日本軍が奪った「2千万人」の命

⇒ 日本兵の凄まじい残虐 1


 私たちは、日本軍および民間人が中国などアジア各地で犯した「悪行」を新聞、テレビなどのマスメディアを通じて、いやというほど知らされてきました。にわかに信じがたい膨大な犠牲者数、さらに加えて人間とは思えない残忍な所業の数々。
 毎年8月15日(終戦記念日)を迎える頃になると、あるいは盧溝橋事件40、50周年、日中国交回復10周年、あるいは20周年といった節目の年を迎えるたびに、それこそ判で押したように日本軍の「加 害」を断罪する大報道となり、また戦争を指導した日本軍部の愚劣さを批判する報道がつづきました。

 では、「日本の加害」 とは、具体的にどのようなものを指しているのか、一度、確認しておく必要があるでしょう。ここでは、日本の加害を「 量 」「 質 」に分けて、概略をお知らせします。

・ 死傷者3500万、経済損失6000億ドル

 「量」といえば、「南京大虐殺」の30万人がよく知られています。
 江 沢民・前中国国家主席が1995(平成7)年5月、ロシア政府主催・第2次世界大戦終結50周年の記念式典の演説で、日本軍による中国人民の「死傷者3500万人」 という認識を、突如として示しました。

 この数字は、日中平和友好条約20周年にあたる1998年に江沢民が国賓として来日したさいにも、早稲田大学における講演で死傷者3500万人、「経済損失6000億ドル」 と公言しました。
 これに対して、政府も主要な政治家も異論をさしはさむでもなく、ただ黙過しただけです。
 「日本政府から反論がなかった」となれば、「日本政府も認めた」 という理屈だってでてきます。
 毎度のことといえばそれまでですが、ことを荒だてまいとするこのような対応は、度が過ぎれば臆病だし、国益を著しく害します。

 この膨大な加害者数に、さらに「質」、つまり日本軍の異様な残虐ぶりが加われば、ナチス・ドイツ と並び、「近代史上、例を見ない残忍非道な日本軍(人)」 という話が完結するでしょう。
 こうなった原因は、日本の過去糾弾に精を出した日本のメディアであり、これに追随した学者や作家など、いわゆる「知識人、文化人」 だったことを忘れてはいけないと思います。また、それらを唯々諾々と受け入れたのもわれわれ日本人であることもハッキリ認識しておくべきと考えます。

 「あれらは過去の日本人であり、今のわれわれは違う」という段階で思考をストップさせ、「わずらわしい問題」とのかかわりを避ければ避けるほど、問題の解決は困難でしょうし、現に困難に直面しています。

 事実を偽り、また覆い隠してまで、過去の日本を弁護する気はありません。「虚偽」や「誇張」を排し、当時の日本の置かれた状況も踏まえ、「事実」にもとづいた歴史観(歴史イメージ)を構築すべき、と異議を申し立てているのです。

1 1700万人のアジア人虐殺・・アメリカの新聞報道


 2010年8月6日、広島における原爆死没者慰霊式は例年になく世界の注目を浴びたとのことです。


 というのは、アメリカのルース駐日大使が式典に出席することになったからです。出席の是非、出席の意義などをめぐって、日本はもちろん、アメリカでもいろいろと論じられたようです。
 保守系の米紙、ウォールストリート・ジャーナル(8月16日付け)は、キャシー・チェン 、マリコ・サンチャンタ両記者の連名で、
 〈(日本の)リビジョニスト(修正主義者)の教科書は、第2次世界大戦中の「南京大虐殺」など、日本のアジアにおける残虐行為をごまかしてきた〉
 などと報じました。

 修正主義者の教科書というのは「新しい歴史教科書を作る会」の社会科教科書(中学生用、歴史分野)を指しているのは明らかでしょう。記事を書いたキャシー・チェンは名前から中国系アメリカ人(女性)と思われます。
 中国系のアメリカ人ジャーナリストが過去の日本を糾弾する例はNYタイムズでも見られますので、これから先も彼らの出番が多くなるのは避けられないかもしれません。

 また、同紙オピニオン欄にはウォーレン・コザックの寄稿文が載りました。ウォーレン・コザックはカーチス・ルメイ将軍 の生涯を著した作家とのことです。
 ルメイ将軍(空軍)というのは、日本焦土化計画を立案し、8万余の犠牲者と4万人超の負傷者を出した東京大空襲 を指揮した司令官でした。これには不愉快、不見識と思う話がありますのでつけ加えておきます。

 戦後、ルメイ将軍は米空軍参謀総長に昇進、航空自衛隊の強化指導にかかわりました。その効を認めたのでしょう、1964年12月、日本政府(佐藤 栄作首相。ただし、首相になって3日目)は勲1等旭日大綬章授与をもって遇しました。
 東京をはじめ日本の各都市を計画的に爆撃、おびただしい民間人死傷者を出した作戦の指揮官に最高級の栄誉を与えた日本政府。日本の卑屈な態度、強者への迎合は今にはじまったことではないのです。
 話が横道にそれましたが、この寄稿文のなかに以下の文が見えます。

〈日本は原爆の被害ばかりを強調し、1700万人のアジア人を虐殺したことや、
『THE RAPE OF NANKING 』 の事実を戦後、子供たちに教えようとしてこなかった〉


 1700万人虐殺というのはおおむね正確なのでしょうか、またこの数の根拠は何なのでしょう。
 コザックは他のアメリカ人と同様、『THE RAPE OF NANKING 』の記述を事実と頭から信じ、ここから得た知識を主体に投稿したのはまず間違いないと思います。
 例えば、同書の次の文もこのことを 証明しているでしょう。

〈The entire Japanese education system suffers from selective amnesia,for not until 1994 were Japanese schoolchildren taught that Hirosito's army was responsible for the death of at least 20 million Allied soldiers and Asian civilians during World War U.〉

 日本の教育は自分に都合の悪いところを忘れてしまう記憶喪失症にかかっているので、天皇の軍隊が第2次世界大戦中に2000万人の連合軍兵士とアジア市民の死に責任があると生徒に教えてこなかったのだ、とチャンは書きます。
 その原因はといえば、教科書検定によって重要な歴史情報が計画的障害にあった、つまり隠蔽されたというのです(the deliberate obstruction of important historical information about World War U through textbook censorship.)。

 ですがこの見方は著しく偏っています。
 事実はほとんど逆といってよく、日本のメディアが近現代史にかかわる間違った事実、あるいは未検証の「残虐事件」「残虐行為」を大量に流した結果、その影響を受けた教科書が、根拠のきわめて怪しい膨大な犠牲者数を載せ、また「残虐事件」や「残虐行為」であふれかえったからこそ、教科書を見直す運動につながったのです。
 「新しい歴史教科書を作る会」の出発点が「従軍慰安婦」問題にあったことからも判断がつくと思います。

 「死者2000万人」についてですが、この数字の出所を突き詰めれば、日本の教科書記述であり、われら日本のメディアであり、学者、文化人の論考等に行き着きます。
 日本に対する悪意と偏見で固まったこの書は、日本のメディアをはじめ教科書執筆者や学者、文化人らが垂れ流してきたものが、そのまま反映されたものといって過言ではないと思います。
 著者のアイリス・チャン は、日本からの協力者もあったのでしょう、これら垂れ流された情報を実によくつかんでいます。
 われわれ日本人が知っておくべきことは、これら誤った事実が欧米人、とくに知識人の「共通認識」 になってしまったこと、およびそれらの発信元が日本であったこと、この2点と思います。この誤った認識を是正するのは不可能に近い難作業でしょう。

 その理由の一つは有色人種国である日本が
同じアジア人に対して悪逆非道を重ねたことは、多くの植民地をかかえ、
有色人種を人間扱いしない過酷な労働などと引き換えに繁栄してきた欧米人にとって、
実に都合のいい話だからです。


 なお、中国人の死者数について、チャンは両親から聞いた話として「1000万人以上の中国人が殺害された」(killed more than 10 million Chinese people) と書いています。

2  2000万人以上と歴史教科書


 では肝心の日本は、アジア諸国に対する加害数をどう規定しているのでしょう。
 それを知るために歴史教科書の記述を見ておく必要があります。というのも、教科書は文部科学省の検定を通ったものですから、異論はあるにしても対外的には公的記述、公的数字と受け取られてやむをえないからです。

(1) 高校用歴史教科書から
 1994年、1998年の検定に合格した実教出版の「高校日本史B」の記述をご覧に入れましょう。
 奥付に宮原 武夫・千葉大学教授、 石山 久夫・東京都立大学教授の2人が「著作者」にあがっています。その他に、君島 和彦・東京学芸大学教授、大江 志乃夫・茨城大学名誉教授ら9名の名が見えます。

・ 加害者数「2000万人以上」
 「15年戦争はなにをもたらしたか ― 日本の敗戦」という項目のなかに、以下の記述(1998年検定版)があります。

〈1931年からの15年におよぶ戦争は、大日本帝国の敗北と崩壊で幕を閉じた。
この戦争でアジア・太平洋地域の人々に与えた惨害はじつに膨大で、
死者の数は約2000万人 をこえ、それは日本人の死者数310万人をはるかにうわまわるものであった。
そして、精神的、物的被害もこれにまさるものがあった。〉


 とまず、大枠を説明します。
 一読して、どうお取りになりましたか。これを読んだ生徒のほとんどは、日本軍がアジア・太平洋地域で2000万人以上を殺害、あるいは日本軍のせいでこれだけの犠牲者を出したしたと受け止めたのではないでしょうか。今、あらためて読み返してもこうとしか読めません。

 そして、教科書は「アジア太平洋戦争による東アジア諸国の死者の数は、各種の文献を総合すると」 と記述して、約2000万人にのぼる死者の国別内訳を欄外に掲げています。それらを下記の表にまとめました(緑色)。
 なお、水色で表した「文京2中」「本多公栄推計」と薄紫色のソ連版『第二次世界大戦史』については後述しますが、教科書が掲げた死者数と酷似していることにご注意ください。

実 教 出 版 教 科 書 ほ か (単位:万人)

 国  名 実 教 出 版  備  考
(実教教科書)
 文京2中
 (1972年)
 本多公栄推計
 (1973年)
 第2次世界大戦史
(ソ 連 版)
1994年版 1998年版
 中 国 1、0001、000軍民の合計軍 321
民 1000
1、0001、000
台湾  ―   3
 朝 鮮   20  20
軍 1520
ヴェトナム 200
餓 死
 200
餓 死

200
餓 死
200
餓 死
200
餓 死
インドネシア 200 400200万人UP
に注目
10
餓 死
200200
フィリッピン 100 111
軍 5
民 不明
軍   5
民 100
110
インド 350
餓 死
 350
餓 死
大部分はベンガル
における餓死
350
餓 死
350
餓 死
シンガポール   8 10
民 8民 0.5
ビルマ   5 15
数 万
ニュージー
ランド
   ―  ― 
軍 1.2軍 1.2
日 本  310 310
 185 221
総 計 2,193 2,419
1,745.2
+数万
2,102.71,860
合 計
(除く日本)
 1,8832,1091,560.2
+数万
1,881.71,860


 ご覧になって、どのような感想をお持ちですか。
 日本を除く死者は2,109万人 (1998年版。2003年検定版も同じ)という膨大な数にのぼっています。この教科書を見るかぎり、ウォールストリート・ジャーナル紙の投稿「1700万人のアジア人虐殺 」や 『THE RAPE OF NANKING 』のいう「2000万人以上」殺害が、間違いだと言っても説得力を持ち得ないでしょう。
 ですが、この膨大な数、信じられますか。それとも今まで耳にしていた数と大差ないため、何となく「こんなところかもしれない」と思いましたか。

(2) 「2000万人以上」の内訳は
 内訳を見てみましょう。
 中国人の約1000万人は後述することにして、インドの死者350万人 (大部分はベンガルの餓死者)、インドネシアの400万人(1994年検定版は200万人と半数)、ベトナムの200万人 (大部分が餓死者)、フィリピンの111万人 などと出てきます。
 これら膨大な死者数もさることながら、死者の原因が「日本(軍)による加害」であったことをご存知でしたか。私はこの教科書によって知りました。

@ インドの餓死者350万人
 まず、イギリスの植民地であったインドの餓死者350万人についてですが、「ほとんどはベンガルの餓死者」(上記教科書)だったとしています。戦後独立したインド政府から大量の餓死者は日本の責任だとし、公式に抗議や補償、事実関係の調査、責任者の処罰等の要求があったのでしょうか。私は聞いたことがありません(やはりなかったようです)。

 1943(昭和18)年を中心に翌年の1944年にかけて、「ベンガル飢饉」と呼ばれる大飢饉があったのは事実です。インド政庁の報告書では餓死者350万人とし、ほかに150万人、300万人など諸説があるとのことです。

 ベンガルはインド半島の東北部、ガンジス川とブラマプトラ川の下流域で、肥沃な穀倉地帯でした。今は西部ベンガル(中心都市はカルカッタ)はインド領、東部ベンガルはバングラディッシュ領に分かれていますが、当時はビルマと国境を接していました。なお、1912年まで、インドの首都はカルカッタでした。

 ベンガル飢餓の原因にまず天候不順があげられています。それに日本軍が進駐していたビルマ、仏印から米の輸入が難しくなったこと などが理由にあがっていますが、この理由づけは一部の日本人学者が主体となって推進し、広がったものと思われます。

 ベンガル地域は熱帯性低気圧サイクロンの通り道ですから、自然現象による不作、凶作から食糧不足、餓死者の発生につながることは想像できるところです。手元の年表でも、1918〜1919年、1920〜1921年に飢饉が起こったとありますから、とくに珍しい出来事でもなかったのでしょう。

 また、食料が不足または不足しそうになれば、商人らによる買占め、売り惜しみが必ずついて回りますから、一般市民から食料はますます遠退いてしまいます。このことは敗戦前後、多くの日本人は経験したことです。

 このベンガル大飢饉の前年、つまり1942年にサイクロンが襲ったという記録も見えます。ですが、350万人(仮に150万人にしても)というのは膨大な数というしかありません。カルカッタ市内をはじめ周辺各地で多数の行き倒れが出たというのもわかります。
 天候不良による不作が、350万人(あるいは他の数)のうち何人の餓死者を出させたのか知る由もありませんが、この死者が日本の責任というのはまったくおかしな話でしょう。

 インドはイギリスの統治下にあったのですから、まずイギリスに責任があったとのではと考えるのが常識というものです。それとも、イギリスには責任といえるほどの落ち度がなく、日本軍の作為のため大量の餓死者を出したのでしょうか。
 最近、インド人作家・ムカージーがこの飢饉を題材にして『 Churchill's Secret War 』(チャーチル秘密の戦争)を著し、チャーチルこそが大量死の張本人であると主張しているとのことです。

 私自身、この本を読んでおりませんのでハッキリしたことは言えませんが、チャーチル首相(1940〜1945年)の人種的偏見(インド人への嫌悪、蔑視)のため、飢餓下にあるインド人に救いの手を延ばそうとしなかったというのです。
 つまり、一般市民のために備蓄食料を放出しなかっただけでなく、アメリカやオーストラリアからの食料支援の申し入れに対しても、食料輸送のために船を使うことを嫌って拒否、一方ではベンガルから中東のイギリス軍に食料を送っていたというのです。
 悪徳商人による買占めもありました。こうしたことから、ベンガル大飢饉はイギリス政府に原因があったと断じているようです。

 これらの指摘は確かにありそうなことであり、かなり的を射ていると私は思います。
 セポイの反乱(1857〜1859年、セポイ=イギリス東インド会社のインド人傭兵 が武装蜂起したのにつづき、市民、農民も加わった大反乱 )にあたり、タイムズ紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンズー寺院を破壊、白人殺害1人に対し1000人を処刑せよ」と報復を煽り、実際に虐殺など頻繁に起こったといいます。
 イギリスのインドに対する支配の傲慢、悪辣さは長編映画「ガンジー」(1982年、英・印合作)からも、一端は分かります。
 このような事情を一切抜きにして、350万人の餓死が日本の責任だと、インドが言いもしないことを私たちは教えられるのです。

A インドネシアの死者400万人
 インドネシアの400万人ですが、1994年検定済版は200万人になっていました。この突然の死者倍増、何を根拠にしたのかサッパリわかりません。そもそも200万人という数はどうやらソ連版「第二次世界大戦史」(上表参照)らしいのです。
 日本とインドネシアとの間で万単位の死者がでるような戦闘があったのでしょうか。「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽」と当時いわれていたことですし、それに日本の敗戦後、「2000人の日本人将兵」 が残留し、死者1000人近い犠牲を払いながらインドネシア独立のためにインドネシア人とともにオランダ軍と戦ったのです。この事実と200万、400万人という膨大な犠牲者数とどう整合するというのでしょうか。

 それにしても、4年後の検定で一挙に400万人へと倍増するに至っては、メチャクチャぶりは呆れるばかり、教科書というより宣 伝 文 書と呼ぶ方が当を得ていると思わざるを得ません。またこれが検定を通るのです。
 何を根拠にこのような数字が出、検定を通ったのでしょうか。ここに、とんでもないカラクリ というかまやかしがあるのです。それは「ロームシャ」(労務者)に関する問題との意識的ともいえる混同です。
 労務者の数について、1985(昭和60)年8月15日付け朝日新聞社説「過去を直視し未来へ生かそう」のなかで、

〈日本側関係者の推定では14万〜16万人、あるいは22万余人とされるが、
戦後の賠償交渉の際に、インドネシア側は400万人 と主張した〉


 と記しています。
 つまり、400万人という数は、インドネシアが賠償交渉の席上で主張した労務者数というのでしょう。
 「ロームシャ」は日本軍の道路、橋、飛行場などの建設工事に狩り出され、その結果、400万人もの命が奪われたのだと日本の教科書は教えるわけですが、インドネシアの教科書は、これらの結果、「何千人ものロームシャ」が世を去ったと記してあるそうです。

 「400万人」と「何千人」の差が、「労務者数と犠牲者数とを取り違えてしまいました」とした言い訳で済ませられる問題ではなく、日本の歴史教育学界に巣食った体質にまでさかのぼって目を向け、現状を理解する必要があると思います。
 でも、どうしてこんな馬鹿な数字が教科書に載ってしまうか理解できない方も多いでしょう。
 おそらく、だれかが間違って、あるいは故意に「犠牲者400万人」とした論文、あるいは本に書いたのだと思います(この見方が正しいのではと示唆する根拠はあります)。それが、アッという間に日本叩きを旨とする左翼かぶれの学者、教育人の手によって採用されてしまったのでしょう。
 日本軍にこれこれの「悪行」があったと指摘する論文なり本が出ると教科書にいち速く反映される、検定も通る、こうしたことが繰り返されて教科書が出来上がるのです。

 とにかく、日本を、日本軍を叩けるのなら、何でも使うという教科書執筆者の姿勢がこの教科書によく表れています 。まともな歴史教科書など期待すべくもなかったのです。
 この「ロームシャ」の問題は、「ブキチンギの穴」 で有名になりました。
 スマトラ島のブキチンギで、日本軍(第24軍)は地下司令部建設のためにインドネシア人労務者を動員、機密保持のために3000人を殺害 したうえ、穴に放りこんだといい、現地に「日本の穴」として観光名所になっていました。
 幸い、産経新聞の取材報道などから事実無根と判明し、総山 孝雄 ・東京医科歯科大学名誉教授のインドネシア大使館への粘り強い働きかけなどで、単なる「防空壕跡」との説明文に取りかえられました。

B ベトナムの餓死者200万人
 それにべトナムの200万人。これについては別項 (⇒ こちらへ)に報告してありますので参照いただくとして、この数字を日本軍のせいにしている教科書はこれにとどまりません。

 例えば、桐原書店の『世界史A』では、「ヴェトナムでは、日本軍が米を過酷に収奪したうえに、自然災害も重なって大飢饉を引きおこし、200万人もの餓死者をだしたといわれる」としています。
 それも「世界史」の教科書というのですから、これを書いた学者の頭を疑いたくもなります。また、教科書によくでてくる表現なのですが、「 ・・といわれる」とあって、これでは誰がこのように言っているのか、わからない仕かけになっていることです。

C フィリピンの死者111万人
 次にフィリピンの死者111万人ですが、この数はおおむね正しいのでしょうか。また、日本軍に全責任があったといえるのでしょうか。
 細かいことですが、1994年版で100万人とあったものが、1998年版(2003年版も)では111万人に増えています。4年間のうちに調査が進み、より信頼できる数値が得られたのでしょうか。

 これがお笑いなのです。上記の表を見ますと、ソ連の『第2次世界大戦史』(後述)ではフィリピンの死者が110万人となっていますから、教科書記述はソ連の見解を採ったものだといえそうです。ところが東京裁判の法廷には、下記のように、似ても似つかない死者数が提出されていました。
 軍人の死者 2万7258人
 民間の死者 9万1184人

 この数自体、どこまで正確かは分かりませんが公式な統計数字です。
 ただ常識的にいえることは、実際の数(神のみぞ知るなのでしょうが)を上回る数の提出はありえても、大幅に下回る数値が出てくる可能性は低いといえるでしょう。
 南京虐殺問題では検察側が提出した数字を根拠の一つに、中国は30万人以上と主張しています。この数値を受けて犠牲者30万人以上 と教科書に書き、こちらも怪しげなソ連のいう人数を採用しているのです。

 さらに言えば、民間人の死者だって、日本側に全責任があるとはいえません。アメリカ軍の砲撃によって死んだフィリピン人も少なくなかったことは、当時の記録などからもいえることです。
 下の引用文は、米軍の物量にまかせたというか粗っぽいというか、激しい砲撃がフィリピン人住宅街も惨禍から免れなかった一例です。
 〈米軍の砲撃は遂に南岸に集中しはじめた。議事堂、財務省、農務省などは、堅固に要塞化された筈であったが、大きな図体を地上に露出しているために、かたっぱしから穴をあけられ吹きとばされてゆく。
 敵砲弾は、日本軍のいる海岸のフィリピン人住宅街にも、もの凄い炸裂音をたてて落下するのだ。〉(「マニラ市街戦」、小林 勇・社会タイムス外信部 、『秘録 大東亜戦史』所収)

(3) グ ラ フ〈大東亜共栄圏 ― 日本の加害 〉

 この実教出版の高校用歴史教科書の巻末に、〈「大東亜共栄圏」― 日本の加害 〉として1ページ大のカラー刷りグラフが載っています。


 上のグラフは私の所持している検定済の見本本(いわゆる白表紙本)のコピーですので、カラーになっていません。

 グラフには、上記の表にないもの、例えば、
満  州  66万5500
 (中国本土約1000万人と別)
朝  鮮  33万5900
台  湾  19万 500
タ  イ  10万7500
スマトラ   5万9600
ジ ャ ワ   5万 100
ニューギニア 3万3800

 などなど、アジア全域での「日本の加害」が記されています。
 マレー・シンガポールでは、〈1942年の日本軍によるシンガポール住民の虐殺4万〜5万人〉との説明があります。4万〜5万人とした根拠は何なのでしょう。
 なかには、アンダマン・ニコバル 1万1300人 といった、おそらく99%の日本人が聞いたこともない地名だか国名だか分からないものも出てきます。

 ただし、インド 350万人インドネシア 400万人はこのグラフに載っていません。どうして載っていないのでしょう。ベトナムの方は、〈 1944年末 ― 45年春のベトナムにおける餓死者約200万人 〉とした説明があり、日本軍によるものと明記されているのにです。
 そこでミャンマー(現ビルマ)を見ますと、〈ミャンマー(含むインド) 7万1500人 〉と出ています。インドはと見てみれば、インパールの場所を示しているだけで、加害数が書いてありません。
 つまり、インドの餓死者350万人は日本の加害に含まれていないことになります。となりますと、7万1500人は日本軍のインパール作戦で犠牲になった人数だと言いたいのでしょうか。これも根拠を知りたいところです。
 インドネシアの400万人も同様で、日本の加害とは書いていません。でも200万人がなぜ400万人へと倍増したか、この根拠も教えて欲しいのです。

(4) 狡猾な教科書
 インドの餓死者350万人、インドネシアの400万人が「日本の加害」を示す上掲のグラフに出てきません。
 となりますと、はじめに記した「15年戦争」の総括、

〈1931年からの15年におよぶ戦争は、大日本帝国の敗北と崩壊で幕を閉じた。
この戦争でアジア・太平洋地域の人々に与えた惨害はじつに膨大で、死者の数は約2000万人 をこえ、
それは日本人の死者数310万人をはるかにうわまわるものであった。〉


 の「死者2000万人」は日本の加害数を示したものではなかったことになります。となれば、2000万人からインド、インドネシア分の750万人を差し引くだけでも、1200余万人になってしまいます。

 ですが、この総括文はそう読めるでしょうか。ほとんど生徒、教師は2000万人以上の犠牲者は日本(軍)のせいであったと読むのが普通だろうと思います。
 これも「アジア・太平洋地域の人々に与えた惨害はじつに膨大で」の「与えた惨害」 の主語が不明確なため、全体の流れから「日本(軍)」という主語を補って生徒・教師が読むからでしょうし、また読んで当然と思います。このような意識的とも思える記述を「狡猾」だというのです。
 このように書くと「お前の読み方が悪いんだ」との声が飛んできそうですが、そうとはいえません、現に秦 郁彦・元日大教授もそう読んだ一人ですから(次項参照)。

3 この数の根拠はどこから


 では教科書が書くアジア・太平洋地域の犠牲者2000万人以上という数はどこから出てきたのでしょうか。
 秦 郁彦元教授は論考 「歴史教科書ではなぜ被害者数がインフレになるのか」 (文春文庫『昭和史20の争点』所収、2006年。初出は「諸君!」 2003年7月号の「高校生を汚染する山川・実教の歴史教科書」)でこの問題を明快に解き明かしています。
 このなかに、上に記した実教出版の教科書も取り上げていますが、インド350万人、インドネシア400万人も「日本の加害」とした解釈のうえ論を進めています。

 この論文が用意中であり、近々発表されることを秦元教授からの電話で概略を含め承知していました。それだけに期待は大きかったのですが、期待に違わない内容で、最重要論考の一つだと思っています。
 上記の表をもう一度ご覧いただきたいのですが、「文京2中」「本多公栄推計」「ソ連版第2次世界大戦史」 の欄はこの論文からの引用です。以下、論考を参考にしながら要点を紹介いたします。

(1) 中学生の調査が大元?
 1972(昭和47)年の春休み、東京都文京区立第2中学校の社会科教師だった本多 公栄(後に宮城教育大学教授、故人)が、授業の一環として、生徒に 「日本の侵略申し訳ないと謝罪、2度とこのようなことはしません」 と書いた「 アジアの中学生の友への手紙」 を質問事項とともに持たせ、在京35ヵ国の大使館を回らせました。

 生徒たちの質問に口頭または手紙で寄せられた回答が水色欄「文京2中」の国別数字です。そしてそれらの合計は1,560万人となり、中国の1,321万人が全体の80%以上を占めるという突出した数になっています。

 本多教諭はこれらの結果を冊子にしてあちこちに配ったところ、赤旗、朝日、毎日 などが好意的にとりあげたため、文京2中の名は教育界に知れわたったとのことです。翌1973年、本多教諭はこの調査をもとに『ぼくらの太平洋戦争』 (鳩の森書房)を出版しました。この 『ぼくらの太平洋戦争』が教育界で有名なことを私も知っていました(本は読み損ねました)し、文京2中の調査活動が「平和教育の実践例」 として高い評価を得ていることも、ある大学の教授から聞いていました。

 この本に、「ぼくらの発見! 東アジアの死者1882万人」 という見出しのもと、水色欄に示した「文京2中」の調査結果、それに日本で公表されている通史などを参考にしたという「本多公栄推計」が記載されています。
 ご覧の通り、「本多推計」はインド350万人(餓死)があらたに加わり、インドネシア200万人、フィリピン105万人という膨大な数に変化した研究成果が載っています。
 まず、文京2中の調査数字の信頼性ですが、例えば中国の数字は台湾(中華民国)の大使館から得たもので、

 〈軍人の死者は321万人、市民の死者1,000万人以上と答えてくれた「男の人」は
たまたま廊下で「どんなことで来た?」と尋ねた人らしく、
名刺もくれなかったのか、肩書きも氏名も書いてない〉


 といいますから、大使館内でたまたま出合った男性の答えだったらしいことが分かります。
 また、35ヵ国のなかにイラクやクウェートなどが含まれ、「参戦国と非参戦国の仕分けもせずに回ったのはどういうわけか」と秦教授は批判というか半ば揶揄していますが、もっともな指摘と思います。
 生徒による調査が行われた1972年春というのは、1971年夏から朝日新聞に連載された「中国の旅」 の連載完結時期と同じであることと、決して偶然ではないと私は思っています。おそらく連載に触発され、この調査を思いついたのではないでしょうか。

(2) 本多 公栄のネタ本は 『第二次世界大戦史』 ?
 では、本多推計の根拠は一体何かということになりますが、秦論考はソ連版『第二次世界大戦史』をあげています。『第二次世界大戦史』について、翻訳本もあるそうですが、私自身読んでいませんので知識を持ち合わせていません。
 上表の「第二次世界大戦史」(ピンク欄)を見れば、インド350万人(餓死)、インドネシア200万人、フィリピン110万人とあり、「本多推計」とほとんど一致しているのは一目瞭然でしょう。

 もっとも「第二次世界大戦史」の出典は中国共産党発行の『人民中国』(1952年第19号)と本多公栄が注記しているそうですから、「本多推計」のネタはこちらともいえるのでしょう。さらに起源があるらしく、1951年9月の「沈鈞儒報告」(『季刊中国』1987年冬号、石井 明・東大教授論文)らしいと秦は指摘しています。また秦元教授は、

〈誇大な戦果は書くが、自軍の損害はほとんど書いていないことで悪名高い『第二次世界大戦史』を、
本多経由で中学生の調査とこじつけたとも言えるだろう。
私が中学生をダシにした、と評するのはこのカラクリに気づいたからである。〉


 と「本多推計」について記してします。
 東アジア人で2000万人、うち中国人1000万人という日本(軍)による犠牲者数はやがて独り歩きをはじめ、「近隣諸国条例」(1982年)とともに文部省(現・文部科学省)による検定は骨抜きにされ、三省堂の教科書などでも同様の数字が採用されていきます。さらに日本軍による残虐事件、残虐行為が教科書に溢れることになったのです。
 くどいようですが、実教出版の教科書に出てきたインドネシア死者400万人の根拠は一体、何なのでしょうか。

4  中国軍民の死者数について


 上表の通り、「軍人321万人、民間人1000万人」が文京2中の生徒調査、本多公栄は1000万人と主張します。時を経て1995年5月、江沢民国家主席(当時)が死傷者3500万人という膨大な数を突如として打ち上げたのは冒頭に記した通りですが、これ以前の中国の主張を振り返ってみます。

 1946(昭和21)年、東京裁判に提出された中華民国政府 の公式数字は、「軍人死者132万、行方不明者13万、負傷者176万、合計321万人 」でした。
 この数は同政府の何 応鈞・陸軍総司令(軍政部長)が出したもので、詳細な数字を記しますと戦死者131万9958人、戦傷者176万1335人となっています。

 画像は1945(昭和20)年9月20日、南京における日本軍の投降式のもので、左が何 応鈞総司令、右側が支那派遣軍総参謀・小林 浅三郎です。
 その後の1978(昭和53)年9月9日、台湾は終戦33周年記念式典において、何 応鈞が上記の軍人死傷者数に加えて、民間人死者578万人 とする数字を追加演説をしたとのことです。
 (注) 何応鈞演説の民間人死者578万人ですが、578万人は民間人だけではなく軍民の死傷者合計とする資料(何応鈞著、『歳寒松柏集』、1980年)が秦教授の別論文の中に見えます。こちらが正しければ民間人の死傷者は257万人(578万人マイナス321万人)となります。多分、こちらの数字が何応鈞のものとして正しいのではと思うのですが、確認はとれていません。

 一方、1989(平成1)年、中華人民共和国は抗戦期間中(1937.7〜1945.8)の中国軍民の死傷者を 「2168万人」と公表、盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館にもこの数字が掲げられました。
 内訳は、死者932万5千人、負傷者947万人、敵に捕まり連れ去られた行方不明289万人、総計2168万5千人。この数字には満州および台湾省の分は除かれているとのことでした。

 わが国の歴史教科書執筆者たちは早速、この数に飛びつきました。日本書籍の中学校歴史教科書は1996(平成8)年版で「死者1,320万人」とし、2002年3月まで使用していましたが、2002年4月(平成13年検定版)からなんと「死者2.180万人」 になりました。
 中国発表の2,160万人より20万人多いという徹底したサービスぶりです。
 そして、1995年5月、村山 富一 首相の訪中時に合わせたのでしょう、死傷者3500万人とさらに跳ね上がったのです。
 サンフランシスコ大学で開かれた「日本の戦争記憶問題と対決する」というシンポジュームで、米中国総領事は「日本人は戦争中に中国人3,500万人を殺害した 」と発表、死傷者3500万人がアッいう間に3500万人殺害に変えられたのです。

 このように、跳ね上がった根拠は今回も明確ではありませんが、石井 明 ・東京大学教授は1995年8月、軍事科学院軍事歴史研究部の責任者から聞いた話によると、〈 近年、満州では60近い「万人坑」 が見つかった 〉 などと3500万人の根拠を説明したといいます(『外交フォーラム』臨時増刊「中国」、1997年)。

 満州への出稼ぎ労働者を強制連行 ⇒ 行方不明 ⇒ 死亡(殺害) という理屈をつけて、死者3500万人に向けて声高に宣伝してくる可能性は大と思いますし、そのうち、死者3500万人が日本の教科書に載ることだって考えられます。

5  外国の百科事典から


 ここで、アメリカがどう分析しているか、百科事典を見ておくことにします。


 表は「Collier's Encyclopedia」の1963=昭和38年版に掲載されたもので、「第2次大戦推定死傷者数・直接戦費」 と表示してあります(笠原 一男、『図解日本史』、山川出版社1977年より)。
 左欄の国名は、「連合国」と「枢軸国」とに大別し、アメリカ、ソ連、中国、インドなど19ヵ国が連合国側、日本、ドイツ、イタリアなど8ヵ国が枢軸国側に分類されています。

 最大の死傷者を出したのがソ連で、「死者および行方不明」が611万5,000人、「負傷」が1,401万2,000人となっています。ちなみにアメリカは前者が54万5,108人、後者(負傷)が67万0,846人です。
 中国欄を見れば、「死者および行方不明」が150万人 、「負傷」が200万人 と記載されていますので、行方不明を含めた死傷者は350万人 となります。

 この数字が絶対的に正しいとは言えないでしょうが、1963年版ということから考えれば、戦後も15年以上経過した後の数字ですから、かなり調査が進んだ時点のものと推測できるでしょう。
 数字が中華民国政府が東京裁判に出した死傷者321万人(含む行方不明者)を少し上回る数字ですので、この350万人が、信頼性という点で一定の水準を示している と考えるのが妥当だろうと思います。

 また、インドの死者・行方不明はわずか4万8,674人 、負傷者は6万5、174人 となっていて、350万人の餓死者はどこかに消えた格好になっています。ベトナム、インドネシアについては国名があがっていません。ちなみに、日本の「死者および行方不明」は256万5,878人、「負傷」が32万6,000人となっています。

6  アメリカの『軍事史百科事典』から


 権威があるとされる米国の『軍事史百科事典』に次のように書いてあるとの報道(2002年8月11日付け産経)がありましたので、紹介しておきます。
 第2次世界大戦中の中国人の人的被害は、「軍人の死者50万人、傷者170万人、民間人の死者100万人 」としていますので、軍民の死者は150万人になります。
 この数字は「Collier's Encyclopedia」と比べれば死者数(行方不明含む)は一致、負傷者は30万人多い200万人ですから、それほど大きな差ではありません。

 要するに中国のかかげる数字はプロパガンダ、簡単にいえばデッチ上げなのです。それを真に受けて大々的に報道するやら教科書に載せるやらして、今度は日本発として海外各国にとどけられ、今度は日本叩きの材料にされるのですから、われわれ日本人はお人好しだと済ませられる話ではありません。
 でも、日本人(政府も国民も)の反応の鈍さ、あきれるしか方策がなさそうです。


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