―「なかった派」の主張(その1)―
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中国主張の「30万人以上」 は別にして、日本人論者の間で「20万人以上からほぼナシ」 まで、見方が大きく分かれています。それぞれの主張にはそれぞれの根拠があることは一般論として理解できますが、この違いの大きさは、私たちにとって理解しにくいところです。
この違いは、一体、どこからくるのでしょうか。とりあげる個々の事例、事実の相違からくる違いなのでしょうか。それともとりあげる事例、事実はほぼ同じものの、解釈上の違いに起因しているのでしょうか。あるいはイデオロギー過多による偏りなのでしょうか。
以下、「なかった派」の主張とその根拠をまとめます。その後で、「大虐殺派」の主張と根拠を見、さらに「中間派」と私の見方を書きたいと思います。
念のために記しますが、殺害、強姦等の出来事について、城内で起こったことか、城外なのか を分けて考えることが必要です。これを分けませんといたずらに混乱しますので。
〈南京が陥落した当時、つまり日本軍の入城直前の市民数は「20万人」 、
入城の1週間後、2週間後も20万人という数に変化はなく、1ヵ月後は逆に「25万人」に増えている。
20万人だの30万人だのという大虐殺が事実なら、
城内は無人の廃墟になっているはずではないか・・。〉
という主張です。この数字が正しいとすれば、城内においては、大虐殺はおろか虐殺があったとしてもごく少数ということになってきます。
なぜなら、市民数の増加理由の説明がつかないからです。つたえられるような日本軍の蛮行がそこかしこで行われていたとすれば、城外に脱出していた市民の耳にもとどいていたでしょう。だれがそんな危険な城内にもどってくるでしょうか。
陥落後しばらくすると少しづつですが城内にもどる市民があり、通行の自由が増すにつけ、帰来する市民が増加します。ちなみに城内外の完全な自由通行は2月25日以降でしたが、2月はじめには顕著な流入があった(スマイス報告)とあります。
ですから、市民数の増加は虐殺などの非違行為が少なかった(言われるほど多くはなかった)ことの表れと読みとるのが素直で、実態に近いと思います。
ただし、この数字は城内に限ったもので、東京裁判の判決がいう「南京とその周辺」の「周辺」が入っておりません。つまり、「城外の虐殺」については別に説明が必要で、この城内の数字だけを見て、「南京虐殺はなかった」「ごく少数だった」という結論にはなり得ません。
ここで掲げられた市民数が正しいのか、その出所について記しておきます。
・ 国際委員会の書簡から
次の書簡に市民数にふれた記述がありますので、そこだけ書きぬきます。
第6号文書(12月17日付け、国際委員会委員長ラーベ⇒日本大使館あて公信)
「貴国軍隊が13日南京入城の際は、あらゆる市民はほとんど完全に難民区内に蝟集(いしゅう)し、・・」
「貴国軍事当局がただちに部下に対し紀律の厳守を命ぜざれば、20万難民の飢餓問題の解決は非常に困難と相成るべく候・・」
以上のことから、日本軍の一部が入城をはじめた12月13日の時点で、「市民はほとんど完全に難民区内」 に集まっていたこと、そして3〜4日後の17日の時点で難民が20万人であったことがわかります。つまり、難民区内の住民が、城内の住民のほぼ全数 というわけです。なお、南京を守備する兵士は別に考える必要があります。
難民区(安全区)に避難しなかった住民が多数いたのではないか、この人たちの多くは虐殺されたのでないかという主張については、少なくとも国際委員会のこの6号文書が退けています。避難しなかった住民が目撃されている例もありますが、それらは合わせてもごく少数だったといってよいのでしょう。
また翌日付け(18日付)の7号文書のなかでも、「難民区内20万の市民の生命・・」と書いています。
第19号文書(翌年1月14日付け、国際委員会⇒日本大使館 福田 定輔あて)
「貴方の登記せる市民は16万人に達し居るも、その中には10歳以下の子供を含まず、時にはわり合い年寄りたる婦女も含み居らざるをもって、本市の総数はおそらく25万ないし30万の間に候・・」
第23号文書(翌年1月19日付け、国際委員会⇒米・英・独大使館あて)
「諸氏は本市25万市民の生活問題に対し、何れも深く関心を抱き居るをもって、・・」
19号文書は、日本軍入城の約1ヵ月後、市民数が25万人から30万になったと、国際委員会が判断していたことを示しています。つまり、5万人〜10万人増えたというわけです。「貴方の登記せる市民」というのは、日本軍が12月下旬から、市民を残らず登録し、「良民証」を発行したことを指し、その数が16万人だったと指摘しています。
また、23号文書に「25万市民」とあり、24号文書、26号文書でも「25万」としていますので、「5万人増加」 は国際委員会の統一した見方であると解釈して多分、間違いないでしょう。
これらの数字は他の資料からも裏づけされます。ですから、以上の点だけからも、「城内における大量殺害」は退けられ、市民殺害があったとしても限られた数ではなかったか、とだけは言えると思います。
また、埋葬を手がけた紅卍字会による城内の遺体数が1,793体と報告されていることも参考になります(もちろん、1,793体が事実かどうかの検討は必要でしょう)。
さらに次の統計が、城内の殺傷行為の存否、その程度について、多くを語る重要な資料です。
「南京暴行報告」は、「難民区」における日本兵の犯罪行為を国際委員会が南京の日本大使館に抗議のために出したもので、444件(39件欠)が知られています。
この報告は徐 淑希・燕京大学教授が編纂した『南京安全区档案』(1939=昭和14年5月刊)に日本大使館に宛てた「国際委員会の書簡文」とともに収録されています。
「南京暴行報告」と「国際委員会の書簡文」は南京虐殺を検討するにあたって重要な資料であり、この半分程度がティンパーリィ編『戦争とは何か』に収められたことは既述しました。
@ 「南京暴行報告」が語ること
暴行報告のうち現存する「405件の記録」を殺人、傷害、強姦等に分類、集計したのが下記の2表です。
表は板倉 由明と冨澤 繁信(元日本「南京」学会理事)の労によるもので、前者は『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会、1999年)、後者は『南京事件の核心 』(展転社、2003年)に収められています。
冨澤の著作は副題に「データベースによる事件の解明」とあるように、「南京暴行報告」にとどまらず、多くの資・史料を基礎データとして、さまざまな角度から分析を加えています。
・ 板 倉 集 計
殺 人 | 傷 害 | 連 行 | 強 姦 | 掠 奪 ほか |
---|---|---|---|---|
49人 | 44人 | 390人 他 多数1件 数名2件 | 361人 他 多数3件 数名6件 |
179件 |
・ 冨 澤 集 計
出典 | 殺 人 | 強 姦 | 拉 致 | 掠 奪 | 放 火 | 傷 害 | 侵入ほか |
---|---|---|---|---|---|---|---|
暴 行 報 告 | 52人 (26件) | 175件 | 43件 | 131件 | 5件 | 39件 | 98件 |
「殺人」の項を見ますと「49人」(板倉)、「26件52人」(冨澤)とあり、両者の差はほとんどありません。「傷害」についても44人と39件で同様です。何千人、何万人というオーダーの虐殺数を突きつけられていることから見れば、なんとも拍子抜けする数字です。
強姦については、恥ずべき行為ですから少ないとまでは言えないにしても、「強姦2万件」 とは相違が大きすぎるといえます。
抗議のため日本大使館に提出されたこの「南京暴行報告」は、難民区内、期間は57日間、つまり約8週間ですから、国際委員会がすべての殺人を記録していなかったとしても、ここからも難民区内での殺害、つまり城内における殺害がごく限られたものであったらしい、とまでは言ってよさそうです。
ところが一方、444件におよぶ報告が、事実の記録ではないと推定しうる重要な証言が存在します。
A 福田篤泰 外務省外交官補の証言
まず、日本大使館員で通訳をつとめていた福田 篤泰書記官の話です。福田は戦後、国会議員を務めています。
〈ぼくは難民区事務所(寧海路5号)に時々行き、そこの国際委員会と折衝するのが役目であるが、
ある時アメリカ人2、3人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、
今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた ―といったようなレポートをしきりに打っている。
「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給え」とたしなめたことがある。
・・支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、
その後もぼくはいくども注意したものだ。〉
(田中正明、『“南京虐殺”の虚構』、日本教文社、1984年)
福田書記官は国際委員会からの苦情のいわば「受付け役」となり、かれらの抗議には「全くうんざりする思い」だったとも書いています。
同じようなことを、在南京ドイツ大使館のシャルフンベルク書記官も指摘しています。
B シャルフンベルク書記官の書簡
漢口のドイツ大使館あてに書いた1938年2月10日付けの書簡で、前出の「ラーベ日記」に収められています。
〈日本軍にとって、国際委員会はかねてからの目の上のこぶだった。
・・ラーベ氏は委員会代表として、並外れた貢献を果たしたが、
私のみるところ、アメリカ人にうまく手なずけられアメリカ人の利害、
そして信徒獲得に懸命の伝道団に肩入れしすぎている。〉
同じドイツ人であるラーべの活動をシャルフンベルクは批判的に見ていたことがわかります。
国際委員会のアメリカ人が一般人と思うのは誤りで、多くが宣教師であったという事実です。戦争当事者でないアメリカ人、イギリス人あるいはドイツ人たちを第3者つまり中立的立場にあったと思いがちですし、まして宣教師となればその傾向が強くなるでしょうが、やはりそれぞれの思惑があっての行動であったらしいことは、考慮に入れる必要があるでしょう。そして、
〈第一、暴行事件といっても、
すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。〉
と記してあり、福田書記官の認識とほぼ同一のものといえます。
ただ、シャルフンベルク書記官は日本軍に対し、以下のような厳しい見方をしていますので、同書簡から抜いておきます。
〈ラーベ氏も含め、ここにいるドイツ人は全員、アジアの戦争というものが、われわれの考えている戦争とは本質的に異質だということが身にしみてわかった。捕虜にしないということは、とりもなおさず冷酷な行為につながる。略奪などあたりまえで、まるで30年戦争の時代に戻ったようだ。〉
シャルフンベルク書記官のこの言は、日本軍の捕虜処刑を念頭に置いたものと読み取れます。
C マギー牧師の証言・・見た殺人は1人
また、「殺人」「強姦」となると必ずといって登場するのが、マギー牧師の東京裁判における証言です。ジョン・G・マギーはアメリカ人、国際赤十字委員会の委員長で、国際委員会の委員も兼ねていました。
東京裁判で検察側証人として出廷したマギーは、2日間にわたって日本兵の殺害行為、婦女暴行などについて、100件以上の証言を行いました。それらの証言の後に、ブルックス弁護人が反対尋問を行います。関連ヵ所は次のとおりです。
この証言によると、みずから目撃したのは殺人1人、強姦1〜2人というのですから、これも拍子抜けする話です。
となると、他の証言は伝聞ということになりますので、「すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」としたシャルフンベルク書記官らの言がここでも裏づけられます。
しかも、その殺人1人についても、歩いている中国人を日本兵が誰何(すいか)したものの、歩行を早めて逃げ去ろうとしたための発砲であって、どこの国の兵士でも同じような対応をとったことでしょう。
ただ、こうは言えます。マギー証人はウソをつこうと思えば、この法廷でいくらでもつけたはずですから、質問に対して牧師としての誠実さは守ったということなのでしょう。
以上の理由から1つ2つを挙げて、だから「南京虐殺はなかった」とする主張をときどき見かけます。たしかに、そのような印象を受けますが、これらは城内(ほぼ「難民区」と同義)についての話ですから、城外が除外されていることを考慮しなければならないでしょう。
毛沢東が生前、南京虐殺について何も言っていないことは確かなことと思います。
もしこの指摘が間違いであれば、ただちに中国はもちろん日本国内からも反論なり訂正要求が出るはずですから。
ただ、このことをもっても、「南京虐殺がなかった」というこにはならないでしょう。理由は後述いたします。
毛沢東の死去は1976(昭和51)年9月、82歳の生涯でした。毛は日本の「中国侵略」について、次のような見解を示しています。
@ 毛沢東・佐々木更三会談での発言
1964(昭和39)年7月、社会党左派の佐々木 更三(翌年、社会党委員長)ら社会党系訪中団との会見における毛発言です。
佐々木が過去における中国侵略によって多大の損害をもたらしたことを「われわれみな、非常に申し訳なく思っております」と発言します。これに対し、毛主席は、
〈 何も申し訳なく思うことはありません。
日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。〉
と応じています。さらに「この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね」ともいうのです。
佐々木の「ありがとうございます」の言葉に、「過去のああいうことは話さないことにしましょう」と毛は発言しました。
似た話は主治医として22年間、毛沢東に仕えた李 志綏の『毛沢東の私生活』(左写真は文春文庫。単行本は1996年)にも出てきます。
〈内戦で中国共産党が勝利をおさめられたのは日本のおかげだと毛沢東は考える。1930年代に日本が中国に侵攻しなかったならば、日本の侵略者に対し共産党と国民党が共闘をくむようなことはなかっただろうし、また共産党は脆弱すぎてとうてい権力の奪取などかなわなかっただろう。
共産党からすれば日本の侵略は悪事が善事に変換したのであり、むしろ感謝しなければならないとした。〉
〈田中が日本の中国侵略を謝罪しようとしたとき、毛沢東は日本侵略の「助け」があったからこそ共産党の勝利を可能ならしめ、共産中国と日本の両首脳があいまみえるようになったと請けあった。〉
ともいうのです。田中とあるのは1972(昭和47)年に訪中した田中 角栄首相です。
毛主席のこれらの発言は、単なる外交辞令なのでしょうか。
そうではないと思います。共産党が蒋介石の国民党に代わって権力を握れたのは日本の侵攻を利用できたればこそ、と考えたのは毛の実感に違いなく、また歴史的事実と相違はしていません。
ただ、だからといって、毛主席が「南京虐殺は存在しなかった」と認識していたとの結論は導けないでしょう。この時期、延安にいた毛が、NYタイムズなどで報じられた日本軍の非違行為を知らないはずがありませんし、多くの情報が毛の元にとどいていたことでしょう。
では、知っていたのになぜ言及しなかったのか。私は次のように考えています。
「南京における日本軍の非違行為を知っていたものの、戦争につきものの行為で、ことさら言及するほどのものではないと考えていた」のだと思います。つまり、延安の共産党幹部の目から見て、戦争にありがちなことであり、また規模においてももさほど大きなものでないとの認識だったのだと思います。
中国の歴史に照らせば、首都なり県都なりの要所が落ちれば、住民虐殺はついてまわるもの、別に珍しいことではありませんでした。南京にかぎっても、1853年、清朝打倒をめざす洪 秀全の太平天国軍は、南京入城のさいに3万人以上を虐殺、また1864年、曾 国藩の弟が率いる湘軍が南京の太平天国軍を攻撃したさいにも、「1ヵ月以上にわたる大虐殺がつづいた」と記録されています。
また、1927(昭和2)年の「南京事件」も有名です。蒋介石の北伐軍が南京を占領したさい、外国領事館を民衆らが襲い、多数の死傷者を出しています。
毛主席は言及しなかったにしても、では何時ごろから中国が「南京大虐殺」を言い出したのでしょうか。
A ケ小平と江沢民
それは文化大革命(1966〜1976)が終わり華 国鋒、次いで1978(昭和53)年に政権を握ったケ 小平以降に始まっています。
中国の歴史教科書に恒常的に「30万人大虐殺」の登場するのは1979年から。また、南京抗日記念館の開館が1980年(昭和60)という事実からの推定ですが、教科書、記念館開設にしてもケ小平が積極的に推進したことではなかったようです。
1982年 の教科書問題(侵略・進出問題)以降、ケは対日批判をしますが、これも中国国内の調和のためで、対日協力が基本だったと思われます。
それより、1971(昭和46)年の「中国の旅」連載にはじまった朝日新聞の執拗な 「日本軍断罪キャンペーン」、バスに乗り遅れるなとばかり後につづいた各紙とNHK以下、テレビの報道があったからこそ、無用な中国の対日批判を引き出すことになったのだ思います。
南京問題をここまでこじらせ、「歴史カード」として絶大な効用を持たせたのは、サヨクかぶれの日本のメディアであり、朝日、NHKなど日本のメディアが中国(韓国ほか)の反日政策産みの親だと思います。
日本軍の中国における残虐行為を糾弾して10年が過ぎ、そこに「教科書(誤報)問題」(1982年)が発生。これに舞い上がったのか日本側報道人の中国へご注進とくれば、中国として抗議せざるを得ないでしょう。そして約20年経て江 沢民の時代になりました。
個人的にも日本に強い嫌悪感を持つといわれる江による「愛国主義教育」という名の「反日教育」へとつながっていきました。「南京抗日記念館」をはじめとする200ヵ所以上という“反日記念館”の建設、増強は当然の帰結なのかも知れません。
アジアの覇権を目指す中国にとって、日本に強い罪の意識を持たせられれば、まさに願ったり叶ったり、効果的かつ安価な投資に違いないでしょうから。