ジャパン・タイムズが報じた
金子安次「三光作戦」証言

― KILL ALL、ROB ALL、BURN ALL ―
⇒ 永富博之証言


 1996(平成8)年9月26日付けの「THE JAPAN TIMES」は、

" 殺しつくし、奪いつくし、焼きつくせ"
元軍人、支那における残虐行為を後悔


 とするセンセイショナルな見出しのもと、ほぼ1面を使った大報道(下写真。下の一部をカット)となりました。

 ジャパン・タイムズは、発行部数約8万部と聞いています。部数自体は大したことはないのですが、問題は読者層にあるでしょう。
 日本語のわからない英語圏の人たち、わけても日本駐在の海外メディアの記者、大使館関係者たちは、これら英字新聞を情報源とするはずです。
 よりによって日本の新聞が、根拠もなく自国軍の残虐行為を告発するとは考えないでしょうから、事実と受けとってむしろ当然でしょう。おそらく喜んで記事なり論文なりに引用し、世界にばらまかれたに違いありません。

 しかも、ジャパン・タイムズにはこの種の記事が頻繁に現れるのですから、いかに日本軍が残虐な軍隊であったかというイメージが欧米人や英語のわかる各国の指導層を中心に広まったことでしょう。
 ですから、われわれから見れば、実にバカバカしいと思うものが、ニュヨーク・タイムズなどに堂々と記事になって登場します。
 そして、日本に在住する彼らは、誤りをつたえる「語り部」となって、本国やあらたな駐在地に赴くわけですから、日本がうけたダメージは計りしれません。


1 訳文をご覧ください


 とにかく訳文をご覧にいれます。文中の水色は私がつけたものです。
 なお、新聞コピーおよび訳文は前田 修氏から提供いただきました。氏は東大大学院で数学を専攻、また大学進学予備校で英語の講師を務めたという異色の才能の持ち主です。

 〈金子 安次(76歳)は前線の歩兵であった50年以上前に、自分が支那人に加えた恐ろしい仕打ちを鮮明に憶えている。
 金子(東京都東大和市在住)は、1941年10月に山東省にいた。この地で金子の所属する部隊はある村を襲ったのである。
 金子によると、その村は頑丈な城壁で防御されていたので、部隊は攻めあぐんでいたという。そこで帝国陸軍の部隊は秘密兵器毒ガスを取り出した。

 部隊は「赤筒」(赤筒というのは、激しいくしゃみや吐き気を生ぜしめるガスが充満した筒を示す暗号名である)に火を点けた。煙がその村に立ちこめると、支那兵および支那民間人は苦痛のあまりよろめきながら街路へ出てきた。
「われわれは彼らを撃ちまくりました。彼らは束になって地面に倒れました。」と金子は回想している。
 かつて支日戦争(訳註、支那事変のこと)に従軍し、現在は電気部品会社を経営している金子は、最近東京の新宿で開かれた「毒ガス展示会」で、

化学兵器は「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」ことを目的とする
「三光」作戦("sanko"operation)の一環として用いられた、と語った。


 金子によると、多数の兵が赤筒や「緑筒」(催涙ガス弾)を携帯していたという。
 支那人の激しい抵抗に遭遇したときに陸軍部隊はガス弾(原文はthe gases)をよく使った。
 1941年のその日、ガス弾が発射され(原文はthe gas was released)、ガス弾を受けた人々が倒れた後、金子と金子の上官とが村に入った。

「生き残っている者は女子供を含めて全員殺すように命ぜられました。
女は子を産むし、女が男の子を産めばその子は将来、
大きくなってわれわれに歯向かうでしょうから。」


 と金子は語った。
 金子の記憶によると、中年の女と幼な子とが家のうしろに隠れていたという。金子の上官が女を辱めた後、金子は女を井戸に投げ入れ、その井戸に手榴弾を投じた。

 金子はまた、村の広場に中年の支那人の男が縛りつけられているのを見た。一人の日本兵が刀をとってその男の首を斬り落とした。斬られた首は蒼白となって地面に転がった、と金子は回想して言う。
男の娘らしい若い女が駆けだしてその首を持って泣いた。
金子によると、約130人がその作戦で殺されたという。〉
(注) 「アカ筒」の原文は「aka-to(red pipe)」と記されています。

 中国における化学戦に関する陸軍報告書を1984年に発見した中央大学教授・吉見 義明によると、日本政府は昨年11月に赤筒や緑筒が戦争中に使われたことは認めたものの、致死性の毒ガスが使われたことを確証するに足る文書はないと主張していることなどに触れた後、以下の証言がつづきます。

〈金子によると、金子自身は致死性薬品が戦闘で使われるのを見たことはなく、
涙やくしゃみを生ぜしめる「非致死性」ガスを使うこともなかなか許されなかった

―「非致死性」のガスを使ったら、常にその後で刺したり撃ったりして
支那人を無差別に殺さなければならなかったから ―という。
「非致死性ガスを使うことは、マスタードガスを使うことよりも問題がありました」と金子は語った。〉


 この後、金子はシベリアに送られたこと、他の日本兵968人とともに撫順に移送され、6年間の監獄生活を送ったことなどが、簡単に記されています。
〈金子の回想によると、監獄の看守(彼らの親の多くは日本人に殺された)は、投獄されている者を極めて寛大に扱い、1日に3度、白飯を食わせた ―看守自身は粗食に耐えていたのに ―という。
 「支那の寛大な取り計らいによって、われわれのかたくなな心は次第に解きほぐされていきました。われわれは、被害者の感情に思いを巡らし始めました。われわれは、支那人の寛大さにお返しをしなければと痛切に思いました」と金子は語った。
 支那の日本人戦犯に対する寛大な姿勢もあって、金子は起訴を免れた。金子は1956年に故郷に帰った。

 帰ってから、金子と他の元戦犯らとが「中国帰還者連絡会」という団体を結成した。
 この団体は、日本全国に500名の会員を擁し、自分たちの犯した残虐行為を戦後世代が繰り返すことのないよう、一般の人々に自分たちが犯した残虐行為を伝え続けている。
 「銃撃したり拷問したりして100人以上を私は殺しました。このようなことを決して繰り返してはいけません」と金子は語った。〉

2 考慮すべき事柄


 金子安次証言を検証する前に、証言者について次の2点を参考のため記しておきます。

(1) 「供述書」の信頼性はゼロだった
 金子安次は、中国抑留者(中国戦犯)で、「中帰連」の活動家の一人といって差し支えありません。すでに、別項「731部隊とコレラ作戦」⇒ こちらに登場しました。

 1943(昭和18)年9月、第59師団独立歩兵第44大隊が実行したという「衛河決壊」と「コレラ菌散布事件」に関して、他の十余人とともに「供述書」を中国に残してきました。
 ですが、この事件そのものが、中国側の誘導に呼応して抑留者たち自らが作り上げた話であったことは、十分立証できていると思います。
 金子安次の「供述書」は、金子の私あての「抗議の手紙」などからも、相手のいうがままに書いたものと断定して間違いないと思います。
 しかもその供述内容が、金子が機関銃分隊に所属する上等兵であったにもかかわらず、大隊長から1943年8月27日、「衛河堤防を破壊し解放区を埋没させてコレラ菌を散布せよ、との命令を受けた」というのですから。
 詳しくは別項をご覧ください。

(2) NHK特集「問われる戦時性暴力」
 2001年30日夜に教育テレビで放送された「問われる戦時性暴力」は、安倍官房副長官(後に首相)をも巻き込み、NHK対朝日 の論争に発展しました。


 番組は「戦争をどう裁くか」という4回シリーズの2回目で、2000年2月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」なるものを素材にしたもので、法廷の主催者は松井 やより・元朝日新聞記者を代表とする「バウネット・ジャパン」でした。

 「問題の核心は偏向番組の放映にあり」「朝日VsNHK対立で目奪われるな」(2005年1月28日付、産経新聞)と題した西尾 幹二の論考に、法廷の模様が書かれていますので、その部分を引用します。

〈その日、会場の九段会館には朝鮮の民族衣装の老女たちが
「昭和天皇に極刑を」のプラカードを押し立てて続々と集合。最初にビデオが流される。
「日本の責任者を処罰しろ」と老女たちが日本大使館に向かって抗議するシーン。
最後は木に縛りつけられた昭和天皇とおぼしき男性に朝鮮の民族衣装の女性がピストルを向ける画像で終わる。
それからシンポジウムが開かれる。日本の従軍慰安婦問題が徹底的に批判されていれば、
ユーゴの殺戮と強姦も起こらなかったろう、とまさに一方的議論。そして裁判が始まる。
被告人は今や地上にいない昭和天皇、旧日本軍人。弁護人なし、弁護側証人なし。
検察官は2人いたが、いずれも北朝鮮の工作員だと指摘され、その後入国ビザが発給されていない人物もいる。
かくて裁判官が「天皇裕仁には性犯罪と性奴隷強制の責任により有罪の判決を下す」 というと、
場内は拍手のウエーブと興奮の坩堝の中で歓喜に包まれたそうだ。〉


 こんな愚にもつかない「裁判ごっこ」をNHKは無修正で放映しようとしたというのですから、いかに左がかった非常識な連中がNHKに巣くい、番組制作にあたっているかがわかります。

 当初、この番組のなかに、2人の加害兵士の証言が収録されていました。1人が金子 安次、もう1人が鈴木 良雄でともに中国抑留者。鈴木良雄も証言者として頻繁に顔を出すおなじみの兵士です。


 ところが、試写を見たNHK吉岡教養部長が、「違和感がある」としてこの2人の証言に疑問を呈したといいます。ですが、制作チームの抵抗で最後まで残りますが、結局、削除され放映には至りませんでした。
 これに対し、金子も有力会員である「中帰連」は、「NHK番組改ざんに抗議する」「政治圧力によって消された戦場の証言」として、法廷での金子証言をホームページで公開しています。
 「違和感がある」とされた金子安次証言は「6人の兵士によるくじ引き輪姦」のことで間違いないでしょうから、その主要部を末尾に記しました。この輪姦証言、信じるに足りるものでしょうか。

3 金子安次「証言」は信じるに値するか


 ジャパン・タイムズの報道に戻ります。

(1) 場所、所属部隊、作戦名など不明
 1941(昭和16)年10月、場所は山東省。金子の所属する部隊がある村を襲ったというわけですが、これでは、その場にいたであろう将兵の証言と突き合わせようもなく、事実かどうかの検証が難しくなります。
 したがって、この記事は「検証」を封じた一方的な報道といわざるをえません。

 そもそも、こんなあやふやなな話を、ウラ付けも取らずに報道すること自体が問題で、厳しく批判されなければなりません。
 ですが、ジャパン・タイムズなど英字新聞のウォッチャーほとんどいないでしょうから(本記事提供者の前田氏は例外中の例外)、こういった記事が大手を振って紙面に載り、日本在住の外国人記者や大使館勤務者、海外の図書館などを通して、日本軍の残虐ぶりが事実として、世界に浸透していきます。

(2) “犯行時”の所属部隊
 まず、金子の所属部隊ですが、「1940年11月に北支那方面軍入隊」とありますが、独立混成第10旅団独立歩兵第44大隊(第12軍)で間違いありません。また、金子が後悔しているという「残虐行為」を行った1941(昭和16)年10月の時点で、同じ独混10旅第44大隊に所属していたことも間違いありません。

 こう断定できるのも、金子と同年兵(複数人)から確認が取れているからです。参考のため、同年兵の染谷 鷹治の軍歴(一部)を下に記します。
 染谷は金子と同じ千葉県出身、2人はソ連に抑留されたものの染谷は中国送りは免れ、1949(昭和24)年8月に舞鶴港に帰国、国鉄に復職しています。
 また、別項 〈「労工狩り」証言―10余人の証言者〉 (⇒ こちら)で取り上げた大木 仲治も、染谷、金子と同じ独混10旅・第44大隊に所属し、手記に残した「労工狩り」を行ったとする時期も1941年8〜9月頃と、金子の「残虐行為」の時期とほぼ一致しています。


染谷 鷹次(金子安次と同年兵)の軍歴

 昭和15年12月 3日  独立混成第10旅団、独立歩兵第44大隊要員現役兵として東京集合地に入営。
    〃12月 6日  北支派遣のため東京港出発。
    〃 12月14日  北支山東省○州着(○は六の下に允)、同日より同地警備。
   16年 4月     山東省莱蕪県莱蕪に移駐、同日より同地警備。
    〃 11月 7日〜 第2次魯南剿共作戦(560高地攻略)参加(〜12月28日)。
   17年 1月     魯中作戦参加。
    〃  2月     魯中作戦参加。
    〃  4月     第59師団編成、53旅団独立歩兵第44大隊となる。
    〃  5月     山東省寿張県に移駐。
    〃  5月     冀南作戦に参加。
    〃  9月     東平湖西方剿共作戦参加。
        (以下 略)


      

 上表にあるように、1942(昭和17)年4月、独混10旅は新設された第59師団の基幹部隊 となり、大部分の将兵が59師団にそのまま移籍しました。金子もその1人で、独立歩兵第44大隊(独歩44大隊)の機関銃小隊に所属、後に小隊は中隊に格上げされ機関銃中隊(重機関銃中隊)の所属となりました。

 ですから「女性国際戦犯法廷」で証言した「くじ引き輪姦」 は59師団独歩44大隊時代のことになります。
 なお、山東省を警備地区とした59師団は終戦間際に朝鮮に移駐、そこで終戦を迎えたため全員がソ連に抑留され、後に選別された200余人が中国に戦犯として送られました。

(3) 「三光作戦」なる言葉を知るわけがない
 見出しに「KILL ALL、ROB ALL、BURN ALL」とあることからも類推できるでしょうが、金子は記者に対して「三光作戦」なるものを、したり顔で話したに相違ありません。
 「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくせ」は実にセンセイショナルな表現ですから、新聞記者が飛びつくのも無理ないでしょう。
 そもそも「三光作戦(政策)」というのは、共産八路軍が組織的に山西省駐留の日本軍(第1軍)ほかを急襲、大きな被害を与えた百団大戦(1940=昭和15年)に対し、第1軍がとった反日根拠地掃討作戦を指して中国が非難したものでした。

 ですが、第1軍の将兵で「三光」という言葉を聞き知った人は1、2の例を除いていないはずで、またいなくて当然なのです。もちろん、「三光作戦」という作戦名を日本軍がつけるわけもありません。
 それに金子の属した独混10旅は第12軍の隷下にあったわけですから、第1軍の掃討作戦とは関係ありませんし、「三光作戦」という言葉を知ってたわけがありません。撫順の戦犯収容所で仕入れた(教えこまれた)知識と断定して間違いないはずです。
 ですから、

〈化学兵器は「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」ことを目的とする
「三光」の一環として用いられた、と語った。〉


 などという発言は、戦犯管理所内で言われていたことに、金子が勝手に話を加えたのに違いありません。また、

〈生き残っている者は女子供を含めて全員殺すように命ぜられました。
女は子を産むし、女が男の子を産めばその子は将来、
大きくなってわれわれに歯向かうでしょうから。〉


 という話も、別項の城野 宏証言( ⇒ こちら) ほか、何度か読んだ記憶がありますが、いずれも中国抑留者でした。
 女子供を含めて全員殺害する、などということは、特別な状況下ではありえたかもしれませんが、独混10旅の在隊者に聞いたところ、ただ首を振って苦笑いするばかりでした。
 これも「三 光」の一つ「殺光」(殺しつくす)と話が合うように、収容者の一部で言われていたことなのでしょう。

(4) 同年兵が否定
 「アカ筒」(通称アカ)はクシャミ性、「ミドリ筒」(通称ミドリ)は催涙性のもので、500ミリリットルのビール缶より少し細く、長めのものと考えれば大差ないでしょう。上部のフタを開け、このフタで中のマッチのようなものを擦ると発火すると聞いています。
 「アカ筒」は「ミドリ筒」より毒性が強いと聞いていますが詳しく調べたことはありません。これらが「化学兵器」かどうかの議論もありますが、どちらも人命にかかわるものではないこと、つまり「致死性」でないのは確実です。今も多くの国の警察は治安のために使用していますし。

 金子の証言を聞きとった記者は、以下のように記します。
 〈その村は頑丈な城壁で防御されていたので、部隊は攻めあぐんでいたという。そこで帝国陸軍の部隊は秘密兵器毒ガスを取り出した。・・煙がその村に立ちこめると、支那兵および支那民間人は苦痛のあまりよろめきながら街路へ出てきた。〉

 金子証言のように、部隊が攻めあぐみ、あげくに「秘密兵器」であるアカ筒を使用するような規模の大きい作戦が事実とすれば、独歩44大隊、とくに金子と同じ機関銃中隊に所属する兵士、情報が集まる大隊本部の人事室の誰かが聞いたり、記憶しているでしょうが、一人にも出会えませんでした。
 同年兵の染谷(歩兵中隊所属)は、「金子安次氏の証言・ジャパンタイムズの翻訳記事を読ませていただきました。初耳で面喰らうばかりです」と私の問い合わせに対し、こう書き出します。
 多くの作戦に参加した染谷は、

「私が参加した討伐、旅団、師団の大作戦にも、
アカ・ミドリなるものを携行したことはありません」


 とし、「尚、アカ・ミドリの存在すら知リませんでした」「アカ・ミドリを使用した例など聞いたことはありません」と答えます。

 染谷は念のため、同年兵(佐藤 信治)に電話で問い合わせたところ、「アカ、ミドりは聞いたことがない」との返事だったとし、次のように記します。

「金子安次氏が言われる作戦中、アカ・ミドリを使用した証言する以上、
彼と行動を共にした人の証言なしには容易に信じ難いです。
一人芝居では答えようがありません。」


 私自身、独歩44大隊の会合(戦友会など)の折に確かめたのですが、「アカ、ミドリ」という言葉が通じず、私が説明しなければなりませんでした。
 金子と同じ機関銃中隊所属の兵士も同じで、キョトンとした感じだったのです。

(5) 秘密兵器「アカ筒」の使用について
 華北におけるアカ筒の使用例を27師団を中心に2、3聞きとってあります。華北ではアカ、ミドリ筒は穴や塹壕などに隠れた敵を追い出す、つまり「いぶり出す」ために使用するのが普通だったようです。

 というのも、アカ筒、ミドリ筒の有効範囲は狭く、煙は風しだいで拡散しますので、なかば閉鎖された空間でないと効果があがりません。煙が味方に向かう例もありました。
 ただ、穴といっても、地下に張り巡らされた通り抜けの道だったり、なかには人が居住できるほどの広さがあり、8畳くらいの「部屋」に兵器が保管されている例もありました。
 アカ筒が「秘密兵器」というのは笑わせますが、日本軍がこの兵器を日常的に使用したと考えるのは誤解で、そんなことはありませんでした。八路軍(はちろぐん、またはパーロ)、つまりゲリラ作戦で立ち向かってくる八路に対して、通常の中隊、小隊規模の警備・討伐行動では、「アカ筒」は所持しなかったと聞いています。
 所持する場合でも1中隊で1〜3人程度の教育を受けた兵が持つ程度で、使うことはめったになかったとも。訓練を受けている兵が少なかったことも理由だったようです(その教育も名ばかりだったといいます)。




「女性国際戦犯法廷」での金子安次証言


検 事  金子安次さんは1920年1月28日生まれ、80歳ですね。あなたは1940年11月に北支那方面軍に入隊されたのですね。
金 子  はい。
検 事  それ以後、中国山東省などを転戦されて終戦を迎えられたのですね。
金 子  はい。
検 事  あなたの軍隊における最後の地位は何でしたか。
金 子  伍長です。
      (中 略)


検 事  あなたが見た「慰安所」というのは、女性たちは自分たちの意志できていた人たちですか。
金 子  違います。日本には公娼制度というのがあり、それは営業であり金儲けです。しかし、そこで働いている人は、みんな苦しいから働いているんです。金で縛られているから自由に行動できない。そこに「慰安婦」の「慰安婦」らしいところがあるんです。
検 事  自由がないということですね。
 こうした「慰安所」があることは、強姦の防止に役立ったと思いますか。
金 子  役立っていません。
検 事  それは何故でしょうか。
金 子  「慰安所」にいって1円50銭払うんだったら、強姦だったらただです。我々の月給というのは、だいたい一等兵で8円80銭くらい、上等兵で11円くらい。その中から強制的に貯金をとられるんです。ですから金があまりありませんから、1円50銭払うくらいだったら、作戦にいって強姦をした方がただだというような考えがありました
検 事  あなた自身も、そういう考えの中で強姦に加わったことがありますか。
金 子  あります。昭和18年、作戦にまいりました。その時にある部落で若い兵隊が一人の若い女性を連れてきました。21、2歳でしょうか。それを、6人の兵隊でくじ引きをひいて順番を決めて、ひとりひとりその女を輪姦しました。こういう事実がございます。
検 事  そういった強姦をすることについて、あなたの所属していた軍隊は、どのような指示が出ていたのでしょうか。
金 子  昭和14年から15年、当時日本では「生めよ増やせよ」というスローガンがありました。男の子がうまれたなら、労働力にも戦力にもなる。女の子だったら、将来のいわゆる再生産になる。だから子どもをどんどん産みなさい。そうすれば日本はどんどん栄える、こういうスローガンがありました。だからそのつもりで戦地に行きました。
 そうしますと命令がくるっと変わりました。女は殺せ。子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったら我々に反抗するから子どもも殺せ、というように上官の命令がくるりと変わったんです。そういうことですから、私たちたちはどうせ殺すのならどんどん強姦してもいい、そういう考えで私たちは強姦しました
検 事  くり返しますが、上官は女を見たら殺せという指示が出ており、どうせ殺すのなら強姦してもよい、このような考えでいたわけですね。
金 子  そうです。
検 事  このような証言をするのは楽なことではないと思いますが、あなたはなぜこのような場で証言をする気になったのですか。
金 子  はい。これは正直なことをいいますと、私も自分の妻や娘にこういうことはいっさい話しておりません。実際できないんです。しかしながら、私たちがやったことについてどれだけ中国人民が泣いていたのかということを、私たちは撫順の戦犯管理所でしみじみとわかったんです。
 これは二度とこういうことを起こしてはならない。これを止めるのは、現在残されている私たちしかないんだ、こういうことからこの問題を皆さんに聞いてもらいたい。こういう気持ちです。(拍手)
金 子  先ほど強姦の問題がありましたが、陸軍刑法では強姦をすると7年以上、現場にいただけでも4年以上という刑罰があります。
 しかしながらなぜ私たちが強姦したかというと、確かに金の問題もありますが、現在では私たちは中国人といっていますが、しかし当時は支那人、あるいは差別的に「チャンコロ」といっていました。「チャンコロ」の女を強姦して何が悪いんだ、どっちみち殺すんじゃないか、こういうような気持ちをもって強姦したわけです。
 従いまして、中隊長あるいは大隊長でも自分の部下がたとえ強姦罪を犯しても陸軍刑法を出さない。自分の功績に関係するんです。そしてもう一つは、チャンコロだという劣等視があるんです。だから、われわれ兵隊は強姦をしたんです。以上です。
検事 これで質問を終わります。
 (以上、「中帰連」のホームページより)

(注) この証言の解釈にあたって、金子安次の所属部隊は機関銃小隊(後に中隊に格上げ)で、金子は重機関銃の射手であったこと、直属上官は終始、小島隆男で小島の少尉時代(機関銃小隊長)、中尉時代(機関銃中隊長)を通じて一貫していたことを考えなければなりません。
 ですから、「女は殺せ。子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったら我々に反抗するから子どもも殺せ」と金子に命令した上官、「上官は女を見たら殺せという指示が出ており、どうせ殺すのなら強姦してもよい」とした上官が、いずれも小島隆男中尉の可能性が極めて高いことになります。

 ですが、強制連行、運河を決壊させたなど、いろいろな証言をしている小島中尉も、「強姦、輪姦」など婦女暴行についての証言をした事実を私は知りません。それに、金子証言が小島中尉の死後というのも引っかかります。
 分隊で構成される重機関銃隊は必要に応じて歩兵中隊、歩兵小隊の討伐、警備出動に同道しますので、機関銃隊が単独で出動することはないのです。
 したがって、「くじ引き輪姦」が事実とすれば、そこには歩兵、下士官(それに将校)も一緒にいたことになります。大体、兵の序列(階級と招集年次)は厳しいものですから、「くじ引き」が事実とすれば、金子と同年兵、同階級に相当する者6人が少なくともその場にいたことになり、こんな人数が集まるなど不自然です。
 機関銃の扱いは砲と同じで、『歩兵操典』に「最後の一兵となるも飽く迄奮闘し、銃、砲と運命を倶(とも)にすべし」とあるように、行動中、銃を離れることは許されませんでした。後はどう判断するか、常識の問題だと思います。



 (追 記)

 金子安次について、英文Wikipediaにも項目があります。参考のためにアクセスしては如何ですか。

http://en.wikipedia.org/wiki/Yasuji_Kaneko

 この冒頭、上記日付のジャパンタイムズを引き合いに以下の記述がでてきます。
    
 In an interview with the Japan Times on September 26, 1996, Yasuji stated "I murdered 100 people or more by torture."[citation needed] He also claimed that he joined the Nanking Massacre and murdered and raped many Chinese people.[citation needed]
 He testified during a private trial Yun Chung-Ok sponsored in December 2000: "Comfort women were expensive. Therefore, I kidnapped, raped, and killed the Chinese woman." [4] Kaneko has also admitted to participating in the use of chemical and biological weapons against Chinese as part of Unit 731.[5]

 金子の入隊年次を見れば南京戦に参加しているはずがありませんから、「南京虐殺」とは無論、関係がありません。
 いくらなんでも金子が南京戦に参加したと証言するとは思えませんので、どのような人が書いたかわかりませんが、「Wikipedia」の信頼度はこの程度のものと証明しているとも言えます。だからと言って、アクセス数から考えても影響力が減じることもないでしょうが。

 それにしても、100人以上の殺害とそれ以上の人数を拷問、また慰安婦の値段が高いからといって誘拐するやら、強姦するやら、果ては殺害。また南京虐殺にもかかわり、731部隊に関連して化学兵器、生化学兵器を使用したなど、たった一人ですべての「悪行」をしでかしたという日本兵の「生き証人」。
 いいかげんな証言を繰り返したのですから、こう書かれるのもいわば自業自得なのですが、われわれ日本人にとっては大迷惑です。

⇒ 永富博之証言 ⇒ 総目次に