―抑留中に何があったのか―
中国戦犯は2組に大別されます。
一組はソ連に抑留後、1950(昭和25)年に中国に引き渡された人たち、あとの一組は、降伏した日本軍の投降官となった閻 錫山(えん しゃくざん)の強い要請で、山西省に残留した第1軍関係者を中心にした人たちでした。
前者の969人は「撫順戦犯管理所」に、後者の140人は「太原戦犯管理所」 という「監獄」に収容されたことは、既述した通りです。収容者のほとんどは、1956(昭和31)年に帰国(起訴免除)しましたが、短い人で中国に6年間、ソ連に5年間、あわせて約11年間の収容所生活を余儀なくされたことになります。
この収容中に、彼らは“洗 脳”されたのではないかという声が帰国当時から、日本で言われつづけてきました。その最大の理由は、帰国者たちの「手記」の一部が本として公になり、そこに描かれた行為が、あまりに異様で残酷なものであったがため、反発も大きかったのだろうと思います。
中国戦犯の「証言」とされるものは、次の3つに分類するとわかりやすいでしょう。
@ 抑留中に書いた「手記」
A 取調べ後の「自筆供述書」
B 講演、著作など帰国後の「証言」
オウム真理教の影響もあって、マインド・コントロールという言葉を多く見かけるようになりました。学問の世界は分かりませんが、私たちの間では「洗脳」という用語が一般的であったように思います。
では、「洗脳」と「マインド・コントロール」に違いがあるのでしょうか。あるとすればその違いは何なのでしょう。
まず、洗脳の意味ですが、広義と狭義とがあるとのことで、小田 晋・帝塚山学院大学教授(故人)は、両者の違いを講演会で次のように説明しています。
〈 広い意味での「洗脳」は、他人の意思を屈従変更させるための精神操作の手法をいいます。
つまり、宗教的、政治的、商業的(販売の手段としてのコマーシャル)、犯罪的な手法を総称して「洗脳」といいます。
宗教的洗脳は他動的な回心をいい、英語ではコンバージョンといいます。
狭い意味での「洗脳」は、
旧共産圏の秘密警察や特務機関が捕虜または政治犯を告白させたり
転向させたりするためにもちいた手段を指します。〉
―「歴史と教育」2003年3月号―
また、「洗脳」はソ連の生理学者・パブロフ の条件反射学を応用したもので、アメリカは行動科学のなかの学習理論を用いたといい、行動科学と条件反射学は非常に似ているとのことです。
この行動科学のなかで開発された方法がマインド・コントロールで、
〈 マインド・コントロールは、そのあと民間転用されました。
例えば、いろいろなコマーシャルの方法、なんとか開発セミナー、そういう自己改造の方法にも使われています。
アメリカのCIAは政治的な目的で、マインド・コントロールを使っております。〉
と、小田教授は話しています。
一時、社員教育に「自己啓発セミナー」が競うように取り入れられ、受講生から自殺者がでるやらで社会問題になったことがありました。この種のセミナーが盛んだったのは1980年代、およそ40年ほど前と記憶します。
どうやら、「洗脳」の出身はソ連、「マインド・コントロール」の出身はアメリカとなりそうです。
また、大阪府茨木市で起こった長期にわたる女性監禁事件で、「どうして被害者は逃げることができないのか」との疑問に対して、小田教授の見解を産経新聞(2006年8月8日付)は以下のようにつたえています。
〈・・人を支配下に置くためにはまず、周りの世界から隔絶し、暗示を受けやすくなる「感覚遮断」という状態を起こさせる。
そのうえで、恐怖感を植えつけたり、飢餓状態にしたりすることで屈従させるという。
「さらなる恐怖を与えたり、たまに愛情のあるような言葉をかけたりして混乱に陥れる。
これが洗脳で、ソフトなマインド・コントロールとは違う。普通の健康な人を対象にした実験でも同じことが起きる。」 〉
学問上はさまざまな見方があるのでしょうが、どうもマインド・コントロールは「洗脳」よりソフトな手法ということになりそうです。
というような次第で、中国抑留者の「証言」を考える場合、「狭義の洗脳」と考える方が実態に近いと思います。
そもそも「洗脳」などというのはウソっぱちだと主張する人がいますので、先にこのことから記しておきます。
間違いなく、「洗脳」は抑留されていた当時に存在しました。また、その技術を中国が持っていたものと推測できます。
・ 「洗脳」の語源は中国語
まず洗脳の存否について、「洗脳・中共の心理戦争を解剖する」 (エドワード・ハンター、法政大学出版局。1953=昭和28年)から、次の引用文をご覧ください。
著者のエドワード・ハンターは極東通のアメリカ人ジャーナリストで、非常に有名な人だったそうですが、この本の「洗脳」の章に、中国の政治教育学校のなかで最も大きい華北人民革命大学を卒業した中国人が、自分の体験をE・ハンターに次のように話しています。
〈その話は中国で最も新しい事柄、つまり「思想改造」「自己批判討論会」、それに全体としては、共産中国で行われている共産主義教育の方法に関する問題であった。
中国の質朴な人民たちは、この全教科課程にたいして、いくつかの天啓的な新語を生み出している。人民たちは生来の簡明直截な表現力を用いて、この教科課程を「洗 脳」または「変 脳」と名づけている。
この洗脳運動は、中国共産党が中国本土を制圧するや、その全土において重要な活動となってあらわれた。〉
「洗 脳」「変 脳」 の原文は、それぞれ「brain washing」 「brain changing」です。
これで明らかなように、「brain washing」 は中国語「洗脳」の訳語であって、その逆ではないことです。
ですから、「洗脳」を「反中国の人の用語」とする類の多くの辞書の方が間違っているのです。そして、brain washing は、今は英語としてすっかり定着しています。
抑留者は撫順監獄に収監された撫順組の969人と太原監獄に収容された太原組の140人に大別されますが、撫順組の方が人数がはるかに多く、残る資料も多いため、撫順組を中心に話を進めます。
撫順戦犯管理所に収容されて3ヶ月後の1950(昭和25)年10月に朝鮮戦争が始まりました。そのせいでしょう、撫順組はハルピン収容所、呼蘭収容所など3ヵ所に移されました。ハルビン収容所にはおおむね佐官級以上が、呼蘭収容所には尉官級以下がといった具合です。
翌年の1951年3月に、少尉以下669人が撫順収容所にもどり、1953年10月には残る全員がもどったとされています。
抑留中にまず「学習」が、次いで「取り調べ」にいたりますが、これらの過程で重要と思われることをいくつか記しておきます。
(1) 強調された「二つの態度と二つの道」
まず「2つの態度と2つの道」についてですが、これは抑留者に絶えず強調されたことで、
〈 罪を認めれば寛大な処置が受けられ、
罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない〉
というものです。
「坦白従寛」「抗拒従厳」という標語が、今はわかりませんが、中国警察の取調室に貼られていたといいます。「坦白」は「タンパイ」と読み、自白を意味しますが、日本人抑留者の間で、ごく普通に使われていた用語です。
この標語の源は1955(昭和30)年9月に行った羅 瑞卿・初代公安相の演説にあるのだそうです。
〈今日、反革命分子の前に2つの道がある。
抵抗すれば恥辱にまみれた死への道、
自白すれば明るい生への道である。〉
この演説は、日本人抑留者に示された「二つの態度と二つの道」とまったく同じ内容です。もっとも、羅瑞卿(ら ずいけい)は公安相時代、周恩来首相のもとで抑留者の対応・指揮にあたっていましたので、同じなのはむしろ当然のことでしょう。
この自白への誘導手法は今日も行われているといってほぼ間違いないと思います。
2012年2月、重慶市書記だった薄 煕来(はく きらい)の側近、王立軍がアメリカ総領事館に駆け込むという珍しい事件が起こりました。
これによって政治局常務委員入りが有力と報じられていた薄 煕来は失脚(重慶事件)、巨額の不正蓄財やら薄夫人がイギリス人実業家殺害の犯人として裁判(左写真、TBSテレビ)になるやら、権力闘争の模様がつたえられました。
薄 煕来は重慶市の「打 黒」(マフィア撲滅)で実績をあげ、市民の評価が高かったともいわれました。その「打黒」の方法ですが、捕まえた容疑者に対して「2つの態度と2つの道」があることを徹底させ、多くの「自白」を勝ち取ったために、成果があがったという報道を見かけました。となれば、「2つの態度と2つの道」は「自白」(=坦白)を得るための常套手段として、今も活用されているといってよさそうです。
この手法、少し考えれば実に恐ろしい論理であることがわかります。
かりに、事実でないことであっても、あるいはまったく身に覚えがないことであっても、取調べ側が「事実」だという心証を持つなり、あるいはある意図をもってすれば、「厳しい処置」をちらつかせることで、「自白」を自由自在に引き出すことが可能だからです。
「日本人戦犯」 の洗脳問題について考えるとき、死刑になるかもしれないという恐怖、何としても故国へ帰りたいという熱望、これらを背景に「2つの態度と2つの道」が使い分けられれば、どのような結果を生むことになるか、おおよその見当はつくはずです。見逃すことのできない第一の視点です。
(2) 自白中心の取調べ
「2つの態度と2つの道」の関係を抑留者に熟知させたうえで、取調べが行われました。
初期の取調べは「罪行」(犯罪行為)の聞き取り調査でしたが、検察側が具体的な犯罪事実を提示することはまずなかった といわれていますし、私の会った抑留者からもそう聞いています。つまり、ほとんどが自白だったといってよいでしょう。ただ、ここに誘導という問題もあります。
この手法について、いろいろと解釈可能と思いますが、最大の理由は、「罪行」自体を取り調べる側がつかんでいなくても、あるいは「罪行」の事実がなくても、意図する方向に調査の進展が図れるからだろうと思います。なにせ手間要らずですから。もちろん、黙秘権などあるはずもありません。
横山 光彦・元ハルビン高等法院次長の次の記述(『望郷』、サイマル出版会。1973年)からも、このことがうかがえます。
〈「お調べがついているでしょうから、それをお示しください。
そうすれば私も思い出せることもあるでしょう」というのだが、検察員がこれを聞き入れない。
「中国は、お前が自らの記憶に基づいて述べることを要求する。誠実な態度であれば思い出せるはずである。
今日は監房に帰れ」となんべん言われたことか。
同室の佐古さんも検察員に同じようなことを言われているとみえ、「援助者」に批判されていた。
佐古さんは一度、「わしゃ死んだ方が楽じゃ。深石さんお願いだから殺してくれんか」と言ったことがあるし、
私にも、「あんたはいつか監獄の中で自殺した者の話をしたことがありますね。どんな方法かね」と
泣きそうな顔で真剣になって尋ねるので、私はゾッとして恐ろしくなったこともあった。〉
文中の「佐古さん」は、牡丹江鉄道警備旅団長(少将)で横山判事と2人で小監房に収容されていました。この記述で、いかに厳しく「自白」を迫られていたかがよくわかります。
「深石さん」とあるのは2人についた「援助者」の名前で、もう1人「柏木」という兵と2人が佐古、横山についたのでした。なお、援助者の2人はすでに「坦白」(自白)を終了していたことにご留意ください。
(3) 下を落としてから上へ
低い階級を先にして、上位者は後に、というのが取調べの大原則でした。
まず、下位者の「自白」を先に得ることによって、上位者に対する「罪行」が追及しやすくなり、「自白」が得やすくなるからだろうと思います。
上記の深石1等兵、柏木1等兵が「援助者」になったのもこの理由でしょう。「援助者」は取調べに協力しないといって上位者を責めるのはごく普通に行われていたようです。
それに、下位者に対しては、「上官の命令によってやったのだから、お前の罪は軽い(お前には罪はない)」などと水を向けられれば、「自白」がしやすくなることも見越していたに違いありません。
(4) 「グループ認罪」について
「罪行」を簡単にいえば、いつどこで「何人殺し」「何人犯し」「どれだけ奪ったか」・・ということでしょう。
こうした「罪行」を「坦白」させれば、検察側に膨大な「罪行」資料が集まります。それらを部隊別などに整理すれば、上位者に対してはもちろん、同僚に対する追及資料になります。また、中国側の“被害者証言”をとることも可能でしょう。
同じ隊に所属する同僚に対して、ある「罪行」を一致して認めさせる、つまり「グループ認罪」 は中国抑留者の取調べの特徴の一つだと思っています。