― 中国ベッタリ「営業政策」(1)―
⇒ 「営業政策」の果てに(2)
「中国の旅」連載は1971(昭和46)年のことでした。日中間はどのような関係にあったか概観します。
でもなぜこの時期(1971年前後)に、また何を目的に、突如(?)として朝日新聞は日本軍断罪に力を入れたのでしょうか。
これには文化大革命(以下、文革。1966〜1976)との関連を考えないわけにはいきません。
(1) 当初の論調に違和感はない
朝日新聞が当時、文革を高く評価したのは周知のことですが、文革開始直後からというわけではありませんでした。
当初は文革批判あるいは文革を懐疑する記事も結構、多かったのです。文革の始まった年の暮、朝日は社説で次のように書いています。
〈 中国が、民主主義を志向するわれわれと異なる道を歩んでいることは、
隣国として重大な関心をもたざるをえない。また、今後の中国の動向が、
大国主義的、膨張主義的色彩をもつのではないかという点については、特にそうである。〉
― 1966年12月27日付け ―
社説は、文革をとおして将来に向けた中国の「大国主義的、膨張主義的色彩」に懸念を示しています。2023年に入った今日、巨大な軍事力を背景にした尖閣諸島の領有権、南シナ海での海洋権益獲得行動は、社説の懸念どおりに進行、中華帝国の膨張主義が現実になったことを示しました。先を見通した社説といってよいでしょう。
また、毛沢東思想のみが正しいとし、異なる考え方を受け入れない点、一党独裁の欠点などを突いて、文革のあり方に疑問を投げかける記事もありました。
この社説の7、8ヵ月後の1967年7月から8月、中国各地で造反派同士、赤の武闘が激化しました。
広州では迫撃砲や機関銃までが使用され、広州市とその周辺は無政府状態になるなど収拾がつかなくなり、しまいに解放軍が投入されて秩序が維持されるといった具合でした。
また12月末になると、劉 少奇・国家主席らを攻撃するため、劉の「十大罪状」を告発する壁新聞が北京大学をはじめ市内にはり出されるなど、攻撃の度合いはエスカレートしていきました。
文革は、餓死者3000万人ともいわれる大躍進運動の失敗などで国家主席の座を劉 少奇(りゅう しょうき)に譲らざるをえなかった毛沢東が、劉一派の手に握られた権力を奪い返そうとする「奪権闘争」であることを示す事情が明らかになってきたのでした。
ところが、1967(昭和42)年の夏頃から朝日の論調がガラリと変わり、文革を評価、肩入れしだしたのです。
(2) 広岡体制で一転 文革評価
美土路(みとろ)昌一社長が病気で退社、後を継いで広岡 知男(下写真)が専務から社長に昇格、全権を握ったのは1967年7月のことでした。同時に「戦後左翼のシンボル」(青山 昌史・元朝日常務)とも言われた森 恭三を論説主幹に任命します。
もっとも主導権は広岡が社長になる前から握っていて、いわゆる「朝日紛争」(創業家、村山家との経営権をめぐる争い)で村山長挙社長を追放した1964年頃と言われています。
以降、広岡は社長として10年、会長として4年、1980年までワンマンとして朝日新聞に君臨したといいます。
ですから、文革時代の中国報道は広岡社長の強い影響下にあったといってよいでしょう。
朝日OBで社長秘書役、研修所長などを歴任した本郷 美則は「広岡知男社長が今日の左翼偏向路線の基礎を築いた」と断じます。
終戦直後、社会主義者らが読売新聞を乗っ取ったことからも分かるように、朝日社内もまた左翼人が幅を利かしていたのは確かでしょう。ただ、広岡社長、後藤 基夫・東京編集局長の2人がとくに親中派ではなかったし、また編集幹部も同様であったと朝日OB(佐々 克明、後述)は指摘します。
どうも広岡に対するこの指摘は確かなようで、広岡社長は「体育系」(東大野球部出身)で特定のイデオロギーは何もなく、「権力志向の人間」だったと本郷は言っています。その広岡が体制を敷いてから、中国ベッタリ報道へと傾斜していったのは客観的な事実です。
広岡の社長就任直後の1967年8月11日付け社説は、「激動1年の中国に思う」として次のように書いています。
〈文化大革命が社会主義理論に重大な問題を提出していることは明らかである。
この意味で文化大革命を、わが国政党にみられるような、政策論争をともなわない
派閥争い的な意味での権力闘争とみる考え方には、われわれは組しがたい。・・
中国がいま進めている文化大革命は、
近代化をより進めるための模索といえよう。
いまだに近代化への道を捜しあぐねている国々に、
一つの近代化方式を提起し挑んでいるともいえる。〉
これが同じ新聞の社説とは思えないほど、様変わりの変化でした。
一転、文革を近代化を進めるための模索と位置づけ、遅れた他国にとっても参考になるといわんばかりに評価したのです。以降、記事も文革肯定に変わり、一気に中国に寄り添っていきました。
付け加えますと、中国ベッタリ記事に多大な貢献をしたのは、秋岡 家栄北京特派員というのが定説になっています。秋岡記者は戦前の東亜同文書院の出身、このため中国語に精通していたようで、北京に赴任したのは1967年秋でした。
秋岡は朝日社内で伝説的(?)な存在で、有名というより悪名高いのですが、社内では「広岡社長直属」といわれるほどの存在で、秋岡の打電した記事は社内チェックにかからず素通りで紙面に載ったといいます。
飛ぶ鳥を落とす勢いの秋岡特派員がつまずいたのは、林 彪(りんぴょう、国防相)失脚をいつまでも否定しつづけた大失態にあったことはよく知られています。
さて、広岡社長、編集局長らがとくに親中ではないとすると、何が原因で文革を肯定し、中国にすり寄っていったのでしょう。いろいろな見方があると思いますが、「営業政策」ないしは「商業政策」から導きだされた「必然偏向」だったと朝日OB(後述)が指摘しています。説得力のある見方だと私は思っています。
(3) 朝日を除く日本人特派員、国外退去処分
1964年4月、日中間で記者交換の合意が成立、9月には日本側9社9人、中国側7人が任務につきはじめました。ところが、1967(昭和42)年9月、北京駐在の日本人特派員が次々と国外退去処分になる事態が発生します。時期から見れば、朝日論調が変化した約1ヵ月後のことです。
処分の理由は、報道が「文化大革命を中傷し、国内状況をゆがめ、反中国の行為にでた」とのことでしたから、報道内容が気に入らなかったのでしょう。逆に考えれば、まあ真っ当な報道をしていた証ともとれます。
もっとも、新聞に載った毛沢東の似顔絵が気に入らないというのが発端だったとの名解説(?)もありました。
まず1967年9月、毎日、サンケイ(産経)、西日本の3社3人が、10月に読売、日本テレビの2人、翌1968年6月に日経が、さらに1970年9月にはNHK、共同通信社の2人が処分を受けて、結局、9社中8社の特派員が国外退去処分になりました。
ですが、朝日新聞記者だけが退去の対象から除かれましたから、1970年10月以降は、北京駐在の特派員を持つのは朝日新聞社1社となり、北京情報を独 占することになったのです。
(4) 広岡社長、訪中の狙い
朝日だけがなぜ、追放されなかったのでしょうか。
1970(昭和45)年3月、つまりNHK、共同通信、朝日を除く6社6人が退去処分をうけた後のことですが、広岡 知男社長が訪中しました。
訪中の当面の目的は、「朝日記者の追放阻止」 にあり、さらには「中国報道の独占」 を狙ったものだと、朝日新聞OB・佐々 克明(佐々淳行・初代内閣安全保障室長の実兄、また父君は朝日新聞記者出身)は、『病める巨像 ー朝日新聞私史』(文藝春秋、1983)のなかで指摘します。
そして、文化大革命を礼賛し、中国の代弁者になったかのような朝日論調が、この広岡社長の訪中によってより確固なものになったとし、以下のように記しています。
〈広岡訪中の効果はてきめんであった。
朝日新聞は、独占権と「人質」の安全保障とひきかえに、
中国のプロパガンダの“エージェンシー”たることを請け負う羽目に陥ったのである。〉
中国報道の独占権を得、新聞界のリーダーとして不動の地位を築くためにとった広岡社長の「営業政策」が、必然的に中国の走狗に成り下がったというのです。
(5) 日本軍国主義復活反対、日米安保解消を主張
では具体的に、中国の“エージェンシー”としての朝日はどのように役割を果たしたのでしょうか。簡単にいえば、
・ 中国が主張する日本軍国主義復活反対の論陣を張り、
・ 日米安保条約解消に向け力を注ぐこと
にあったでしょう。
この2つは日中友好条約締結のいわば前提条件として中国が打ち出したものです。その条約締結は1972(昭和47)年9月、中国が嫌った佐藤 栄作首相の退陣を受け、次の田中 角栄首相の時に結ばれました。
・ 日本軍国主義反対
まず「日本軍国主義復活」に対する対応です。
日中間の懸案だった国交回復が取りざたされるなか、1969(昭和44)年11月、佐藤・ニクソン会談で 沖縄返還を約束した日米共同声明が発表されます。このとき、日本の自主防衛力の強化にも言及がありました。
翌年に控えた日米安保条約の延長問題(70年安保)と、この「自主防衛力の強化」を念頭においてでしょう、周 恩 来首相は「沖縄の返還は全くのペテンだ」「日本軍国主義はすでに復活し、アジアの危険な侵略勢力になっている」と断じ、佐藤 栄作政権を攻撃します。
これに対し朝日新聞は、
〈われわれは、日本軍国主義がすでに復活したとまでは考えない。
だが「復活」の危険な情勢にあることは、・・認めざるを得ない。〉
― 1970年4月20日付け社説 ―
と中国の主張に寄り添います。
また、安保条約が自動延長になった1970年6月23日付け社説〈「選択の70年代」と安保条約〉では、
〈「70年安保」で“被害意識”を強めているのは、中国をはじめとするアジアの国々であり、日本国民には“加害者”としての感覚がきわめて希薄である。〉
との認識を示します。
1年後の「中国の旅」報道でたっぷり日本の加害を報道する予告だったのかもしれません。
また、〈中国の「日本軍国主義」攻撃がたんなる政略的意図から出たものとみるのは誤りであろう〉と中国の主張に精一杯の理解を示しました。
何んという認識の甘さでしょう。中国の首相が政略的意図のない発言をすると考えるなど的外れもいいところです。
第一、日本のどこに「軍国主義復活」の兆しがあったというのでしょう。中国は1956(昭和31)年に核兵器開発を決定、核保有国を目指しました。そして1964年11月に水爆実験に成功、さらに1971(昭和46)年11月には20キロトンの原爆実験も成功しています。
また中国の総兵力数は250万人、自衛隊の20万人と比べれば10倍を超えていました。日本の軍事力などは意思においても能力においても裸同然だったといってよかったのです。
ちなみに、日本人は「安全と水はタダが当然」と考えていると指摘した『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン=山本七平、山本書店)の初版は1970年5月、ちょうどこの頃のことでした。
ですから、中国が日本の軍事力を心配するような状況下にありません。にもかかわらず、中国の主張に沿って、朝日新聞は日本の防衛力強化となればとにかく反対しつづけました。
・ 日米安保条約解消を提言
さらに社説は、
〈 日中関係の正常化こそ、
わが国の恒久的な安全保障の条件なのであり、
“選択の70年代”の課題は、
対米関係の調整に立った安保条約の解消と、
日中関係正常化への努力を並行して進めてゆくことであると思う。〉
とし、「日米安保条約の解消」にまで踏み込んだ主張を展開しました。
日米関係より日中関係が重要と明確に表明したわけです。もし朝日がいうように、安保条約が解消されていたら日本固有の領土である尖閣諸島など、有無をいわさず力づくで取られたのは間違いないでしょう。
そして矛先は佐藤政権に向けられ、あからさまに退陣を要求しはじめました。上記の『病める巨像』によれば、1971年6月から8月の報道は以下にみるように露骨なものだったといいます。
〈 今の佐藤政権の姿勢では、かえって日中関係打開への重荷〉
〈 佐藤政府のもとでは、日中改善の望みのないことを(中国政府が)示唆した〉
〈 訪中議員団は、佐藤内閣の下では、日中国交の正常化をはかるとは困難であるとの印象をもった〉
これらの報道を読み、朝日は中国のご用をうけたまわる新聞、「中国ご用達新聞」との疑問が起こっておかしくありません。さすがの朝日読者も呆れてか、一部でしょうが読者離れが起こったそうです。
(6) 「中国の旅」企画は手土産?
日本の軍国主義復活反対、自主防衛力強化反対、さらには日米安保条約解消、佐藤政権不信任と、たてつづけに朝日新聞は中国の主張に沿った報道を展開しました。
そして上記の目標達成を容易にする手段の一つとして、日本軍の残虐行為糾弾が日程にのぼったのではないでしょうか。この計画が中国側の示唆、ないしはそそのかしに朝日が飛びついた結果だろうと思っています。
日本の防衛力強化を阻むのに、また“加害者”としての自覚の足りない日本人を目覚めさせるために、日本軍を叩くのが手っ取り早いと考えたのに違いありません。
つまり朝日は、中国と共通の理解に立っていることをつたえるため、平たく言えば中国への迎合、手土産に日本軍断罪が使われたのだと勘ぐっています。
そして、中国の綿密なお膳立のもとで取材が行われました。
ですから、本多自身が言うように「レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。だから問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、しかも正確に聞き出すかと、そういう問題になる」という次第で、朝日新聞の半独占状態(1971年1月から日経新聞と西日本新聞が復帰)のなか、「中国の旅」連載となったのでしょう。
結果は、日本人を「集団ヒステリー状態」 にさせるほどの大成功で、予想を上回る大反響だったと本多自身が書いています。中国もまた同じで、期待をはるかに超えた成果にほくそ笑んだに違いありません。
中国がこの絶大な効果に味をしめないわけがありません。朝日をはじめとする日本のメディアと中国が、2人3脚で日本軍の残虐ぶりの糾弾に突き進み、やがて黄門様の葵の紋章入りの印籠のごとく、日本人が平伏する「歴史カード」を中国は手に入れたのです。
ともあれ、朝日新聞社という一報道機関が独占的な立場を確保するため中国に擦り寄り、その目的達成の一手段として、日本軍断罪が使われたのは、まず間違いなかろうと思っています。
そしてこれ以降も、防衛問題、歴史教科書問題、靖国参拝等々、朝日が中国プロパガンダの“エージェンシー”たる基本姿勢に変化が起こることはなかったのです。
(7) また一転、厚顔な評価替え
ついでと言っては何ですが、文革がついえた後、朝日の臆面もない変わり身を書いておきます。
1976(昭和51)年1月に周恩来の死去、つづく9月に毛沢東が亡くなり、10年におよんだ文化大革命は終わりをつげました。党主席の座をついだ華 国鋒(か こくほう)の手で、文革を推進した江 清(こうせい、毛沢東夫人)らいわゆる4人組を「反革命」の罪を犯したとして逮捕しました。文革の評価は一転して「革命」から「反革命」へと変わったのです。この後、中国は文革を「動乱の10年」として否定し、今日に至っています。
これに対する朝日新聞の変わり身を知るには、次の社説(1980=昭和55年11月21日付)の一節で十分でしょう。
〈 中国に与えた文革の傷はあまりにも深い。
数百万の失業者が路頭に迷い、下放青年による
北京駅爆破事件のような悲劇をひきおこしている。
中国の近代化のためには、中国社会の安定が必要であり、
国内を四分五裂させた文革のような事態が2度とおこってはならない。
なによりも必要なのは、一派閥の利害ではなく、10億民衆の立場に立ち、
いまわしい過去を清算する近代的裁判である。〉
さんざん文革を持ちあげてきたにもかかわらず、一転して「いまわしい過去」と評価替えをし、中国の新しい見解に乗ったのです。もちろん、文革を「世界史的意義」があるとした自らの誤りを紙上で総括し、読者に供することはありませんでした。
(8) 日本の教育界に深刻な影響が
文化大革命はわが国の教育界や教育現場に多大な影響を与えました。
1966(昭和41)年8月18日、『毛沢東語録』をかざした「革命的教師と学生」、赤い腕章をつけた毛沢東の親衛隊である「紅衛兵」ら100万人が天安門広場に集まり、楼上には軍服姿の毛沢東、それに周恩来、林彪らの指導者の姿がありました(上写真、左から毛沢東、林彪、周恩来)。
ここで「四旧」(旧い思想、文化、風俗、習慣)等の打破が呼びかけられ、学術権威もまた打倒すべき目標となったのです。
そして「造反有理」の理屈のもと、医師らをブルジョア思想の持ち主と糾弾、北京の銀座通り「王府井」を「革命道路」と呼び替えるなど、勝手放題の活動が始まります。10月には劉少奇、とう小兵の自己批判へと追いつめていきました。
「造反有理」の思想汚染は日本に飛び火、教師が生徒の評価を拒否するやら、集団団交により校長や教育委員長をつるし上げるやらして学校を興廃へと向かわせました。
学校長が教職員から陰湿な「妨害」「いじめ」にあった例は数限りなく、なかには自殺に追い込まれる例も見られるようになりました。もちろん、国旗と国歌は目の敵にされ、今にいたるも大きな変化は見られません。
朝日社内には、今は分かりませんが親ソ派グループがあったのだそうです。聞きかじりですが、秦 正流(後に専務取締役編集担当)をリーダーとする一派で、中国に傾斜した文革報道を批判的に見ていたといいます。
文革報道の失敗(と言ってもあくまで社内評価であり、読者に詫びたわけではありません)が、親ソ派の巻き返しのチャンスになりました。
というのも、文革時は親中一辺倒でしたので、ソ連が朝日新聞に冷たくなり 、モスクワ支局での取材が何かと不自由だったというのです。このことは『朝日新聞社史』に載っているそうで、まったくのお笑いです。
朝日は「日本のプラウダか」 と批判されたのもこの頃であり、ソ連寄り報道はいくつも例があります。ここでは北方領土についての朝日のスタンスを取り上げます。
・ 北 方 領 土
日本政府は1981年、2月7日を「北方領土の日」 と定めましたが、3日前の社説(2月4日付)で早速、〈いたずらに「ソ連の脅威論」であおったり、右傾化へのバネに利用してはならない〉と水を差すように警告を発します。
「北方領土の日」制定の前日(2月6日)ですが、松前 重義・東海大学総長の「とんでも論考」を朝日は掲載しました。並みの新聞社ならまず載せない、つまりはボツにするに違いなく、この論考が朝日の言いたいことを代弁していたからでしょう。
〈(日本政府は)閣議決定によって、「北方領土」を永久に残し、
日ソ間の緊張を継続し、軍国主義への道を開こうという意図ではないか。・・
ソ連は第2次大戦において、世界で最も大きい人的、物的犠牲をこうむった。
それゆえに第2次大戦の結果にこだわるのは、決して理由のないことではないのである。
北方領土問題は、ソ連にとって国際法の問題というよりは、
多くの犠牲のもとにえた結果を失えぬという、国益と感情問題なのである。〉
何と倒錯したものの見方かと思います。北方4島の返還へ向けた日本の意思表示として「北方領土の日」を定めたのであって、どうして軍国主義の道を開くことになるなどと、たわけたことを書くのでしょう。
第一、ソ連が多くの人的、物的犠牲をこうむったといいますが、それはドイツとの戦であって、日本による犠牲などありません。日ソ中立条約を破ったのはソ連です。その上、日本将兵60万人を労働目的でシベリアに強制連行し、6万人以上を死に至らしめました。
また、侵入した満州やカラフト(樺太)で多数の日本婦人を凌辱、多量の物資を自国に持ち去るなど、勝って放題の振る舞いでした。そのあげくが北方領土の略奪でした。
そういえば、カラフトの真岡(まおか、もうか)で迫りくるソ連軍を前に電話交換手として最後まで職責を果たし、自決した9人の若き女性を描いた映画に「氷雪の門」(東映、1974=昭和49年)がありました。ですが、この映画は日本で上映されませんでした。
何でも反ソ映画であるというのが理由でした。どうせ、ソ連大使館と左翼連中の差し金でしょうが、日頃「言論の自由」を振りかざすメディアが非をならせば、上映できたはずです。情けないほど圧力に弱い国かと思います。
さて、ソ連によって被害をこうむったのはわれわれであって、日本に非はありせん。北方領土の返還は最低限の要求です。にもかかわらず、この種の知識人が結構、もてはやされました。今も大して変わりはないのかもしれませんが。
朝日が中国同様にソ連によせる青臭い心情、つまり共産主義国家、社会主義国家には正義が宿っているという思い込み、だから日本が社会主義国になることを夢見て論陣を張ったのでしょう。
また、北朝鮮に対してもおかしな見方を繰り返しました。北を「地上の楽園」とばかりにもてはやし、北朝鮮に帰った人に塗炭の苦しみを味あわせました。わけても日本人妻が味わった苦しさは尋常のものではなかったのです。この問題は別項でとりあげます。