしょう。

〈 日中戦争や第2次大戦の際、戦場に連行され 、
日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、
1人がソウル市内に生存していることがわかり、
「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹 貞玉・共同代表、16団体約30万人)が
聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、
女性の話を録音したテープを朝日新聞社に公開した 。
体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、やっと開き始めた〉


 あら不思議、〈「女子挺身隊」 の名で戦場に連行され 〉の肝心の部分、〈「女子挺身隊」 の名で〉が消え去っています。
 縮刷版は東京本社発行の最終版を収めたものでしょうから、大阪版とは見出し、記事の長さなどが異なってもおかしくありません。でも、少なくとも最終版発行の時点で、朝日東京本社は「慰安婦≠女子挺身隊」であることを、知っていたことになります。

 ただ、こういうケースがあります。東京本社最終版も大阪版と同じく、〈「女子挺身隊」 の名で〉の部分があったものの、縮刷版の編集段階でコッソリ消去した場合です。
 なに知らぬ顔で縮刷版を直すというケースは過去にあり、問題化したこともありました。ただ、東京版の現物を見れば分かるのですが、現物がないので判断がつきません。切り抜きをお持ちの方に、ぜひ確かめていただければと思っています。

 以上のことから確かに言えるのは、朝日はどんなに遅くとも、縮刷版の編集時点で「 慰安婦≠女子挺身隊」であることを、明確に認識していたことになります。ですから、

〈 当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、
記者が参考にした資料などにも
慰安婦と挺身隊の混同が見られたことから、誤用しました。〉


 などと言えるわけがありません。だから、「ウソつけ」というのです。
 それも、当時、研究が進んでいなかったからと、責任が他にあるような言い訳、これが小狡いというのです。ほかにも、慰安婦≠女子挺身隊を知っていたことは、朝日の他の記事(1992年1月10日付け、ソウル15日=波佐場清)からも言えることなのです。

4 植村 隆記者の「捏 造」疑惑


 新聞社、新聞記者にとって、報道が捏造だったとなれば、こんな不名誉なことはありません。記者はときに懲戒免職、新聞社だって、表向きにしても読者に向かって平謝りしなければなりません。
 過去に朝日の捏造報道、もちろんありました。有名なのは、共産党員・ 伊藤 律との架空会見をデッチあげた報道、それに自分でサンゴに傷をつけ、国民の公徳心のなさを嘆いた K・Yサンゴ事件、この2つはよく引き合いに出されます。

 でも、大分前のことですので、50代、60代以上でなければ知らないかもしれません。
 この植村報道による悪影響は、海外にまで及んだ点で、2つの捏造事件とは重みが違います。なお、2つの方は記者、責任者ともに、謝罪をふくめまあ相応の責任を取っています。

(1) わざと書かなかった重要証言

 「捏 造」と非難される中身は以下の通りです。
 上記の8月11日付け朝日大阪本社版は、女子挺身隊の名で戦場に連行され 、日本軍人相手に売春行為を強いられた慰安婦の1人が、ソウル市内に生存しているのが判明したとするものでした。
 その1人とは、金 学順 ・元慰安婦でした(左下画像)。

・ キーセンとして売られた金 学順
 報道3日後の8月11日、彼女はソウルで記者会見を開いています。そこでの重要発言を現地紙「ハンギョレ新聞」(1991年8月15日付け)が次のようにつたえていました。

〈生活が苦しくなった母親によって
14歳のとき平壌にあるキーセンの検番に売られていった
3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、
検番の義父に連れられていった所が、北中国の日本軍300名余りがいる部隊の前だった。
私は40円で売られて、キーセンの修行を何年かして、
その後、日本の軍隊のあるところに行きました。〉


 さて、こうなると話がおかしくなります。本人が言うとおり、生活苦のために「キーセン」(妓 生)として売られたのですから、日本官憲による強制連行ではなかったことになります。もちろん、女子挺身隊とは何の関係もありません。
 このように、貧困のために親が娘を手放すことは、当時の朝鮮で珍しいことではなく、日本でも同様でした。
 彼女のこれまでの発言のなかに、日本官憲に連行されたという話はつたわっていないのです。

・ 捏造記事の強い疑い
 そこで問題として浮かびあがるのが、次の2つです。
@ 植村記者は金・元慰安婦が、母親によってキーセンとして売られたことを知らずに記事を書いたのか。
A かりに知らずに書いたとしても、では〈「女子挺身隊」 の名で戦場に連行され〉とあるのは、何を根拠にしたのか。

 彼女ら元慰安婦3人を含む元軍人、遺族ら35人が、1991(平成3)年12月6日、日本政府を相手に補償請求(2000万円)の訴訟を起こしました。植村報道の4ヵ月後のことです。
 同日付け朝日夕刊は第1面で取り上げ、こう書き出します。


〈日本による植民地支配を受け、戦地にかり出された元従軍慰安婦や
軍人・軍属、遺族らでつくる韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」(会員約1万5千人)のメンバー35人が6日、
日本政府を相手取り、植民地支配と戦争で被った犠牲の補償として、
1人当たり2千万円の支払いを求める訴訟を東京地裁に起こした。〉


 ここに無視できない事実があります。
 この訴訟を推進する韓国の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」の梁 順任常任理事(現会長 )は、植村記者の夫人の母親だという事実です。つまり、梁・常任理事は植村記者の義母にあたるのです。
 彼は朝日記者時代に語学留学のために韓国に行き、そこで夫人と知り合ったそうで、したがって、韓国語を読めるし、話すこともできるとのこと。普通なら、こうしたことは個人的な事情ですから、問題にする必要はないでしょう。でも、このケースは違います。

 この裁判の訴状にも、金・元慰安婦がキーセン学校に通っていたと書いてあります。
 ですから、植村記者は金さんがキーセンとして売られたことを知っていた、それなのに故意に隠したうえ、〈「女子挺身隊」 の名で戦場に連行され〉を根拠なしに作文した疑いが濃厚にならざるをえないのです。
 加えれば、訴えの担当弁護士は慰安婦関連の訴訟には、必ずといってよいほど名前の出る高木 健一で、有名(悪名?)な御仁なのです。サハリン裁判にも吉田 清治を強制連行の証人として引っ張りだしています。

・ 「捏 造」はやはり事実
 さらに、植村報道を疑うに十分な事実があります。植村は訴訟記事のすぐ後の12月25日付けで、彼女について長文の署名記事を書いています。出だしにこうあります。

〈弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。
恨み(ハン)の半生を語るその証言テープを再現する〉


 ですが、半生を語ったはずのこの記事にも、肝心のキーセンとして売られたことが書いてありません。

 聞き取り調査に同行したという弁護士の一人は上記の高木 健一です(左画像)。
 ですから、高木弁護士は金さんがキーセン学校に売られたことは当然のことながら、知っていたわけです。
 なのに、植村記者がこの重大な事実を知らなかった、高木弁護士との間で話題にものぼらなかった、また尋ねもしなかったなど、通る話ではないでしょう。だって、新聞記者でしょうが。
 ですから、知っていたのにわざと書かなかった、そこに不純な動機(功名心、訴訟の応援など)があったとするのが当然の見方でしょう。

(2) ぬけぬけと「記事に事実のねじまげない」

 植村記者が記事を捏造したとする指摘に、朝日は〈記事に事実のねじ曲げない〉とし、以下のように答えました。

〈植村氏の記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません。
91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からからの情報提供でした。
義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした。〉


 植村記者ではなく植村氏と書いてあるのは、どういうわけか定年前にもかかわらず、2014年3月、はやばやと退職していたからです。
 数々の疑問に対する答は上記の通り「ゼロ回答」ですが、その根拠はといえば、ただ植村記者の否定説明が、そのまま朝日の回答になっているだけです。例えば、

〈91年8月の記事でキーセンに触れなかった理由について、
植村氏は 「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話し、
「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」と説明する。〉


 というのですが、植村のこの説明、引っかかります。
 証言テープの中に、キーセン学校という特定がなかったにしても、生活苦のため母親に売られたことなど、どうして慰安婦になったのか、その理由が本当に語られていなかったのでしょうか。
 まったく、触れられていなかったのなら、「証言テープにそうしたことに言及はありませんでした」など、もっと歯切れのい説明をするはずです。
 ところが、「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」という説明をよく読めば、「生活苦などのために売られたことも証言テープになかった」とは言っていないことです。こう書くと、揚げ足とりと思う読者もおいででしょうが、そうでもないのです。

 人間、追い詰められると、あれこれ説明に窮したすえに考え出す釈明は、えてしてこうした意味不鮮明、どちらにでも取れる表現になりがちなのです。
 また、〈「女子挺身隊」 の名で戦場に連行され〉と書いた理由も、その当時は女子挺身隊=慰安婦 と誤用されていたので、だから自分も誤用したというのですが、こんな説明に説得力があるとは思えません。
 ただ、どう言い訳したら窮地を脱せられるかに腐心したはずの植村回答が、そのまま朝日の答えの軸になっているのですから、得心できる答えになるわけがないのです。

4 自国を「性奴隷国家」に仕立てた朝日は、どう償うのか


 先人たちをはじめ、私たちも国家も、朝日新聞のために不当な濡れ衣を着せられてしまいました。
 2007年6月、アメリカ下院本会議において、慰安婦制度は、

〈 日本政府による軍用の強制的な売春で、
20世紀最大の人身売買の一つ〉


 だとする非難する決議案が通りました。この決議案の影響は大きく、延々と日本という国家叩きに利用されつづけるでしょう。
 また、慰安婦を指して、欧米のメディア、政治家はしばしば「性 奴 隷」(Sex Slave) と表現していることに、われわれ日本人は将来を見すえ、もっと真剣に深刻に受け止めなくてはならいはずです。
 また、この決議案が突然に提出されたわけでなく、韓国、中国の反日団体が長い時間をかけて、お膳たてした結果だったことも忘れてはならないと思います。

(1) 「性奴隷制度」と断じたクマラスワミ報告書

 1994年、国連人権委員会は、慰安婦問題を究明するために ラディカ・クマラスワミ(スリランカ人)を「特別報告官」に任命しました。彼女は「実地調査」のため、1995年7月の10日間、韓国や日本を訪れています。


 このときの調査等にもとづき、

「戦時の軍事的性的奴隷制問題に関する
北朝鮮、韓国、および日本への訪問調査報告書」
― クマラスワミ報告書 ―


 としてまとめられ、1996年4月、同委員会で採択されました。
 この報告書こそが、国連人権委員会の慰安婦問題に関する事実認識となったものであり、米下院の対日非難決議案の土台にもなったものです。

 タイトルからある程度の見当がつきますが、簡単に言えば、慰安婦=性奴隷(sex slave)とし、したがって、慰安婦制度は軍用の性奴隷制度(sexual slavery)だと断定したものと言えるでしょう。
 同報告書から、代表してチョン・オクスン・元慰安婦の証言、また吉田清治証言がどう書かれているかご覧ください。これで、被害者側と加害者側の証言がそろったことになります。

・ 元慰安婦、チョン・オクスンの証言
 「日本軍兵士による性的暴行と強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している」 例として、聞き取り時、74歳であったチョン・オクスンの証言を以下のごとく取り上げています(要約)。

〈私は1920年、朝鮮半島北部咸鏡南道に生れました。
13歳のときの6月、井戸に水汲みに行った帰り、一人の日本兵に襲われ連れて行かれました。
トラックで警察署につれこまれ、数人の警官に強姦されました。
私が叫ぶと彼らは私の口に靴下を押し込み、強姦しつづけました。
私が泣いたので署長に左眼をなぐられ失明してしまいました。
10日後にヘイサン市の日本軍兵舎につれて行かれました。そこには400人の若い朝鮮女性がいて、
性奴隷として毎日5000人以上の日本兵の相手をさせられました。1日に40人もです。
私は抗議すると殴られ、抵抗を止めるまで秘所にマッチ棒を押し込まれ血だらけになりました。
また、仲間の一人が1日40人もなぜサービスするのかと苦情を言うと、
ヤマモト中隊長の命令で兵は女の衣服をはぎとって手足を縛り、
釘のついた板の上を釘が血と肉で覆われるまで転がし、最後に首を斬り落しました。
別の日本人は食べ物がないからと泣いている少女に「この人肉を食わせてやれ」といいました。
あるとき私たち40人はトラックで遠くの水たまりに連れて行かれました。
水たまりは水と蛇でいっぱいでした。
兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、生き埋めにしました。
兵舎にいた少女の半数以上が殺されました。
2度逃亡しましたが捕まり、いっそうひどい拷問を受けました。
胸、腹などに入れ墨をされ、気絶しました。気がつくと死体として捨てられ、山の陰にいました。
山に住む50歳くらいの男が見つけ、衣服と食べものをくれました。
私は性奴隷として5年間働かされ、18歳のとき子供を産めない体で帰国しました。〉(第54項)


 この証言内容を信じる日本人がいるとは思えません。誰に入れ知恵されたか知りませんが、アホな作り話もいい加減にしろといいたくなります。
 ですが、クマラスワミは頭からこうした話を信じ込み、

〈 これが間違いなく彼女らの人生において、
もっとも屈辱的な苦しい時間を思い出すことになるにもかかわらず、
勇気を持って証言してくれたすべての女性被害者に心から感謝したい。〉

 
 と、国連機関の公式報告書に記録されました。もちろん、裏づけ調査などしているわけがありません。

・ 吉田証言が決定的役割
 「性奴隷制度」と認定したクワラスワミ報告書は、吉田証言を主要な根拠にしています。
 日本を代表する朝日新聞が、16回以上も勇気ある良心的人物と讃える日本側当事者の証言となれば、重要視するのはもっともな話です。

〈 元軍隊性的奴隷の証言は、
募集の過程において広範に暴力及び強制手段が使われたことを語っている。
さらに、吉田清治は戦時中の経験を記録した彼の手記の中で、国家総動員法の労務報国会の下で、
1000人に及ぶ女性を慰安婦とするために行われた人狩り、
とりわけ朝鮮人に対するものに参加したことを認めた。〉(第29項)


 クワラスマミ特別報告官は来日中、秦 郁彦千葉大教授(当時)にも会っています。教授は吉田清治が「職業的詐話師」であることなど、詳細に説明したといいます。
 それが、まったく逆に書かれたとして、のちに抗議書を同女史宛に送ったそうです。教授はクマラスワミ報告書を「落第点」と判定します。
 朝日釈明特集は、このクワラスワミ報告書について何も触れていません。まったく、おかしな話です。

・ マクドゥーガル報告書
 また、クマラスワミ報告書の2年後(1998年8月)、アフリカ系アメリカ人(女性)であるゲイ・マクドゥーガルの手になる報告書=マクドゥーガル報告書が、国連人権小委員会で採択されました。
 この報告書はクワラスワミ報告書を下敷きにしたもので、慰安所を「レイプ センター」とし、「性奴隷」らは「毎日強制的にレイプされた」などとしています。
 また、マクドゥーガルは来日中の講演で、日本軍によって「14万2000人の慰安婦が殺害された」などと発言しています。
 この報告書についても、釈明特集は何も触れていません。両報告書について、詳しくは⇒ こちらをどうぞ。

(2) 被害者を装う朝日に天罰を

 この2つの報告書が「河野談話」とともに、米下院議院の対日非難決議の根拠になったのは間違いないところです。

 われわれ日本人はこれから先、いわれのない非難のもと、子供、成人にかかわらず、世界各地で肩身の狭い思いを強いられ、 ときに、身を危険にさらされる羽目に追いやられたのです。


 先人を含め、自国民にこれほどの罪を着せたにもかかわらず、朝日はどう釈明したのでしょう。
 既述のように、2014年8月5日付けの一面に、朝日は〈慰安婦問題の本質 直視を〉とした杉浦 信之(取締役・編集担当)の論述を載せ、特集の狙いを以下のように説明(再掲)しました。

〈 一部の論壇やネット上には、「慰安婦問題は朝日の捏造だ」といういわれなき批判が起きています。
しかも、元慰安婦の記事を書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。
読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが寄せられるようにようになりました。
私たちは慰安婦問題の報道を振り返り、今日と明日の紙面で特集します。
読者への説明責任を果たすことが、 未来に向けた議論を始める一歩と考えるからです。〉


 吉田清治に関する記事16本を、たしかに取り消しました。
 しかし、取り消した16本が、具体的にどのような記事だったのか、釈明特集を読んでもよく分かりません。既述したように、報じた16本の記事を引用した説明がほとんどないからです。
 朝日報道のために、世界にも類のない「性 奴 隷 制 度」という極悪制度を日本軍が採用、慰安婦を「性 奴 隷」として非道な扱いをしたと認定されてしまったことなど、この釈明特集を読んでも経緯が分からないのです。

 「たった一人の謝罪」という見出しのもと、土下座して謝罪する吉田清治を写真入で報じたことを含め、16本の記事の要約を写真とともに載せるべきなのです。
 それなくしては、朝日の犯した罪の大きさは分かりません。
 また、植村報道を考えあわせれば、まさに「慰安婦問題は朝日の捏造だ」という指摘が、「いわれなき批判」などであるわけがありません。まさに、慰安婦問題は朝日の捏造問題と言えるのです。
 過去の日本を叩くためなら、何でもありの記事を、朝日は40余年にわたって垂れ流してきました。裏づけなしにです。

・ 杉浦取締役、編集担当を解任だって
 杉浦取締役は木村社長らとともに、9月11日の謝罪会見に出た翌日、「編集担当を解任」されたと、朝日が12日付けで報じました。
 こういうのを、ドロ縄式というのでしょう。すると、解任になるのを予見できずに書いたであろう、上記5日付け〈慰安婦問題の本質 直視を〉はどうなるのでしょう。反論するのもアホくさい話ですが、何を慰安婦問題の本質だといっているのでしょうか。こう書いてあります。

〈戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。
慰安婦として自由を奪われ、
女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです。〉

 
 となりますと、吉田証言をはじめとする一連の誤報は、慰安婦問題の本質とは関係がない、言って見れば、枝葉の問題ということになってきます。
 また、朝日の報道責任なんて「小さい、小さい」ということにもなります。河野談話の見直しは、ことの本質を理解していない見当はずれの主張にもなってきます。
 「自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられた」と安直に書きますが、具体的にどう自由を奪われ、どう尊厳を踏みにじられたと杉浦取締役は理解しているのでしょう。
 上に掲げた、チョン・オクスン証言が代表するように、慰安所に閉じ込められ、外出もままならず、残虐な扱いを受けていたとことを信じているのでしょうか。

 とんでもありません。その有力な証拠を以下にお見せしますが、河野談話のもととなった16人の慰安婦証言の信頼性がいかに低いかは、多く論じられていますので省きます。
 ただ一点、彼女らの証言、とくに当初の証言には、慰安婦として売られた、ムリヤリ連行されたといいながら、「誰によって」という肝心のことがハッキリしないのです。それが、後の証言になるほど、「日本軍によって」となってきているのです。そうとなれば、チョン・オクスンの突拍子もない証言も、分かるというものです。

5 ビルマの朝鮮人慰安婦の実像


 通称「テキサス親父」、トニー・マラーノは、日本ですっかり有名になりました。
 1944(昭和19)年といいますから、日米戦争の最中のこと、ビルマで米軍に捕まった朝鮮人慰安婦20人の取調べが行われました。そのときの報告書が残っていて、マラーノ氏が米公文書館から取り寄せ、これを証拠に韓国(人)は 「ウソをついている」(You are liar)と難詰します。

 日本の敵国にあたる米公文書という信頼性の高い文書が根拠だけに、説得力があります。この文書の存在は知られていましたが、氏が入手した公文書の原文と訳文を、ネット上で読むことができます。以下は、その一部です。

・ 調査までのいきさつ
 調査のいきさつがこう説明されています。

〈この報告は、1944年8月10日ごろ、
ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において、
捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と、
2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである〉


・ アメリカ戦時情報局心理作戦班
 アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
 (OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team
 Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater)

・ 尋問場所: レド捕虜収容所
 尋問期間: 1944年8月20日〜9月10日
 報告年月日 1944年10月1日
 報告者 T/3 アレックス・ヨリチ
 捕 虜 朝鮮人慰安婦20名 捕獲日:1944年8月10日
 収容所到着日 1944年8月15日

・ 調 査 内 容
 以下、内容の一部を英文とともに抜粋します。何の説明も要らないでしょう。
 日本兵と慰安婦の関係が今まで報じられてきたものと、あまりに違うため、驚く方もおいでかも知れません。でも、これがほほ全体像だったといって間違いないと思います。私が日本兵から聞いていた話とソックリでしたから。

〈生活および労働の環境〉
 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。
 彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。
 食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

 〈 LIVING AND WORKING CONDITIONS 〉
 In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl.
 There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army.
 They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma.
 They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles.
 They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.
 While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

〈兵士たちの反応〉
 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。
 しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。

 〈 SOLDIERS REACTIONS 〉
 The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn".
 However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

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