― 隠された取材源 ―
『天皇の軍隊』といえば、朝日文庫の文庫本(下写真の左側)がお馴染みでしょう。
大分前に廃刊になりましたが、「現代の眼」(現代評論社)という月刊雑誌に、「天皇の軍隊」が連載(1972年9月号〜か1974年7月号)され、後に同じ現代評論社から『天皇の軍隊』(写真右側)として単行本になりました。
現代評論社版は熊沢 京次郎 という筆名で書かれていますが、本多 勝一・朝日記者と長沼 節夫・時事通信記者の共著です。その後、本多・長沼の実名を明らかにして朝日文庫に加えられたという次第です。
長沼節夫については、本多勝一と大学、出身地(京都大学、長野県)が同じという程度で、詳しいことは知りません。ただ、短い記事ですが何度か新聞紙上で見かけたことがあります。
記事というのは、社内配転(社会部⇒整理部)を不服として、会社(時事通信社)を相手どって訴訟を起こしたために報じられたものでした。一審は長沼側が敗訴しましたが、上級審の結果については知りません。
「天皇の軍隊」の月刊誌連載と「中国の旅」の朝日連載とはほぼ同時期でしたので、日本軍の底知れない悪逆さを日本人に知らせたという点で、相乗効果を発揮しました。
当時、月刊誌「現代の眼」は売れてたそうで、書店に山積みされていたという話を聞きました。
『天皇の軍隊』は『中国の旅』と同じように、強い感染力を持っています。ほんの一部を読んだだけで、日本軍が軍紀などと縁のない「ならず者集団」であったかがわかります。「ならず者集団」ならまだましです。
残忍な手口による殺人、女とみれば強姦のうえ殺害するなど鬼畜以下の存在です。
『天皇の軍隊』は日本軍が中国でいかに暴虐のかぎりをつくしたか、山東省に駐留した第59師団 (藤田 茂・師団長)所属の将兵の「証言」 によって明らかにされました。およそ、軍の規律などないも同然、上から下までが目茶苦茶の部隊でした。
女と見れば、まず強姦、そして異様な殺害手段。男と見れば拷問、そして気に入らないからと殺害。しかも、菜切り庖丁で胸から腹まで断ち割るという凄まじさ。そのうえに、この蛮勇が買われて昇進が早かったというのですからお話にもなりません。
また、農民を根こそぎ抹殺するために、運河にコレラ菌を撒いて決壊させ、何万人、何十万人という犠牲者を出したというのですから、いかなる弁明も成り立つわけがないでしょう。
師団といえば、シナ事変の前まで、内地における編成上の最高単位であったことからも分かるように、独立して戦略単位の兵を動かせる規模を有していました。
ですから、第59師団がこのような滅茶苦茶な部隊なら、他の師団も大同小異と考えて当然ですし、日本軍全体が無法というか、どうしようもない悪の集団ととるのが、まあ当たり前というものでしょう。
日本はアジアの解放に貢献しただとか、現地で電気を引き、道路の整備をするなど住民の生活向上に役立ったなどという話は、この本を一読した人なら信じないでしょうし、いかなる日本擁護論も「なにを、たわ言をいっているのか」と思われておしまいです。
・ 祖国に嫌悪感をもって当然
この本と『中国の旅』を合わせて読んだ人は、日本という国家に嫌悪感を持って当然でしょうし、罪の意識を合わせ持ったことでしょう。
また、日本の国家行動は「侵略と残虐行為の連続」であったとする主張にも深くうなずいたことでしょう。もう40年も前に出版された本の話です。
そして、この本を読んだ人やこの本で教えられた学生が大人になり、教師になり、子どもたちに受け継がれています。ですから、日本人の歴史観など変わりようがありません。変える方法があるとすればただ一つと思います。
それは、事実でないならばそのことを立証し、広く国民に知ってもらうことです。むろん、この方法とて必要条件であっても十分条件ではありえません。ですが、必要条件さえ、いや必要条件の一部でさえ満たしていないのが現状です。そのなかで悲憤慷慨したところで、答え(結果)など期待できるとは思えません。
第59師団は1942(昭和17)年4月、独立混成第10旅団を基幹に編成されたもので、司令部を山東省の済南(さいなん)に置きました。済南といえば、2004年夏のサッカー・アジア大会で一騒動のあったところです。
この師団から、師団長の藤田 茂中将 と2人の旅団長(少将)を含め、約260名という大量の「中国戦犯」を出しました。抑留者(=戦犯)は全部で1000人強でしたから、4人に1人はこの師団の将兵というわけです。
藤田師団長は帰国後に抑留者で組織した「中国帰還者連絡会」、略して「中帰連」(ちゅうきれん)の初代会長に就いています。
中帰連はメディア、とくにNHK、朝日新聞の情報源として活用されることになり、多くの学者もまた同様に情報源としています。
『天皇の軍隊』記述について、少し冷静に考えればその異様さゆえに逆に疑問がでてくると思います。いや、まともに信じる方がおかしいのです。
私もおかしな証言が多いと思い、大分前ですが、登場する将兵全員の出身を調べたことがあります。結果は予想していたとおりでした。
つまり、「残虐行為の証言者全員が中国戦犯」だったという事実です。
ただ、『天皇の軍隊』には「撫順戦犯管理所」に抑留されたことを明記している証言者もありますが、まったく書いていない人も数多く登場します。一般の読者は抑留者についての知識はあまりないでしょうし、抑留者以外の将兵も証言しているように見えるので、記述を信用するでしょう。
ですが、『天皇の軍隊』は「中国戦犯」の語った59師団の姿だったのです。
これら「語られた事実」に対して、中国戦犯以外の証言など、「裏づけをまったくとっていない」ことがもう一つの特徴でしょう。ですから、証言者が日本人と中国人という違いがあれ、『天皇の軍隊』は『中国の旅』の同類というわけです。
・ 吉田 裕の解説
吉田 裕・一橋大学助教授(当時)はこの事実を知ってか知らぬか、「文庫版解説」に書いています。
〈 南京事件に代表される日中戦争初期の残虐行為は、日本軍の体質に深く根ざしていたものとはいえ、確かにそれ自体が日本軍の直接の作戦目的であったわけではなく、あくまで、ある攻略戦や侵攻政策に随伴して発生したものであった。〉
と解説。さらに加えて、
〈 ところが、1940年に入って本格化する華北の抗日根拠地に対する「燼滅作戦」「粛清作戦」では、一定地域の住民の殺戮や生活基盤の破壊それ自体が作戦目的となった。・・〉
と断じます。
そして、この作戦が「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」「三光作戦」だったというのです。「南京事件」と「三光作戦」の位置づけは、本多勝一解釈と同じというか、踏襲したものといってよいでしょう。そして、
〈 以上のように、本書は、第五九師団の行動を執拗に追うことによって、
侵略戦争の実態をみごとに再現しているが、
ルポルタージュの方法としては、次の二点に注目したい。
一つは、著者たちが、加害者、それも中国民衆に対する蛮行の直接の担い手であった
兵士や下士官の証言を重視する立場をとっていることである。・・〉
また、『天皇の軍隊』にでてくる「ウサギ狩り」や「労工狩り」という「中国人青壮年の強制連行」などが、森松俊夫(元陸軍少佐)が執筆した『戦史叢書 北支の治安戦2』(朝雲新聞社)に記述がないなどと批判の対象にします。
彼らが証言した「ウサギ狩り」あるいは「労工狩り」が事実でなかったならこの「解説」、おかしなことになります。
また、彼らの証言の一つでも「虚偽である」ことが判明すれば、他の記述についても疑うのは当然のことでしょう。もっとも、虚偽証言と判明しているのは一つではありませんが。
誤解のないように記しておきます。証言者のなかに抑留者以外の将兵も登場します。
しかし、これは「対上官犯」「館陶(たてとう)事件」など、つまり日本人だけが関わる部隊内の事件の証言ですので、別物と考えるべきでしょう。
(注) 上記「館陶」事件を「たてとう」としましたが、同大隊の将兵が「たてとう」と発音していたため、踏襲しました。「かんとう」にとくに異論があるわけではありません。
『天皇の軍隊』が朝日文庫に加えられたために、教育現場や学者、文化人たちにあたえた影響は大きく、この傾向は今もつづいているのです。したがって、『天皇の軍隊』を検証することは即、中国戦犯の「証言」を検証することになります。
以下、「中国戦犯」の検証結果⇒ こちらからもご覧になれます。