― 犠牲者15.5万人と倍増 ―
⇒ 検証・豊満ダム万人坑
主に満州の鉱山や大規模な工事現場で、現地労働者をろくな食事も与えずに酷使し、ケガや病気、栄養失調などで使いものにならなくなると、生きながらも捨てたとされた「ヒト捨て場」 。
満州最大の炭鉱、撫 順 炭 鉱を例にとれば、万人坑は30〜40ヵ所を数え、犠牲者が20〜30万人というのですから、一つひとつが約1万人になる勘定です。
また、マグネサイト鉱石を採掘する南 満 鉱 業 にも3ヵ所の万人坑があって、そのうちの1ヵ所、犠牲者1万7000人という虎 石 溝万人坑が発掘され、そのうえに記念館が建てられたことはすでに書いたとおりです。
ですが、これらが真っ赤なウソ、デッチ上げであることも記したとおりで、その結論に間違いありません。
このほかにも、山西省の大同炭鉱、当時東洋一の規模といわれた豊満ダム(旧満州、吉林省)などにも万人坑があったとされ、日本のメディアは競うように報じました。
しかし、これらも以下に記すように、中国のデッチ上げと断定して間違いありません。
それにもかかわらず、さらなる調査の結果、満州をはじめ各地に新たな万人坑を発見したと中国は主張、万人坑が「死傷者3500万人」 の主要な根拠へと格上げ?されたのです。
(1) 堂々たる展示記念館
ここ大同にも発掘現場(1枚目)と堂々とした記念館(階級教育展覧館)が建てられ、生徒、人民の教育に使われています。
この万人坑は、日本人の残虐ぶりを強調するイラストとともに、中国の 中学歴史教科書 に掲載、〈大同炭鉱付近には20ヵ所余りの「万人坑」がある〉と書かれています。また、「犠牲者6万人」というのが中国側の一貫した説明でした。
ところが、中国の学者(?)の最新研究の結果、同鉱の犠牲者数は「15.5万人」 へと跳ね上がったのです。20ヵ所とすれば平均7,750人ですから、万人坑の名が示すように1万人に近づいたことになります。
いま一歩の努力です。そのうち、さらなる研究の成果が現れ、20万人なんて数字が出てくるかもしれません。15.5万人と教科書に書かれるのは時間の問題と思います(すでに書いてあるかもしれません)。
毎度の手口とはいえ、実にバカげた話です。ですが、おそらく日本の学者や研究者の一部は、この犠牲者数をもって「人肉開発」などと日本を糾弾することでしょう。
・ 「人民網日本語版」より
以下は、2005(平成7)年1月11日にUPされた「人民網」 の日本語版記事の全文です。見出しは 〈旧日本軍による「万人坑」、大同の犠牲者は15万人〉とあります。
〈第2次大戦中、山西省大同市で旧日本軍による侵略の犠牲者が埋葬された穴「万人坑」の犠牲者数が、これまでの推定数6万人を大きく上回る、15万5千人以上 に上ることがこのほど明らかになった。
大同炭鉱「万人坑」第2次大戦歴史研究会の事務局長を務める同省の研究者・李進文さんの最新の研究成果によりわかった。大戦中、旧日本軍は戦争遂行のために中国の石炭資源を略奪し、各地の炭鉱では中国人労働者が過酷な労働を強いられた。
大同市のある廃坑は、飢えや病気、負傷などで死亡した中国人労働者の遺体が投げ込まれただけでなく、病人や負傷者が生き埋めにされるなどして、悪名高い「万人坑」となった。
李さんは当時の労働者の生存者および犠牲者の遺族ら数百人への聞き取り調査と、東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)の8つの資料館での40万字を超える文書の調査を通じて、このほど約15万字の研究書を完成させた。
李さんは「大量の証言と証拠を集めた。これは今後の損害賠償請求訴訟での系統的、総合的かつ有力な証拠になるだろう」と話している。
李さんは1963年から旧日本軍の犯罪の証拠収集を始めた。研究書では、旧日本軍が大同市の資源に着目してから実際に略奪するまでの経緯や、労働者の募集から死亡に至る過程など21項目について、詳細な論証と分析がなされている。また各章に旧日本軍関係者の証言が収録されている。〉
(2) 大 同 炭 鉱
大同炭鉱は北京の西方約300キロに位置し、1940(昭和15)年、蒙彊(もうきょう)特殊法人として設立されました。
大同炭鉱にかぎる話ではないのですが、採炭事業は資本力、技術力をもつ満鉄・撫順炭鉱が推進役となりました。
1937(昭和12)年、撫順炭鉱の技術者を中心に約20人が派遣され、つづく第2次、3次もほぼ同人数が派遣され、同鉱の基盤を築いたと聞いています。
撫順炭鉱から移籍した人たちは「第2の撫順作り」を目指します。ただ、日本人の現地採用者が増加するにつれ、しだいに撫順色は薄れていきます。とはいえ、このような経緯がありますので、大同炭鉱の組織、制度、管理方法など、撫順炭鉱とよく似ていたのはむしろ当然のことでした。
大同炭鉱の長所は、「坑木の使用量僅少、メタン瓦斯の皆無 、坑内水の少なきこと、・・ 」 などで、反対に短所は「公募条件の悪きこと、資材の管外依存、・・ 」 などと、『蒙彊年鑑』(昭和18年版)に書いてあります。これを見ただけで、事故の起こりにくい炭鉱、安全管理のしやすい炭鉱なんだとおおよその推察はつきます。
ここで同鉱の万人坑に関する報道をいくつか拾って見ましょう。
(1) 毎日新聞
下写真は1978(昭和53)年1月14日付の毎日新聞 です。
縮刷版からとったので見にくいのですが、
〈万人坑の"虐 殺" から40年 息吹く日中友好〉
としたタテ見出しに、
〈今なお坑内に残る中国人労働者の遺骨〉
と説明した折り重なる白骨遺体の写真を配し、以下のように報じました。
〈中国山西省の大同炭鉱で「万人坑」を見た。
日本が統治していた頃、死去した中国人労働者を埋めた廃坑で、
苦痛の表情を残したままの遺体が痛々しかった。
いまは日本軍国主義の罪行を、若い世代に教える教育の場とされており、
日中友好の古傷がそう簡単に消えないことを知らされた。・・〉
〈・・説明に当たった白中魁さんによると、
日本軍は1937から45までの8年間、中国人労働者を酷使して採炭した。
「興亜粉」といって、高粱と黒豆と落花生の皮をまぜて粉にしたものを食べさせ、日に12時間以上働かせた。
病人が出てもろくに治療せず、結果的に6万人を"虐殺" した。
これらの遺体は20ヵ所あまりの廃坑や山あいに埋められたが、
なかには助からないとみて、生きているうちに埋められたものもいるという。・・〉
この報道、もちろん "加 害 者" である日本側を取材していません。取材すれば、大同炭鉱の元職員が「じょうだんじゃない 」 と怒りをこめた反発を肌で知ったでしょうに。
この記事に対して同鉱の有志が毎日新聞社を訪れ、抗議したと聞いています。もっとも、口頭だけ(?)による抗議ですので、証拠となるものが残っていません。
こうした口頭だけによる抗議が多いのですが、記録に残るような抗議の方法もあったのではと残念に思っています。
(2) 写真週刊誌・フライデー
次は写真週刊誌の「フライデー」(1994=平成6年1月21日号)です。
「スクープ撮!」とし、〈 日本侵略のツメ跡 「中国ミイラ万人坑」の衝撃 〉と見出しをつけ、見開き2ページの写真を含めて報じています。さすが、写真週刊誌だけになかなか迫力ある写真です。
「取材と文・中條 茂 (ジャーナリスト)」とあり、以下、本文から必要ヵ所を引用します。
〈炭坑における苛酷な労働と栄養不良で、病人が続出し、コレラやチフスも蔓延した。
坑内の安全設備も不十分なために、落盤事故も多発。拷問、リンチによる死者も多かった。
その結果、大量の中国人が死亡。
「人の命を石炭に換える」とまでいわれたこの政策は、終戦まで遂行されたのである。
大同以外にも鶏西、老頭溝、虎石溝、撫順等にも万人坑は存在する。
遺骨に石を乗せたままのもの、頭を撃たれたもの。
四肢切断、枷を付けられたままの遺骨と、眼を覆いたくなる惨状だ。〉
文中の虎石溝(南満鉱業)、撫順炭鉱、老頭溝炭坑については、すでに報告したとおりです。鶏西については調べたことはありません。
日本人の採炭方法は「人の命を石炭に換える」 とするところは、『中 国 の 旅』 の記述と同様です。
この報告者も日本側の誰一人として取材していません。中国に日本叩きのネタ探しに行っては、ただただ相手の説明を鵜呑みにして報じたというわけです。
そして、日本では万人坑が知られていないとし、
〈戦後世代ほぼ8000万人にならんとしている今も、
知らないでは済まされない過去は負の遺産として残っている。
日本人はその現実をハッキリ直視すべき時期にきているのではないだろうか。〉
ともっともらしい言葉で結んでいます。
そしてこうした写真を突きつけられた日本人の多くはまともに信じ、反省が足りないとでも思ってしまうのでしょう。
中国人がこの過去の事実を知ってるのに、肝心の「加害者」である日本人が知らないという「意識のズレ」 について、田中 宏・一橋大学教授(当時)は次のように説明しました。
〈結局、戦争体験の質の違いでしょう。
日本兵が眼の前で残虐な行為をするのを直接見ていますから、強烈な印象として意識の中に残っている。
一部沖縄で経験したとはいえ、この体験が日本人全般にはない。
万人坑は、その直接的な体験の質というものを如実に現わした戦争遺跡ですよ。〉
とうとう 戦争遺跡にしてしまいました。
それにしても大学の先生というのは、度胸があるというのか、気楽な稼業なのか、したり顔で解説してしまうのには感心してしまいます。
ろくに調べていないのですから、何かを言えるわけがないでしょう。せめて口を慎むくらいの見識があってしかるべきでしょうに。
(3)『昭和史の消せない真実』から
『昭和史の消せない真実』(上羽修ほか、岩波書店)は〈グラフィック・レポート〉と称しているように写真を主体としたもので、南京をはじめ中国各地を訪れ、日本軍民の残虐行為を告発しています。
表紙の写真は大同炭鉱のもので、本文に「植民地の民の無念の叫び」としていろいろ書いてありますが、内容は毎日新聞、フライデーとほぼ同じといってよいでしょう。
もちろん、 書いた本人は日本側の誰一人として取材していないこと、まったく同じです。
新聞記者といい大学教授といい、この本のフォト・ジャーナリストといい、ガセネタをつかまされたとも知らず、それをネタに同胞に対して説教を垂れる、こんな馬鹿な話が日本以外のどこの国にあるというのでしょう。
日本側の一人からでも話を聞けば見当はつくはずなのです。
ここには中国人の「証 言」もでてきます。代表して、次の2人の証言(一部)をご覧にいれます。
賀 貴徳の証言⇒ 「給料の代わりにアヘンが支給された」
雷 威 の証言 ⇒ 「コレラが、1942年7、8月ころ流行し、多いときには毎日18,9人が死亡、万人坑に運ばれた」
この証言については、以降に記します。
中国側の証言等について詳しくお知りになりたい方は、図書館でご覧になってください。岩波の書籍は図書館が好んで置きますので、少し大きな図書館に行けば見られるのではないでしょうか。
こんな本が教育現場にも入り込んでいるのでしょうから、その悪影響ははかりしれません。
また、テレビ放送もありました。夜10時過ぎだった思いますが、帰宅して偶然にスイッチを入れたところ放送の最中で、ビデオにとるのは間に合いませんでしたが、間違いなく民間局の放送でした。このほかにもテレビ放送があったのかもしれません。
(1) 根津司郎 証言
まず、根津司郎の話からお読みください。
「こんなことが事実として残るのは国辱ものですよ」という根津にお会いしたのは、1993(平成5)年5月、霞ヶ関にある科学技術庁の長官秘書室でした。
というのは、地元(長野県)選出の議員が科学技術庁長官に就任していたため、上京する折に、根津は顔を出すのだということでした。根津は地元で約20年間、夕刊紙を発行していた経験もあり、市の有力者といってよいのでしょう。
長官秘書室から長官室に移って話を聞いている最中、会議が始まるというので追い出されましたが、テレビでしか見たことのない大臣室に入ったのは、後にも先にもこの1回だけです。
1941(昭和16)年7月から終戦までの「丸4年と戦後の4ヵ月間」を根津は同鉱で過ごしたといいます。
その間、「私は労務にいて労務行政全般、工人の衣食なども担当していたので、工人については大抵のことは知っている」というだけあって、私の質問に数字を交えながら、実に要領よく答えてくれました。
終戦時、裕 豊 坑、永定荘、保 晋を主力に8ヵ所の採炭所があり、日本人従業員は1,100人、家族を含めると3,000〜4,000人だったといいます。裕 豊 坑は万人坑があったとされる所です。
工人(こうじん、現地の労働者)の方は 1万6,000人 を数え、大把頭(だいぱあとう)は8人、大把頭1人について10人ほどの小把頭がつき、小把頭が約200人の工人を束ねていました。
1万6,000人の工人のうち、3,000余人が手弁当をもって近くからくる通いの工人、 残りは山東省、河南省からの出稼ぎで、独身者が6,000人、 家族持ち6,000人 という内訳でした。
手弁当で近所から出勤する工人、家族持ちの工人が多数いたことを知り、変に思ったのではありませんか。工人というと奴隷をイメージしてしまうのでしょうが、そのイメージは日本のメディアなどによって思い込まされたものなのです。
よく憶えていることに感心すると、「(記憶のよいのは)天性かも知れない」と根津はいいます。ただ、メモは取っていたといいますし、夕刊紙を20年間出していたことと、関係があるのかもしれません。
1979(昭和54)年11月16日、根津は単身、古巣の大同炭鉱を訪れました。炭鉱関係者の訪問としては戦後第1号だったそうです。
この頃は個人の訪中が難しく、中国大使館に何度も出向いては要望し、やっとOKが出たのだと話します。
大同駅に着くと、炭鉱にある4台の乗用車のうちの1台が迎えにきて、大歓迎を受けたといい、「こんなに歓迎されていいのか」と思ったそうです。
13ヵ所ある採炭所のうち、戦前にあった8ヵ所の採炭所のすべてに入坑したといいます。そして、応 傑 ・教育館館長に大同炭鉱に「万人坑などなかった」と説明のうえ、次のように提案します。
1943(昭和18)年のコレラ大流行 のとき、工人220名が死亡、うち160人の遺体を4回に分けて、石炭、重油を使って焼き、その遺骨を「歓 楽 園」 のそばに埋めた。そこに「合同の墓」を作ったので、今も掘れば遺骨が出るはずだから案内してもよいと。
「歓楽園」というのは、工人の定着をよくするために設けた「娯楽施設」で、撫順炭鉱などにもありました。結局、この提案は実らず、「この次までに調べておくから」という応傑館長の話で、それ以上の進展はなかったといいます。
帰国後、根津は「大同会」(同鉱の社友会)で報告し、万人坑を含め現地の状況を詳細に説明したそうです。そして、私に万人坑は「中国の計画的なデッチ上げ 」と明確に話してくれました。
なお、1943年のコレラ発生については、他と関連がありますので「追記」をご覧ください。
(2) 宇佐美ヒサ子、高木敏数の証言
「昔のことはあまり思い出したくありません。でも、万人坑はウソなのだから何でも聞いて欲しい」 と私の問い合わせに対して、ヒサ子氏は電話と手紙で答えてくれました。
同鉱の工作処に務めていたヒサ子氏は、1938(昭和13)年から機械工場に勤務していた宇佐美 正一と結婚、とにもかくにも帰国することができました。
こんなことがあったと話します。ある雑誌社系の週刊誌(たぶん週刊新潮)に大同の万人坑が報じられ、これを読んだ夫君の正一が激怒し、電話で抗議したといいます。
1982(昭和57)年5月、武 井 英 夫を団長に炭鉱関係者28人が大同炭鉱を訪れました。毎日新聞社に抗議したのはこの武井団長だったと聞いています。
一行に宇佐美夫妻も加わっていました。根津の訪問から2年半ほど後のことです。
今度の訪問は友好が目的で、しかも同僚の根津がすでに現地で抗議をしているのだから、抗議という強い形はとらないでおこうと、事前に武井団長は話していたと参加者の1人、高 木 敏 数 は話します。
高木は1938(昭和13)年、撫順炭鉱から移籍していますので、大同の立ち上がり時から終戦まで、同鉱とともに歩んだことになります。
その高木も、万人坑を「見たことも聞いたこともなければ、ウワサにも聞いたことがない」といい、「万人坑が事実なら、恐ろしくて中国に行けるわけがないでしょう」と説明します。
一行がバスで遺骨記念館の前に来たとき、「ここは裕 豊 坑ではないか。万人坑などあるわけがない。抗議しよう」という話が参加者から出たが、中を見せてもらえなかったと宇佐美ヒサ子が話します。
高木敏数によれば、記念館も現場も見なかったが、「見れば抗議しないわけに行かない」 と武井団長が話していたといいますので、あるいは武井団長が入館を強く主張しなかったのかもしれません。ちょっと、惜しかった気もしますけど。
(3) なぜ、炭鉱にもどったのか
終戦とともに、各採炭所の社宅に居住する日本人は本社付近に集合することにします。住人のいなくなった社宅はすぐに略奪の対象になったといいます。
略奪の報告が入るなか、炭鉱側に頭の痛い問題がありました。工人に支払うべき賃金の調達ができなかったことです。未払い額は7月分と8月の半分とを合わせ、蒙彊銀行券(もうきょう)で4,200万円にのぼりました。
紙幣は日本で刷っていたため、輸送の問題などがあって、蒙彊銀行の大同支店にとどかなかったというのです。
そこでやむを得ず、食料などの貯蔵物資を賃金にあてることで、工人の了承をとりつけることになりました。
8月15日の夜、工人を束ねる大把頭8人と炭鉱側が裕 豊 採 炭 所 の事務所で交渉に入ります。交渉にあたった1人根津 司郎は、 粟・コーリャン・メリケン粉(小麦粉)などの穀物2000トン、ほかに塩・地下足袋などを提供することで話しがつき、17日から2日半かけて工人に引き渡したと話します。
そして、騒動は起こさせないという大把頭の約束どおり、騒ぎは起こらなかったといいます。
工人のうち、独身者の多くは穀物を売り払い、出身地の山東省などに帰って行き、家族持ち工人は手渡された食料で3〜4ヵ月は持つからというので、多くは社宅に残ったと根津は話します。
この後、日本人は1個大隊約1,000人、4個大隊に編成され、老人、子ども、妊婦などを優先しながら、順次、列車で帰国の途につきます。むろん、帰国の道は平坦ではありません。子ども、病弱者多数が命を失いながら、なんとか故国に着くことができました。
一方、4人の炭鉱職員(家族を含めて17人)が施設の引き渡しのために炭鉱に残ります。根津もその1人でした。
4人は国民党政府軍の投降官となった閻 錫山(えん・しゃくざん)から「警衛官」という称号と相応の給与をもらいながら、11月まで残留しています。
また、帰国の途にあった一行に、大同炭鉱を接収した機関から、「技術者は炭鉱に戻るように」との命令がとどきます。理由は簡単で、日本人技術者がいなければ炭鉱を運営することができなかったからです。
そこで、「身軽な単身者を中心に20〜30人が炭鉱にもどった」というわけです 。
この中の1人が、訪中団の団長であった武井英夫でした。敗戦後も施設の運営をするために日本人が残るのは、満州をはじめ広く行われていたことで、ここ大同だけではありません。この残留が「留 用」 と呼ばれるものです。
考えてもください。中国のいうような「人の命を石炭に換える」苛酷な政策を現地人におしつけ、その結果、15万人以上の死者がでたのが事実なら、そんな所にのこのこと舞いもどる日本人がいるでしょうか。
この1点だけでも、万人坑の存在そのものに疑問が起こるはずなのです。
ですが、思いたくない人には何を言ってもダメ。ひたすら説明にもならないへ理屈をこねて、万人坑は「事実だ」「ウソだと証明されたとは言えない」 などと、中国人がいうのならまだ分かりますが、日本人が言い張るのです。
武井英夫は『撫順炭礦終戦の記』(満鉄東京撫順会編、1973年)に次のように書いています。
〈かくて半年後には、治安の悪くなった大同から飛行機で北京に運ばれ、お役御免となった。〉
〈留用中のわれわれに対する態度は抗戦組も、現地住民も何らわけ隔てなく親切であった。
われわれの給与は中国人幹部なみで、ときに同じように現物給与も支給された。
ただ、予想以上のインフレに対処することができないので、生活は楽ではなかった。〉
(注) 大同は中共軍と国府軍との争い、いわゆる「国共内戦」で両者の闘いが激しかったところです。「抗戦組」とは国府軍系の閻錫山勢力を指したものでしょう。
(1) アヘンについて
当時、大同炭鉱にかぎらず、アヘンを常用する現地人が多かったことは、現地を知る人なら誰でも認めていたといってよいでしょう。
大同炭鉱を立ち上げる一時期、アヘンを把頭を通じて配給したと高木敏数(前出)は話しています。古くからの習慣で、アヘンがないと働らかなかったからだというのです。
その頃、工人に「風邪をひかすな」 が日本人の合い言葉だったそうです。というのは、アヘン中毒者は風邪でも死につながることが多いからだと高木はいいます。
アヘンは統制されていましたから、「非常に高価」なもので、給料の代わりにするどころか、炭鉱にとって頭の痛い問題だったのです。
「アヘンを吸う工人が非常に多かった。出勤途中の川原で死体をよくみかけた」と話すのは坂本 広雄です。
坂本は帰国途中に命令をうけ、炭鉱にもどった技術者の1人でした。「どのくらいの頻度でみたのですか」との私の質問に「週に1〜2回の割合で見た」と答えています。
(2) 死者の行く先
「行路病者」(行き倒れ)も多かったし、病気で死ぬ人もでます。死者の報告があると、「指紋照合」により、大同炭鉱の工人かどうかを確認します。工人とわかれば把頭に連絡し、家族持ちであれば家族に遺体が引き渡されます。
このとき、炭鉱から棺桶と葬祭料が支給されました。
こういった制度は撫順炭鉱と同じです。遺体は採炭所近くの空き地に埋めることになります。「葬儀を結構、にぎやかにやっていました」と根津 司郎は話していました。
引き取り手のない遺体は、大同市に向う炭鉱の始発駅、「口泉」(こうせん)から2キロほど離れた「鎮公所」(町村役場)に運びます。そこで遺体は裸にされ(衣類は役人の役得)、炭鉱の管轄を離れた小炭鉱の跡地に持ちこまれます。
そこは東西2キロ、南北6〜700メートルにわたる傾斜地でした。ここでは「タヌキ掘り」という昔ながらの初歩的な手法で採炭が行われ、このため人ひとりが出入りできる程度の小さな穴が、蜂の巣のようにたくさんあいていて、この穴が引取り手のない死者の安息場所になったのだと根津司郎は解説してくれました。
(3) この記事の意味するところ
〈 「死 者 7 0 0 人 」 3 2 年 ひ た 隠 し〉
とした見出しの報道がありました。1992(平成8)年9月14日付けの産経新聞です。
記事によれば、創刊されたばかりの中国誌『時代潮』が報じたもので、
〈中国最大級の生産量を誇る山西省大同で32年前、
作業員700人が死亡する大規模な爆発事故のあったことが初めて明らかになった。〉
と報じました。
1960(昭和35)年5月9日午後、大同の老白洞炭鉱15、16号で、死者682人を出す爆発が相ついで発生しました。
事故は毛沢東主席に報告され、当時の副首相をトップに救援が行われました。しかし、喚起装置を誤るなど混乱をきたし、多数の死者を出したというのです。
当時は無秩序な増産運動として批判を浴びた「大 躍 進」の直後にあたっていました。同誌は「生産能力を約6割も上回る無理なノルマを設定していたことが事故の背景」と指摘します。
大同の万人坑の発掘は1962(昭和37)年とのことですから(上記の毎日新聞)、時期がピッタリ合っています。
それに、万人坑の遺体は白骨化していますが、写真を見ればわかるように、ほとんどの遺体に着衣が残されています。いままで多くの人から話を聞いてきましたが、放置された遺体に着衣が残ることは考えにくいのです。また、そうした記録も残っています。
もちろん、これだけでこの万人坑の遺体がこの事故のものと断定はできません。ですが、事故を32年間もひた隠しにしてきたという事実は何を物語っているのでしょうか。
そしてこれらの遺体はどう処置されたのでしょう。当時は土葬が当たり前でしたし。
ついでですから書いておきますが、2000年代に入っても炭鉱事故による中国の年間死者数は約7000人(新華社の記事)、2007年までに2000人減らす目標を国家安全生産監督管理局によって設定されたとのことです。
別の記事によれば年間死者数は1万人にのぼるとあります。
(追 記)
大同炭鉱のコレラ発生を中国の証人は1942(昭和17)年としていますが、これは誤りで1943(昭和18)年が正しいのです 。
そこで、別項の撫順炭鉱で起きたとされる「防疫惨殺事件」 と比較してください。こちらの方も、中国はコレラ流行を1942年としていますが、疑いもなく1943年の間違いです。
南満州の撫順炭鉱と華北にある大同炭鉱が各々同じ間違いをする、これは単なる偶然でしょうか。
双方の"事件"を告発、つまりデッチ上げようとする上層部の意志があり、このために間違いに気づかなかったのだと思うのですが。
さらに加えれば、「11 中国戦犯証言の信頼性」で取り上げた「731部隊コレラ菌散布事件」も1943年9月の出来事でした。