もう1つの「三光作戦」
―「無人区化」政策―

― 興隆県の皆殺し作戦 ―
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 1989(平成元)年8月14日付けの毎日新聞(下写真)は、1面分の約半分を使い、

長城沿いに「無人区」
村民を強制移住


 との見出しをとって報じました。


 ご覧の通り、右上に「もう1つの三光作戦」という白抜きの見出しも掲げています。
 この見出しを読むかぎり、万里の長城沿いで村民の強制移住が行われたとあり、日本軍による「皆殺し作戦」という私のつけた副題は、意図的な誇張ではないか、あるいは事実を反映していないのではと不信感を覚えた向きもおいででしょう。

 ですが、本文を読めば、「無人区化」という政策は間違いなく 「中国人皆殺し作戦 」 であって、見出しの方がおかしいのです。

・ 中国人皆殺し作戦
 まず、リード全文をお読みになって下さい。

〈日中戦争(1931〜45年)時期に、旧日本軍が中国大陸で行った「無人区化」政策の実態が、
日中両国の研究家らによる初の本格的な共同研究 で明らかになった。
日中戦争をめぐる研究では、南京虐殺事件や旧日本軍第731部隊(石井部隊)による細菌、毒ガス戦の研究が
学者、ジャーナリストらの手で地道に進められているが、
「無人区化」政策の実態はこれまで、ほとんど取り上げられず、全容がはっきりしていなかった。

 中国現地で共同調査にあたった日中の研究家らは
「村から強制的に住民を締め出し、人為的に『無人区』をつくるこの政策は、
日本軍が華北で行った『三光作戦』(奪いつくし、殺しつくし、焼きつくす)を
地域的に、空間的に広げ、長い年月をかけて綿密に計画・計算され、
体系的に展開された大量殺人、中国人抹殺作戦だった」と結論づけている。〉


 本多勝一・朝日新聞記者は、「南京大虐殺」はそれでも軍の方針による虐殺ではなかったが、「三光作戦」は作戦、政策としての「全住民皆殺し」だったとしました。
 してみると、「無人区」政策は三光作戦を地域的、区間的に広げた“綿密かつ体系的な中国人抹殺作戦”というのですから、「超三光作戦」とでもなるのでしょうか。


1 興隆県の大虐殺


 上の毎日報道は、姫田 光義・中央大学教授、陳 平・元新華社通信記者の共著 『もうひとつの三光作戦』(青木書店、1989年)の発売に先立って、その研究成果を紹介したものです。

 つまり、今まで闇に包まれていた「計画的中国人抹殺計画」が白日のもとに晒されたというのでしょう。
 ですから、上記の毎日記事は同書の要点を紹介したことになります。
 「日中両国の共同研究家」というのは、姫田光義教授、陳平・元新華社通信記者を指していることはいうまでもありません。

 『もうひとつの三光作戦』 は2部構成でできていて、姫田教授の書き下ろした第1部を検証すれば、おのずと第2部(陳平元記者の研究報告 ) の評価は定まりますので、第1部を検討対象とすることにしました。
 第1部に書かれた日本軍の蛮行はおおむね次の2点に集約されます。

 @ 承徳憲兵隊の蛮行により、犠牲者4万6000人の万人坑ができた。

 A 興隆県の「無人区」化政策により「8万人の殺戮」が行われ、興隆県の人口が半減した。


 @とAの結果、承徳および興隆県一帯で、

〈少なくとも12万人以上は確実に日本軍の手で殺されている
という結論を出しても大過ないと考える。
この数字はほとんどが非戦闘員の無辜の民である。
そして半ば以上が「無人区」化の犠牲者である。この
数字自体に私はショックを隠せなかったのである。〉


 とあり、この結論が「無人区化」政策に関する姫田教授の研究成果の一つというわけでしょう。
 @の承徳憲兵隊の「蛮行」については別に報告予定ですので、ここではAの「興隆県の無人区化政策」についてお知らせします。
 注 @の承徳憲兵隊による蛮行(水泉溝万人坑)は小著『「朝日」に貶められた現代史』(全貌社、1992)に記してあります。

2 「無人区化」政策とは何か


 中国人抹殺作戦だとする「無人区化」政策とは一体、どのようなものなのでしょうか。

(1) 何ともおかしな政策
 まず、毎日新聞の記事から説明部分を引用します。

〈同教授らによると、「無人区化」政策とは、
山海関から河北省北部に至る約千キロの万里の長城沿いに、
中国人を強制追放し居住を禁じた「無住地区」、さらに耕作も禁じた「無住禁策地区」を作ることで、
八路軍を中心とする抗日運動を抹殺し、北京周辺の防衛をも確保しようとした、諸政策を意味するという。

 先祖伝来の土地を追放された中国人は、日本軍が設置した「集団村」に居住させられ、
軍と警察の厳しい監視・管理下に置かれたが、
その過程で、中国人の激しい抵抗にあい、日本軍は大量殺害を繰り返した、とされる。・・〉


 この話、なんだかおかしくありませんか。とくに予備知識がなくても、この説明に疑問を感じると思うのですが。
 だってそうでしょう。無人区化政策は、「長い年月をかけて綿密に計画・計算され、体系的に展開された大量殺人、中国人抹殺作戦だった」という結論ではなかったのですか。

 それなのに、なんでわざわざ「集団村」を作り、移住させるなんて面倒なことをするのですか。第一、食料はどうするのですか。
 食料を与えずに餓死を待つ作戦ですか。これでは監視などのために大量の人手を使うなど、間尺にあう話ではないでしょう。

 集団村への移住と「皆殺し作戦」とどう結びつくのか私には理解できません。それとも、中国人の激しい抵抗を予期し、これを逆手にとった上での「皆殺し作戦」だったとでもいうのでしょうか。
 これが長い年月をかけて綿密に計算した抹殺作戦だというのですから首を傾げてしまいます。

(2) 人口半減というけれど
 『もうひとつの三光作戦』から抹殺作戦の一部を引用してみます。
 

〈興隆県での第1回目の「大検挙」は1942年1月下旬におこなわれた。
数日のうちに2000余人が逮捕され、各々の現地で400余人が殺され、
その他は満州=東北に強制連行されていった。
1942年秋、「大掃討」戦がおこなわれ、数千人が殺された。・・〉


 さらに1943年の第2次「大検挙」で各々の現地で数百人が殺されたといい、興隆全県で「集家併村」=「人囲い」づくりが実施され、全県の40%が無人区化されたといいます。
 なお、「集家併村」=「人囲い」という言葉はよく見かけます。

〈こうして興隆県で42年から44年の3年間の大規模な「無人区」化実施のもとで、
1万5400余人が殺され(これには凍・餓・病死者はふくまれていない)、

 1万5000人が強制労働のために満州=東北に連行され、
 7万余棟の民家が焼かれ、3万余頭の家畜が奪い去られた。

 1941年の統計では全県人口が16万余人だったところ、
日本の敗戦後には10万余人まで減っていたという。〉


 無人区問題を実証的に研究したという姫田教授は、

〈「歴史家は神か人か」と問うた学生がいた。
私は即座に、「二者択一に迫られるなら
神であると思わざるをえない」と答えた。〉


 というのですが。

3 「無住地帯」政策


 日本側に「無住地帯」(集家工作)という政策があり、実施されたのは事実です。

(1) 集 家 工 作
 戦闘の実態がゲリラとの闘いであってみれば、住民(ほとんど農民)を敵に回さず、いかに見方につけるかが日本軍にとって重要な課題でした。
 住民が八路軍側につけば、武器弾薬、食料の補給路が確保され、八路軍の行動範囲が飛躍的に広がります。

 さらに、日本軍の動きが筒抜けになることも大問題でした。出動すればほとんどの場合、もぬけの殻だったという鈴木啓久中将の「空 撃」、つまり「カラ振り」が想起されます。

 「昭和16(1941)年頃になると、それまであった部落民からの通報が目に見えて減った。部落民が八路軍側についたからだ」 と、興隆県をはじめ熱河省に7年間の在隊経験を持つ塩澤 春茂・240連隊第1大隊副官は話します。
 日本側は道路を整備し通信網を広げ、村に電気を引くなど「宣撫工作」に力を注ぎますが、状況は悪くなる一方でした。

 そこで、住民が八路軍側に通じる行為(通匪)を撲滅するために、1941(昭和16)年10月、熱河省の興隆県、青龍県など3県に「集家工作」(集家政策)が策定されます。
 これは治安不良地区に分散する農家を、あらたに建設した集団部落に移住させ、跡地を「無住地帯」とするもので、同時に跡地を禁作とし、立ち入りなどに強い規制がとられました。

 無住地帯にしておけば人の出入りの監視が容易ですし、禁作は背が高くなって身を隠すのに都合のよいコーリャンやケシの栽培を狙いにしたのです。
 集家工作の骨子が『満洲國史』(満洲國史編纂刊行会、1971年)に記載されていますので、要点を抜き書きます。

・ 山海関から古北口に至る長城線900キロの延長線内において、長城線より幅32キロの地帯を無住禁作地帯とし、民家は破壊または焼却して部落民を移住させる。
・ 前記地帯の住民を収容するため、安全地帯に集団部落を建設する。
・ 上に伴い所要の通信網、警備道路の建設を行なう。

(2) 新部落の建設
 集家工作は吉林省南部、間島省、通化省など満州の治安の悪かった地区ですでに取り入れられていましたから、いわば実験済みのもので、熱河省の「集家工作」が最後になったようです。
 住民を1ヶ所に集める前に、移住先の集団部落建設が必要になります。

 新部落の規模を間島省の例に見ますと、1部落は100戸、面積が80間平方(約6400坪)を基準としていました。満州国政府は、「1部落あたり1000円前後、農民の家屋建設補助として1戸当たり20ないし50円を基準として国庫補助を交付した」(『満洲國史』)としています。

4 興隆県駐留の日本軍


 興隆は熱河省・興隆県の県都ですが、終戦時、ここに駐留した部隊は108師団隷下の240連隊第1大隊(下道部隊)でした。

(1) 興隆駐留の240連隊第1大隊
 240連隊(連隊本部は熱河省の省都・承 徳)は古くから熱河省に駐留していた独歩13大隊 を基幹に、1943(昭和18)年8月に編成された部隊ですが、独歩13大隊の第1、2、3の各中隊が、240連隊第1、第2、第3の各大隊の基幹になったのです。


 したがって、興隆駐留の第1大隊の前身は独歩13大隊の第1中隊で、熱河省をよく知る隊員が多かったのです。
 240連隊第1大隊(以下、第1大隊)は約1000名で、興隆にこれ以上の部隊が常駐したことはありませんでした。

 上の地図は1944(昭和19)年頃の興隆付近のものですが、中央の太線が万里の長城ですから、長城を境に北側(上側)が満州国、南側が北支にあたります。
 周囲は重畳たる山嶽地帯で、樹木はまばらなところでした。もっとも、「日本軍が焼き払ったため禿山になった」と中国はいうのですが。
 興隆から承徳に通じる鉄道はなく、トラックで約1日の距離だったと聞いています。

(2) 北京への脱出行
 第1大隊は終戦とともに、本部(承徳)に集結せよとの命令に従わず、民間人約170名とともに、長城を抜け、北京に向け脱出を試みました。


 たまたまこの時期に大雨がつづき、民間人を連れて承徳に行き着くのはムリと判断した塩沢副官は、命令通り承徳に向かうべきとする下道大隊長をケンカ腰で説得したといいます。
 これが好判断となって、無事、民間人も部隊も帰国することができたのでした。
 ちなみに、承徳に集まった他の大隊は、武装解除のあとソ連に強制労働送りとなって、明暗を分けることになったのです。

・ 脱出行をつたえる朝日
 〈脱出行ともにした「将兵」と「民間人」 「36年ぶり感激の再会」〉とある上紙面(1981年10月15日付、朝日・名古屋版)は、第1大隊と行をともにした民間人との再会をつたえたもので、

〈「故国の土を踏めたのは皆さんのおかげです」。
今は年老いた「旧民間人」たちは、これも頭髪の
薄くなった旧将兵たちに、繰り返し頭を下げ、・・〉


 などと報じました。
 これ以降、女性多数を含む民間人とともに、「戦友会」が年1回行なわれるようになり、私も出席したことがあります。メンバーも残り少なくなり、2008年の「戦友会」を最後とするとの連絡がとどきました。
 ただ、脱出行を共にした戦友、民間人の結びつきは強いものなのでしょう、主に子息の手で運営され、2013年秋の会合に声がかかり、私も出席しました。

5 日本側の反論


(1) 戦闘の実態
 八路軍が熱河省に入り、日本軍と戦闘を交えるようになったのは、1938(昭和13)年春頃だったようです。年を追うごとに戦闘の頻度は増していくのですが、その戦いぶりというか戦闘の規模は、重火器をもった姿を想像すると、実態とかけ離れてしまいます。
 八路軍は一般人と見分けのつかない便 衣(べんい:ふだん服)で行動し、山岳地帯の移動にはロバを使い、馬は使用しなかったといいます。

 第2中隊などを経験後、第1大隊副官となった前出の塩澤 春茂准尉は、「日本軍が出動しても、敵発見はつねに相手が先で、日本側が先に仕かけることはまず、なかった」と話します。

 戦闘規模も「小競り合い程度」というのが共通認識といってよいでしょう。もちろん、弾が飛びかいますし、隣にいた戦友が突如、負傷したり絶命したりするのですから、「血みどろの闘い」という表現もわかります。
 ですが、日本軍1個小隊全滅という例もありますが、あくまで例外に属します。
 では、一般の農民は戦争とどう関わっていたのでしょうか。

 満州国警察官として興隆県に長く勤務した川瀬宗吾は、『秘境 熱河の回想』(私家版、1982年)のなかで、

〈匪団が来ればこれを歓待し、
日本軍や警察が来ればこれを歓迎し、
常に両者えの接待をせねば身の安全を保てない
住民たちの迷惑は計り知れないものがあり、・・〉


 などと、住民に強い同情をもって記しています。この本は、熱河省の実態をよく表していると塩澤副官は評価していました。

(2) 集団部落(集家工作)
 集団部落の建設は軍命令という形をとるものの、実際に第1線にたって推進したのは警察であった、と霜鳥 浮雄は話します。

・ 霜鳥元警察官の証言
 霜鳥は1939(昭和14)年5月から1945年8月の終戦まで、興隆はじめ県下各地を満州国警察官として勤務しました。それだけに、集家工作や興隆県一帯の実情をよく知っています。
 警察官は日本人が40人、満系が2000人程度だったといい、満系警察官と日本人警察官は行動をともにしていました。

 興隆県一般の部落は2戸から10数戸、大きな部落では50戸程度だといいます。1戸には働き手が2、3人いるのが普通で、なかには20人の家族を抱える大所帯もありました。
 暮らし向きはというと、毎日、肉を食べるような金持ちもなかにはいたが、一般の農民は貧しく、ほとんど一張羅、裸同然の農民も少なくなかったと霜鳥は説明します。

 新部落は農業のできるような平坦地を選びます。
 そして、地区甲長(村長)の住居を中心に、検問がしやすいように道路を挟んで作るのが普通で、建設は各戸の「出面」(でずら)とし、周囲を3メートルほどの塀で囲みます。角々には詰め所と銃眼が設けられました。
 新住民に自警団を編成させますが、夜間はしばしば満警が警備に当たったといいます。また、密偵(現地人)を入れて八路軍側への内通を防ぐ手立てを講じますが、密偵が信用できないなど問題は多かったといいます。

 結局、集団部落が日本側につくか、八路軍側につくかが成功、不成功の判断要素でしょうが、新部落から逃げ出す農民もいるなど、「集家工作は失敗」だったと霜鳥は振り返ります。
 興隆県の警察官として過ごした6年間の任地を細かく記し、「住民を逮捕したり連行したりしません」と言い、「住民虐殺の情報はなかった」としています。

・ 鈴木 辰蔵ほかの証言
 1933(昭和8)年10月から、承徳など熱河省の各地専売署に勤務し、後に第1大隊に入った鈴木 辰蔵は、私の送った『もうひとつの三光作戦』のコピーを読んで、

〈この資料に対しては、私は初めは、真剣に読み始めたのであるが、
読むに従って疑が疑を増し、最後の方では、馬鹿らしくて笑い出してしまったのである。
為にせんとする宣伝文書とは、こういうものであるかと。〉


 と書き、「日本軍の相手は八路軍であって住民ではない。住民を殺せば利敵行為になる。なぜ、殺さなければならないのか」「無住化以降の戦闘は、無住化地域で行なうのがほとんどで、住民が巻き添えになることはまずなかった」とつけ加えます。

 このように話す鈴木辰蔵は、自らの体験を『秘境・熱河 ―阿片と民族―』(左写真。大湊書房、1981年)に著しています。
 また終戦を240連隊本部で迎えた大崎 巌は、「戦闘といっても小競り合い程度。2桁の敵を倒そうものなら大戦果ですぐに大評判になる。1中隊で実際に行動できるのは80人位のもの。何十、何百の敵を倒せるわけがない」と話し、「まるでマンガだ」と酷評しました。

 何十、何百人もの人間をあちこちで殺害し、その数が万、十万人に達したというのが事実なら、興隆県に住む日本人の耳に、ウワサ位はとどいたことでしょう。ですが、そのような話はでてこないのです。
 私の出席した戦友会の宴会で、和服姿の中年婦人が「そんな話、みんなウソですよ」とポツリと話してくれたのが印象に残っています。
 そして、塩澤 春茂・元第1大隊副官はいうのです。「なぜ、われわれに話を聞きに来ないのか」 と。塩澤副官は2007年2月、92歳で亡くなられました。

(3) 興隆県の人口半減のワケ
 日本軍による「中国人皆殺し作戦」の結果、「興隆県の人口が半減した」ことについて簡単に触れておきます。
 統計数値自体、出所、統計の時点などが不明で、どの程度信用できるのか疑問がありますが、県の人口が減ったことは次の話から推定が可能です。

 終戦とともに、第1大隊は民間人とともに北京に向け脱出したことは既述しましたが、このとき、1人の婦人がやむを得ない事情のもと、興隆に残ったのです。キリスト教の牧師であった夫君とともに熱河省に入り、伝道にあたった砂山 節子です。

・ 砂山 節子はこう書き残した
 夫君が現地入隊、たまたま身ごもっていた節子氏は一行に加わることができず、2人の幼児とともに興隆に残らざるを得ませんでした。

 失明という不運にあいながらも1953(昭和28)年に帰国します。熱河省で伝道にあたった8人の記録が『熱河宣教の記録』(左写真。未来社、1965年)に残されています。
 終戦とともに興隆に進駐した八路軍でしたが、まもなく国民政府軍(蒋介石軍)にとって代わられます。

 しかし、八路軍は勢力を盛り返し、国府軍を駆逐しはじめました。国府軍の興隆撤退が始まったのです。
 撤退にあたって、何が起こったのでしょうか。砂山の記録は次のとおりです。

〈まもなく興隆の八路軍は、全部どこかに行ってしまい、
まったくひっそりした不気味ななかに、国民軍が村に入って来ました。
日ならずして、またまた、国民軍が引あげて行ったときには、
村のおもだった人々はわれもわれもとその後を追い、
村は老人と子供だけが残された感じでした。
再び八路軍が入って来ました。こうしたことが繰返されて、
しみじみと内戦の悲惨さを現地の人々とともに味わしめられました。〉


 興隆の住民は「老人と子供だけが残された感じで」、国府軍の後を「われもわれも」と追ったのですから、人口が減ったのも無理もありません。また、集家政策のため、ケシ栽培ができなくなり、住民が北支や熱河省の各地に散らばったという要因があったとの指摘もあります。

 いずれにしても、集家政策にともなう「無住地帯」政策が「住民抹殺作戦」であるわけがありません。
 「無人区」という中国語には、皆殺しにした結果、無人になったという意味が含まれます。日本側は「無住地帯」と表現していました。不用意に「無人区」なる言葉は使用すべきでないと思います。

 なお「無人区」について、船生 退助の肯定証言が『もうひとつの三光作戦』にでてきますので一言。船生は240連隊の大隊本部で終戦を向かえ、中国抑留者となりました。「中帰連」の活動家の一人といってよいでしょう。

6 終わりなき汚染の連鎖


 長くなりましたので、以下、略記します。
 1997(平成9)年8月5日付け「新潟日報」は、仁木 ふみ子(元日教組婦人部長)を団長とするメンバー23人が、三光作戦の舞台、興隆県を訪れるとの紹介記事をかなりのスペースを割いて報じました。
 参加メンバーのなかに、地元の元高校教師が加わっていたために取り上げたのでしょう。

 「侵略のむごさに涙」・・新潟日報
 帰国後の10月7日付け同紙は、参加した地元の教師を「この人と」欄で取り上げ、「旧日本軍による三光作戦の現地、中国・河北省興隆県を尋ねた元高校教師」として紹介、「消えない傷跡に触れ、衝撃」と見出しをつけて、「無人区」などについて書いています。


 上写真は1998年3月11日付けの同紙で、この元教師の2度目の興隆訪問記を「侵略のむごさに涙」の白抜き見出しで報じました。
 参加者は日本各地から集まった小・中学校教師16人で、受けたショックの大きさが日本軍への怨嗟となり、生徒に教えなければという使命感に凝縮されていく様が感想文からうかがえます。

 「古老の話に声も出ません。むごい目にあった当事者の直接の経験です」という教師、「山深いにも関わらず大きな木の生えていない不自然さ、・・いかに日本軍が焼き払ってしまったのか」という教師。なかには「殺人坑」などという話を聞いてきた教師もいる始末です。

 第1大隊の戦友会で私の会った女性が、承徳の禿山についてですが、「あれは中国人が薪に使うために伐ったためなのです。また、日本人のせいにされるのでしょうね」と話していたことを思い出します。
 興隆も事情は同じと関係者は話していますので、この予想、ピタリと言い当てています。
 「新潟日報」を読んだ清田 三吉(第1大隊戦友会世話役、新潟県在住)は、

「私はこれら古老の話が活字になって独り歩きし、
後の世代に誤り伝えられて行くことに
限りない戦慄のようなものを覚えた。」


 と書き送ってくれました。
 すでに、日本の歴史教科書に「無人区」は載りましたので、教科書に限らず、懸念通りに事態は進んでいるのです。

 興隆県の大水泉中学校校舎が日本のODA(政府開発援助)によって、無償で建設されました。校庭の中央に建つ記念碑に、「大水泉は旧抗日根拠地であり、かつてわが住民は戦争の苦難と『無人区』(日本軍による殲滅地域)の苦痛を蒙った」と書かれているとの報道(産経新聞)がありました。
 汚染、とどまることを知りません。

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