南 京 虐 殺(7−1)

― 殺害数の上限を知るために(その1)―
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 前項の「なかった派」につづいて「大虐殺派」の主張をとりあげる番ですが、その前に少し考えておきたいことがあります。
 というのは、虐殺数10万、15万、20万人以上を掲げる「大虐殺派」の主張が、どの程度妥当なのかを私たちが判断するにあたって、何か基準になるようなものがないかということです。

 一つでもいいのですが、何か有力な判断基準を持てれば、主張を理解するうえで役立つに違いありません。例えばの話ですが、城内の住人(民間人)のほとんどが「安全区」に避難し、安全区の人口は「20万〜25万人」と考えられる資料がありますから、かりに全員を殺害したとしても「20〜25万人」が城内における住民虐殺数の上限で、これ以上の虐殺は物理的に起こりえません。
 このように死亡数、あるいは殺害数の上限を、信頼できる資料などによって獲得できれば、大虐殺派の主張する虐殺数を理解するにあたって有益な材料になることでしょう。

 死亡者は、
@ 兵 士  A 民 間 人
 に大別できるはずですから、前者は「南京を守備する総兵力数」が分かれば、死亡者数の上限を一定の範囲内に収めることができるでしょうし、これによって虐殺数の範囲を狭めることが可能です。
 後者の民間人死亡者については、手がかりとしてスマイス調査があります。民間人死亡者(あるいは被虐殺者)の上限を知るための参考になることでしょう。
 また、「埋葬遺体数の統計」も上限を考える材料の一つになるに違いありません。それに、「南京暴行報告」の統計もありました(既述)。これも有力な判断材料です。これらを検討した後、大虐殺派の主張へと移すことにします。

1 南京守備兵力の総数


 まず初めに、南京を守備する兵力数について考えます。

(1) 総数についての諸説
 南京守備兵の総数について諸説があります。まず、日本軍上層部の日記に記された推定数です。

・ 飯沼守日記(上海派遣軍参謀長) 約10万人
 1937(昭和12)年12月17日(日本軍の入城式が行われた日)に、以下のように記されています。
 〈今日迄判明せるところに依れば南京付近に在りし敵は、約20個師10万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約5万、海軍および第10軍の撃滅したる数約3万、約2万は散乱したるもの如きも、今後尚撃滅数増加の見込〉(原文カナ)

・ 佐々木到一回想録(第16師団・第30旅団長) 約10万人
 「南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約7万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約10万と推算せらる。」と自著『ある軍人の自伝』(勁草書房、1967年)に書き残しています。

 2人が記録した約10万がどの程度正確なものか速断できないと思います。何より10万人は分かりやすい数字ですし、景気づけという面もあるでしょう。軍上層部がふだん使っていただけかもしれません。日本軍の公式数字があれば別でしょうが、存在するかどうかわかりません。
 つづいて、中国(中華民国)および欧米人の記録です。

・ 台 湾 公 刊 戦 史  10万人
 台湾の公刊戦史に「当初は10万、落城時は3.5万〜5万」とあるそうです。
 この資料を見ていませんので、詳しいことは知りません。『南京事件』(秦 郁彦、1986)からの引用です。ということは、失った将兵は(おそらく逃亡兵を含め)「5万〜6.5万」となるのでしょう。

・ エスピー副領事(南京、アメリカ大使館) 5万人未満
 漢口のジョンソン大使に提出した報告書のなかに、「街は5万を越えざる兵数にて守らるゝこととなり居れり。実際僅かに唯の5万に過ぎざるなり。」と書いてあります。この報告書は東京裁判で検察側文書として提出されました。

・ ダーディン記者(NYタイムズ) 約5万人
 南京に残留したダーディン記者は、1938(昭和13)年1月9日付けの同紙記事で防衛軍兵力を「5万人」としました。
 また、既述したように、産経・古森義久記者がダーディン記者にインタビューしたさい、次のことが確認されています。
  南京の中国軍防衛部隊は公称16個師団 といっていたが、実際の兵力は5万人程度 と推定されていたこと、日本軍の12月9日ごろからの包囲攻略で15日までに中国軍将兵3万3千人が死亡、そのうち約2万人が日本軍に処刑されたこと。

 以上のように、約5万人と10万人との2つに分かれ、中間の数字が出てきません。断言はできませんが、これら概数に矛盾はないのかもしれません。つまり、南京攻略戦全体を見渡せば10万人、敗走の結果、南京城とその付近の守備兵を見れば約5万人程度というわけです。

・ 日本人論者の見た守備兵数
 つづけて、日本人論者がどう判断しているのかを見ておきます。

・ 洞 富雄 10万人以上
 これといった根拠を示していませんが、10万人以上、それもかなり大きな数字を考えていたようです。

・ 秦 郁彦 10万人
 上記『南京事件』のなかで、「日本軍が推定し、台湾公刊戦史が認める10万を採用」するとし、犠牲者推定の資料にしています。

・ 板倉 由明 7万5千人
 軍別、師別に兵力を積み上げ、この数に至っています。

・ 笠原 十九司 15万人
 15万人という大きな数を笠原教授は主張しています。守備兵が多くなれば、「虐殺された兵士8万人以上」と増えるのも、まあ当然のことでしょう。
 後述するように、この数の出所は孫 宅巍(後出)で、笠原教授らが支持する数字です。

(2) 詳細な分析を伴う総数推定
 大づかみな推定総数ではなく、軍、師別に兵力を積み上げ、総兵力を推定したものに『南京戦史』(偕行社、1989年)があります。推定にあたって、『抗日戦争正面戦場』(江蘇古籍出版社、1987年)等を参考にしたとのことですが、ここでは結論のみを記します(軍、師別の内訳は下表に)。
・ 『南京戦史』 6万5,500〜7万500人

 一方の中国側が見た軍別、師別の兵力数について、まとまったものがなかった(あるいは入手できなかった?)ようですが、板倉由明の話によりますと、『南京戦史』の初版印刷後、つまり1989(平成元年)頃、次の資料が手に入ったとのことです。

 資料というのは、南京戦当時、「南京衛戍司令長官部 参謀処第1科長」であった譚 道平が、『南京衛戍戦史話』(東南出版文化社、1946年)に記した兵力数8万1千人です。
 譚道平の地位からみて、また出版が1946年(昭和21)であるだけに、政治的な思惑は比較的少ないでしょうから、確度の高い資料と考えられるでしょう。同時に『南京戦史』が推定した兵力数がどの程度、実態に近づいているのかを示す、格好な判断材料ともなっています。

 「譚 道平」資料の存在は、孫 宅巍(江蘇省中国現代史学会秘書長)の論文「南京保衛戦双方兵力的研究」に使われたことによって、日本側に初めて知られました。孫論文は『抗日戦争史事探索』(江蘇省史学会編、1988年12月)に所収されているとのことです。
 また、孫 宅巍は中国側「戦闘詳報」などを基礎に総兵力を15万人と算出していますので、以下、譚道平と孫宅巍の説を中心に話を進めます。なお、板倉論文「『南京事件』の数量的研究」から2人が推定する兵力数を引用しました。

(3) 総兵力8万1千、死者3万6500・・譚 道平参謀
 下表は譚参謀処第1科長が南京防衛軍を10個軍に分け、軍(軍団)、師別に兵力数、損失数等を記したもので、比較のために『南京戦史』ほかの資料を加えたものです。
 黄 緑で示した欄、つまり戦闘兵(数)、雑兵(数)、兵力数、損失(数)、保存(数)の5項目が譚参謀が残した資料で、

戦闘兵数+雑兵数=兵力数=損失数+保存数


 という関係にあります。
 つまり、中国兵は「戦闘兵」と「雑兵」がはっきり区別されていて、新兵(兵力数の下の段に内書きした数字)も別に記されています。そして、死亡者を「損失」、生存者を「保存」と表現します。

 また、『南京戦史』の推定値を参考のために記載しました。薄い茶色で示した表です。
 右隣の「中国側戦闘詳報の兵力数」と記した水色欄は、孫 宅巍が総兵力を算出するにあたって使用した基礎データで、この後、説明いたします。

南 京 守 備 兵 力 数

譚 道平 及び 他 の 推 計 兵 力 数


部 隊 戦闘兵 雑 兵 兵 力 数
( )内は
新兵
損 失 保 存 南京戦史
兵力数
中国側
「戦闘詳報」
の兵力数
 第2軍団

41、48師
 12,000
 6,000
  18,000
 ( 80% )

 5,000
 13,000  1.3〜
 1.4万
 ( ? )
 第66軍

159.160師
 4,500  2,500  7,000
 ( ― ) 
 3,000  4,000  5千〜
 6千
 9,000
 160師
 第83軍

154,156師
 4,000  1,500  5,500
 ( ― ) 
 1,500  4,000  約
 3,500
 ( ? )
 第36師  4,000  3,000  7,000

 (2,000)
 1,500  5,500  約
 7,000
 11,968
 第51師  4,000  2,000  6,000

 (2,000)
 4,000  2,000  7千〜
 7.5千
第74軍
51,58師
 17,000
 第58師  4,000  3,000  7,000

 (2,000)
 3,000  4,000  7千〜
 7.5千
 第87師  3,500  3,000  6,500

 (2,000)
 3,500  3,000  3千〜
 3.5千
約10,000
 第88師  4,000  3,000  7,000

 (3,000)
 5,000  2,000   約
 6,000
 約
 6,000
 教導総隊  7,000  4,000  11,000

 (5,000)
 7,000  4,000  5.5千〜
 6千
約35,000
103,112師
  憲 兵
 軍直部隊
 2,000  4,000  6,000  3,000  3,000  103師
 1千人
 憲7.5〜
 8.5千
 103師
 2,000
 憲兵
 5,490
 合  計  49,000  32,000
  81,000
 36,500  44,500   65,500〜
  70,500
 96,458


(注) 10個軍に分けた上記の分類を 『抗日戦史』(中華民国国防研究院編、1966刊)と比較しますと、第51師と58師は第74軍に、87師、88師をそれぞれ第71軍、72軍とするなど、くくり方、呼称に差はありますが、双方ともに師の落ちはなく同一です。

 上表の合計欄から、中国軍の総数は8万1千人、うち戦闘兵が4万9千人、雑兵が3万2千人という内訳が分かります。また、死者数は3万6,500人、生存者数が4万4,500人です。
 この死者数3万6,500人のうち、不法殺害など「虐殺」にあたる死者が何人かが問題になりますが、理屈の上では、「中国兵の虐殺数上限は36,500人」となるでしょう。

 ところで、戦闘兵は問題ないとしても、よくわからないのが「雑兵」です。「戦闘兵」と「雑兵」はどう違うのでしょう。板倉の説明によれば、〈雑兵は武器を持たず後方支援の輜重(しちょう)や雑役に使われる兵隊で、普通は兵力に数えないといわれる。南京戦では、上海から付いてきた雑役兵や、陣地構築に多くの「民兵」が使われたといわれるが、学生義勇兵や少年兵などもこの雑兵であろう。〉としています。

 次のラーベ日記をご覧ください。
 船で漢口やその先に避難するため、揚子江に向かう「力車や荷馬車、乗用車、トラック」が荷物を満載して昼夜となく町からでていくのと、

「時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。
どうやら、あくまでも(南京を)防衛する覚悟らしい。
兵士は、ぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進してくる。
果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列」(11月18日 )


 同月17日にも、「新たに徴集された新兵、かれらはなんというひどい格好をしているのだろう。程度の差こそあれ、みな、ぼろをまとって、荷物を背負い、さびついた猟銃をかついでいる」とあります。
 こうして南京防衛のために補充された新兵は、裸足が象徴するようにその多くは戦力にならず、後方支援にまわったとして不思議はありません。それにしても、新兵の割合を表から読むと、ざっと40%を占めています。

 話を総兵力にもどしますと、譚参謀処第1科長の記したそれは8万1千人、一方の『南京戦史』は6万5,500人〜7万500人ですから、その差は1万5,500〜10,500人で約15%程度、それほど大きな差でもないでしょう。
 内訳を見れば分かるように、この差の多くは、教導総隊と第2軍団にあります。
 損失数(死者)の方は、譚道平は3万6,500人、『南京戦史』は戦死3万、処断1万6千人、合計4万6千人としていますので、逆に『南京戦史』の推計が9,500人上回ります。

 このように、しかるべき地位にいた譚参謀の詳細な資料もあるのですから、少なくとも南京守備の総兵力に関してはほぼ決着がついてよさそうなものですが、そうはなりませんでした。
 あらたに「総兵力15万」を主張する中国人研究者が現れたからです。

(4) 総兵力15万、虐殺数10万・・孫宅巍
 上に記したように、孫 宅巍は「南京保衛戦双方兵力的研究」のなかで、南京防衛軍の総兵力を15万人 とし、虐殺数を10万人 とします。譚参謀の総兵力8万1千人、死者3万6,500人と大きく異なります。
 問題は、この総兵力15万人という突出した数が信頼に値するかどうかです。そこで、孫が15万人という数をどのように算 出したのか、まず、根拠となった基のデータを見ることにします。

 上表の水色欄に表した「中国側戦闘詳報の兵力数」がその基礎データです。各欄の数字、つまり部隊別の兵力数ですが、その出所は、孫 宅巍が得た中国側の「戦闘詳報」や回想録などです。

 一例をあげておきますと、上から4番目の「第36師」の欄に「11,968人」とあります。これは「陸軍第78軍南京戦役戦闘詳報」が出典ですし、その下の「第74軍 17,000人」とあるのは、王耀武の「南京保衛戦的回想」を出典とし、51師と58師の合計、つまり第74軍の兵力数を表します。
 目につくのは「教導総隊」の兵力数で、約3万5千人とあり、譚道平の1万1千人、『南京戦史』の5,500〜6,500人と3〜5倍と極端な差を見せます。この「約3万5千人」の出所は周振強「蒋介石鉄衛隊― 教導総隊」となっています。

 また、(?)とある欄が2ヵ所ありますが、これは該当する資料がなかったことを表しています。また、右端(水色)の上から2番目、「9000人(160師)」ですが、これは第66軍(159師、160師)のうち、160師の兵力数です。159師の方が分からなかったためでしょう。同じことが、10番目の「103、112師。憲兵、軍直部隊」にもあります。
 これら入手した部隊別の兵力数を加えると9万6,458人となります。この数に入手できなかった部隊、つまり(?)で表した第2軍団(41,48師)、第83軍(153,154師)と159師、112師の兵力数を加えたものが推定総兵力になるはずです。

・ 15万人の算 出
 ですが、これら部隊のデータが得られなかったために、何らかの方法で総兵力を推定する必要が生じました。このため、孫 宅巍は次の方法をとります。
 つまり、譚道平の総兵力から、孫がつめなかった部隊(第2軍団、第83軍、159師、112師)を除いた兵力数と、孫 宅巍がつかんだ兵力合計(9万6458人)を比較して比率を算出、この比率を譚道平の総兵力(8万1千人)に乗ずることによって、総兵力を得るという方法です。
 つまり、双方の分かっている兵力数(合計)にどの程度の差があるのかを「比率」でつかみ、その差(比率)をもって孫宅巍の求める総兵力を推し量ろうということになります。

 具体的に書きますと、第2軍団、第83軍、159師、112師を除く兵力は、
81,000−(18,000+5,500+3,500+2,000)と計算、52,000人が得られます。
 (159師の3,500人は160師と同数と推定、つまり66軍6,000人を折半した数。また112師の2,000人は、103師と同数と推定したものと思われます。)

 一方の孫が「戦闘詳報」などから得た兵力合計は9万6458人ですから、両者の比(96,458÷52,000)をとると、約1.85になります。この比に、譚道平の81,000人を掛けあわせれば、14万9850人が得られます。
 損失(死者数)についても同じ計算方式をすると比率が2.7、つまり譚参謀の損失数36,500人の2.7倍になるというわけですから、なんと9万8550人というビックリする数字を得ることができます。

 この計算方式に問題がないはずがありません。
 まず、教導総隊の兵力数です。譚参謀の1万1千人と比べ、約3万5千人は違いが大きすぎます。ダーディン記者、エスピー副領事の総兵力約5万人と比較すれば、その大きさがいっそう際だってきます。

 精鋭部隊とされる教導総隊は上海戦で多くの将兵を失い南京まで敗走、そこで部隊を立て直す必要にせまられます。といって、補充される新兵は裸足同様、どの程度の人数を集められたのか(譚参謀処第1科長の数字は5千人)。
 そして、紫金山などで日本軍と戦火を交えるのですが、その戦いぶりから見ても3万5千は誇大というのが板倉の見方です。
 それに計算方法です。この計算式が意味をなしているとは思えません。そのうえ、3万5千人という突出した数字(異常値)を計算に取り入れれば、違いが高まってしまいます。

 かりに、教導総隊の数字が分からなかったらどうなるでしょう。同じ方法で計算すると、得られる比率は1.50弱ですから、総兵力は12万1,500人(81,000×1.50)へと3万人も減少してしまいます。突出した数字は除外するのが統計上のいわば約束事で、この計算がおかしいのは明らかでしょう。
 はっきりした数字はわかりませんが、譚道平にすれば負け戦でしたから、その言い訳に総兵力を少なくしておきたいという動機はありうるかもしれません。
 ですが、そうならば逆に死者数(損失数)は少くしておきたいと考えるはずです。ですから、死者数3万6,500人は実態に近いのではと思います。
 なお、総兵力15万人説を支持する一人が笠原 十九司・都留文化大学教授で、この笠原15万人説を藤原 彰も支持しています。
 守備兵力が譚道平の1.85倍に膨れたのですから、死者数とともに虐殺数がウナギのぼりになったのもまあ当然でしょう。

⇒ 殺害数の上限を知る(2)
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