―人の好い日本人は簡単に騙される―
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大石橋にあった南満州鉱業(以下、南満鉱業)の万人坑ついて少し詳しく記すことにします。
というのも、この万人坑こそが、万人坑問題の原点だからです。累々とした人骨を並べた展示館、それを朝日新聞の連載によって知らされた日本人の衝撃は大きなものでした。これから先も、良心的日本人が現地を訪れては中国に謝罪し、日本の過去の糾弾に精を出すに違いありません。
ですが、万人坑なるものがデッチ上げであることに疑いはありません。以下をお読みいただければ分かるはずです。
朝日連載「中国の旅」によれば、南満鉱業の万人坑は分かっているだけで3ヵ所、そのうちの一つ、犠牲者が1万7000人だという虎石溝万人坑 (こせきこう まんにんこう) が発掘され、その上に白骨遺体を並べた展示館が建っていることは、前述したとおりです。
本多 勝一・朝日新聞記者がこの展示館を訪れたのは1970(昭和45)年6月末のことで、その模様とよってきたる原因が「中国の旅」で報じられるや、日本軍ばかりでなく民間人までもが行った現地の労働者に対する残酷な仕打ちを、歴史学者やジャーナリストを含め、ほとんどの日本人は何の疑いも持たずに信じてしまったのです。
本多記者は以下のように報じます。
〈 仮に1日平均20人が“消 耗” されるとしよう。
100日で2000人、1年間で7300人に達する。
「万人坑」 という言葉のように、1つの万人坑を1万人とすれば、
この大石橋にある3つの万人坑(3万人)ができるまでに、ほぼ4年あればよい。〉
本多記者のいう虎石溝万人坑はもちろん、他の2ヵ所(全部で5ヵ所とも)もすべて「デッチ上げ」 ですが、その根拠を記していきます。といっても、真贋を知るだけなら話は実に簡単で、書けば1行で済んでしまいます。
ですが、本多記者や朝日は抗議にもかかわらず、「デッチ上げ」を認めようとはしません。かといって加害者側(日本側)を調べようともしません。そのうち、立ち消えになると高を括っているのでしょう。そこで、もう少し周辺状況を書いておくことにします。
(1) 南満鉱業について
溶鉱炉の炉壁に耐火レンガが使われます。この耐火レンガなどの材料となるマグネサイト鉱石 を採掘、これを工場の窯(かま)で焼成し、マグネシア・クリンカーを製造する、これが南満鉱業の主要な事業でした。
創業は1918(大正7)年、満鉄が持つ採掘権をもとに、満鉄の傘下として発足しました。
しかし、主力の硬焼マグネシア・クリンカーが需要予測ほどに伸びず、給料の支払いにもことかく有様で、減資に追い込まれるやら、会社の存続が危ぶまれる時期もありました。息を吹き返したのは1933(昭和8)年頃、景気が全般に上向いてからで、1938(昭和13)年には満鉄の下を離れ、満州鉱業開発の一員になりました。
さらに、三菱商事などの資本を得て、袋に三菱のダイアモンドマークを付け、一時はアメリカ、ドイツにも輸出していました。外貨獲得も大きな目的だったのです。
採鉱現場の位置関係を知るために、上図をご覧ください。
満鉄線の大石橋(だいせっきょう)駅から満鉄所有の引込み線が南満鉱業の本社前まで敷かれていました。
主な採掘現場(ヤマ)は聖水寺、小聖水寺(しょうせいすいじ)、それに青山杯(チンザンハイ)の3ヵ所ですが、聖水寺は古い鉱山のため採鉱量が落ち、小聖水寺 と青山杯 が主要な鉱山となっていました。
また、工場は本社に近い大石橋工場と聖水寺工場の2ヵ所でしたが、新しい設備を有した聖水寺工場が主力でした。
聖水寺と小聖水寺の間約5キロ、聖水寺と本社前までの約4〜5キロは南満鉱業の私線、軽便鉄道 が敷かれていました。鉱石運搬用に設けられたものです。聖水寺と青山杯の間は鉄道はなく、空中索道 をもって結ばれていました。もちろん、鉱石を運ぶためのものです。
小聖水寺から歩いて数分、丘の中腹に刑務所がありましたが、この近くに問題の虎石溝万人坑の展示館が位置しているものと思われます。
採鉱量は創立時の1918年に5,000トンでスタート、1932(昭和7)年に2万5,000トンに、1937(昭和12)年には28万6,000トンと伸ばしました。終戦に近い時点で、日本人職員は約 500人、主に採鉱にあたった工人は約 6,000人を数えました。
(2) 資料について
残る資料は多くないようです。会社概要など一般的なものは『満州開発四十年史 下』(満史会編、1964年)などで分かりますが、社員数、工人数、あるいは給与面など待遇についての記述はありません。
幸いなことに、1944(昭和19)年8月発行の『南満鉱業株式会社二十五年史』(全136ページ、下左画像)が残っていました。元職員の本田 秀雄が所持していたもので、コピー(全ページ)は私の手元にあります。一部の大学図書館に保存されているようですが、個人所有で所在の分かっているのはこの1冊だけと思います。
(注) 2013年6月、山辺 昭紀氏より上記の『南満鉱業株式会社二十五年史』を所有しているとの連絡があり、私の手元で保管するようにとご提供いただきました。重要な基礎資料ですので大切に保存いたします。
この『二十五年史』には、「会社の災禍」「会社の福祉施設」とした項目もあり、これに元職員から得た証言を加えれば、相当のことがわかります。
また、採鉱課長であった橋口 平八郎が残した「南満鉱業株式会社 マグネサイト鉱山概況」と題した手書きの資料 (B5版12ページ、1951年記述、2枚目写真 )があります。橋口元採鉱課長は冒頭、以下のように記しています。
〈本書は終戦後5ヵ年、昭和26年1月、東亜に於ける地下資源の資料として当局よりの依頼に応じ、
専ら(もっぱら)記憶を呼び起しつゝ点綴したものである。小生は約10年間、
計画から施工、生産迄、直接本事業を担当したので、全体的には間違いは少ないが、
数字は参考資料が無いから不正確は免れない。
工場と言い、鉱山と言い、彼の大規模の堂々たる偉容が今日、
中共治下で廃墟の如きであろう事を想像して感慨無量である。彼の悪夢からのがれるために、
過去の一切を忘れようと努力して来たのだったが、書かぬ訳にも行かぬ。
折角の機会だから出来るだけ詳しく書いた。後に残すのも無意義ではあるまい。〉(全文)
文中、「当局」の依頼とありますが、当局がどこを指したものかわかりません。
なお、「中国の旅」の連載直後、南満鉱業の社友会で問題となり、会を代表して専務取締役であった原田 元俊 (写真左側) と橋口 平八郎採鉱課長の2人が抗議のために朝日新聞社を訪れていました。
ですが、「玄関払いも同然」 の扱いを受けたといいます。
抗議時の様子は、社友会の世話人であった本田 秀雄(既出)から聞き取ったものですので、正確なものと思います。また、後に本田 秀雄は朝日新聞社の編集局長あてに抗議文を送っています。これに対する朝日回答は後述いします。
この回答を見ても、朝日という報道機関は会社も記者も表面を取りつくろうだけで、報じた記事に対する責任などどこ吹く風、事実を明らかにする誠実さのカケラもないことがよく分かります。
このほか参考資料として『堀尾 成章追悼録』(1946年3月刊)があります。
堀尾は南満鉱業の専務取締役や関連会社の社長を歴任、1944(昭和19)年2月に鬼籍に入りました。したがって、追悼録出版は戦前に企画されましたが、物資不足等の理由により、延び延びになって戦後になって刊行されたものです。
つけ加えますと社長は高木 睦郎 (写真右側)、読売新聞の中国通として著名だったコラムニスト高木 建郎 の叔父にあたります。高木社長は現地にいること少なく、もっぱら東京にいて政治向きの仕事をしていたようです。戦後は熱海の自宅から東京駅に近い三菱街の会社に出ていたとのことでした。
真贋の判定はたった1行で済むと書きました。その根拠を示しましょう。
(1) 全山が露天掘り
南満鉱業の採鉱所は全山が露天掘り 、坑内掘りは南満鉱業の歴史を通じて1ヵ所もありませんでした。この1行で答えはすでに出ているはずなのです。
坑内掘りはない、しかも石炭と違ってガス発生のおそれがないマグネサイト鉱石の採掘。となれば、とくべつの知識がなくても、死者に結びつくような事故は少ないだろうとおおよその見当はつくでしょう。
採鉱の経験者なら万単位の「ヒト捨て場」を即座に否定するに違いありません。天災としかいえないような大事故が起こらないがぎり、百単位の死者だっておよそ馬鹿げているからです。
写真は『二十五年史』に載る採鉱現場です。
どこのヤマか記載はありませんが、元職員によれば小聖水寺ではとのことでした。写真だけでもかなりのことが分かります。
この現場は撫順炭鉱の露天掘りの写真と見比べれば分かることですが、傾斜がゆるやかなことです。どの現場も平地またはなだらかな丘陵地帯だったと元職員の多くが指摘したことです。
写真中央の少し右に寄ったところ、斜めに頂上に向かった広い道のようなものが見えるでしょう。ここに鉱石を運ぶための軌道が敷かれていました。上方に巻き上げ機が設置され、車両を上下にコントロールします。
この中央の軌道と交差して階段状の層が左右に延びています。露天掘りで普通に使われる階段掘りで、各階にも枝分かれした軌道が設けられていました。そして、必要に応じて発破をかけ、採掘した鉱石を車両に積み込みます。
さらによく見ると、小さいながら車両がいくつか見ることができます。この鉱石を積み込んだ車両はヤマの麓に下ろされ、砕石してここまで通じている軽便鉄道の車両に積みかえます。
車両は3トン車でおおよそ15両連結、ドイツ製の機関車で運行していました。1両は通勤用とのことです。そして、満載した車両、あるいはカラになった車両が聖水寺や大石橋工場の間を行き来することになります。
(2) だから、死者はほとんど出ない
坑内掘りがないということは、採石中に起こる一酸化炭素中毒や炭塵による爆発事故は皆無、また坑内掘りゆえに起こる天井や側壁が崩れ落ちる落盤事故もなくなります。
また、坑内の狭さゆえに起こる炭車などとの接触事故も極端に少なくなります。ですから、死亡に結びつく事故はそうは起こらないのです。
以前、撫順炭鉱について調べたのですが、露天掘りの死傷者数は坑内掘り死傷者数の3〜4分の1以下、死亡者に限れば 10分の1以下に減少します。
念のために書いておきますと、撫順炭鉱の坑内掘りによる採炭量と露天掘りによる年間採炭量はほぼ同じで、1944(昭和19)年度を例にあげますと、坑内掘り227万トン、露天掘り246万トンでした。
・ 坑内掘り事故 ワーストスリー
参考になる撫順炭鉱の統計を簡単に見ておきましょう。
資料は「撫順坑内掘公傷者数」で、「坑 内」 と「坑 外」に分け、20ほどの原因別に1936年から1939(昭和14)年までの4年間の公傷者数を示されています。
坑内で起きる通常の事故のワースト・スリーを順にあげれば、どの炭鉱でも似たようなものでしょうが、
・ 天井の落盤
・ 炭壁の落盤
・ 炭車による事故(主に接触事故)
でした。
1939年の分を見てみますと、天井落盤が原因で24.6%の人が、炭壁落盤で11.2%、炭車で13.3% の人が公傷者(日本人、満人の合計)になっています。ですから、ワースト・スリーの合計49.1% 、つまり公傷者の約半数がこの3つの事故によるものなのです。ただ、炭塵爆発、ガス爆発は起これば大惨事になる可能性が大きくなりますので、起こった年と起こらない年とでは、死傷者数とくに死者数に大きな差が出てきます。
(3) 年間死者数は1人か2人
そこで、撫順炭鉱の死亡者統計などから南満鉱業の大雑把な死者数を推定することが可能です。
・ 終戦1年ほど前の1944(昭和19)年9月末、撫順炭鉱で働く日本人は約1万3千人、工人を主体とする現地人(満人)は10数万人 を数えました。
手元の資料によれば、1938(昭和13)年10月末の工人数は約4万1千人でしたから、この後、戦争のために増産が計られ、工人数が急増したものと思われます。したがって、年度によって工人数に差が出るのでしょうが、1940年頃は「工人5万人」といわれていたそうです。
・ 一方の南満鉱業の工人数は、「現在数は5,500人から6,000人に及ぶ」と『二十五年史』に出ていますので、おおよそ5千人〜6千人 であったことがわかります。
また、「年度別1日当り稼動工人数」が棒グラフ(左写真)で表わされています。大正7(1918)年(左端)から昭和17(1942)までの25年間です。統計は「稼動工人数」を示したものですから、単純に工人数にはなりませんが、十分参考になるでしょう。
これを見ますと、最初の年(1918年)は100人程度でしたが、1935(昭和10)年になると1,000人を超え、1937 (昭和12) 年に約2,000人、1939年には約4,400人と急増しています。
ピークは1940年で7,500名弱 、1941年になると逆に低下して7,000人、1942年はさらに低下して6,000人(右端)となっています(1943年以降は記載ナシ)。
低下した理由は、戦争のためにアメリカ向けの輸出はできず、マグネシア・クリンカーの重要度が相対的に低下したのではと、元職員の1人が指摘していました。
以上のことから、工人数から見た南満鉱業の規模は撫順炭鉱の10分の1程度、終戦に近づけば近づくほどこの差は開いて、20分の1程度になったことでしょう。
・ 撫順炭鉱の統計から、露天掘りの死者が出る割合は坑内掘りの10分の1以下(一定の作業時間当たり)であって、年間の平均死者数は大雑把に言って約200人です。
以上のことから、南満鉱業の工人数は、撫順炭鉱の5万人と比べて約10分の1、10万人超と比べれば20分の1以下となります。
かりに南満鉱業に坑内掘りがあり、また作業条件に大きな違いがなければ、南満鉱業の死者数は200人の10分の1と計算すれば年間20人程度、20分の1と考えれば10人程度になります。
なお、作業条件という点では、撫順炭鉱の露天掘りの方が、写真を見れば分かるように急斜面でしたから、段差が急でより難しい作業環境だったのでしょう。
また、全山露天掘りゆえに死亡率は坑内掘りに較べて10分の1以下と推定できますので、南満鉱業の年間死者数は20人の10分の1、つまり2人以下、あるいは1人程度ということになるでしょう。
年間の死者が「1人または2人以下」 という推論を見て、何となく誤魔化されているように思ったのではありませんか。なにせ、虎石溝だけで1万7000人とか、3ヵ所の万人坑で5万人とかいうケタ外れの犠牲者数を朝日新聞で教えられたのですから、違いが大きすぎ信じられなくて無理はないかもしれません。
ですが、何もごまかしてはいません。先入観を持たずに少し調べ、常識を働かせれば大差ない答えはでてくるはずです。ハッキリ言えば、われわれ日本人の人の好さにつけ込まれ、中国の代弁者である朝日新聞やほかのメディア、大学教授らに思い込まされただけなのです。
もちろん、南満鉱業が無事故つづきというわけではありませんでした。
(1) 最大の死傷事故・・死者6名の脱線転覆事故
南満鉱業の社史である『二十五年史』 は「会社の災禍」 という一項(2ページ分)を設け、以下のとおり書き出しています。
〈会社4半世紀の歴史を顧(かえりみ)れば、其間不慮の災禍は、
得て免がれる事の出来ないのが通念である。
殊に当社の如き1日の労働者数五、六千人にも及び、其間(そのかん)、
爆破に依る採掘作業に従事する者もあれば、又電車線は約〇余キロに垂(なんなん)とし、
索道亦た起伏重畳の間を縫うて〇〇キロの長きに亙(わた)って居れば、
其間相当の災禍に見舞われて居ると想像せらるるは当然であるが、実際は僅少である。〉(〇は伏せ字)
そして、5つの災禍をあげています。
そのうち、昭和16(1941)年7月12日夕方、軽便鉄道の脱線事故を死傷事故の最大のものとして記しています。
記述によれば、事故は聖水寺と小聖水寺との間を走る砂石を積んだ5両編成の車両が、たまたま小雨の降るなかでスピードを出しすぎ、このため急カーブを曲がれずに脱線。作業を終了した工人が積荷の上に乗っていたため、死者6名、重傷15名 を出したとしています。
そして、重傷者はトラックで満鉄病院(大石橋の市街地)に運び、「万全を盡くした」 と記しています。
この事故は、私の会った古い職員のほとんどが記憶し、在職中の最大の事故だったと異口同音に話していました。
事故を知って現場に行き、後片付けをし、テントを張って葬儀の用意をした小林 一男 (後出)、聖水寺から僧侶も加わった葬儀に出席した木村 一彦ほか数人から、詳しい当時の状況を聞き取りました。
話によれば、運転手(現地人)がカーブで十分、スピードを落とさなかったのが原因ではなかったかといい、走行中の車両に乗るのは禁止されていたものの、走れば簡単に飛び乗れる程度の速度だったために、付近の住人の足になっていたこともあって、日本人も含め、あまり守っていなかったとのことでした。
話は『二十五年史』 の記述とほとんど違いはありませんでした。僧侶は黄色の袈裟を着けていたと記憶する人もありました。
もっとも、「中国の旅」によれば、中国人死者40人、重傷者100人余となり、転覆の原因は変電所の落雷防止のため、「木内」という電気係主任が無警告で電源のスイッチを切ったからだとしています(後 述)
これ以外の「災禍」として、リグノイド工場の半焼(1919=大正8年)、大石橋第1工場上屋の焼失(1939=昭和14年)などをあげています。しかし、現地人が死傷した「災禍」は出てきません。
(2) 元職員の証言から
南満鉱業の職員32人(生存者の約半数にあたります)と夫人、大石橋に住んでいた人を含め50数人と直接会い、あるいは電話や手紙で話を聞きました。
万人坑について、「見たことも聞いたこともない」「あるはずがない」と回答は一致しています。
工人と接触の多かった元労務課員・牛田 竹雄は朝日報道を知らなかったといい、私の持参した文庫本『中国の旅』の写真をまじまじと見つめていました。しばらくしてから、低い声で「こんなもの絶対になかった。誰に聞いても答えは同じはずだ」「こんなことをしても誰の得にもならないではないか」などと言い、当時の工人の様子をいろいろと話してくれました。
東京・大森の自宅に訪れた日が土砂降りの雨だったこともあって、今もよく憶えています。
・ 小林 一男 証言
職場にはよく「生き字引」といわれる人がいます。
終戦時、青山杯の採石場の責任者だった小林 一男(前出)もその1人でしょう。
氏は1936(昭和11)年入社、終戦までの9年間を南満鉱業に勤務、1946(昭和21)年8月、夫人、子供とともに無事、日本に引き揚げてきました。小林が「兵役免除」になったのは、火薬使用量に制限がない「甲種火薬類資格免許」 をもっていたためだったとのことです。
記憶力も確か、経験も豊富でしたから、自宅に2度訪ね、多くのことを教わりました。
聞き取りは多方面にわたりましたので、ここではそのうちのいくつかをお知らせします。また、月刊誌「正論」の座談会に同僚の4人と出席しています(後述)。
「中国の旅」連載を見て、小林はおかしいと思ってすぐに朝日新聞に投書したものの掲載されず、また、朝日から電話1本なかったと言います。そして、私の主要な問いである万人坑( =ヒト捨て場)の有無について、「そんなものないね」 と言下に否定しました。
職場の一つであった青山杯(チンザンパイ)と聖水寺との間は鉱石運搬用の空中索道で結ばれていましたが、鉄道がないため、現地に作られた日本人宿舎に寝泊りし、月に2、3度、自宅(社宅)に帰る生活だったといいます。
日本人職員は全部で約30人、工人は近くに用意された工人宿舎から現場に通っていました。ほんの4、5分の距離だったとのことです。
工人宿舎が「鉄条網で囲まれ、宿舎はすべてムシロのテント」 だとする「中国の旅」記述について、宿舎はレンガ造り、鉄条網ナシ、オンドルは必ず設けられていたといいます。
これは、撫順炭鉱の工人宿舎でも同じことでした。
そして、「死者が出る事故など起こりようがないのですよ」と話します。なだらかな斜面を爆破したあとに採石するのだから、というのです。
爆破もダイナマイトより爆発力が弱く、安価な硝安を使用していたし、死傷者の出るような事故が起こることはなかったと話します。
小林が聞いた青山杯の事故として、バケット(空中の鉱石入れ)がはずれて落下、工人1人が死亡したものだといいます。バケットに乗るのは禁止されていましたが、聖水寺まで足がないためよく利用され、雨の日は傘をさして乗るのだといい、小林自身も何度か乗ったといいます。
「中国の旅」は、工人の労働時間について、時計を無視し星を基準とし、星の消える夜明けに出勤、暗くなって星が出はじめるころに仕事終了、冬でも12時間、夏だと15時間を越える重労働だったとの記述について、「そんな暗いうちに仕事はないですよ」といい、暗い中では作業のしようもなく、第一危険だと指摘します。
工人は昼になると宿舎にもどり、そこで昼食を作ってとるのだともいいます。夏でも6時半には作業を終えていましたと言い、「工人頭はみんな時計を持っていましたよ」と説明します。
そして楽しみといえば、酒とマージャン。工人頭とよくやったといい、「24点になるとすぐあがれるので、いい手が出来ないうちに簡単に和了となります」といい、だからあまり面白くはなかったと笑いながら話してくれました。
一般の工人はマージャンをやらず、メンコのような紙に絵を画いたもので、タバコを1本、2本と賭けて遊んでいたそうです。
戦後は社宅にもどり、現金収入になるからと中国人街に床屋の出張サービスにでかけ、助産婦だった夫人は呼ばれては近くの村まで出かけています。日本人助産婦は清潔だからと現地の人に人気があったというのです。中国人街や農家に出かけるのを怖くもなかったし、怖い目にあったことはなかったといい、恐怖の対象だったのは中国人ではなく、やたらに銃を振り回す質の悪いソ連軍の兵士だったとのことでした。
(3) 元職員の座談会
「中国の旅」が報じた撫順炭鉱と南満鉱業の万人坑を否定した私の調査報告 (月刊誌「正論」、平成2年8月号) を、本多 勝一朝日記者は「かなしい調査結果」 とくさしました。
これを読んだ元職員は猛反発、「私たちは万人坑なんて知らない」 と題した座談会が、同誌(平成2年10月号掲載)で行われました。出席者は既出の本田 秀雄、小林 一男、木村 一彦の3名に労務畑の高橋 壬五郎、工事事務課長の高山 茂雄の2名が加わりました。下写真は座談会の見出しのページです。
座談会は2時間近くかかりましたが、誌面に載ったのは7ページでしたから、ごく一部といっていいでしょう。車輌転覆事故にはじまり、工人の生活、刑務所の囚人、終戦後の生活や治安などが語られています。
以下、終戦後、工人はどうなったのか、また刑務所の囚人をどう扱っていたのかなどについて、この座談会も参考にしながら簡単に記しておきます。
・ 終戦とともに工人は解散
日本の敗戦も迎え、「ヒト捨て場」が事実なら、工人をはじめとする現地人が黙っているわけがないでしょう。それこそ凄惨な報復が起こって不思議はありません。もちろん、悪行を重ねてきた日本人は先を争って、この場を離れたに違いありません。
こうした疑問に対する答えは、木内 勝美 の「手記」が十分に説明していると思います。「手記」は大石橋・高等小学校の名簿(1984=昭和59年)に掲載されたもので、関連する部分を以下に抜粋します。
〈会社は3千の勤奉隊と6千の労務者を抱えて居る。
16日には一部不穏の形勢現れ、粉砕機のベルトを掠奪したり、倉庫を襲う者もある。危機は迫った。
吾ゝは早急に解散せしむる必要がある。徹宵協議の結果、工人の稼動賃を計算せしめ、
1人当りメリケン粉1斤(きん)、地下足袋1足宛て支給する事に決定、18日に解散式を挙行した。
此朝、製造所大広場は9千有余の工人集合、重役から一場の挨拶後、
各大隊長、各職場長(何れも満系)等が賃金及び物品の支給を受け、
本日解散する旨を述べると、満場一斉に歓声が揚がった。
近隣は徒歩、遠くは吉林方面帰還の者は列車が用意された。
帰途、吾ゝの列車と本線とのクロス点に差しかゝるや、恰(あたか)も、勤奉隊員乗車の列車が擦れ違った。
彼等は隊歌を高らかに歌い、手を上げ帽子を振り、別れを惜しんで北上した。〉
木内 勝美は終戦時、聖水寺工場の責任者だったとのこと、1961(昭和36)年に亡くなられています。
ですから、この「手記」は、朝日報道より10年も前に書いていたことになります。やはり南満鉱業の社員で、大石橋小学校の卒業生であった長男の隆氏がこの「手記」を提供して掲載されたとのことでした。
氏によれば、原稿用紙に書いたこの「手記」以外に書いたものはなく、またいつ書いたかは分からないとのことでした。次男(?)は「中国の旅」報道を読み、朝日新聞社に抗議に行ったとも話してくれました。
というのも、先の車輌転覆事故の原因が、「木内という電気係主任」が落雷を防ぐため無警告で電源のスイッチを切ったためと書いてあったからでした。
これも作り話といって間違いないでしょう。電気係の元職員・望月 常蔵からも話を聞いておりますが、木内氏は電気係ではないし、電源スイッチを突然切ることは絶対にないとのことでした。
なお、「手記」に「3千の勤奉隊」とありますが、勤奉隊というのは、1942(昭和17) 年11月に施行された「国民勤労奉公法」 に基づいて近隣の村などから動員された人たちです。主に兵役につかない男子でしたが、一部は女性も含まれていたようです。
ここ南満鉱業の場合、女性は鉱石の選別にあたっていました。具体的には小さな金槌を持ち、鉱石の不純箇所を叩いて落とすのだそうです。男性の場合は主に採鉱現場で働いていたとのことでした。
・ 刑務所と囚人
遺骨展示館が建っている位置は元刑務所の近くと思われます。刑務所とそこに働く囚人について、数人から聞き取りましたが、小林 一男がもっとも詳しい話をしてくれました。
刑務所は鉄条網で囲まれ、100人とも300人ともいう囚人がいたといいます。
上下にわかれたカーキ色の囚人服を着て、小聖水寺の採鉱現場で働かされていました。作業はハンマーを使用した砕石。一部の重罪人は徒歩で現場に着くと、足に鎖をつけたと小林は話しています。
刑務官はほとんどが満人でした。終戦とともに、囚人は解き放たれたとのことです(複数証言)。
・ 「ヤマは丸腰」
もう一つ、つけ加えておきます。ヤマの警備は「警護課」があたったものの、人数も少なく、拳銃などの武器は一切持たなかったし、持つ必要もなかったといいます。
小林に言わせますと、個人的にピストルを持った人はいたが、それ以外に武器を持つことはなく、「ヤマは丸腰」だったと説明しました。
満州事変(1931=昭和6年)の前後は治安が悪かったため、大石橋に駐留する守備隊が警備にあたっていたようですが、昭和10年代に入ると守備隊の警備はなかったといいます。これは守備隊員を含めての証言です。
以上のことから、朝日が10回にわたって報道した犠牲者1万7,000人の「ヒト捨て場」が、どう理屈をつけようと「デッチ上げ」以外のなにものでもない、という判断がつくと思います。