華北の「無住地帯」

―これも三光作戦なのだ―
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 つぎに華北の「無住地帯」を見てみましょう。
 華北についての資料らしい資料を見たことがなく(あまりない?)、実態がよくわかりませんでした。
 というのも、「無住地帯」が問題として浮上したのは、既述の書籍 『もうひとつの三光作戦』 あたりからですから、比較的新しいものといってよく、このために関心が払われなかったことも一因なのでしょう。

 私自身、興隆県(満州国)の「無住地帯」については調査し、書きもしましたので、華北についても事情に大差はあるまいと思っていました。
 それに、ひと口に華北といっても、範囲が広いことも手伝って、熱を入れて調べようという気が起こりませんでした。

 ところが、鈴木啓久中将(第117師団長)が帰国後、3〜4年で書いた2編の回想録の第27歩兵団長時代(少将、27師団隷下)に「無住地帯」の記述が含まれていましたので、概要を知ることができました。



(上写真は1962年5月の帰国時・羽田飛行場)


 以下、「回想録」を軸に話を進めていきますが、鈴木歩兵団長の警備担当地区は河北省東部、つまり冀東地区でしたから、話の範囲がこの地区に限られることをお断りしておきます。また、時期により多少の差はありますが、支那駐屯歩兵1連隊〜3連隊を統括していました。

 なお、鈴木歩兵団長も「無住地帯」という語句を使用し、「無人区」という言葉は使っておりません。また、抑留中に「無住地帯」という「手記」を残していることを付け加えておきます。


1 鈴木師団長が書き残した「無住地帯」


 1942(昭和17)年6月末、北支那方面軍司令官・岡村寧次大将が冀東地区を巡視したさい、前年4月の豊潤北方地区および魯 家 峪の戦果を誉め(⇒ 北・中支の戦闘実態)、「冀東地区は非常に治安がよくなった」と激賞しました。
 これに対し、鈴木歩兵団長は、

〈あの討伐以来、匪団の大きいものが見えないので表面は如何にも治安が良くなったかに見えるが、
実際には一皮むけば下がマッカ(真っ赤)なので、
考えようによっては却って治安悪化とも言えるのです。〉


 と答えたと書いています。
 日本軍の作戦が治安維持の目的を果たせないのは、「結局、八路軍及び其の工作員と一般住民との区別が判然としないからである」と判断し、日本軍支配地区の「良民」にはことごとく写真を添付し、その部落の責任者の発行する「良民証」を携帯させるようにしたものの、八路軍は部落の責任者を「脅迫して作らしめたり、偽造したり、或は脅迫して奪ったりするので」、目的を達成できなかったとしています。

 そこで日本軍の支配地区に八路軍の影響を排除するため、遮 断 壕の構築が実行されたわけです。
 これも効果は少なかった(ほとんどなかった?)ため、依然として長城沿いの警備担当地区は八路軍の有力な根拠地であることに変化はなかったといいます。鈴木中将は書きます。

〈彼等は糧秣、物資の貯蔵、補充の役をしているだけでなく
人員を補充し且つ彼等の安息所にもなっていることは知られていた、これこそが治安を乱す根拠地である。
而かし我々には国境という一つの障害があるが、八路軍にはなく自由に往来できるが、
日本軍にはそれは国境によって隔てられているのである。〉

〈(冀東地区は)八路軍には極めて好都合の地区であるが日本軍にとっては実に厄介な地方であった。〉


 八路軍が自由に往来でき、日本軍は国境という障害のある厄介な地方であったったとする記述を、あるいは不思議に思うかもしれません。私も当初はなんとなく、日本軍は満州国と華北の往来は自由だと思っていました。
 しかし、鈴木歩兵団長の書くとおり、これが実態だった、あるいは実態に近いといって間違いないものと思います。

 鈴木歩兵団長の副官であった炭江 秀朗中尉が、「冀東地区から攻撃すると敵は満州国側に逃亡し、満州国側から追えば冀東地区に逃げる」と話すように、冀東地区の日本軍は外国である満州国に越境して自由に入ることができなかった、このために追撃に支障を来たしていたのだと説明してくれました。
 このような事情から、治安の確立をはかるため、同地区を「無住地帯」にするよう北支那方面軍が第27師団に命じたというのです。

〈歩兵団長は方面軍の右の指示による上記両県の長城より4粁(キロ)以内にある住民を悉く追い払い、
爾後(じご)再び一切、復帰を許さぬ「無住地帯」となせとの師団命令を受領した。
私は9月中旬(注、1942=昭和17年)より該地区の全住民を運搬し得る限りのものを持参し、
残存するものは家屋、糧穀に至るまで一切を焼き払い、20日以内に長城線より4粁離れた地(図上によって一線を劃して示した)に移転し、
爾後、耕作に至るまで如何なる理由あるも再び復帰することを禁じ、巾4粁全長100粁余の地域を無住地帯と定め、
第1連隊長をして遵化県内、第3連隊長をして遷安県の地域を主として県警備隊、
已むを得ざれば一部日本軍を使用して住民をお追い出さしめた。
此の命令に反抗して惨殺されたもの200余名に及び、家屋約5万戸を焼き住民約10万人を追い払った。
之等の処置を中国人は「三光政策」と呼んだ。


 この記述が示すように、「無住地帯」が住民の「強制移住策」であったことは明らかでしょう。それを「住民皆殺し作戦」だと強弁し、膨大な殺害数を主張する、いつもながらの中国の手口というわけです。
 集団部落が建設されなかったこと、代替地が用意されていなかったことは、満州の「無住地帯」と大きな違いでしょう。それだけに、住民により過酷な政策だったといえます。

 村を追われた住民の一部は、1週間の後にはもどって新しい小屋を建てはじめます。
 「今日、東の方で焼き払われると明日は西の方に新しい小屋を作り、西の方で追はれると東の方に小屋を作るというふうに、一部の者は飽くまでも抵抗をつづけていた」とありますから、まあ、いたちごっこだったのでしょう。
 こういったなかで、現地人からなる県警備隊、日本軍による200余名もの住民虐殺があったというわけです。この記述に反発する日本側の声もあるのですが、関連事項として「補足」で記します。

2 焼却戸数について


 鈴木歩兵団長は上記のとおり、「家屋約5万戸を焼き住民約10万人を追い払った」としています。しかし、この数は理屈にあわない、おかしなものと思います。
 といいますのも、もしこの数字に間違いがなければ、1戸あたりの平均住人が約2人ということになります。しかし、これはおかしな数であり、とくに北支では考えられません。

 いろいろな資料を見ても、まず平均5人以上というのは動かないところです。(もっとも乳幼児は考慮外なのかもしれませんが)。
 鈴木中将は「筆供自述」(=供述書)を残していますので、それを以下に引用して対比してみます。

 〈此の全区域を焼却した家屋は1万戸余に上り、追い払われた中国人は数万に上り、惨殺せられた中国人民は甚だ多数であります。〉

 焼却数「1万余戸」、追い払った住民「数万」というのですから、これなら理屈はとおります。やはり、「約5万戸」「約10万人」は鈴木中将の記憶違いの可能性が高いといって差し支えないかもしれません。

 では、この数字はどの程度、事実に近いのでしょうか。当然、検証対象としなければならないのですが、資料が少なくはっきりしたことはわかりません。
 ただ、冀東地区西部を担当した支駐歩2の記録『支那駐屯歩兵第二聯隊史』につぎの記述があります。師団長の上記回想によれば、支駐歩1と歩3に命令したとあり、歩2についての言及はないのですが、とにかく以下をお目にかけます。

〈地区内にて治安の保持困難なる部落は、一時移住せしめて無人部落とし、
又万里長城に沿う幅4粁の帯状地帯は満洲国との出入りを遮断する無住地帯を定め、
その収穫を買上げ爾後の生活を保障して住民を立退かしめたり。
・・長城無住地帯7大部落、1,235戸、6,454人。一時無人部落28の2,342戸、12,036人に達せり。〉


 この数字が歩兵団全体のものか、支駐歩2だけのものか、出典がわかりませんので、はっきりしたことはいえないのですが、どの程度の規模であったかを推しはかるには貴重な資料と思います。
 なお、歩3も「連隊史」を出していますが、「無住地帯」に関する記述はないようです。
 ですから、かりに上の数字が支駐歩2だけのものとすれば、全体で「1万余戸」「数万」という数は、実数とかけ離れた極端な数字ではないともいえます。

3 補 足


(1) 「200余名」惨殺について
 中国抑留者であった小川 政夫は帰国後、「中国帰還者連絡会(正統)本部長・元小隊長)」の肩書きのもと、月刊雑誌のなかで次のように語っています(「潮」、1971年7月号)。

 〈 ・・私の所属する部隊でも八路軍を粉砕するために、万里の長城の周囲4キロ幅で無住地帯をつくる“特殊”作戦を敢行しました。わずか20日間に、約640平方キロの土地を中国人民から強奪し、約10万の中国人民を寒さと飢餓のみが待つ原野に放り出し、1万数千戸の中国人民の家を焼き払い、日本兵の野蛮な行動に抗議した約200人の中国人民を無残にも屠殺してしまったのです。

 それはまさに狂気のなせるわざとしかいいようがありません。
 私は小隊長をやっていたので、私が直接手を下したり、または部下に命令して殺した中国人の数は数千におよぶと思います。・・〉

 小川政夫は終戦時、第91師団293大隊・第3中隊長(中尉)でしたが、支駐歩1〜歩3にいたのかどうか、わかっていません。既述のように、起訴免除者800余人の供述書集が中国で出版されました。ここには各人の詳細な軍歴が書いてあるはずです。見る機会がありません。

 ただ、この証言と師団長の「証言」が一致しているからといって、この「証言」(200余名惨殺)に間違いがないとはいえません。というのは、抑留中の取調べは、下位者の「証言」をとって、それを上位者に突きつける方法をとっていましたので。
 もちろん、部下に命じて殺害した数を「数 千」とする話は、小川政夫小隊長(たぶん少尉)証言の信頼性をはかる格好な材料になることでしょう。

(2) 「無住地帯」の範囲について
 華北の「無住地帯」について、第27師団のほかにも命令が下って、実行されたのかどうか、手持ち資料が少ないため今の段階で何ともいえません。
 鈴木師団長の「筆供自述」(=自筆供述書)のなかに、以下の記述がありますので参考に供します。

〈方面軍司令官岡村寧次の命令を基礎とせる師団長原田熊吉の命令に依り、
無住地帯となす為め、其の地区に居住する中国人民悉くを
追い払う如く努力したのであります。〉


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