平 頂 山 事 件

― 事件発生は事実 ―
― 犠牲者数ほか間違いが多くてウンザリ ―


 平頂山事件(へいちょうざん・じけん)は「中国の旅」連載の冒頭で報じられたものですが、虐殺事件の発生は間違いのない事実です。


 上写真のように、現場近くに記念館が建ち、館内には発掘された遺体が展示されています。遺体の発掘と記念館建設は、「中国の旅」連載が契機となりました。
 とくに発掘遺体の写真は毎日新聞をはじめ、多くのメディアが報じていますので、目にした方も多いに違いありません。念のために記しておきますが、遺体がこの事件による犠牲者であることは種々の理由から疑いないものと思います。

 当然のことながら、平頂山事件について書かれたものは少なくありません。しかし、大部分(あるいは全部?)が、取材源を朝日連載と同様、中国のみに依拠し、加害者側(日本軍)に対する直接取材がなされませんでした。 日本側関係者が多数いたにもかかわらずです。毎度のことで、べつに驚くに当たりませんが。

 ですから、正確性に欠けて当然でしょう。日本軍の悪逆非道を糾弾するには絶好の材料でしょうから、断罪するのに急で正確を期すなどは関心外に違いありません。


1 事件発生までの経過


(1) 「匪賊」来襲
 1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖事件をキッカケに起こった満州事変から1周年が近づくにつれ、満鉄付属地に住む日本人居留地を中心に敵襲撃の足音が迫っていました。このことは、『満 洲 日 報』に目を通せば一目瞭然です。
 奉天と鉄道で1時間ほどで結ばれていた撫順市は、満州最大の炭鉱、撫 順 炭 鉱(ぶじゅんたんこう)を有していただけに、重要性、地理的条件からもっとも襲撃を受けやすく、早くから厳戒態勢が取られていました。

 撫順に駐留していたのは、6個の歩兵大隊から編成された独立守備隊のうち、第2大隊第2中隊で、事件当時、中隊の総人員は260名でした。


 独立守備隊を鉄道守備隊とも呼ぶように、鉄道(満鉄線)の守備が主要な任務で、炭鉱警備も必要なものの守備隊だけでは手が回らないため、在郷軍人などからなる炭鉱独自の組織 「防 備 隊」が編成されていました。その数650名です。
 その他に、警察約200名、憲兵隊1個分隊(10余名)があり、これが守備する側の総人員(1100余名)ということになります。

 敵襲があったのは、中秋の名月にあたる1932年9月15日深夜のことでした。空は冴えわたり、月明かりでかなり見通しはきいたといいます。
 この夜、守備隊長・川上大尉率いる中隊主力120名は、敵集結の情報のもと、急きょ出動中でしたので、守備隊は裏をかかれた形になりました。

 大刀会という白蓮教の一派に属した武装組織数百が、日本側が予想していた方角と違った方向(南方)から炭鉱を襲ってきました。
 炭鉱の各方面で紅蓮の炎があがり、宿舎に居住する日本人は逃げまどいます。なんとか、敵を追い払うことに成功しますが、採炭所所長1人を含む4人が殺害され、数名の負傷者をだしました(写真は9月17日付「満洲日報」)。
 また、炭鉱施設などに大きな被害があり、操業停止に追い込まれました。

(2) 事 件 発 生
 翌9月16日の昼頃のことです。留守をあづかる井上中尉率いる1個小隊約40名を乗せたトラック2台(3台?)が日本人が楊柏堡(ヤンパイプ)部落と呼ぶ現地人の住む集落に到着します。
 というのは、この部落の住人が敵の襲撃に手を貸し、油などの証拠品が見つかったからなどという理由からでした。
 ここは炭鉱に勤務する人たち(家族持ちも多い)の居住地ですが、炭鉱側の用意する社宅が間に合わないため、住民が自らの手で建て、集落を形成していました。「中国の旅」は農村としていますが、炭鉱勤務者の集落で間違いありません(根拠は後述)。

 守備隊員は集落から住民を追い立てると、近くの採砂場に誘導します。ここは窪地になっていて、背後がガケになっています。住民をここに座らせた後、中尉の「撃て」の合図で一斉射撃になったと、射撃に加わった一人は私に話しています。
 ですから、逃げられた人は少なかったというのも肯ける話です。
 その後、炭鉱の防備隊員の手で遺体に重油をかけて焼くのですが、焼ききれないため、ガケをダイナマイトで爆破して埋めてしまいました。

2 国際連盟の場で


 1932(昭和7)年11月末、有名な「リットン報告書」 を審議する国際連盟理事会がジュネーブで開かれました。日本側の首席代表は有名な松岡 洋右(まつおか・ようすけ)でした。
 現地と日本外務省との間のやりとりが、電文として残っています。電文を参考に、平頂山事件が理事会に持ち出された経緯を見てみます。外務省は平頂山事件という呼称は使わず、「撫順事件」と記しています。

 松岡は満州事変における日本軍の行動は正当な自衛行動と主張し、中国側は日本軍の満州撤退こそが中心課題であるとの反論から会議が開始されました。
 そして、「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず、世界を征服せんと欲せば、まず支那を征服せざるべからず」ではじまる有名な「田中上奏文」(田中メモランダム)の真偽論争などが行われ、中国側代表の顧維鈞(こいきん)は、

〈何れにしても吾人の重視するは、右上奏文に記載せられたる日本の大陸政策にして、満州事件は右政策の発露なり。・・〉
〈又、揚子江沿岸の住民と満州住民とを比較し、後者を以て幸福なりというは事実を誣ふるものにして、
現に支那代表部は満州住民の惨状を示す証拠を有す・・〉


 として、平頂山事件をその証拠として出してきたのです。そして、

〈9月16日朝(場所の説明なし)、3名の義勇兵来り道を尋ねたるを口実とし、
200人の軍隊及機関銃を具備せる日本官憲は、・・山村の村長を呼出し、
義勇兵を隠匿援助せりとの理由のもとに、・・村民全員をPin ting shan 山上に追上げ、
・・背後に機関銃を布き恐怖し立上がりたるものを銃殺せる結果、
死者7百余名、重傷者6、70名、軽傷者約130名を出せる上、右山村は焼き払われたり〉


 と説明します。
 現地から照会を受けた外務省は関東軍に事情を質したのでしょう。武藤 信義・満州国大使(兼関東軍司令官)は、内田外務次官あてに概略、以下の返電を打ちました。

〈・・9月15日夜、約2千の兵匪及不良民は撫順市外を襲撃し、・・。
井上中尉の率いる1小隊は、16日午後1時、千金堡に至り部落の捜索に着手せる処、
却て匪賊の発砲を受け、我軍は自衛上迫撃砲を以て之に応戦せり。
・・村落は交戦中発火し、大半焼失し、又匪賊不良民約350名仆れたり。・・〉(原文カナ)


 この後、事件は本題でなかったのでしょう、連盟理事会で話題にのぼることはなかったようです。

3 瀋 陽 裁 判


 終戦とともに、撫順市に駐留していた日本軍はソ連軍の手によって武装解除されシベリア方面に送られました。始まった国共内戦 により、他の南満州地区と同じように、撫順でも中共軍、つづいて中共軍を駆逐した国府軍(国民政府軍)が進出します。
 ところが、中共軍はしだいに勢力を盛り返し、各地で国府軍が劣勢に立たされます。

 瀋陽裁判は国府軍の手で行われた満州で唯一の軍事裁判ですが、中共軍が迫まりつつあるなかで行われました。それだけに、急いで判決が出された事情があったのです。
 同法廷における起訴事件は115件、被告数135名でした。判決の内訳は死刑22名、無期5名、有期刑29名、無罪79名などでした。

 うち、平頂山事件関連で起訴されたのは久保炭鉱次長(事件当時。後に、炭鉱長) 以下11名で、久保次長を含む7名が死刑、4名が無罪という結果になりました。1948(昭和23)年4月、刑が執行(銃殺)されます。
 責任をとるべき軍関係者は転属などで各地に散らばり、行方がわからないため、炭鉱関係者などがとばっちりを受けることになったわけです。
 この事件に対して、「日本人には血債がある」と地元の新聞などが書いたことが、犯人捜索の端緒になったとつたわっています。以上のように、事件発生は疑いもありません。

4 犠 牲 者 数 は


 中国は犠牲者3000人余 と主張しています。
 検証なしに「事実」と認定してしまう日本の歴史学界ですから、日本の歴史教科書に「3000人」と書くのも不思議はありません。
 現場にいた守備隊員から「約600名余り」という証言(複数人)をはじめ、上記の電文などの根拠をあげ、「400人〜800人」 だといくら説明しても、NHKは「3000人」 と放送しますし、本多勝一記者は私の推定を「過少評価」だとくさします。
 根拠をあげずにくさすこと、いつもの通りです。もっとも何も調べていないのですから、根拠など示せるはずもありません。


 NHKテレビが終戦50周年企画として、この事件を取り上げるために、刑死した久保炭鉱次長の遺族を訪ねました。
 そこで、久保が軍事法廷に提出した「申 弁 書」が発見されたという次第です(左写真)。

 この「申弁書」は事件を知り得る立場にあった炭鉱の最高責任者のもので、第1級の資料といって問題ないでしょう。このなかに、「平頂山事件の概要」が記されていますので、犠牲者数に触れたくだりを以下に引用します。

〈其の数700及び800と伝えられたり。其の時刻16日午前11時頃と記憶す。
以上は被告(注、久保次長)が16日早朝以来、炭鉱事務所に於て、
昨夜来の襲撃被害に対し善後措置を講じつつある午後3時頃報告に接したるものなり。・・ 〉


 どこから見ても「3000人」という数字は根拠がありません。また、殺害の対象となった村は、炭鉱勤務者のものと明記されています。中国がいったことを鵜呑みにするのは我が方の学会、マスコミ界の通例ですので、この例もその一つに過ぎないのでしょう。

 事件の背景はもっと複雑ですが、ここでは書ききれません。また、中国から「平頂山大屠殺惨案始末」という20余ページの報告書が出ていて、「中国の旅」の内容はこの報告書とほぼ同じといってよいでしょう。
 ですが、報告書内容を点検すると、ここかしこに「創作」の跡があり、創作の典型といってよいと思います。
 小著出版から16年後の2004年、井上久士・駿河台大学教授によって新資料が発掘され、私の記述した主要な部分が間違いとの指摘が出てきました。
 ですが、この指摘はとんでもない誤りです。

 井上論考が間違いであることを、電子書籍『(続)追跡 平頂山事件 ― 守備隊長不在説が「瓦解した」の愚説』で詳しく記しました。
 その一部を次項に記述しましたので、⇒ こちらをご覧ください。


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