― 娘を殺害、油で揚げて副食に ―
次は榎本 正代の「帰国後の証言」を見てみます。
小見出しにあるとおり、連れていた中国人の娘を慰みものにした後、副食が不足しているからといって殺害、肉を切り取って油で揚げるやら、焼いたりするやらして、1個中隊全員がお相伴にあずかるという日本兵による残酷物語です。
この話は抑留者の証言の特徴、それも際立った特徴を知るうえで格好のものと思いますし、何より頭の体操にうってつけと思います。ぜひ、お考えください。
ここに取り上げる話は、ときをおいて2度証言されました(他にもあるかもしれません)。
はじめは1971〜2年ころに書かれた『天皇の軍隊』(朝日文庫ほか)のなかで、2度目は『私たちは中国でなにをしたか』(三一書房ほか、1987年)のなかでです。
前者は本多勝一・朝日新聞記者らの取材をうけて、後者は「新井 正代」の名で寄せた「投稿」がそれです。前者の『天皇の軍隊』の方がより詳細に記されています。
「榎本正代」と「新井正代」は同一人物 です。中国抑留を経験していない戦友の間で、榎本姓は知られていませんでした。このことが分かるまでに時間がかかったため、調査に手間どってしまいました。それはともかく、話をすすめましょう。
(1) 人肉食事件の概要
人肉食といういまわしい出来事を、『私たちは中国でなにをしたか』から引用しますが、説明の都合上、(その1)と(その2)の2つに分けて抜き出すことにします。
まず、作戦中の中隊、独歩第111大隊第2中隊がおかれた状況の説明です(その1)。
〈1945年4月、山東省東昌県において、私は指揮班長として中隊とともに作戦に出ていた。本部からの食料配給がとだえている上に、前に通過した各部隊が食糧になる物はみな略奪し尽くして、部落には穀物、野菜、豚、鶏など何一つ見つからず、兵隊たちは疲れはて腹をすかし、気持が荒れていた。〉
つづいて、犯行におよんだ経過と犯行の状況説明です(その2)。
〈私は2日前から18歳ぐらいの中国の娘を連行していた。
自分の慰みものにしていたが、いずれは何とか処置しなければならぬことは分かっていた。
このまま殺してはつまらない。私は一つの考えを思いつき、それを実行した。
私は娘を裸にして強姦し、その後、庖丁で刺し殺し、手早く肉を全部切り取った。
それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配布したのである。
兵隊たちは人間の肉とも知らずに、久しぶりの肉の配給を喜び、
携行していた油で各小隊ごとに、揚げたり焼いたりして食べた。〉
この記述を額面通りに受け取るには、多くの疑問がでてくることでしょうが、先に進みます。
(2) 野田正彰教授の診たて
この話を大宅(壮一)ノンフィクション賞をとり、精神医学を専門とする野田 正彰・関西学院大学教授は何の疑問を持たずに信じきってしまいました。
とすると、学生はもちろん、ほとんどの大人も信じてしまうということなのでしょうか。
この残虐事件を引き合いにして、野田教授が下した「診断」がありますので、それをご覧にいれます。
1997(平成9)年7月3日付の「毎日新聞」に掲載されたものがそれです(上写真)。
〈「淳君殺害事件」を考える〉の表題のもと、2人の論者が論考を寄せています。
「淳君殺害事件」というのは、切断された小学生の頭部が校門のまえに放置され、しかも「さあゲームの始まりです」とした「酒鬼薔薇聖斗」 名の声明文が添えられていた猟奇的な出来事でした。
しかも犯人はこの小学校出の生徒(14歳)とあって大騒ぎとなりました。週刊新潮がこの生徒の顔写真を公表したことの是非、また少年の保釈の是非をめぐって長い間、論議がかわされました。
2人の論者の1人、野田正彰教授が「抑圧された暴力への視線 内なる残虐見すえる努力を」という見出しのもと、新井(=榎本)証言を引用しながら、この「淳君殺害事件」がなぜ起こったのか、その原因を解き明かそうと話をすすめています。
・ 野田教授の原因分析
野田教授は次のように書きます。
〈私は1月より雑誌『世 界』に『戦争と罪責』を連載しており、毎日、日本兵隊の戦争犯罪の記録と付き合っている。例えば、第59師団第111大隊のある下士官は、次のような罪行を書きとめている。〉
と前置きして、前述の書籍『私たちは中国でなにをしたか』から新井証言(その2)をそのまま引用します。
そして、以下の結論を導き出しました。
〈信じがたい残酷さだ。だが、私たちはつい昨日のこれらの暴力について直視してこなかった。
もし直視していれば、巷でしばしば聞く罵声を嫌悪し、
子供たちが暴力と破壊と死にあふれるマンガやテレビゲームに熱中することに敏感になっていたのではないか。
替わりに、友人との会話や男女の交際を豊かにするように、
子供たちの環境を整えてきたであろうに、そう務めはしなかった。〉
とし、新井証言に見るような日本軍の残虐行為を直視してこなかったことが、「サカキバラ」事件を引き起こす原因になったのだと指摘する診断になっています。
なお、証言(その1)は人肉食事件にかかわった中隊の背景がわかるように、同書から私が引用したものです。
読者はおそらく、淳君の殺害と日本兵の残虐との因果関係は忘れても、日本軍の「信じがたい残酷さ」だけは脳裏に刻みつけたことでしょう。
雑誌「世界」に連載された「戦争と罪責」は、同名の単行本となりました。
この書は6人の中国戦犯の証言が主体で、その戦犯の一人、小島 隆男中尉に最も多くのページが割かれています。そして、中国人強制連行の話などを聞き出し、信じきっていますし、疑問を持ったようには思えない話の展開になっています。
また、野田教授はこの“人肉食事件”にこそ直接言及しませんでしたが、「戦争と罪責」という題でNHKテレビに出演、あれこれと語っています(上写真)。また、「戦争と罪責」は朝日の社説(1998年8月16日付け)でも取り上げられました。
小島中尉の証言については、 ⇒ なぜ「罪の意識」が希薄なのか、および⇒ 中国人強制連行(労工狩り)をお読みください。
つづいて、『天皇の軍隊』にでてくる榎本(=新井)正代証言です。
朝日文庫本をお持ちのかたは371ページ以降をご覧ください。
第59師団に所属する第111大隊第2中隊(伊藤誠中隊長・少尉)は、1945(昭和20)年5月、とある山村に宿営します。
少し長くなりますが、以下に引用してみましょう。
『天皇の軍隊』はこんな調子の話であふれかえった本と考えて間違いありません。また、榎本正代はこの他の出来事にも証言者として登場します。
登場する証言のどれもこれも、この話に負けず劣らずの残虐ぶりで、事実ならいかなる日本軍の言い訳も成り立ちえないと思います。
ですから、一般の読者に与えた衝撃は大きく、昭和前半の歴史の「決定的一冊」になったことでしょう。
・ 榎本 正代証言
〈第1日は前の部落から略奪してきた食糧で何とかまにあわせたが、2日で食いつくした。手にはいるものといえば、村の畑にわずかに残る野菜ぐらいのものである。
主食類も秋の収穫時期にほど遠いこの春らんまんの季節だ。とりわけブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源が全く見当たらないのがこたえる。
3日目の夕食の用意にとりかからなければならない時刻だった。指揮班長の榎本正代曹長にも着想がうかばない。
「今日はもう肉類が全然なくなっちゃたんでどうするかなあ」
と、中隊長の伊藤誠少尉(愛知県出身)に話しかけるともなく独り言を言った。
「 そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」
と伊藤少尉が榎本曹長の顔をのぞき込むように言った。
小柄だが目のクリッとした賢そうな青年だった。榎本曹長からみれば4、5歳若く、23、4歳の上官である。榎本曹長には「やっちゃう」の意味が、その瞬間よくのみこめなかった。
「仕方がない。人間をやるんだ」
と少尉が曹長の表情に応えるようにつけ足した。中隊長はそう言い残して、宿舎として使っていた農家から出て行った。やっと榎本曹長にも、これから何事が起こるかよくわかった。
ほどなく中隊長が戻ってきた。彼が連れてきたのは、年のころ17、8歳と見える中国人の娘だ。この部落の農民だった。
皇軍は3日前この部落に侵入したときに、部落に残っていた者をことごとく捕えた。男たちは「苦力」として皇軍の使役に使われようとしていた。
女たちは「尋問」の名目で捕えておくのだが、尋問をされる風にも見えなかった。若い女性が十余人はいたはずである。その1人がいま少尉に連れられて来たのだ。
少尉が少女のうしろに回り、どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。さすが「人殺しの名人」を自認しているだけに、彼の腕は確かだ。短剣は正確に少女の心臓を突いており、彼女は悲鳴もあげずに、いま2人の足元に息絶えていた。
武器に鉄砲やピストルを使わなかったのは、銃声で村人や他の皇軍兵士たちに知られてはまずいという判断からだった。
2人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を「料理」してしまった。最も短時間に「処理」できる部分として、2人は少女の太股の肉のみを切りとって、その場でスライスして油でいためてしまった。
1個中隊分といっても、最前線にあっては70人ほどだったのだが、人肉の分量は意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。
中隊長は別の部屋に5個小隊の炊事班員を呼び集めていった――「今日は特別に大隊本部から肉の配給があったので各小隊に配ることにした」〉
さて、どうでしょう。
毎日新聞に載った証言と『天皇の軍隊』の証言とは違いすぎるとは思いませんか。同一人物の「実 体 験」 にしては、「記憶違い」とは性質が異なる、言いかえれば間違うはずもないことに間違いがでているのではありませんか。
例えば、前者では榎本は中国人の娘を慰みものとして2日前から連れ歩いていたはずです。なのに後者では副食がないからといって、中隊長が1人で部落から連れてきた娘だというのです。
また、前者では伊藤中隊長の姿はどこにも見当たらず、榎本曹長1人で強姦のうえ庖丁で殺害、肉を切りとって配給しています。それに油で料理したのは兵隊たちでした。
後者になると、殺害は中隊長と2人、しかも凶器は短剣となります。そして肉をスライスし、油でいためるのも2人でした。
どうでしょう。記憶違いという次元のものでないことは軍隊の経験がなくても判断がつきます。
軍隊について、多少の経験、知識があれば「なにを馬鹿な」と苦笑いすることでしょう。まず、中隊長が兵の副食を作る、この1点を知っただけでもこの「証言」、だれも信じやしません。
中国戦犯の「証言」は異様な残虐行為が多いのです。榎本はとくにそうなのですが、「猟奇的な証言」が目立ちます。1つ2つ、例をあげましょう。
満期除隊になる兵士への土産話にと農夫を捕まえ、「野菜庖丁で胸から腹まで絶ち割って見せた」というのです。しかも、この「勇猛」ぶりが買われてか、昇進が早かったというのですからなんとも言いようがありません。(『天皇の軍隊』63ページ)
また、こうも証言します。
榎本は古年兵の命令で娘を裸にして逆さ吊りにし、納屋にあったスイカを初年兵にぶつけさせる。今度はボロ布にガソリンをかけると娘の局部にむりやり押し込んでマッチで点火する。あとはやめときましょう。(同62ページ)
これらの話、信じますか。これも少し考えれば疑問点を指摘できるはずです。
念のために記しておきます。榎本(新井)と同じ部隊にいた他の将兵とずいぶん連絡をとりましたが、このような話を真面目に受け取る人はいませんでした。
そのうちの1人は、「娘を食ったなどとんでもない。・・だれも『天皇の軍隊』など信じていない。自分たちが一番よく知っていることだ」と青森県の弘前から電話をかけてきました。
なぜこんな話がまかり通るのでしょう。しかも、書店で堂々と売られているばかりか、学校教育の場に持ち込まれてさえする。ノンフィクション賞をとった精神科医まで信じるばかりか説教の材料にまでする。
こうなったのも、話は簡単なことなのかもしれません。要するに、『天皇の軍隊』の記述について、だれも調査・検証し、表だって異議を唱えなかったからでしょう。
調べなければ、この本が中国抑留者だけの証言で成立していることに気がつくはずもありません。
そのうちに、NHKテレビ、朝日新聞 をはじめとする報道機関が抑留者を取材源にした「日本軍叩き」 の報道が多くなりました。大勢は決まったのです。
でも忘れないでください。『天皇の軍隊』は中国抑留者の「証言」だけによる「59師団史」だということを。
(注) 日本側将兵(111大隊)から話を聞いておりますが、省略しました。
〈関 連 事 項〉
・ 絵鳩 毅証言
抑留者の一人、絵鳩 毅が話した「侵略戦争―体験と反省」のなかに、この人肉食の話がでていますので、その部分を取り出してみます。これは「中帰連」のホームページで公開されたものです。
HPの略歴を参考にすると、絵鳩は1913(大正2)年生まれ。1938(昭和13)年、東京帝大文学部を卒業、文部省に勤務。女子師範学校教員等を経て1941年召集。第59師団独歩111大隊機関銃中隊に所属、終戦時は軍曹でした。
敗戦後、シベリアに5年間抑留後、中国に引き渡されます。帰国後は高校教員など。中帰連の常任委員長などを歴任。
「私が犯した戦争犯罪」として絵鳩は、「地雷踏み 人間地雷探知機」「実的刺突」、それに「人肉を食べた兵隊」の3つを語っています。「日本が行ったあの侵略戦争が終わってから、既に54年が経ちます」とあることから、1999(平成11)年頃の発言と思われます。
「地雷踏み―人間地雷探知機」は1945(昭和20)年6月の「秀嶺作戦」中に、八路軍が埋めた地雷を探査するため、日本軍の行軍に先立ち、「苦力」(クーリー)を隊の先頭に歩かせたため、4、5名の犠牲者を出した事件。
「実的刺突」 は、捕虜30名の処分に困った大隊長の命令をうけ、教育係助教だった絵鳩が「初年兵30名に、柱にしばりつけた中国農民4名を突き殺させるという残忍無類な戦争犯罪を犯し」た出来事です。
この話に疑う理由はなく、あっただろうと思います。むごい話です。
・ そして人肉食事件
3番目が「人肉を食べた兵隊」で、今回の「榎本証言」の話です。絵鳩の属した独歩111大隊は榎本が所属した部隊と同部隊です。
「人肉を食べた兵隊」から、関連部分を省略なしに引用します。
〈その頃のことです。「ある中隊では人の肉を食べた」という噂が流れてきました。
この噂の張本人であるE曹長は、後に撫順戦犯管理所でこの事実を告白しています。それによれば事実はこうです。
この索格荘を占拠していた第111大隊は、逃げ遅れた中国人男女40名程を、「捕虜」として確保していましたが、
男30余名は先の初年兵検閲のための「実的」として処分されていましたが、女性10名ほどが残されていました。
中でも若い女性の何人かが、兵隊の目をはばかってか、丸坊主にされ男装させられて、
大隊長や中隊長たちの「慰安婦」とされ、残りの女性もいくつかの中隊に程よく分配されたというのです。
E曹長もその「恩恵」に浴した一人でした。
この彼は、鶏や豚肉にありつけなかったある日、若い中隊長I少尉と共謀して、
慰めものとしていた17、8歳の中国人女性を殺害し、そのもも肉をスライスして、油で炒めてしまった。
中隊長は、各小隊の炊事員を集めて事もなげにこう言った。
「今日は大隊本部から特別に肉の配給があったから、各小隊に配ることにした」と。
そして7月初旬、部隊に移動命令が下ると、残りの女性捕虜全員は、K中隊長 の日本刀により惨殺されてしまいました。〉
「この噂の張本人であるE曹長」 が、榎本正代曹長であることに疑いありません。
まず、榎本曹長の戦犯管理所内での「告白」を無条件に「事実はこうです」と断言しています。まあ、聞きづたえというか噂話であることをハッキリ語っているだけ、ましだと言えるかもしれません。
この噂話も、『天皇の軍隊』『私たちは中国でなにをしたか』の両“証言”と比較すると、基本的な点で食い違いを見せています。
まずこの“出来事”は、約70名の1個中隊の作戦中に起こったのではなかったのですか。
副食がないからといって殺害した女というのは、慰み者として連行していた娘だったり、伊藤中隊長が1人で部落から見つけてきた娘だったり。今度は、大隊から分配された女だといいます。してみれば、作戦の当初から女を連れていたのですか。
それに、〈兵隊の目をはばかってか、丸坊主にされ男装させられて、大隊長や中隊長たちの「慰安婦」とされ〉たというのですが、これだって怪しい“証言”といってよいでしょう。
兵隊の目から隠すために丸坊主にし、男装させるなど、おかしな話です。将校には当番兵もついていますし、こんな話が事実なら兵隊に筒抜けになってしまいます。
111大隊の将兵を含め、59師団に所属した将兵からも、これに類する話を聞いたことがありません。とにかくこの人肉食事件、1人のヨタ話がこのように広がっていくというわけです。