―「営業政策」の果て 2―
⇒ 朝日は何をどう報じたか(その4)
あるいは疑問に思う方もおいでかもしれません。
というのは前項(その2)に記したように、文化大革命時の広岡社長、東京編集長ら朝日編集幹部はとくに親中派ではなかったというし、「日本軍国主義復活」に警鐘を鳴らし、「日米安保条約の解消」まで主張した原因が「営業政策による必然偏向」であったとすれば、社長以下編集幹部が交代すれば偏向は是正されるはずではないかということです。
広岡社長が朝日新聞を去ったのは1980(昭和55)年3月です。ですが、これ以降に左偏向が正されたと考える人はまずいないでしょう(初めから偏向はなかったという朝日読者は多いでしょうが)。とすれば、営業政策による必然偏向が依然、続行中ということなのでしょうか。
(1) 「下っぱが本気に」
まず、名高いコラムニストであった故・山本 夏彦は、次のように絵解きします。
〈私は「商売としての反体制」と題して岩波書店と朝日新聞にそれとなく言及したことがある。
・・資本主義の権化であるマスコミの反体制は商売としての反体制で、
商売として不利になればポルノはやめることができるが反体制はできない。
重役はそのつもりでも下っぱは本気になっている。〉
― 月刊「諸君!」、1984年10月号 ―
これなら今もつづく反体制を気取った左偏向がよく説明されていると思います。商売のためであった反体制(左偏向)は、「下っぱ」が本気になってしまって、やめようにもやめられないというわけです。
その下ッぱはといえば、日教組教育で育った学業秀才。新聞社に入って自社の新聞を読み、社内の雰囲気にしだいに馴染んでいきます。また、大新聞に高給をもって遇せられますし、外にでれば名刺一枚が物をいいます。
となれば、自紙論調を疑って見る必要もないでしょう。そういえば、「インテリは左翼であらねばならない」と言った朝日記者がいました。
山本は「私なりの戦後50年」としたインタビューで次のように答えています。面白いので掲げておきます(産経新聞、1995年7月31日付)
〈なぜ真っ暗史観が全盛かというと、それは社会主義者とその転向者が言いふらしたからですよ。
牢やに入っていた人が戦後、全部出てきて大歓迎されて、転向者は後ろめたい思いをしてました。
共産党の人はマスコミに入って、あの読売を乗っ取った。
それから大会社に全部組合をつくらせて牛耳った。
学校に組合をこしらえ、それが、日教組です〉
〈 いま新聞社のデスク、文部省をはじめ各官庁の幹部クラスはみんな日教組育ちです。
若いときに耳の中に毒を入れられたものは、取れないんですよ。
一番は小学生のとき、次いでその上の学生時代でしょうね。
社会主義には「正義」がありますからね。
まじめ人間はいまだに正義が大好きです。〉
(2) 左 旋 回
日本を占領したGHQ(占領軍総司令部)は、敗戦の翌年1月(1946=昭和21年)、指導層を一掃するために「公職追放令」をもって軍人(少尉以上)、軍国主義者とみなされた政治家らを公職から追放しました。翌1947(昭和22)年1月には言論界、財界、地方公職などにも対象を広げ、これにより追放された数は合計21万人に上ったとされています。
言論界からも多数が追放され、追放を免れた人の多く(80%説あり)が、左翼または左翼のシンパだったといわれています。占領軍の政策は当初、労働組合の結成を促進することでしたので、1947年8月には日 教 組が、また産業界などと並んで新聞業界にも組合が誕生します。
もちろん追放を免れた人が組合結成を主導したわけですから左傾向が強くなって当然でした。
朝日新聞でいえば、地下に潜入していた聴濤 克己(きくなみ かつみ)が復帰、「ゾルゲ事件」と連座して退社した田中 慎次郎ももどってきました(再入社)。また後にマルキストであったと自ら認めた森 恭三(広岡社長時代の論説主幹)も社内影響力を強めます。
聴濤は後に日本共産党中央委員、アカハタ編集長、同党衆議院議員になっていますし、田中慎次郎は同じ朝日記者出身で、満鉄に在籍していたコミンテルンのスパイ・尾崎 秀実(おざき ほつみ)に軍事機密を流したかどで検挙される経歴を持っていました。
その田中は朝日復帰後、出版局長に昇進し「朝日ジャーナル」を創刊(1959=昭和34年3月)、「全共闘の機関誌」などと一部で批判はあったものの部数を伸ばし、最盛期には30万部を超える勢いだったのです。
1945(昭和20)年11月、「(朝日)東京本社従業員組合」が結成され、委員長に選ばれたのが聴濤克己でした。そして組合を舞台にして、後に広岡時代を築いた広岡 知男らが頭角を現わしてきたのでした。
一方、社主家にあたる村山長挙社長、上野精一会長、編集幹部はというと、公職追放令が出る前に社内で「戦争責任」を追及され、朝日を事実上、追い出されています(表向きは総辞職)。村山、上野の2人が公職追放となったのは1947年10月のことでしたから、厳密にいえば前社長、前会長のときでした。
そして組合の選挙で長谷部 忠社長以下の経営陣が選出されました。ですから、経営陣は組合の強い影響を受けざるを得ず、左翼路線を走るのは当然の帰結だったといってよいでしょう。
(3) レッドパージ
ところがGHQの方針変更により、朝日の左傾路線が修正される事態が発生しました。国共内戦で中共軍が蒋介石軍を各地で打ち負かし、蒋は台湾まで押しやられ、中華人民共和国が成立(1949=昭和24年10月)したことです。また朝鮮戦争の勃発などで状況が変化したため、マッカーサー司令部はこれまでの「容共路線」⇒「反共路線」へとカジを切り換えたのでした。
1950年7月、GHQは「レッドパージ」と呼ばれる政策で教育界、報道界をターゲットにして教職員、新聞記者等のうち共産党員やそのシンパの追放に踏み切りました。朝日新聞から104人、NHKから119人など700余人が対象になったとのことです。
このとき、GHQは朝日側に対し、実行しないと「新聞用紙」をまわさないなどと圧力をかけたといわれています。用紙の供給ストップは即、新聞発行の停止に追い込まれますから、従わざるをえなかったでしょう。
そして、広岡、田中、森の3人は元の職場(大阪編集局?)に戻されたとのことです。
翌1951年6月になると「追放解除」が始まり、第1次として政財界の約3000人、8月には2次分として約1万4000人が解除されるなど、最終分の29名(1952年6月)の解除をもって終了しました。朝日新聞の社主家にあたる村山長挙、上野精一が社に復帰してきたのです。それで一度は左傾路線が多少収まったようですが、「60年安保」の前あたりから、再び左翼が力をぶり返し表舞台に立ったのでした。
(4) 「安倍叩き」は「反安保闘争の宿怨」が動機とは
先に登場した朝日OBで社会部、整理部を経て研修所長などを歴任、1994(平成6)年に定年退職した本郷 美則は、興味深いことを書いています(「WiLL」、2007年11月号)。
「戦後レジームからの脱却」を掲げた第1次安倍政権に対し、朝日の「就任以来の悪口雑言は目に余った」とし、その動機を以下のように説明します。
〈(安倍政権への)反抗の動機は、歴史に淘汰され、社会主義建設の夢潰えた書生たちが、
今も続く偏向体制の下、年功によって幹部に列し、「安保の敵・岸」へ燃やす宿怨だ。〉
〈外部からは、いかに朝日の戦後体制を継承しているとはいえ、反安保闘争の宿怨を抱く一握りの分子が、
紙面を私して“反安倍機関紙”を作れる組織構造は理解できまい。
だが、1960年代以降の朝日を支配してきた左翼の専制 は、
社長が主筆までを兼ね、紙面に関する編集部門の権限を絶対化した。〉
これを読んで驚きました。日本を社会主義国家にすることが朝日の狙いであり、望みだとはよく指摘されたことでしたので驚くにはあたりません。その夢がついえた後、「60年安保」(1960=昭和35)にかかわる宿怨が安倍政権に向かったという点でした。
この60年安保当時、日本のほとんどの新聞は「戦争に巻き込まれる」として日米安保条約締結に猛反対、反米ムードが広がっていきました。岸 信介元首相は野党議員が衆議院議場を退席するなか、与党のみで強行採決に踏み切りました。また、「声なき声は支持している」とも発言します。
30万人ともいわれたデモ隊が国会、首相官邸を取りまき、全学連主流派が国会に乱入するなか、条約成立に政治生命をかけた岸首相は官邸にこもり自然成立を待ちます(約1ヵ月後の新条約発効をみて退陣表明)。
自然成立は深夜0時でしたが、NHKラジオは秒を刻む針の音を放送、うろ覚えですが「ただいま、日米安保条約が自然成立しました」とのアナウンスを聞いたものでした。
・ 条文も読まず、熱に浮かされて
ここに意味深で重要な指摘があります。デモに参加した夥しい人たち、わけても全学連のデモ隊のほとんどが、そもそも日米安保条約の条文を読んでいなかったし、内容を知らなかったというのです。
これには信ずべき証言が多数あります(加藤 紘一・元自民党幹事長ほか)。とするとあのデモ騒ぎはそもそも何だったのでしょう。
メディアは岸首相が戦前の東条 英機内閣の閣僚(商工大臣)であったことを執拗に攻撃しました。これにより、岸個人に対する嫌悪感が反安保闘争をより先鋭化させたのは疑いありません。少し不謹慎な書き方をしますと、岸の歯並びの悪さもかなり影響していたと思います。現に私の周囲で話題になりましたから。
メディアの扇動とともに、熱に浮かされたように「アンポ ハンタイ」を高らかに唱え、大学生たちは塀を乗り越えて国会に突入、瞬間にせよヒロイズムに浸れます。文革時の紅衛兵と似た心持ちだったのかもしれません。
このときの全学連指導者の一人、西部 邁の「バカ騒ぎだった」とする総括が的を射ているのでしょう。
話を戻しますと、日米安保条約を成立させた岸 信介首相に対するこのときの怨念が、岸を祖父に持つ安倍政権(2006年9月発足)に向い、“反安倍機関紙”になったというのですから驚くと同時に呆れもしました。
朝日OBの本郷がいうように、部外者である私にはこのような組織構造をストレ−トに理解できませんが、一部の人間がこうした怨念を持ちつづけることはありうるだろうとは想像できます。
たしかに「安倍憎し」とばかりに叩いた朝日は尋常ではなく、「週刊朝日」「AERA」まで動員する熱の入れようだったのです。ところが、尋常でないといった程度の話ではなく、安倍叩きは朝日の「社是」だったことが明らかになりましたので、書き加えておきましょう。
〈「安倍の葬式はうちで出す」
安倍内閣当時の、ある朝日新聞幹部の発言だ。〉
2012年8月に発行された『約束の日』(小川 栄太郎、幻冬社)の「はじめに」の書き出し部分です。さらに、政治評論家の三宅 久之の話が披露されます。
〈朝日新聞の論説主幹の若宮 啓文に会った時にね、「朝日は安倍というといたずらに叩くけど、
いいところはきちんと認めるような報道はできないものなのか?」と聞いたら、
若宮は言下に「できません」と言うんですよ。
で、「何故だ?」と聞いたら「社是」だからですと。
安倍叩きはうちの社是だと言うんだからねえ。社是って言われちゃあ・・〉
論説の要である論説主幹の正直といえば正直な言だけに、民主党が大敗、2012年12月にスタートした安倍復活内閣を、やみくもに叩きつづけるのは確かなことでしょう。
若宮といえば竹島問題について、「例えば竹島を日韓の共同管理にできればいいが、韓国が応じるとは思えない。ならば、いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する。」と紙面に書いた「良識ある人物」ですし、また自著『和解とナショナリズム』(朝日選書)が中国で翻訳出版された際、中国の「外交学会」に出版記念パーティーを開いてもらったといいますから、中国にとって利用価値の高い友好人士なのでしょう。
青山 昌史(朝日新聞・元常務取締役)は講演(2006年)で、「朝日社内で地位を獲得する条件は左翼である」としていますので左翼偏向は当分、収まらないことでしょう。読者が愛想をつかし、部数減、広告減などによる赤字がつづき社業が左前、そして給与の大幅カットという状況に至らないかぎり、是正は期待薄と部外者である私は思っています。
例の吉田証言の謝罪以降、朝日の部数が大分落ちてきましたが(前年比、約60万部減)、他紙(とくに読売)も似た傾向を示しましたので、慰安婦にかかわる朝日の体質がどれだけ部数減に影響したのかよくわかりません。例の「押し紙」問題もありますし。これが読者の「愛想づかし」なら、希望が持てるのですが。
(1) 失われた10年
「中国の旅」「天皇の軍隊」が連載された後の約10年間が、私たち日本人の歴史認識にとって大変重要な時だったと思います。反日史観、自虐史観のお膳立てが整った期間と思うからです。
繰り返しになりますが、報道各社はこの間、われもわれもと中国や東南アジアに出かけ、日本軍の残虐行為を聞き出して報じるのが流行のようになりました。某新聞の社会部記者は、「中国の旅」を読んでルポとはこういうように書くものなのかと思ったと私に話してくれました。また、歴史学会、教育界、法曹界なども足並みをそろえ、過去の日本の糾弾に走ったのでした。
これらの山をなす報道や解説のもと、私たちの「歴史イメージ」は急速に形づくられていったのです。
この10年の早い時期に2つでも3つでもシッカリとした検証を行い、虚偽や誇大なものについて警告を発していれば、この種の報道にブレーキがかかったのは間違いなかったと思うのです。平成に入ってから浮上した「従軍慰安婦問題」もおそらく避けられたことでしょう。
ですが、検証はごく一部を除いて行われず、報道を野放しにしてしまいました。ですから私はこの10年間を歴史認識にとって、取り返しのつかない「失われた十年」だったと残念に思います。そして、「教科書誤報問題」が発生、これを契機に教科書は残虐事件であふれるようになったのです。
(2) 教科書誤報事件と「近隣諸国条項」
教科書誤報事件というのは、高校用歴史教科書の文部省検定で、検定前教科書に「侵略」とあった記述を「進出」に書き換えさせたという非難でした。1982(昭和57)年のことです。
この出来事をキッカケにして、「近隣諸国条項」が検定基準に加えられ、学問的に裏づけのない残虐事件が事実上、フリーパスとなりました。
ですが、書き換えという事実はなかったのです。しかし、ソレッとばかりに中国にご注進におよんだわがメディアがあり、中国(それに韓国)が日本の報道を根拠に抗議を突きつけてきたのです。
上の写真(1982年6月26日付け、朝日新聞)は検定結果をつたえたもので、
“文部省 高校社会中心に検定強化”
"教科書さらに「戦前」復権へ"
"古代の天皇にも敬語"
といった見出しが、朝日の苛立ちをよく表しています。
朝日は「検定」そのものに反対していました。もっとも、朝日だけではありません。ほとんどのメディアがそうでした。検定に反対すること自体は一つの見方ですから、とやかくいう必要はないでしょう。
問題は、検定に反対というより、朝日にとって気に入らない教科書記述は、文部省に代わって朝日が検定を加えているところにあります。しかも、外国の圧力を背景に声高な「朝 日 検 定」となれば、批判されなければなりません。
「道徳教育」の導入などと政治家や文部省の役人が発言しようものなら、戦前の「修 身」復活を画策しているなどと叩いたものでした。道徳には公衆道徳も含まれているはずなのに、なんでも反対するものだと不思議に思ったものです。
「侵略⇒進出」問題に話をもどしますが、報道は明らかな誤報でこのような例はなかったのです。文部省も否定しました。
ところが、日本の報道を引き合いに、1982(昭和57)年7月26日、中国の第1アジア局長が日本の中国公使に申し入れを行うや、一気に報道が過熱します。
「侵略 ⇒ 進出」が事実であったことを前提にしての大報道でした。そして、間違いを産経新聞が認め、読者に謝罪するまで騒ぎがつづきます。
問題なのは、たび重なる中国・韓国の強硬な抗議に、鈴木善幸内閣は膝を屈し、
〈 ・・・教科書記述については、
中国、韓国など近隣諸国の批判に十分耳を傾け、
政府の責任において検定を是正する。〉
との宮沢 喜一・官房長官(後に首相)の談話にもとづき、いわゆる「近隣諸国条項」 が検定基準に追加されたことでした。
これ以降、ほとんどの記述はフリーパスとなり、南京虐殺「30万人」をはじめ、平頂山事件、万人坑、三光作戦など「中国の旅」に載った全テーマが教科書に載ることになりました 。そして、「近隣諸国条項」は今なお生きつづけているのです。
「侵略⇒進出」の見誤り問題は、見誤った記者や記者クラブに問題の根があることは理解できますが、それほど大きな問題ではなかったとも思います。
問題なのは、その後の報道各社が中国や韓国の抗議を期待し、それに便乗するかのように日本軍バッシングを勢いづかせるという、いつもながらのパターンを繰り返したこと、やがてそれが「近隣諸国条項」に結びついたことだと思います。もちろん、日本の為政者の無定見も批判されるべきですが。
ここでは触れませんが、1982(昭和57)年というこの年は「日中国交回復10周年」にあたっていました。このこととこの誤報問題が無関係ではないと思っています。
(3) 家永教科書裁判
教科書の記述内容をめぐっては、「家永教科書訴訟」を引き金に論争になりましたので、簡単にふれておきます。
訴訟というのは、家永 三郎教育大学教授(現在の筑波大学)が1965(昭和40年)6月の第1次を皮切りに2次、3次と提訴したものです。1997(平成9)年8月の最高裁判決(第3次訴訟)によって決着がつくまで、32年間という途方もない時間がかかりました。この間、論争が絶えることはなかったのです。
第1次訴訟(1965)は文部省による検定が憲法で禁じられた「検閲」「学問の自由の侵害」にあたるとしたものでした。
つづく1967年に第2次訴訟、1984(昭和59)年には83年度検定について提訴(第3次訴訟)と訴訟を連発、家永教授が執筆した教科書記述に対して文部省が求めた「南京事件」ほかに関する修正意見が妥当かどうかが主な争点になりました。
大まかな結論はというと、いずれの訴訟も家永側の敗訴に終わり、検定制度を合憲とする最高裁判決で終わりました。
この間、朝日は一貫して家永の主張を支持、家永は革新勢力に祭り上げられ、国家権力と闘う「正義の士」のように遇せられたのでした。
日本軍糾弾の代表として、南京虐殺に関する朝日報道を見ておきましょう。
「侵略⇒進出」問題が持ち上がった翌々年、つまり1984(昭和59)年4月から約半年間にわたり、「朝日ジャーナル」は「南京への道」を連載しました。
報告者は「中国の旅」と同じ本多勝一記者です。連載後、文庫本となって朝日文庫に加えられました。
この連載に歩調を合わせたのでしょう、朝日新聞は「南京大虐殺」を中心に、日本軍の残虐ぶりを執拗に報じました。報道の執拗さは縮刷版を眺めればよくわかります。
「南京大虐殺記念館」の開館が、連載翌年の1985(昭和60)年というのも、とくに大規模になった点で、この連載が影響したことでしょう。
(1) 新 聞 報 道 例
「南京への道」連載と同じ年、1984(昭和59)年の朝日紙面から「南京大虐殺」関連でいくつか例を見ておきましょう。
・ 「語り部」中山 重夫
まず、上写真(スマホ。パソコンでは左端)ですが、「南京大虐殺 目撃の中山老」とした1984年6月23日付のものです。
〈 一兵士として目撃した南京大虐殺を語り続けている東京都江戸川区平井の中山重夫さん(72)の記録映画が近く完成する。この5月、中国の黒龍江大学で講演した模様を中心に、日本での活動などを30分、16_カラー作品にまとめた。戦争の実相を証言する全国反戦行脚を始めてすでに150ヵ所。「死ぬまで語り続ける」という“戦争の語り部”にふさわしく、題名は「中山老の証言」と決まった。〉
とリードで書き、映画の問合せ先も紹介しています。中山は全国各地に足を伸ばし、2年間で語りかけた人は12万人にものぼったというから大変な数です。
中山が語った内容というのは、「陸軍戦車隊の上等兵(修理兵)」として南京陥落時につぶさに見たものだといい、「忘れられないのは南京入城の2日前、郊外の雨花台で見た光景」だったとします。
〈 白旗を掲げて来る中国人を壕の上に座らせては、日本兵が次々に銃剣で刺し殺していく。
一突きでは死に切れず苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。
年寄りであろうが、子どもであろうが見境なしの殺りくが続いた。
「4時間余りも凝視していたでしょうか。それまでは国のため、天皇のために仕方がないと考えていたのが、
その日からはああ戦争はいやだ、と思うようになった。」〉
4時間余りにわたって、年寄りも子供も見境なく殺戮をつづける日本兵。狂っているとしか思えない鬼畜の振る舞いです。
この記事を読んだ600万とも700万ともいわれた朝日読者は身をすくめ、日本軍に限りない憎しみを覚えたことでしょう。
朝日は前年の1983(昭和58)年8月5日付でも中山を取り上げていて、都内の高校に講師として招かれたことなどを記しています。また、毎日新聞も取り上げたそうです。
でもこの話、少々変だと思うのですが。南京入城の2日前(12月11日)といえばおそらく戦闘中でしょう。そのなかを、戦車隊の兵が4時間以上も凝視しているなんて考えられますか。その間、戦車は戦闘に加わらず、ほとんど移動しなかったのでしょうか。
この中山老の話、とんだ食わせ物だったことが判明しています。
まず、中山の所属部隊ですが、上海派遣軍直轄の戦車第1大隊(岩仲 義治大佐)の段列兵でした。段列とは弾薬や食糧の運搬それに修理などが担当する隊ですから後方任務になります。
その戦車第1大隊は、南京城の南方にあたる雨花台方面にはなく、城の東にあたる中山門に向かって麒麟門から隊を進めていたことが分かっています。
それに雨花台は地形に起伏が多いため戦車は使用に適さず、かわって軽装甲車を集めて攻撃に参加させたことなど、南京事件研究のさきがけの1人、畝本 正巳(独立軽装甲車第2中隊小隊長)の調査や資料から明らかになっています。
ですから、中山が「雨花台の殺戮」とやらを見られるはずがありません。
それに12月11日の雨花台付近は激戦中でしたし、戦闘を見越して住民は避難していましたから、子供や老人が白旗を掲げて出てくるなど考えにくいことです。というような次第で、中山老の証言はウソ話しだったことになります。
この記事は間違いであるから「朝日として記事を確かめていただだきたく」という田中 正明(南京事件研究家、故人)の依頼も朝日は完全に無視したのでした。
日本兵の残虐話となると、とにかく朝日は大きく報じます。この手の話を記事するには裏づけが欠かせないとの常識さえも、本多勝一記者同様、朝日記者が持ち合わせていないことをここでも証明しているのです。
・ 都城23連隊
中央写真、左半分にある「南京虐殺、現場の心情」(1984年8月5日付け東京本社版)とあるのは、都城23連隊にまつわるものです。朝日新聞・西部本社の取材によるもので、「日記と写真もあった 南京大虐殺 悲惨さ写した三枚 宮崎の元兵士、後悔の念をつづる」の見出しをとって、西部本社版、大阪本社版は社会面トップで報じました。
「日記」の存在は確認されていますが、ナマ首の並んだセンセイショナルな写真は無関係のものと判明しています。別項に(⇒ 都城23連隊事件)として報告してあります。連隊側の抗議に対してとった朝日新聞社の対応にご注目ください。
・ 土屋 芳雄元憲兵の証言
中央写真の右半分〈 中国での残虐『悔悟の記録』〉は南京事件と関係ありませんが紹介しておきます。左側紙面の23連隊報道と合わせて社会面のほとんど全部を占めているだけに読者のインパクトは倍加されたでしょう。
証言者はチチハル(満州)の土屋芳雄・元憲兵で、彼が自ら実行した拷問、処刑などの「体験」を報じたものです。土屋元憲兵の体験は、この報道以前に地元の山形で報道(新聞、テレビ)されたと記憶します。
テレビは全国放送(日本テレビ系?)されましたので見たのですが、ビデオにとっておりませんでした。ただ後述の「328人虐殺」という数は放送されなかったと記憶するのですが。ただ、土屋憲兵が中国抑留者(= 中国戦犯) の一人であったことは確かです。
1991(平成3)年6月、朝日は「ビデオで残す“加害史”」として、「中国人328人を虐殺した」土屋憲兵と他の中国抑留者2人(富永正三・中帰連会長と永富博道)の証言とともにビデオ化されたことを報じました。
・ 伍 長徳証言
「南京虐殺 教科書裁判に一石」(1984年7月30日付け)は本多勝一記者の報告です。
「一兵卒の陣中日誌と伍長徳証言」とタテ見出しにあるように、日本側兵士の「陣中日誌」と東京裁判の証言者でもあった伍 長徳(巡査)の聞き取りが併記されています。ただし、「陣中日誌」の記録者は提供した遺族の希望で、氏名、所属部隊名が明らかになっていません。
「陣中日誌」の記録と伍証言は、南京城内にある「司法院」における敗残兵摘出とその処置(射殺)に関するものです。司法院の敗残兵摘出は日本側でも確認されている事実です。摘出は12月14日と16日に行われ、「陣中日誌」は前者のもの、伍証言は後者のものと思われます。
前者については日本側記録(中隊の「陣中日誌」ほか)でわかっていて、後者は日本側の明確な記録はない(?)ようですが、伍巡査が連行され、射殺を目撃したことなどは事実で、疑う余地はなかろうと思っています。
ただし、4000人、あるいは2000人といった記述が出ていますが、裏づけのとれた話ではありません。また、「掃射→クシ刺し→焼く」とした見出しからも分かるように、とにかく残虐性を強調するためでしょう、「中国の旅」と同様の書き方だろうと思います。
伍証言については、(⇒ 南京虐殺 9−2)にまとめてありますのでご覧ください。
以上の例だけからもわかるように、わずか1ヵ月の間にこんな報道がつづいたのですから、日本軍の残虐ぶりが日本人に刷り込まれていったのも当然のことと言わなければならないでしょう。
(2) 「南京への道」
実はパラパラと拾い読みする程度で、よく読んでいません。
というのは、内容もやたらに残虐場面を強調した「中国の旅」と大同小異だろうし、読めば不愉快になるのはわかりきったことでしたので。
よく読まないでとやかく言うのはケシカランと批判する向きもあるでしょうから、日本軍に着せられた濡れ衣の例をご覧にいれます。これも「加害者」側のウラづけをとらなかったためですが、本多記者が基本的な資料に当たっていないことを示しています。
・ 「鎮江炎上」のウソ証言
鎮江(ちんこう)は揚子江岸に近い大都市で、南京に進軍する日本軍の通過地点でもありました。鎮江は当時の仙台市より大都会であったと陣中日誌に書いた兵士がいましたし、きれいな都会だったそうです。
その鎮江で起きた大火災が、本多記者の現地取材の結果、日本軍の所業となってしまいました。つまり、日本側の裏づけなしに書きまくった点で、「南京への道」は「中国の旅」と同類というわけです。
江陰を落とした第13師団と常州・丹陽を経て進んだ天谷支隊(第11師団第10旅団)は鎮江攻略にかかり、鎮江突入は12月8日になりました。
飛行機の売り込みを業とするパターソン(アメリカ人)の目撃談がニュヨーク・タイムズに掲載(12月7日付)され、朝日新聞(12月9日)は以下のように転載しています。
〈米国の飛行機売込人I・L・パターソン君は上海を出発し、・・6日鎮江に達し、7日夕南京に到着したが、
同君の談によると戸数2万を有する鎮江は全市火災に覆われている。
そしてこれは支那軍自身の手によって放火されたもので、
日本軍の猛爆撃を免れた目抜きのビルディング街からも
不気味な黒煙が立ちのぼっているという。〉
記事によれば、日本軍突入以前の12月7日には、すでに全市が火災に覆われていて、しかも中国軍自らが放った火が原因であったというのです。つまり、中国軍の定番、清野作戦でしょう。
このほかにもパターソンの目撃談は、同じニューヨ−ク・タイムズから12月7日付けの朝日に転載されていて、同様のことが書かれているといいます。以下は、鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』からの引用です。
〈 いま南京は、国府軍が郊外10マイルの全村落に放った猛火のため、
その避難民、敗走してきた兵隊などによって、大混乱をきわめている。
全戸2万を数える鎮江は全市、火に包まれているが、これは国府軍自身によって焼かれているもので、
私にはまったく無意味の破壊のように思える。まったく物凄い破壊としかいいようがない。〉
これで、鎮江の火災原因は中国軍の放火によるものであり、南京郊外でも同様なことが起こっていたことがはっきりします。同じNYタイムズのダーディン記者も南京郊外の火災について同様のことを書いていますので(⇒ 清野作戦)、清野作戦が広範囲に行われていたことが見て取れるでしょう。
一方、朝日文庫の『南京への道』は、現地の体験者(唐栄発、蔡伝炳ら)の次の“証言”をつたえています。
〈唐さん宅のある中山橋河辺には草屋根の家が200世帯余りあったが、その多くはいなかに避難し、10余世帯だけ残った。9日の正午前に、日本兵たちはこの一帯に放火をはじめた。避難して無人の家はすぐ放火するので、残っていた10余世帯の人々は戸外に出て日本兵をおがみ、焼かないように必死でたのんだ。たのんでも無視されることがあったが、ききいれられる例もあった。ある老人は、放火された自宅がいたましく、消火しようとして射殺された。〉
〈蔡伝炳さんは、日本軍の現れる前に10キロほど西の長山の麓・竜王廟へ避難した。12月10日の朝、村へ様子を見に帰ってみると、約200世帯300数十間のうち約半分が焼かれていた。〉
日付けに注意すれば、証言のおかしさは明らかでしょう。本多記者は大火災発生が日本軍の到着前のことであり、原因が中国軍の放火であったことを一切、書いていません。
おそらく、日本軍の行為という先入観に支配され、現地の証言を鵜呑みにしたための、いわば当然の帰結でしょう。
そして、鎮江火災とこれに伴う住民殺害が日本軍の所為(せい)とほかならぬ日本人が信じ込まされたという次第です。
(3) 藤原 彰元教授の解説
「南京問題」で犠牲者20万人以上を主張する「大虐殺派」の大御所、藤原 彰・元一橋大学名誉教授は『南京への道』に興味深い「解説」をつけていますので引用してみます。
解説はすでに引用した『中国の旅』につづき、この『南京への道』を次のように書いています。
〈1983年11月から12月にかけての現地取材にもとづき、
『朝日ジャーナル』の84年4月13日号から同年10月5日号まで連載され、
87年1月に朝日新聞社から単行本として刊行されたものである。〉
〈『 中国の旅』では、南京事件には16章の中の1章を割いているだけである。
南京大虐殺について右翼から「まぼろし」論や「虚構」論が叫ばれるので、
より詳細な現地調査をすることが、著者にとっての『中国の旅』以来の希望であったろう。
それが実現するきっかけとなったのが1982年の教科書問題である。
82年6月に新聞の各紙が、83年4月から使用の小学校、高等学校の歴史教科書の実態を報道した。
そして「侵略」を「進出」に直させたり、「三一運動」や「南京大虐殺」の記述を修正させたことが、
侵略の歴史の美化だと問題になった。・・
この『南京への道』の第1次取材が行われた83年末は、
まさにそういう右翼の無知蒙昧な反論がたかまっているさなかであった。〉
これからわかるように、「南京への道」は「中国の旅」と同様の「現地取材」 だったということです。日本側の裏づけ取材の不足したルポが、また一つ誕生したのでしょう。そして、教科書問題とも深く関わっていたわけです。
「無知蒙昧」呼ばわりには笑ってしまいますが、感想を一言つけ加ます。
先に書いたように藤原教授は「南京虐殺20万人以上」と主張していることについてですが、20万人とか30万人など2桁万人を主張する人は、量についての感覚がずれている、いわば「数量音痴」「物量音痴」の類ではないかと私は疑うのです。
つい最近、犠牲者40万人という数字を堂々と歴史教科書に書いた東大の先生がいましたが、やはり「量」の感覚が欠けているのではないでしょうか。幸い、他者の指摘で「40万人」は削除されましたが。ごく当たり前の感覚を持っていれば、2桁万人は出てこないですよ。
また藤原元教授が、「百人斬り競争」を事実だと考えていることにも首を傾げてしまいます。本多記者の「あれは据えもの斬り競争で決着がついている」という見方に歩調を合わせているのでしょうが、本多記者のいう根拠が笑わせるのです。
簡単に書きますが、南京攻略戦のあった1937(昭和12)当時18歳、日本にいて「百人斬り競争」を新聞で読んだという鵜野晋太郎という、後に将校になった人の「『据え者百人斬り競争』が正式名称になるべきである」との言を引き合いに、「据えもの斬り競争」の大きな根拠としているのですからたまったものではありません。このような証言が事の存否の重要なカギになるなら、どのような結論だって引き出せます。
そんなことを言っているヒマがあったら、どうして「百人斬り」の現場に立ち会った将兵から「証言」を取ろうとしなかったのでしょうか。「南京への道」連載当時なら、まだ多数の生存者がいたのは間違いありません。ですが、本多記者は決して日本側の証言をとろうとしないのです。
『中国の旅』のときと同様、「中国の代弁をしただけだから、抗議するのなら中国に直接やってくれ」とでもいうのでしょうか。
念のために記しておきますが、鵜野晋太郎は中国抑留者の一人です。
(4) さすが「本多教」
ちょっと横道にそれますが、つけ加えます。本多 勝一記者の「貧困なる精神」は「朝日ジャーナル」に長期にわたって連載されました。やがて本多は定年を迎え、「失業して公共職業安定所へ」のタイトルで「貧困なる精神」を「朝日ジャーナル」に書いています。
同誌編集長の下村 満子はこの号の「編集あとがき」でこんなことを書いています。以下の引用はもちろん原文のままです。
〈 本多勝一さんの人気ってホントすごい。「大好奇心」のインタビューに感激の手紙が続々。
例えば「うれしいよぉー、ありがとうです!
わーい、わーい。へんそうしても好きだーい!」
(小5から『ジャーナル』を読んでいた高2の読者)
「私の最大の願いは、素顔の本多さんを至近距離から激視?し、
本多さんの息遣いを身近に感じながらサインをいただくこと」(44歳の女性。ああ!〉
―1992年1月31日号―
読者欄に目をやれば、〈1月17日号の下村満子編集長の「大好奇心」で本多勝一氏の人間像の一端がくみとれ、非常にうれしく思ったものです〉という79歳の元教員の投稿が載っています。文字どおり、老若男女の熱狂的な人気、さすが「本多教」といわれるだけのことはあると感心したものです。
さて時が流れ、やがて左翼の独りよがりの主張などは見向きもされなくなるにつれ、「朝日ジャーナル」は部数を大幅に減らして赤字続き。記憶なので、(?)をつけておきますが、年間赤字が2億円程度ではなかったかと思います。そして廃刊(休刊?)。
ですが朝日の規模から考えれば、数億円程度の赤字はそう大したことではなかったはずです。ですから、廃刊に踏み切ったのは、左翼ジャーナリズムのシンボルのように見られるようになった「朝日ジャーナル」の存在が、朝日本体の販売部数にマイナス影響があると判断したのでしょう。
とすれば、筋を通すというより、ここでも商売優先の本音が出たといえるのかもしれません。
慰安婦問題イコール朝日問題だといってよいかもしれません。朝日は終始、この問題に多くの紙面を割き、世論をリードしてきました。また、N H Kも負けていませんでした。来る日も来る日も、「従軍慰安婦」「従軍慰安婦」と書き、放送したのはつい先日のことです。
慰安婦問題が大きく報道されるようになったのは、1991(平成3)年12月、元従軍慰安婦だったという韓国人女性が東京地裁に補償と謝罪を求めて提訴したことに始まります。この提訴に先立ち、1991年8月11日付けで、朝日記者はこの女性を記事にしていますが、知りながら肝心なことを隠したと非難される事態が発生しました。
また、偽証と証明された「強制連行」の証言者、吉田清治についての報道など、問題は山積みしています。
これらの代表的なものを拾って、「従軍慰安婦問題」に概略をまとめましたので、(⇒「従軍慰安婦」問題を検証する)他をご覧ください。
・ 第1審判決
ご承知のように2008年3月28日、沖縄の集団自決問題の判決がありました(写真は同日付け朝日新聞)。
大戦末期の沖縄戦で、座間味島・渡嘉敷島の両島を守備する隊長(2人)が、住民に集団自決を命令したなどと大江 健三郎の『沖縄ノート』(岩波、1970年)で書かれ、しかも「集団自決を強制したと記憶される男」などとされたため、元隊長本人ともう一人の隊長の遺族が、出版差し止め、損害賠償を求めて提訴していたものです。
第1審の大阪地裁判決は、集団自決の「軍命令に根拠」があるなどとして、原告側の請求を全面的に棄却しました。ですが、この判決、事実認定も論理も偏った見方と思います。
遺族が厚生省の一時金や年金を確実に受給できるようにするため、隊長が軍命令という形をとることを了承した ことは、いろいろな証言から明らかになっているはずです。
元隊長側が控訴しましたので、審理の行方を見守ろうと思います。
判決の翌日、3月29日付けの朝日社説は、タイトルを〈集団自決判決―司法も認めた軍の関与〉 としているのに対し、読売社説のタイトルは〈集団自決判決 「軍命令」は認定されなかった 〉 とし、重点の置き方に明らかな相違を見せています。
・ 第2審判決
2008年11月1日、大阪高裁で控訴審の判決があり、同高裁は1審判決を支持、原告側の控訴を棄却しました。
判決は両元隊長の自決命令について、「証拠上断定できない」としたものの、「総体として軍の強制や命令と評価する見解もありうる」という、1審になかった見解を加えました。
そして、「遺族が遺族年金を受け取れるように、隊長命令があったことにした」などとする原告の主張をことごとく退けました。
では、曾野 綾子が現地で丹念な取材をした結果、渡嘉敷島の守備隊長は「自決するな」 と制止する側に回った事情などを書いた『ある神話の背景』(文藝春秋、1973年)の記述は一体、どうなるのでしょう。
また、座間味島の場合も同様で、守備隊長が住民に生き延びるように説得したと、沖縄県史は訂正したとのことですが、これはどうなるのでしょう。
遺族が年金を受け取れるようにと、2人の守備隊長が「お世話になった村のために」と自決命令を出したことにした事情は、多くの証言があります。
これら原告の言い分を退け、控訴棄却の判決になったことは、私は理解しがたいことだと思っています。現地の取材もないままに、大江健三郎は隊長を「鬼隊長」「屠殺者」「ペテン」などと誹謗しているにもかかわらず、名誉棄損に当たらないというのですから。
いまや、法的には最高裁の良識ある判断に期待するしかありません。
参考のために、朝日、読売、産経の社説を掲げます。
・ 最高裁、上告棄却
2011年4月21日、最高裁第1小法廷は原告側の上告を棄却したため、大阪高裁の2審判決が確定しました。2005年8月の提訴から6年目にして裁判は終了しました。沖縄の2紙はお祭り騒ぎのような紙面だったとのことです。