[検証] 豊満ダム・万人坑

― 犠牲者15000人 ―
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1 東洋一の豊満ダム


 満州と朝鮮の国境、白頭山を源に約500キロ、山岳地帯を脱けた松花江は、吉林市を貫いて平野部に達します。吉林市の上流25キロの地点に、この大河をせき止め琵琶湖大の湖を造り、同時に多目的ダムを建設する工事が着工されました。
 名づけて「豊 満 ダ ム」 、1937(昭和12)年のことです。


 高さ90メートル、堰堤の長さ1100メートルの巨大ダムで、当時 東洋一の規模 といわれていました。
 これが完成すると、毎時70万キロワットの発電が可能となり、満州の発電量がほぼ倍増します。また、年中行事であった流域の洪水を防げ、米どころ新潟県の稲作面積に相当する17万町歩の開田が可能となり、おおよそ300万石 の収穫が期待されました。
 この頃、1石(いっこく)は成人男子ひとりが1年間食べてゆける量とされていましたので、300万人分の食料があらたなに生産されるというわけです。

 着工5年後の1943(昭和18)年3月、一部の発電が開始されたものの、完成には至りませんでした(上写真は1938年3月20日、発電開始時のもの)。それでも終戦時には、年間総発電量47億キロワット時のうち、27億キロワットの発電を成し遂げています。
 この工事期間中に現地労働者を苛酷な状況下で働かせ、犠牲者15000人 の万人坑 ができたというのです。

2 日本でどう報じられたか


(1) 日経新聞の報道

 まず、日本経済新聞 (1978=昭和53年9月27日付)からご覧にいれましょう。


 「アレッ」とお思いになるかもしれませんが、日経だって例外ではないのです。抗議に対する対応は、朝日新聞、毎日新聞とほとんど同じで、変わりはなかったといってよいでしょう。

 ご覧のように、

満州近代化の動力源  今も生きる日本技術


 という見出しですから、力点の置きかたは、まあ朝日や毎日と違うのかもしれません。
 ですが、「中国労働者の犠牲」という小見出しの記事は、やはり朝日、毎日などと感情移入が先立った点で大きな差は認められません。
 「 日本人記者として初めて現地を訪れ、40年後の姿をレポートした」(北京=岡田特派員)として、現地労働者の苛酷な状況を以下のように報じます。

〈 ・・当時としては世界にもまれな大プロジェクト。
そして目をおおうような中国人労働者の酷使も始まった。
ダム建設に動員した数は1日延べ3万人。地元東北から強制的に徴発した青壮年、
遠く山東、河北、河南、山西省などからもつれてきて、12時間から16時間働かせた。〉

〈これら中国人労働者はまともな作業衣がないため、零下30度の厳冬にはセメント袋を体にまとい、
およそ人間の食物とはいえないドングリ粉まで口にして飢えをしのいだ。
労働者は飢え寒さでバタバタ倒れ、再起不能になると生き埋めにされた。
ダムから東2・5キロメートルの「万人坑」にはこのような労働者の遺骨がうず高く積まれている。
満州電力が施工した1937から45年に至る9年間に1万5千人が犠牲になったという。〉


 そして、「日本にとってせめての救い は、日本技術者が40年以上前から相当確かなウデを持っていたことだ」として、先見性などを評価しながら、次につづけます。

〈もちろん、こうした優秀な技術が多数の中国人労働者を殺した免罪符になるというわけではない。・・
「いまもモッコを肩に砂利の積みおろしをする労働者のあえぎが聞こえるようだ」ともらしたら、
発電所事務室主任の呉煥有氏が
「もう過ぎ去った昔のことです。あなた方も日本軍国主義の犠牲者だったのだから・・」とつぶやいた。
 中国経済近代化への側面援助こそ、豊満ダムで犯した数々の蛮行に対し、
日本がなし得る最大のつぐないだろう。


 この記者も中国側の説明を鵜呑みにし、微塵も疑った様子がありません。せめて、裏づけをとってから書かなくては、などとは考えもしなかったのでしょう。
 ですから、日本側関係者に1人として連絡をとった形跡がないのも当然といえば当然でしょう。

 そして、 「中国経済近代化への側面援助こそ、日本がなしうる最大の償い」 などと、実に安直に書いてしまうのです。何もこの記者にかぎった話ではありませんが。

(2) 月刊誌『潮』から
 上記日経記者は、日本人記者として最初に現地に入ったと書いていますが、先に入った日本人がいて月刊誌に書いています。


「中国人一万五千の人柱で築いた豊満ダム 」 という表題で記述したのは、「評論家」と肩書きのついた藤 島 宇 内 です。

〈 ひた隠しにされた植民地支配の残虐な実態を、
いま被支配者の声により明らかにする。〉


 と大上段に構えていますが、これまた日本側関係者の取材はありません。
 もちろん、「ひた隠しにされた」とする根拠などあるがずもなく、自分が 「万人坑を知らなかった」というだけで、隠蔽があったと勝手に想像、書いてしまうのです。
 とにかく、中国に行った誰も彼もが、中国側説明員の話を頭から信じて、日本糾弾に邁進します。

〈1972年9月29日、日中国交を正常化した「日中共同声明」はこういった。
「日本側は過去において日本国が戦争を通じて
中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 だが、文部省の愚かな軍国主義化政策のため、
現在の日本の小、中、高校教科書で過去の日本の中国侵略を認めているのは、
家永三郎東京教育大教授の教科書訴訟を支援している三省堂の教科書だけしかないのだ。〉


 というところから、日本の過去の糾弾がはじまります。
 豊満ダムについては、日経報道や他のものとほとんど差はありませんので、引用はやめておきます。
 この中国ルポの掲載誌は 「 潮 」(1972=昭和47年12月号)です。他のところで書きましたが、発行元の潮出版社は創価学会系で、1971年から翌年にかけて連載された朝日新聞の「中国の旅」報道と足並みをそろえるように、日本軍・民の残虐行為の糾弾に力を入れていました。

 これらの記事が相乗効果を発揮し、また他の報道機関にも影響を与えて、中国に出かけては日本軍民の“旧 悪”のネタを仕入れ、過去の日本を断罪するのが流行のようになったのです。
 このルポも〈虐殺の地「満州」の旅から帰って(その3)〉とあるように、同じ文脈の連載記事というわけです。
 日経報道もこの藤島ルポにも、「遺 骨 展 示 館」 について何も記していません。まだ、この時点で記念館が建っていなかったからでしょう。

 ですが、10年後には記念館が建ち、またあらたな展開となるのです。もし、日経新聞の報道時点でシッカリした取材 がなされていれば、記念館が建つこともなかったのかもしれません。ここで、反論をふくむ豊満ダム側の対応について記すことにします。

3 豊満ダム側の反論

 (1) 月刊誌『善 隣』 から
 日経新聞の報道に対して、さっそく当事者から声があがりました。


 全工期を通じて現場の最高責任者であった 空閑 徳平 (元豊満ダム建設処長)が、月刊「善隣」(国際善隣協会、1979年4、5月号)に書いたのが最初の反論で、

〈 悠久の豊満ダムは生きている ― 労働者虐殺のまぼろしに
純粋な協和青壮年の粒々辛苦に成ったダムの恩恵を抹殺させるせることはできない ― 〉


 と題したものでした。
 あとがきによれば、この反論文は「空閑手記」(後述)を軸に、内田 弘四、中岡 二郎 (後出)ほか数人の記憶をとりまとめたものであると記しています。

 ただこの論考は、1回が2ページ程度と短く、しかも「豊満ダム」建設がいかに難事業であったかなど、建設の経過に大部分の記述が割かれていて、「反論」が主体になっていないことです。
 ですから、どう読んでも「反論」として弱く、説得力に欠けると言わざるをえません。
 反論部分を以下に書きますと、「最近のN紙による報道は」として、上記の日経報道を引用しながら、

〈いわゆる「1日延べ3万人」は最大1日1万人以下であり、
「零下30度の厳冬にセメント袋をからだにまとい、
およそ人間の食物とはいえないドン栗粉を口にして飢えを凌ぐ」ありさまとは、
まさに幻想の描く事実無根の情景にすぎない。
「死亡総数1万5千人 」ではなく事実は1千余人であり、
「目をおおうような中国人労働者の酷使」という断定は
錯覚または故意による極端なゆき過ぎまたは特別に意図する発言といわざるを得ない。〉


 とし、本間 徳雄(当初の水力電気建設局長)ほか2名が、敗戦後、水力建設技術指導のために約3年にわたり満州に残留したが、

〈 労務者虐殺の事実ありとすれば、投書による摘発を受け、
おそらく無事帰国することはできなかったであろう。〉


 と至極当然の根拠を示して、日経報道を否定しています。
 技術指導のため、日本人技術者が残ったのはここ豊満ダムだけではなく、撫順炭鉱など満州各地で見られたことで、これを「留用」 と呼んでいたことはすでに記したとおりです。

(2) 『豊満ダム』の刊行
 上記「空閑論文」では反論として不十分なのは明らかなことです。
 そのためかどうかわかりませんが、内田 弘四(前出) を代表にして編んだ『豊 満 ダ ム― 松花江堰堤発電工事実録― 』(左写真。非売品、1979=昭和54年 )が刊行されました。
 日経報道から1年後のことで、この報道を強く意識した「まえがき」は以下の通りです。

   〈かつて満州に無関係の人でも、日本人なら誰しも、
別して、豊満ダム建設で働いた日本人にとっては、心外千万の悪宣伝と痛感したのである。
その報道に対しては、「白髪三千丈」のお家芸として、ただ単に黙殺するわけにいかない。
読者の血は騒がずとも理性が納得しない。(略)
なんとしても、事実を正しく世に伝えねばならない。正しい実録のまとめが先決である。
そしてその反駁も、40年前の満洲でのできごとの「虐殺呼ばわり」に対する
単なるゴマメの歯ぎしりで終わってはならない。〉


 ご覧のように強い調子です。
 以下、いくつか要点を記しますが、数字の根拠は前述した「空閑手記」によるものです。
 空閑徳平は、「工事全般に沿って日々必要と思われることがらを個人的に記録していた。幸いに同氏は引揚げの際に、かなりの記録を持ち帰ることができた」というわけです。
 「労務の実態」のなかから、いくつか紹介しましょう。

・ 全工期の死亡総数は1000余人
 工事の始まった1938(昭和13)年、1939年は、堰堤基礎工事、(河川の)締切り工事、発電所基礎工事などが実施され、今日のような掘削機械、運搬機械による機械化が完備されていなかったため、工事の推進はいきおい人力に頼る割合が多くなった時期でした。
 このため、1939(昭和14)年7月、78人という月間最多死亡者を出してしまいます。
 同書には、この年の月間死亡者を以下のように記しています。

月 別 死 亡 者 数
 4 月  5 月  6 月  7 月  8 月   9 月  10 月 7ヶ月間合計
 
5 人
 
30人38人78人65人 62人59人337人


 全工期(約5年間) の月当たり平均死亡者数は17人〜20人位だから、上記の数字は異常に高かったとし、この年は7月〜10月にかけて、「チフス、発疹チフスなどにかかった病死者が多発したのである」 と説明しています。

 そして、これらの病気は労務者にかぎらず、日系職員もかかり、片岡・堰堤主任もチフスで亡くなったとし、「現場衛生管理の欠陥が露呈したことはまことに遺憾であった」と記しています。そして、

〈全工期の死亡総数は、94%の病死者を含め、1千余人であった。〉


と総括します。

(注) 上記死亡者統計で、7ヵ月間しかなく説明もありませんが、冬場は工事がほとんど出来ないためと思われます。
 このことは満州、とくに北満州のどこの工事現場でも同じことでした。寒さのため休まざるをえなかったのです。いわゆる山東省などからの出稼ぎ工人は、冬場は故郷に帰ることが多かったのです。関係者にとっては常識事項でしたので、あえて説明を加えなかったのでしょう。


・ 一時最多死亡者は「9人」
 1938(昭和13)年2月、凍土崩落により「圧死者9名」 を出したのが、全工期を通じて発生「最大の死亡事故」 としています。

 右岸の仮締切り工事のさい、120センチ以上も凍結した畑土を、すかし掘りする作業が必要でしたが、この作業には危険がともない、凍土の下の軟土を掘りこみすぎないように絶えず注意しなければいけないところ、「監督および作業長が監視を怠ったために」事故を起こしてしまい、「まことに残念」と記します。

 これ以外の単発死亡事故としては、土運搬用トロッコの暴走により、転倒下敷となった災害が数件、いづれも夜間作業時だったとしています。また、凍土の掘削作業、堰堤、発電所の基礎掘削にはしばしば発破を使用しますが、「発破による事故の発生は1回もなかった」 とし、「監督者および作業長の注意と労務者の自主的安全行動が徹底していたからであろう」 と説明、

〈豊満ダムの全工期を通じて、単発少数者死亡事故は時々あったが、
一時に多数の死亡者を出した重大事故は前述の凍土掘削による外まったくなかった。〉


 と断じ、さらに、

〈寒中コンクリートには加熱、防寒、保温が必須である。
豊満ダムの工事では工程の必要上、仮説工事は保温しつつ寒中コンクリートを施工したが、
加熱、防寒、保温を怠ったことはない。
従って、これに従事する労務者が厳寒にさらされることは全くなかった。〉


 とも断言し、日経報道を真っ向から否定します。

・ 食事、宿舎、ロシア人、診療所など
 食料事情等の記述について簡単に触れておきます。
 最盛期の最高就労人員は「1万人以下」 であったとし、「1棟当り50人、オンドル式採暖設備の宿舎数十棟を準備」しています。
 また、「食事はメリケン粉、包米粉、高粱で、副食は豆油を用いた魚、野菜が多かった」と説明、食糧事情の良さが白系ロシア人が家族を呼び寄せてのだと、次のように記しています。 

  〈白系ロシア人が他の地区から家族まで呼び寄せてロシア人部落ができたのは、
1940(昭和15)年以降のことであったが、
これは当時でも、豊満が食糧事情に恵まれていたからである。〉


 診療所は現場付近に設け、労務者に対する歓楽施設は仮設工事の最初から作っていたと書いています。
 「 労働者は飢え寒さでバタバタ倒れ、再起不能になると生き埋めにされた」(日経新聞報道)結果、1万5,000人の万人坑ができたという中国の主張と豊満ダム側との隔たりは、以上のようにとてつもなく大きいのです。

 「白系ロシア人」が働いていたことについて付記しておきます。
 人数は約100人(家族を含めればもっと多い)と聞いていますが、万人坑が存在したとすれば、このロシア人職員たちの間から写真1枚、話し1つ出てこないとは考えられないでしょう。
 なにせここはソ連軍に接収され、アスモロフ大佐以下5人の技術将校らが、 1ヵ月半にわたってダムを精査 していたのですから。もちろん、折あらば接収するのが狙いだったことでしょう。

(3) 反論も内輪どまり
 これだけの反論材料が残っていて、せっかく本にまでしたのですから、少しは世間に知らせる努力があってもよかったと思うのですが、事実はほぼ逆といってよい状態で終止符が打たれました。

 というのは、『豊満ダム』の編集者(内田弘四)が、経 団 連 を通じて件(くだん)の日経記者に記事の誤りをただすように要望したのですが、経団連は記事を書いた岡田特派員を招き、本を渡して事情を説明したものの、訂正記事が出ることはありませんでした。
 もっとも、経団連側(常務理事と広報部)がハッキリに訂正記事を出すように迫ったのかどうか、よくわかりません。
 ただ、日経の岡田記者が経団連に宛てた釈明文のコピーが手元にありますので、要点を引用しておきます。

 〈中国側の案内の通りにあの記事を書いたが、犠牲者の記事は自分としては半信半疑であったが、
確かに配慮を欠いた点は申し訳ない、
然し自分としては中国側の言い分を一応、紹介せざるをえなかった。
むしろ、記事の後半にかいたように、あの豊満ダムを建設した日本の技術者の能力の素晴らしさと、
それが現在でも中国の開発に大きな役割を果たしていることに自分の意志があった。
・・・自分の真意を宜敷く内田会長に伝えて欲しい・・ 〉


 「内田会長」とあるのは、内田らが戦後立ち上げた建設会社(大豊建設・東証1部上場)の会長職に内田があったためで、上記反論の書『豊満ダム』の発行所はこの建設会社になっています。

 記事に書いたあとになって、「半信半疑であったが」などと岡田記者が釈明するのもどうかと思いますし、内田会長らが「 これで決着がついた 」とし(後述)、話をここで終わらせてしまったのもいただけません。
 この書の存在は関係者(それもごく一部)しか知らないのです。もっとも、中国側にこの本を渡したという話はあるのですが。
 豊満ダム関係者はこれでよいとしても、この問題は「国益と日本人の名誉にかかわる問題」 のはずですが、そのような視点がほとんど感じられないのです。大同炭鉱の根津司郎が言うように、「こんなことが事実として残るのは国辱もの」でしょうに。

4 報道は止らず


 ですから、中国に対して、また日本人の残虐行為を競うように報じる日本のメディアに対して、この反論が抑止力になることは期待できません。
 それどころか、中国が遺骨展示館を建てれば、すぐに日本で糾弾記事となって跳ね返ってきます。毎度のことながら、日本人の甘さにはガッカリさせられます。

(1) 『中国の大地は忘れない』より
 まず、単行本『 中国の大地は忘れない 』 (森 正考編、社会評論社、1986年)をご覧にいれましょう。
 この書の執筆に当たった6名と他の16名でなる訪中団メンバーについて、「すべて、地域・職場にあって、市民運動、労働組合運動で日々悪戦苦闘している者たちである。今までこの種の調査、研究は一部のジャーナリスト、学者たちにまかされてきた。
 その意味では、本書はアジアの人々に思いをよせ、手さぐりながらアジアの人々と共に生きることを求める日本の民衆運動の中から生まれた書であると言えよう。・・」と「あとがき」に書いています。

 もちろん、この人たちも加害者である日本側の裏づけが必要などとは、夢にも思わなかったことでしょう。参考文献のトップに『中国の旅』をあげてあるのは、むしろ当然のことなのかもしれません。
 執筆者6名について、〈 映画「侵略」上映全国連絡会〉の関係者とありますし、編者の森 正考 は「現在、公立学校教員」とありますから、この本がどのようなルートを通じて、どういう層に広まったか、おおよその見当はつくことでしょう。
 「悪魔の生体・細菌実験」などと並ぶ「豊満ダム万人坑」の項を見ますと、

〈重労働と栄養失調などで病気が流行し、
毎日人が死に、多い時には数十人が死にました。
病気になると鬼どもは、治療をしないど病人を1ヵ所に集め、生きたまま火を放って焼殺しました。・・〉


 とあり、「焼殺」されたなど悪質さがさらに強調されます。また、万人坑も「10数ヵ所」としていますので、そのうち10万人単位の犠牲者に増えるのかもしれません。

 また、「豊満労工記念館」に展示されている「遺骨の写真」も掲載されています。これらを見た学生はもちろん、多くの人が日本人の底なしの悪行に嫌悪感を覚えたに違いありません。

(2) 『中国東北の旅』 より
 この記念館を訪れた日本人がどのように感じたのか見てみましょう。
 「満州国」に勤務し、1946(昭和21)年に帰国した 村山 孚 は、『中国の東北の旅―もはや"旧満州"ではない』(徳間書店、1986年)のなかで、以下のように書いています。

〈実は豊満ダムを訪ねるに当たって、私には、果たさなければならない辛い宿題があった。
それは「満州国」時代、豊満ダム建設にさいし酷使されて犠牲となった
農民、労働者の塚があると聞いていたので、それを確かめ、事実ならせめて参拝してきたいと思ったのだ。
 「万人坑」ですね。楊さんたちは、こだわりなくいって案内してくれた。
そこはダムから4〜500メートル離れた丘の斜面で、中央に記念塔、その背後に記念館が建っていた。
その手前に、周囲をガラス張りにした温室のような建物があった。
何気なくのぞきこんだ私は、思わず後ずさりして目をそむけた。隙間なくビッシリ並んだ骸骨の列なのである。
これはほんの一部で、まだ発掘せずそのまま埋まっているところもあるという。 〉


 と書き、「万人坑ショック」でいささか落ち込んだと書いています。

 村山 孚は、一般の日本人より中国や中国人について、知識は豊富なはずなのですが、何の疑問も持たなかったようです. 「せめて日本側の裏づけをしなくては、先人に対して申し訳ない」 などとは考えもしないでしょう。
 村山 孚は「中国関係を主とした著述、経営評論、講演など幅広く活躍している」(巻末の著者紹介欄)といいますから、各地でこの話をしたに違いありません。

5 私の調査から


 私が調査をはじめたのは、1990年の末からでした。
 ダムの関係者が会員の「豊満会」という社友会がありますが、すでに休眠状態でした。調査を進めるにあたっては、関係者の話を聞く必要があるため、「豊満会」名簿の入手が不可欠です。
 そこで、内田 弘四など名前がわかっている数人に、資料を添え、調査協力をお願いしましたが、まったく無視されてしまいました。内田からは、ご丁寧にも送った資料などが一括されて、関係者の1人を通じて返される始末です。
 理由は『豊満ダム』を出版したことで「決着がついている」ということでした。

 ですが、これが理由になるわけがありません。先に記したように、日本人全体にかかる問題という認識が不足しているからであり、「お前らに何がわかるか」 といった臭気を強く感じました。
 こうした「臭 気」は偉い地位に就いていた人に、しばしば見られる共通点で、内田だけではないのです。もっともある人が、「あの会社は中国に進出するので、問題を大きくしたくなかったのですよ」と解説してくれましたが。

 この頃、知り合いになっていた撫順炭鉱の勤務経験者が、「豊満会」の会員である山田 多摩夫を知っているからと紹介してくれました。
 協力をしぶる山田と私との間で一時は険悪な状態になりましたが、やはり送った現場写真のあまりに酷さに心を動かしたのでしょう、一転して協力者になってくれました。
 もちろん、山田多摩夫は万人坑を全面否定します。また、『豊満ダム』の刊行を知りませんでした。

(1) 中岡 二郎証言
 氏の東京郊外の自宅で一通りの話をしてくれた後、「真実はひとつしかありません。歴史は正しくつたえるべきです。私の顔がウソを言っているように見えますか」と私の目をのぞきこむように中岡はキッパリ言いました。

 1937(昭和12)年、中岡は東京帝大の土木科を卒業、そのままダム建設にたずさわり、堰堤主任などを経て、終戦時は土木副科長でした。
 1941(昭和16)年以降は、夫人とともに豊満の社宅で生活していましたから、夫妻ともに当時をよく知る有力な証人というわけです。戦後は建設省に入った後、武蔵工業大学教授 として教壇に立ちました。


 中岡 二郎元教授は上記の『豊満ダム』編集に当たったひとりです。
 本に掲載された統計数字などは、空閑 徳平(ダム建設処長、前出)が設計用紙に丈夫な紙で裏うちし、巻き物にして気象条件、工事の進捗状況、事故に関することなど、個人的に細かく記録していたものだと説明します。
 「なんでそんなに細かくつけるのか」とからかったこともあるほどの克明さだったといい、「今になってみれば、あれがあったから良かった」と中岡は話してくれました。

 『豊満ダム』には現地の地図がありません。
 「わかりきったことなので、入れなかったのではないか」と話す中岡元教授に無理強いして書いていただいたのが、上の「見取り図」です。
 終戦の年の11月、空閑・中岡を含む技術者十数名が、ソ連軍の命令により家族とともに朝鮮に連行されました。鴨緑江・水豊発電所の発電機の解体、撤去作業に従事するためでした。
 撤去先はもちろん、ソ連国内というわけです。十余人は、幸い早期に解放され、故国の土を踏むことができました。空閑の記録はこうして、日本に持ち帰えられたのです。

 「事故は案外、少なかったのです」といい、事故はジブクレーンなど機械との接触が一番多く、工人を多用した締切り工事の時は、かえって皆が緊張していたので事故が少なかったくらいだったと説明します。
 そして、「『豊満ダム』の記録は正確」なものだと説明してくれました。

(2) 増田 仁証言
 1941(昭和16)年12月より終戦まで、工人の労務管理を担当する第一線の責任者・労務股長であった増 田 仁 と連絡がとれ、いろいろと教えていただきました。
 増田 仁は万人坑報道についてまったく知らなかったといい、『豊満ダム』の出版についても同じだといいます。そして、万人坑の存在を全面否定し、次のように回答を寄せてくれました。

〈当時日本人は一般に軍以外は、銃、火薬類は一切持ち合せないので、
大量にも少量にも殺害や虐殺など出来るはずもありません。
若しやったとすればこちらの方がやられてしまいます。〉
〈労務者の虐待などとんでもない。
私の処で毎日の労務者用食糧の獲得に最も力を注いでいました。
戦時中はどこでも同じですが、賃金の他に食糧の配給でも無かったら労働者は集まりません。・・〉


 と書き、吉林省や軍に頼むなどできるだけの手を打ち、「高粱、大豆、白麺(ウドン粉)老酒、地下足袋、運動靴、その他布類などを集めて配給しました」 といい

〈私の処の労務者に限り、大量に虐殺など出来るものではないのです。
そんな事したら労務者は逃げてしまいます。
一人や二人はどんな工事でも、日本の現在でさえ犠牲者は出るのです。〉


 とありました。
 そうなのです。逃げる気になれば、闇にまぎれて逃げてしまえば済む話なのです。監視つきの鉄条網のなかに入れられていたなどとするメディアの報じるデマを信じるから、当たり前の疑問さえ持てなくなってしまうのです。
 そして工人(労務者)が死亡した場合、赤十字病院で検死のうえ、友人や一緒に故郷からでてきた工人に連絡して、居住する部落から引き取りにきてもらい、それができない場合、工事現場の右岸にある小山の山裾の傾斜地に埋めたといいます。
 そして、万人坑があるとすれば、戦後の「国共内戦時の犠牲者」ではないかと推測しています。

(3) そ の 他
 豊満会の名簿をもとに、 20余人 に連絡がつきましたが、万人坑について「見たことも聞いたこともない」、あるいは「知らない」 と全員が回答を寄せています。
 このほかにも、興味ある「証言」がありますが、結論を出すにはここまでで十分と思います。
 念のために書き添えておけば、豊満ダム関係者の誰一人として、万人坑容疑で逮捕されたり、裁判にかけられた例がなかったことです。これは、ここ豊満だけの話ではありませんが。

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