― ウラ付け取材なしの断罪報道 ―
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1994(平成6)年11月5日付け毎日新聞(下写真、一部カット)は、「ハノイ4日共同」として、
「旧日本軍の蛮行」非難 「200万人餓死事件」
ベトナムが特別報告書
の見出しを掲げて、以下のように報じました。
ベトナム労働・傷痍軍人・社会事業省が『ベトナムにおける日本ファシストの犯罪』と題した208ページの特別報告書をまとめ、このなかで「日本軍の犯した4つの大罪」として、
@ 独立戦争の妨害
A 経済破壊
B 大量の人民殺害
などを指摘して、ベトナム北部で、「200万人以上が餓死した」としています。
毎日記事から一部を引用します。
〈共同通信が入手した報告書は、同省が1986〜87年にフランス統治下の公文書、新聞記事などを基にまとめたもので、旧日本軍の食料、資産調達を詳細に再現するとともに「日本軍は指示に従わない住民を野蛮な拷問にかけた」として、その非人道的行為を糾弾している。この種の資料が明らかになったのは初めて。
報告書によると、(19)40年9月にフランス領インドシナ(現ベトナム)に進駐した旧日本軍は、その年の3ヵ月間だけで46万8千トンのコメを調達、44年までに計約355万トンを調達した。当時、北部デルタで収穫される夏・秋米は、毎年、約108万トンとされており、年によってはほぼその全量を旧日本軍が調達したことになる。
この結果、冬・春米の収穫を加えても、44年11月から45年5月までの間、北部デルタの住民約1千万人に残されたコメはわずか95万トン。「これは750万人が辛うじて飢えをしのぐだけの量で、国内での食料輸送も厳しく制限された200万人以上が餓死した」としている。〉
この報道は共同通信社の配信によるものですので、外国に特派員を置く余裕のない地方紙の多くは、共同通信の配信記事に、独自の見出しをつけて多数が報じたはずです。
共同通信社は、旧日本軍の悪行となると熱心に配信する、しかし、日本側のウラ付け調査をしないこと、朝日新聞社などと同体質といってよいでしょう。共同通信なしには地方紙は成立しえませんので、それだけ共同通信の影響力が大きいことになるわけです。
上写真は1994年10月28日付けの「河北新報」(宮城県中心に約50万部)で、「ハノイ27日共同」として、この「200万人餓死事件」を大きくつたえました。
「日本の戦争責任を追及」などとした大見出し、「・・通達文書の中で日本の戦争責任を厳しく追及し、今後、日本政府に謝罪と補償を求める可能性を示唆していることがわかった。・・」などとするリード文は、河北新報が書いた独自のものでしょう。
もちろん、河北新報に日本側の裏づけ調査をする意思はないでしょうから、配信記事にこのような見出しを凝らして報じることになります。
河北新報は、翌年(1995年)の8月27日付でも、「主因は旧日本軍の食料調達」「初の日越学術調査」の3段見出しをつけて以下のように報じました。もちろん、共同通信の配信記事です。
〈・・92年から始まった調査は、ベトナム側約20人と東大の古田 元夫教授(ベトナム現代史)による合同調査として行われた。〉
〈原因について「日本人とフランス人が犯人だが、日本人に主要な責任がある」と断定しており、日本の戦争責任と絡んで今後議論を呼びそうだ。〉
というものです。
ここでも“加害者”とされた日本側の調査が抜けた「学術調査」であることを見落とさないでください。このような調査結果を何の疑問を持たないままに配信する通信社、それらをためらうこともなく掲載する地方紙、中央紙。ここでも同一のパターンが繰り返されているのです。
こうしたことが、毎回のように日本各地で起こるのですから、たまったものではありません。その結果、日本人自身の歴史イメージ が歪められ、日本人の「負の遺産」としてわれわれが背負わされるのです。現にこの事件、すでに高校用「歴史教科書」に採用されていることからも明らかでしょう。例によって例のごとしです。
〈米を略奪されたベトナムでは飢饉も加わり、約200万人の餓死者を出すほどであった。
また、日本軍はシンガポールでの多数の華僑を殺害したように、占領支配に対する抵抗に残酷な弾圧をくわえたが、
各地で日本軍に対する抵抗やゲリラ戦が根強くおこなわれた。〉
(三省堂、『明解日本史A』)
『ベトナム“200万人”餓死の記録 ―1945年日本占領で―』(大月書店、1993年)という本があります。著者は早乙女 勝元で、現地の村落を調査したうえで書いたとしています。
巻末の参考資料を見ると、『ベトナム―200万人も餓死させたのはだれか』(「前衛」、1991年4月号)など、いろいろとあるようです。
早乙女はフランス植民地時代に税務署だった「革命博物館」を訪れて、日本の侵略に関する一室に足が釘づけになったといいます。そこには、「それだけは見落とすわけにはいかなかった」という展示された何枚かの写真を見て、
〈それぞれが、新聞紙の半面ほどで、そう大きなものではない。さりげなく掲げられたという感じだったが、累々と何層にも積み上げられた頭蓋骨の山また山に、まず目がとまる。シャレコウベはぽっかりと開いた二つの眼窩に、前歯をむき出しにしている。うらめしげに口腔を開いているのだった。・・〉
と書いています。
この「200万人餓死事件」の出所は、1945(昭和20)年9月2日、ホー・チー・ミン臨時政府主席がハノイのバーディン広場の群集の前で読みあげた「ベトナム民主共和国独立宣言」のなかの次のものだといいます。
〈1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のため基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の2重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クワンチ(中部)からバックボ(北部)にいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。〉
もう一例あげます。
野田 正彰・京都造形大学教授は『戦争と罪責』(岩波、1998年)のなかで、200万人餓死を「日本軍の侵入が引き起こした大災害である」と断定します。
野田教授は中国抑留者である榎本 正代証言を引き合いに、「淳君殺害事件」について「毎日新聞」に論考を寄せていたことは、すでに報告 (⇒ 榎本 正代証言)したとおりです。
この「餓死事件」について胡散臭いと思い、基礎的なことを調べ始めていました。ところが、その後、「当事者の反論」がつたえられ、さらに「決定的ともいえる報道」がありましたので、調査は不要と判断しました。
したがって、以下、当事者の反論ならびに、「200万人餓死事件」が政治宣伝だったとする報道を引用しながら要点をお知らせします。
日本軍が北部仏印に進出したのは、1940(昭和15)年9月のことでした。日米開戦の数ヵ月前のことです。このときから敗戦に至るまで、日本軍がベトナムを占領、支配していたと短絡するのは間違いです。
1940(昭和15年)の7月、この地の支配者であったフランスはドイツに降伏し、フランスに対ドイツ協調の「ビシー政権」が誕生しました。
日本は仏印に航空基地、港湾施設の確保が急務であったため、仏印と交渉のうえ、日・仏印軍事協定の調印に持ちこみます。ですから、日本軍は占領軍としてではなく、進駐軍として駐留したことになります。
やがて、ドイツは連合軍に遅れをとり、ビシー政権が崩壊することになるのです。
(1) 中山 二郎の反論
中山は毎日新聞の記事を読み、
〈「日本ファシストの犯罪」などとまことしやかに記事にしてあるのを読み、
事実無根、甚だしい虚構であることが、腹に据えかねたのであります。
老生は現在85歳、50年前に応召兵役の軍人として当時の仏印派遣軍の一員でありました。
当時の実情をありのままに述べて、わが国民が虚妄の宣伝に惑わされるのを防ごうと思いたったのでございます。〉
とし、自らの体験を月刊誌「正論」(1995年10月号、左写真)に寄せています。
記述によれば、中山は1939(昭和14)年5月、臨時召集により弘前の野砲連隊に入隊。北支、フィリピンのコレヒドール島要塞攻略戦などの作戦に参加した後、1942(昭和17)年12月、第21師団隷下・山砲兵第51連隊に属し、仏領印度支那にわたります。
第3大隊の副官(山砲51連隊)として、終戦まで仏印に駐留したといいます。引き揚げ後は山形商業高校など山形県内の学校長を歴任したとのことです。
そして、日本軍は占領軍ではなく、進駐軍であったとし、
〈半世紀前の仏印進駐の日本軍は、俗諺「居候三杯目にはそっと出し」の居候(いそうろう)の様に、仏印総督府と仏印軍に遠慮がちに日を送っていたのだ。〉
と、日本軍について説明します。
日本軍は、仏印総督府と協力して「援蒋ルートの遮断」を任務の一つとしていたこと。仏印はフランスを宗主国となし、総督はその出先機関、仏印軍は総督の管轄下にあり、その任務は防衛と、独立党の活動と反乱を防遏(ぼうあつ)し、鎮定することであった、ことなどを説明します。
そして、
〈要するにわが軍は、何事も控えめにして、仏印当局の悪感情を誘発する虞(おそ)れある行為を慎んでいたのである。占領軍でないのだから直接に一般民衆に命令したり、強制することが無かったのは当然である。〉
と説明を加えます。
1944(昭和19)年7月にはサイパン、10月にはアメリカ軍がレイテ島に上陸するなど、太平洋上の日本軍の全滅がつたえられ、ヨーロッパではフランスのノルマンディに連合軍が上陸し、ビシー政権は崩壊します。
仏印軍の日本軍への対応も変化し、いつ敵対するかもしれないと判断した日本軍(21師団)が1945(昭和20)年3月、仏印軍を攻撃、武装解除したものだといいます。
〈この作戦を安南人(ベトナム人)は三九事件と呼んだ。
安南人の多年の宿願たる独立を達するための最大の障害が無力になったのだから、
現地の住民が欣喜雀躍の有様であった。街を歩く日本兵士はどこでも笑顔で迎えられた。〉
ベトナムというとどこも暑く、米作に適していると私たちは思いがちです。
ですが、南部はどこも2毛作、ところによっては3毛作も可能ですが、ハノイを含む北部ベトナムは気温が低く、1毛作に限られているため、南部から北部へ毎年大量のコメを南北縦貫鉄道を使って輸送していました。
つまり、北部は南部からのコメ輸送に頼らなければやっていけない構造になっていたのです。
中山は言います。
1943年末頃から、米軍機が兵営の上空を通過するようになり、あとで分かったことだが、「米軍機の飛来の主目的は鉄橋の爆破」だったといいます。このため、食料輸送が途絶え、北部住民に飢餓をもたらしたというのです。
これらをもとに、
・ 日本軍は仏印総督府と協力関係を維持しつつ文明から遠く離れた僻地に遠慮深く生活していた。
住民たちからの強制調達や住民への暴行は事実無根である。
・ 21師団は多くみても25,000人。1人1日コメ5合(750グラム)として、師団全員のコメ消費量は、1日18,750キロ。1年間の所要量が6,843.75トンという計算になる。
ところが、報じられたベトナム側の発表の46万8000トン(初めの3ヶ月間)が正しければ、日本軍が68年分以上のコメを調達したことになる。また、355万トンは日本軍の消費量の518年分になり、正気の沙汰ではない、などとし、
〈報道や議論の中に数字が出ると、一般に報道や主張の信憑性を濃くするが、叙上のベトナム側発表は正に虚偽の馬脚を現したものである。これは途方もなく真実から遠く、悪意をこめた罵詈ざん謗である。〉
と説明を締めくくります。
(2) 産経新聞の報道より
高山 正之・帝京大学教授は産経新聞編集委員時代、土曜ごとに書いていた「異見自在」のなかで、この問題に終止符を打つ事実を報じました。1999年7月17日付の「学識経験者って何者だろう」とする見出しのものです。
ハノイの中心街にある元フランス植民地の徴税局が、いまは革命博物館に装いを変え、フランス植民地時代のギロチンや拷問道具、ベトナム戦争時代のボール爆弾など100年におよぶ戦いの記録が展示されていたといいます。
この革命博物館は上述の早乙女勝元が訪れた博物館と同一の所でしょう。
館内の「日本軍との戦い」という部屋をのぞいてみると、「日本軍のためハノイでは200万人が餓死したり殺されたりした」との説明書きがあり、山積みされたガイコツの写真が掲げられていたと書きます。
でも、素朴な疑問があると高山は言います。
〈日本軍がベトナムを支配したのは昭和20年3月、
クーデターを起こして仏植民地軍を追っ払ってから終戦までの5ヵ月間。
どうやれば、そんな短期間に200万人を餓死させられたのか。〉
「日本はここ(ベトナム)でも残虐行為をしていた」とベトナム研究で知られる東京の某大学教授は、高山のこの疑問に「へっ」「日本の支配って5ヵ月間なの?」という話が紹介されていて、笑ってはいけないところでしょうが、笑ってしまいました。「東京の某大学教授」が日越学術調査にあたった教授と同一人物かどうか、名前が伏せられているので分かりませんでしたが。
この餓死の問題について、高山記者を案内したハノイ人民幹部は、「政治宣伝だった」とアッサリ認めたというのです。
〈あの当時、ハノイ大洪水と干ばつに交互に見舞われ、多くの餓死者がでた。
それを時期的に合うので日本軍と結び付けた。
ただ、南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで、
だから日本にも50万、いや5万ぐらいの責任はあったはずだ。〉
またこの飢餓のなか、「日本軍は仏植民地政府から食料を買い、われわれが街角で炊き出しをして市民に配ったものです」という落合 茂・ハノイ高射砲部隊兵長らの証言も紹介されていました。
以上のような次第で、「5万人ぐらいの責任」かどうかはともかく、事実関係はハッキリしたといってよいでしょう。
となると、「200万人を餓死させた」とする日本軍糾弾の新聞報道や多数の「論文」は一体、何だったのでしょうか。
それが、検証もされずに日本の「歴史教科書」にあっという間に採用される、毎度のパターンがここでも起こったわけです。
先入観とは恐ろしいものです。日本軍となれば、何でもクロに見えてしまうのですから。それとも、糾弾することが「善行であり正義」とでも錯覚しているのでしょうか。なんとも不思議な日本人識者たちです。