―「なかった派」の主張(その2)―
⇒ 殺害数の上限(その1)
1937(昭和12)年12月1日〜翌1938年10月24日までの約1年間、中央宣伝部国際宣伝処は約300回の記者会見を漢口で行い、参加者は平均50人を数えたといいます。また、「各集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は毎回平均35人だった」にもかかわらず、同宣伝処は日本軍による市民虐殺、捕虜の不法殺害について何も発表せず、外国人記者から南京虐殺についての質問が出たという記録もないとのことです。
これらのことは、東中野修道教授が台北の国民党党史館で発掘した表紙に「極機密」印のあるガリ版刷り文書、『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』に書かれているとのこと、『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社、2006年)に記述されています。
南京市内と周辺である程度の虐殺が起こっていれば、日本非難を唯一の目的にし、また「対敵宣伝科」を抱える国際宣伝処が記者会見上、真っ先に言い立てるはずで、これに触れなかったとは考えにくいことです。
この事実をもって、国際宣伝処つまり中国側が非難するほどの虐殺が存在したと認識していなかった、とまでは言えるかもしれませんが、「虐殺はなかった」とまで言えるかどうか、よく分かりません。
というのも、紅卍字会による埋葬数4万余体が存在するからです。もっともこの遺体数は誇大である可能性が大ですが、それにしても、万を超える遺体が存在したことは日本側の証言でも明らかですから、大虐殺非難の“物的証拠”に不足はないはずです。
ところが非難しなかったというのですから、得心のいく解が見つけられずにいます。あるいは、毛沢東と同様、問題にするほどの規模とは考えていなかったとも思うのですが。
南京虐殺の象徴というのでしょう、多くの写真がこれまで私たちの目にふれてきました。
岸辺に横たわるおびただしい数の死体、数人の日本兵による銃剣刺殺の現場、首をまさに刎(は)ねる瞬間を写したものなどなどです。
その多くは南京陥落後に出版されたティンパーリィの『戦争とは何か』の中国語訳である『外人目睹中之日軍暴行』ほかに掲載されたものでした。
これらの写真143枚を検証し、これらが合成写真であったり、演出されたものであったり、あるいはキャプションを改ざんしたものなどで、証拠写真となりうるものは1枚もなかったと東中野教授は『南京事件 証拠写真を検証する』(草思社、2005年)で報告しています。
こういった検証には異論がつきものですし、私自身、鑑識眼に欠けているため、143枚の写真すべてがこうと、とても判断は下せません。したがって、系統的に検証した労作と紹介するにとどめます。
南京攻略戦に参加した部隊には、朝日、東京日日(現、毎日)、読売、同盟通信社などから多数の報道人が従軍し、また地方の新聞社からも郷土部隊の活躍ぶりを報じるために記者が派遣されました。その数は100人を優に超えていました。これら記者の見聞を根拠に(大)虐殺を否定する論者がいます。
そこで、従軍記者が南京で何を見、何を見なかったか、主だった見聞を紹介することにします。
以下は、『聞き書 南京事件』(阿羅 健一、図書出版社、1987年。後に小学館文庫)と 『「南京大虐殺」のまぼろし』(鈴木 明、文藝春秋社、1973年)に多くを負いました。
阿羅健一は従軍記者や指揮官クラスの軍人に話を聞けば、南京事件の真相に近づけるはずとの狙いから、記者・カメラマンなど約20人、それに軍関係者10余人にインタビューし、『聞き書 南京事件』として世に問いました。
これより先、鈴木明もまたいく人かのジャーナリストに話を聞き、『「南京大虐殺」のまぼろし』のなかで明らかにしています。
阿羅のインタビューは1984(昭和59)〜5年、鈴木は1972(昭和47)年でしたから、鈴木明の方が1回り早かったことになります。
それだけに、存命ならば阿羅も取材したであろう報道人や軍人、例えば「幕府山事件」の当事者の1人、山田 栴二少将(やまだせんじ、第13師団・第103旅団長)から鈴木は話を聞きとっています。逆に、鈴木の会っていない橋本 登美三郎に阿羅は会うなど補いあっています。
2人が取材した記者の話は、分かりやすいという大きな利点があります。なんとなくにしても、全体を理解する手がかりになると思いますので、重要と思うものを少し、多くお目にかけます。
なお、従軍した記者の中に“大虐殺”を目撃し、その目撃談を活字にしている例があり、下記はその代表例といってよいでしょう。以下を読むにあたって、参考になさって下さい。
今井 正剛(東京朝日記者)・・「南京城内の大量殺人」(「特集 文藝春秋」、1956年12月号)
秦 賢助(福島民友記者)・・「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(「日本週報」、1957年2月25日号)
鈴木 二郎(東京日々記者)・・「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」(月刊「丸」、1971年11月号)
前田 雄二(同盟通信記者)・・『戦争の流れの中に』(善本社、1982)
@ 橋本 登美三郎
「南京で大虐殺があったといわれてますが、南京の様子はどうでした?」の阿羅の問いに、元東京朝日新聞記者・橋本登美三郎は次のように答えました。
〈南京での事件ねぇ。私は全然聞いてない。もしあれば、記者の間で話に出てるはずだ。
記者は少しでも話題になりそうなことは話をするし、それが仕事だからね。
噂として聞いたこともない。朝日新聞では現地で座談会もやっていたが、
あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとか、そんな話がでるはずだ。
南京事件はなかったんだろう。〉
橋本は第16師団司令部(師団長・中島今朝吾中将)と同道、南京に入城します。送り込まれた朝日新聞記者は約15人、その「指揮役」が橋本で、「第一線にいる記者の書いた原稿は私のところに集った」と答えています。
そういえば、当時、上海にいた朝日の細川 隆元もテレビ等で南京事件を明確に否定していました。
鈴木明によれば、橋本は守山 義男記者(後出)ら6人とともに新年を城内で迎えました。
なお、橋本登美三郎は田中(角栄)内閣時代の自民党幹事長、その前の佐藤(栄作)内閣では官房長官・建設大臣という要職に就いています。
A 足立 和雄 東京朝日新聞記者
12月13日から約10日間、南京を見た足立記者は「大虐殺なんて見ていない」と否定しています。ですが、「南京で大虐殺があたったといわれていますが、どんなことをご覧になっていますか」の問いに対し、
〈犠牲が全然なかったとはいえない。南京に入った翌日だったから14日だと思うが、
日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。
場所ははっきりしないが、難民区ではなかった。〉
と答えています。
足立記者が見たのはこの1ヵ所だけでしたが、「とりかえしのつかぬことをした」と思い、「支那人の怨みをかったし、道義的にもう何もいえないと思いました」とも述べています。
公然と行なわれたこの処刑、足立記者の受けとり方以上に、目にした中国人が「むごい」と思い、日本軍に怨みを持っても不思議はありません。また、中国人の間でときに尾ひれをつけながら話は広まったことでしょう。
この感情は、処刑が合法であったか非合法なのかを超えた感情的、道義上の話と思います。しかもこの処刑が例外とまではいえなかったのですから。
また、本多勝一記者が大虐殺の主張を紙面で取り上げていることに、
〈非常に残念だ。先日も朝日新聞の役員に会うことがあったので
そのことを言ったんだが、大虐殺はなかったことをね。
朝日新聞には親中共・反台湾、親北朝・反韓国という風潮がある。
本多君一人だけじゃなく、社会部にそういう気運がある。
だからああいう紙面になる。〉
と批判します。
また、戦後「南京城内の大量殺人」のなかで、「下関で2万人虐殺」を証言した今井 正剛朝日記者に対しては、
「今井君は自分で見て書く人じゃなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている。・・今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった」と阿羅の問いに答えています。
B 五島 広作 大阪毎日新聞記者
五島記者は主に第6師団司令部(師団長・谷寿夫中将。南京法廷で死刑判決)とともに行動、12月13日、第13連隊(熊本)の選抜部隊とともに入城します。
〈翌年の1月10日頃までいました。この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺といわれることは見ていません。〉
東京裁判の南京事件はすべてデッチ上げと著作(『南京作戦の真相―熊本六師団戦記』ほか)に書き、また今井正剛朝日記者について、
〈今井氏は伝聞をもとに興味本位に「南京城内の大量殺人」を書いたと自供したと述べ、
このように推測がデマの根拠になって南京大虐殺の虚構がデッチあげられた。〉
と自身の著作に書いていることを阿羅が指摘します。
C 今井 正剛 朝日新聞記者
では、当の今井記者はどう応じたのでしょうか。
鈴木明の問いに答えているのですが、どうも要領を得ないのです。とにかく、城内(難民区?)から下関(シャーカン、揚子江岸の波止場)へ2万人の捕虜を連行、そして虐殺。その重要な目撃者である今井記者との問答は抜き書きするにとどめます。
〈「電燈もランプもない、完全な暗闇のなかで、どの程度見えたのですか」の問いに、
「まっくらで、そこまでは見えません」と答え、難民区については
「難民区というエリアがあったことを全く憶えていない」
「日本軍には、上海戦で国府軍のみせた強さに対する恐怖心と上海でやられたということに対する復讐心があった。
これが、私が見た“虐殺”の背景になっていたのではないか。
問題の下関には、一群についていったか離れていったかも憶えていない」〉。
記憶の薄れているのは年齢ということもあるのでしょうが、難民区の存在そのものが記憶にないというのは、自分の足で取材しないために印象が薄かったのではと思えるのですが。
D 平松 儀勝 東京朝日新聞記者
鈴木明の取材です。要点を抜きます。平松記者は中山門から入城しました。
〈虐殺事件に関しては、守山(義男)君が船着場で中国兵を射殺するところを見たといって憤慨していたので、よく憶えている。
守山君は中国語ができたので、いろいろ面白い記事が送れたようだ。しかし、その話以外虐殺については聞いていない。・・捕虜を捕えたところも殺しているところも見たことはない。・・南京では放火も、女子供に対する乱暴も見なかった。・・〉
これは城外の捕虜殺害ですが、上の足立記者と同様、日本人記者を憤慨させる処刑現場であったようです。
E 坂本 六良 福島民友記者
坂本記者は郷土部隊である第65連隊(会津若松)に従軍しています。
65連隊は、日本軍による「大虐殺」の象徴ともいえる「幕府山事件」の渦中の部隊です。それだけに、この出来事についていろいろな解釈が存在します。
取材に出向いた鈴木 明が秦 賢助の名前を出すと、坂本記者はとっさに「あの人はひどい。ダメですよ」と手を振ったといいます。その秦 賢助(作家、元福島民友記者)は上に記した「捕虜の血にまみれた白虎部隊」 のなかで、次のように書いていました。
〈八方から続々と南京に入城した各部隊は、いずれも夥しい捕虜をつれていた。〉
〈虐殺事件は、15日の午後から、夜にかけて、頂点に達した。この日、南京市街を太平門に向って歩いてゆく捕虜の行列があった。おびただしいその数は、2万を数えられた。
・・これぞ白虎部隊が、南京入城に際して、お土産につれて来た大量捕虜であった。果てしない行列の前途に待っている運命は、まさに死であった。〉
このように書いた秦賢助に対し、坂本六良記者は厳しい見方を突きつけます。
〈あの人は、自分で会ってもいないのに、人からきいて、自分の体験談みたいに書いてしまうんです。
・・あの人は南京入城を見ているはずがありませんよ。
私が徐州会戦から帰ってしばらくたってから、あの人は中支に行ったんですから、
昭和14年にはじめて中国に行った人が、昭和12年の南京入城をみているはずがない。
なぜ、こんなことを書いたんでしょうねぇ。・・〉
「大虐殺派」の洞 富雄元早稲田大学教授は、この幕府山で「1万5千人(捕虜全員)の大虐殺」 が行われたと断定しますが、その根拠の一つに秦賢助の「捕虜の血にまみれた白虎部隊」から上記の下りを自著に引用し論述しています。
この論述を読んだ鈴木明は、
〈捕虜を連れた戦闘部隊が南京攻略を行なうなどということがあり得ないことは子供にだってわかる 〉
〈幕府山にいた2万もの捕虜を市中行進させて、太平門をくぐり、さらに草鞋峡から下関に至る一帯に連れていって殺したというが、2万といえば信じられないぐらいの大群である。それを往復30キロ以上のところを行進させるなどということは、常識から考えて、あり得ない。このようなことを信ずる方もおかしいが、これを書いた秦賢助というのは、一体、どんな人であろうか。〉
と洞と秦を痛烈に批判しています。
この批判に対し、洞・元教授は反論を展開しますが、「8 大虐殺派の主張」のところでこの反論を取り上げます。
F 佐藤 振寿 東京日日新聞カメラマン
佐藤カメラマンは、12月13日、中山門から入城、24日まで南京にいて、多くの写真を残しています。下左は入城直後の市内を撮ったもので、よく見かける写真の一枚です。
また、佐藤カメラマンは「百人斬り競争」の訴訟で車椅子のまま原告側証人として出廷、その虚構性を強調するなど多くの発言を残しています。
そして虐殺について阿羅の問に、
〈見ていません。虐殺があったといわれてますが、
16,7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、
とても残虐行為があったとは信じられません。〉
と証言します。また、こんな答えもあります。
〈14日のことだと思いますが、中山門から城門に向かって進んだ左側に
蒋介石直系の88師の司令部がありました。飛行場の手前です。
建物には88師の看板がかけてありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。
敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。〉
佐藤は自分の目で見た「敗残兵殺害」を「戦闘行為の継続」と判断しています。この殺害数について、佐藤カメラマンが「100人程度」と話すのを私も直接、聞きました。
また、ウワサとしながらも、一度だけ、「3000人の捕虜」を下関(シャーカン)の岸壁で重機関銃で撃ったと聞いたことがあると話しています。
G 二村 次郎 報知新聞カメラマン
「南京にいる間見たことがありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思いだしますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいぐらいです」といい、また「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れていかれるのを見た ことがあります。たしか昼でした」と話し、
「南京で捕らえた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。あの時、捕虜を連れていった兵隊を捜して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います。」
と連行した捕虜殺害の可能性にふれています。
H 鈴木 二郎 東京日々新聞記者
上述したように、鈴木二郎記者は「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」を月刊誌「丸」に書いています。
鈴木記者の目撃した“悲劇”は、中山門上での処刑、および中山門近くにある励志社(新聞社が一時的に宿舎とした)の前での敗残兵殺害、それに他所(場所不明)での殺害の合わせて3ヵ所 です。
人数について、「人数ははっきりしません。それぞれ数人だと思います。行為だけが頭に焼きついています」と阿羅の問いに答えています。
ただ、下関で1,000人以上の死体、光華門らしき場所の散兵壕で多数の虐殺の跡と思える焼死体を見たとも証言します。
光華門での死体について議論があるのですが、ただ光華門に死体はなかったとする旧軍人が鈴木記者宅を訪れていたことを自らつけ加えています。
なお、鈴木記者は浅海 一男記者とともに「百人斬り競争」を報じました。鈴木記者は中山門から入城したのですが、その日を12月12日とし、多くの資料、証言から12月12日はありえず、12月13日との指摘を受けた後も、自説を撤回することはありませんでした。
I 前田 雄二 同盟通信記者
終わりに、取材のなかった前田 雄二記者が『戦争の流れの中に― 南京大虐殺はなかった』(善本社、1982年)で、次のように記していますので紹介しておきます。
〈私は、翌朝、2、3の僚友と車を走らせた。
ゆう江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。
下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連っている。
ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。
「機銃でやったらしいな」と祓川が言った。
「それにしても多いなあ」
千は越えていた。2千に達するかもしれない。
1個部隊の死体であった。私たちは唖然とした。
ゆう江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。
城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。
少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。〉
この千人とも2千人にともつかない遺体は、「下関をすぎると」と書いてあることなどから、城外の幕府山関連の死体と考えられそうです。
以上、南京に派遣された新聞記者の話のいくつかを紹介しましたが、ある記者は処刑を目撃、ある記者は千単位の捕虜殺害のうわさを聞き、ある記者は殺害を見たことも聞いたこともないとします。
このように、40ku程度の城内一つとっても、各記者の体験にかなりの違いが生じます。また、「虐殺」というものの捉らえ方も違います。また、興味を引くためか、見てきたようなウソを書く新聞記者も少なくなく、またそれらを信じる人がかなりいることも分かります。
しかし、この10人の記者の話を読み合わせれば、南京虐殺の様相がなんとなく浮かんでくると思います。そして、これらを読んで100人、いや1000人単位の「虐殺はあった」と感じた方、判断した方もおいででしょう。
また、逆に「虐殺はなかった」と判断した方もおいででしょう。そう判断した各々の理由こそが、虐殺論争を左右する分かれ目であり、おそらく急所なのです。
以上、10人のジャーナリストの見聞を簡単にまとめておきます。
〈城 内〉
1 「難民区」の一般市民について、「虐殺」を示すような証拠はなく、むしろ「殺害」がごく少なかったらしいこと。
2 100単位の敗残兵、または捕虜を殺害したケースは散見されるものの、限られていたらしいこと。
3 この殺害を「虐殺」ととるか、「戦闘行為の継続」ととるか、目撃者によって解釈が異なること。
4 100単位または1000単位の捕虜が城外へ連行されたのは目撃され、この捕虜の殺害がウワサされていたものの明確ではないこと。
5 婦女暴行、また子供など非戦闘員に対する非違行為は、指摘されていないこと。
〈城 外〉
1 一方、城外では1000単位、またはそれ以上の死体が目撃されていること。
2 その1が、幕府山付近の遺体であり、その2が船着場である下関付近であること。
3 城内に比べ、城外についての情報量が少なく殺害数と殺害原因がよくわからないこと。
4 したがって、戦場となった城外でほかにもまとまった死体が存在し、また殺害行為があったかも知れないこと。
⇒ 殺害数の上限を知るために(7−1)
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