[検証] 撫順炭鉱・万人坑

―朝日がつたえた「ヒト捨て場」―
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 撫順炭鉱を最初に取り上げる理由は以下のとおりです。

 @ 万人坑の数が30ヵ所〜40ヵ所、犠牲者25万人〜30万人という最大規模であること。

 A 撫順炭鉱は国策会社・満鉄が経営する満州最大の炭鉱で、日本人従業員は万を超えていました(1944=昭和19年9月末、約1万3千人)。
 ですから、私が調査を始めた1988(昭和63)年頃でも、千人の会員を持つ社友会「東京撫順会」を筆頭に、採炭所別にも会がありました。
 これらの会をとおして元従業員を中心にその家族、撫順市に居住経験のある市民にも話を聞くことができたこと。また「東京撫順会」が独自に調査に加わり、調査結果を公表していること。

 B 他と比較しての話ですが、統計資料が多く残っていること。

 C 他の炭鉱や鉱山の開発は満鉄撫順炭鉱が出資、同時に技術者を送り込むケースが多く、したがって、のちに独立した炭鉱、鉱山は、従業員(工人含む)の管理方式が撫順炭鉱とよく似ていること。つまり撫順炭鉱の管理、とくに人事管理を知っておけば、他にも応用できること。

 ・ 中国の新聞が報じた撫順炭鉱万人坑

 下の画像、2015年3月3日付け「遼寧日報」をご覧ください。
 遼寧日報社のホームページからとったため、不鮮明で読みにくいのですが、見出しから「撫順市社会科学院」の撫順鉱区に関する最新研究であることがわかります。


 大見出しは、比較して大きい万人坑が8ヵ所あり、死者数は30万人近いとしています。また、人骨写真の下(左側)の小見出しには、36ヵ所の万人坑があり、うち8ヵ所が大きなものだと説明しています。
 となれば、残る28ヵ所(36−8)の万人坑の死者数を数えれば、10万人程度(あるいは以上)にはなるでしょうから、合わせれば約40万人の犠牲者が出た計算になります。

 後述しますが、撫順炭鉱は最大規模の万人坑現場がある(はず)にもかかわらず、発掘した痕跡もなく、また今日まで写真一枚、公表されていません(私自身、一枚も見ておりません)。したがって、この日報上のカラー写真が私が見た最初のものという次第です。

 記事には、何ヵ所かの万人坑について説明があるのですが、不鮮明なうえ当方の語学力では正確なところはわかりません。名称、大雑把な位置の説明がある程度と思われます。
 例えば、代表的な採炭所である「老虎台採炭所」に万人坑が2ヵ所あったとあり、その位置を「老虎台砿南」の「900米」と「1300米」とし、名前(地名?)が書いてあり、多分、短い説明が加えられているのでしょう。

 紙面左にある人物写真は「老虎台砿原砿長」の王金生、その下の写真は「老虎台砿工人住宅区 1921」と説明があります。ですから、この老虎台採炭所の万人坑がこのレポートの中心なのでしょう。
 あるいは、人骨写真はこの採炭所のものとの説明があるのかもしれません。
 後述のように、「万人坑など観念の上に描いた空中楼閣である」と一喝した塚本 均は、この「老虎台採炭所」の長期にわたる勤務者でした。

 もう一つ目についたのが、週刊朝日に掲載された「防疫惨殺事件」関連の万人坑です。
 この事件は文庫本、単行本『中国の旅』(ともに朝日新聞社発行)に収められています。事件については検証済みで、デッチ上げであることは証明されているはずです。
 この「事件」による犠牲者が万人坑を形成したとは初耳でした。リンク先は次項に記してありますので、ご一読ください。
 記事の大意は、〈1943年、コレラ(霍乱)流行時、日本人は「隔離区」を設置」し、ここで1000人以上の病人(患病)が出、日本人が南山に建てた「焼人炉」による大量の死体のため、万人坑を形成した〉としています。

 現地の日本語新聞「満洲日報」の当時の記事は、コレラ流行での死者は22名(真正患者82名)と報じています、それが1000名、しかも一部(?)とはいえ生きたままに「焼人炉」で殺害、それが万人坑になったなど、まったく「なんでもあり」の世界かと、怒る気もしません。
 とにかく、でっち上げであるのは、「鉄証山の如し」で答えはハッキリしています。
 なお、『中国の旅』によれば、事件を1942年としていますが、ここでは1943年と訂正されています。

 ・ 中国の新聞が報じた阜新炭鉱の万人坑

 もう一枚、ご覧ください。
 この画像も2015年8月16日付け「遼瀋晩報」からとったものです。
 犠牲者7万人(11万人とも)といわれる阜新炭鉱万人坑(遼寧省阜新市)の発掘現場に建つ記念館が老朽化のため建て直し、完成をもって報じられたものです。盛大な式典が行われました。


・ 撫順炭鉱、阜新炭鉱の万人坑と平頂山事件

 以下、撫順炭鉱の万人坑について記しますが、阜新炭鉱の万人坑もまた、「巨大なウソ」であると断言します。
 阜新炭鉱についての資料が少ないのですが、撫順炭鉱の万人坑と平頂山事件(1932年9月)を参考にすれば、阜新炭鉱の万人坑が虚偽であることが理解しやすくなります。

 というのも、平頂山事件にかかわったとされて刑死した久保 孚(くぼ とおる)を軸に検討すれば、ことの次第が明らかになるからです。
 久保 孚は東京帝大工学部出の技術者(工学博士)で、たまたま平頂山事件当時、撫順炭鉱の炭鉱次長の職にありました。炭鉱長(伍堂卓雄)は旅順にいることが多く、久保が実質的に撫順炭鉱の最高責任者だったのです。

 その久保は、平頂山事件の責任を問われ、戦後に行われた国民政府軍の軍事法廷(瀋陽裁判)で有罪となり、死刑に処せられました。事件の責任は軍部にあったのですが、久保をはじめとする炭鉱人がトバッチリをうけたのでした。

 また、久保は終戦時、阜新炭鉱の炭鉱長でもありました。ですから、阜新炭鉱の万人坑が事実とすれば、久保の責任が問われて当然でしょう。しかし、撫順炭鉱の万人坑にしても、阜新炭鉱の万人坑にしても、労働者虐待の罪等で何の罪にも問われませんでした。
 それどころか、「万人坑」の存在自体、指摘されることもありませんでした。また、日本人労働者のだれ一人として、万人坑が存在したと証言する人は出てこなかったのです。
 このホームページで、阜新炭鉱を取り上げませんが、電子書籍に記しました。興味をお持ちの方は電子書籍『中国の巨大なウソ「万人坑」―歴史戦にまた敗北か』をご覧ください。 価格は215円。 ⇒ こ ち らからどうぞ。

1 思い込まされた大いなる誤解


 現地の労働者(工人=こうじん) の処遇について、撫順炭鉱だけに限らず大変な誤解があり、この誤解を前提に結論を導くと大きな誤りを犯してしまいます。
 現地の労働者が日本軍や警察、あるいは炭鉱の人たちによって常時監視下におかれ、行動の自由を奪われていたと考えたら大変な誤りです。万人坑を事実という前提に立って考えれば、このような中国側の説明に疑問を持てないでしょう。
 そして朝日などのメディアが報じるままに、炭鉱労働者の多くが「強制連行」され、家畜以下の酷い扱いを日本人はしたのだと、私たちは思い込まされ、思い込んでしまったのです。

 1例として、単行本、文庫本『中国の旅』 をお持ちの方はぜひ、「防疫惨殺事件」 をお読みになって下さい。
 矛盾だらけの実にバカバカしい話で、少し考えればわかりそうなものですが、これが信じられてしまうのです。その結果、当時の日本人は悪逆のかぎりをつくしたというイメージがさらに膨らむことになります。
 そのアホくさい「防疫惨殺事件」の検証は(⇒ こちら)をご覧ください。

 現地労働者が身体の自由を束縛されることはありませんでした。山東省などから来た出稼ぎ労働者(家族持ちも多し) は炭鉱内の社宅を住居とし、近所から働きにくる現地労働者は手弁当で炭鉱内の各採炭所に通っていたのです。
 市街地から炭鉱内の各採炭所まで電車が通じていて、1等、2等と車両の区別はありましたが、日本人、現地人は同じ電車に乗って通勤していました。
 それも日本人全員が1等に乗る資格があったわけではなく、勤務経験の短い従業員など2等に乗る人も少なくなかったのです。
 また、一般労働者を監視するため、社宅を高圧電流の鉄条網で囲み、監視員を配置していたなどはありませんでした。鉄条網で囲まれた宿舎の写真が残っていますが、これは日本側がいう「匪賊」、つまり敵の襲撃から日本人、工人を守るためのものだったのです。

 日本人=悪 という先入観でこの写真を見れば、現地労働者虐待の証拠ととってしまいます。
 ですから、先入観をできるだけ取り除く努力が必要なのです。こうした社宅写真は治安が悪かった満州事変(1931=昭和6)前後のもの、治安のよくなる昭和10年頃には自然消滅していきました。
 これとは別に一時期、「特殊工人」と呼ぶ共産八路軍の捕虜などに使用する宿舎は有刺鉄線で囲まれていました。「特殊工人」については、 ⇒満州への強制連行をご覧ください。

 もちろん、監視員が眼を光らせるなかで、労働者が採炭作業などに従事した事実もありません。「そんなことができるわけがない」「一体、どれだけの監視員が必要になってしまうか」とは、私が言うのではなく複数の炭鉱人が指摘したことでした。
 また、社宅の出入りは自由でしたし、市内に出かける自由もありました。社宅内にある売店は炭鉱側が一括仕入れするなど、比較的安価であったため、日常の買い物は間に合ったと聞いています。

(2) やめたい時にいつでもやめられた
 炭鉱によって直接雇用された工人はもちろん、把頭(人夫頭)のもとに一括採用された工人(請負工人)も、ともに炭鉱をやめるやめないの自由がありました。やめたければ好きなときにやめることができたのです。
 ですから、採炭夫などは少しでも待遇のいい職場があればその方に移ったため、炭鉱側にとって定着率の悪さが頭の痛い問題でした。一度やめたものの、また舞い戻ってくるケースも結構あったと資料に出ています。

 というようなわけで、中国の言うがままに事実が曲げられているのです。
 賃金一つとってもそうです。食っていけないような賃金ではなかったし、そのような低賃金では労働者が集まらないと炭鉱人がいう通り、残っている統計数字がこのことを証明しています。
 傷病に対して手当てもろくに行われなかったなどは、炭鉱側を調べようとしないから勝手放題のことを書くのです。住宅についても同じこと、暖房(オンドル)のない工人宿舎など、建設が間に合わない一時期を除いてありませんでした。ましてムシロのテントなど作り話なのです。

(3) 逃げ出そうと思えば・・
 炭鉱の扱いがそんなに酷いのであれば、さっさと逃げれば済むはずです。炭鉱の夜は広大な闇の世界です。いったん闇にまぎれれば、探し出すことなんて困難です。
 大量脱出でもなければ、警察が捜査することはありませんでした。軍(満州独立守備隊) にしたって、治安が悪かったときでも250余人、鉄道路の確保、ゲリラに対する対処などで手一杯だったのです。

(4) 入所試験があった
 工人を採用するのに試験があったと書いたら、信じられますか。多分、信じないでしょう。ですが、事実なのです。
 主に体格検査と知能検査で、1937(昭和12)年の統計では、3万2,000人が応募、75%にあたる2万4,000人が合格、25%にあたる8,000人が不合格になっています。
 つまり、4人に1人は振り落とされていたのです。この一事も多くのことを教えてくれていると思うのですが。

2 調査結果の概要


(1) 見た日本人が一人として現れない
 「万人坑は存在せず」と確信が持てた段階で、南満鉱業と合わせて月刊誌「正論」に調査結果を発表しました、この時点での撫順炭鉱の調査人員は約40人でした(この後も調査をつづけ、約90人から証言をとりました)。「万人坑は存在せず」と判断するに至った要点を書き出しておきます。

@ 万人坑(ヒト捨て場)を見たという日本人は1人も現れず、万人坑の存在を全員が否定したこと。また、粗末な食事、病気、ケガの手当てなど、報じられた類の労働者迫害は強く否定した人が多かった。

・ 塚本 均書簡
 上述したように、当時の状況を詳細に知らせてきた塚本 均の書簡(1989=平成元年9月15日付け)を紹介します。


 書簡を寄せてきた平成元年、塚本は72歳でした。
 1935(昭和10)年に撫順炭鉱入社。以来、代表的な坑内掘り採炭所である老虎台(ろうこだい)採炭所で現場一筋、終戦まで勤めました。
 終戦後も国民政府軍の統治下、中国人の「仕事の教授役」として技術職を中心に「必要最小限」の炭鉱人(といっても千人超)が、「留用」(りゅうよう)となり、他の仲間が祖国に向かうなか、塚本も留用者の1人として炭鉱に残り、現場で指揮をとりつづけました。
 敗戦国の国民となったため、指示するのも遠慮しながらだったと留用者はいいます。
 塚本は「万人坑など観念の上に描いた空中楼閣である」 と一喝、次のように記しています。

〈撫順炭鉱は世界に冠たる保安行政を実施してきた。
その撫順の現場の実権を握って、日夜奮斗してきていた吾々としては、
撫順炭鉱は中国人労務者を(苦力を)人権無視して、
その生命を軽んじた作業をやっていたかの如き偏見に対しては、あきれてものが言へず、ただ残念の一語です。
 万人坑という坑内があり、そこに使い捨て中国人を捨てる「ヒト捨場」等、噴飯物でただ驚くばかりであります。
 満州に於ける、この種の報告は、少くとも現在70才以上の年令の人で、
その仕事の中枢をあづかって奮斗した人の記録、証言でないと、信用出来ないと思う。
 中国人は勝手なことを言う。彼等の言葉を信じて、推論しては大きな誤りをおかすということを忘れてはなりません。〉


A 30ヵ所もあったというのに、場所が1ヵ所として特定されてない。
 ですから、発掘跡はもちろんありません。中国はどう説明しているのでしょう(後述)。

B 「万人坑」という言葉を戦前から知っていた人は1人もいなかった。

C 敗戦とともに責任者を含め炭鉱を逃げ出した職員、家族は、守備隊を満期除隊して炭鉱職員になったなど特別の事情があった数例を除いて存在せず、ソ連、中共軍、国民政府軍の占領下、秩序を維持しつつ、ともに苦しい生活を耐えた。
 また、北満州の各地からの避難民は撫順を避難地の一つとし、約4万人が生活の場とした。これも撫順が比較的、安全な地と判断したからにほかならない。万人坑が事実なら、こんな危なっかしいとことろを避難地に選ぶはずがない。

D 事実なら起こったであろう日本人に対する「報復殺害」は起こらなかった。ただし、略奪目的の大規模な「暴動」は市内で1件、採炭所で1件確認されたが、人的被害は1人と少なかった。ただし、全部を調べたわけではないので、調査漏れはあったと思っています。

E 国民政府下で行われた満州唯一の法廷、瀋陽裁判で、万人坑にかかわる容疑で捜査はなかった。したがって逮捕者は1人もでなかった。
 このことは終戦13年前、撫順炭鉱を舞台に軍部が起こした「平頂山事件」に関し、「日本人は中国人対して血債がある」と当時の華字新聞が報じた影響もあって、事件の捜査が行われ、逮捕、裁判、7人の死刑判決へと進んだことと比較すれば、明らかにおかしなことでしょう。この事件関係者以外の炭鉱人で、有罪になった人は1人もでなかったこと。

 などを報告の骨子としました。
 東京裁判で万人坑が問題にならなかったことについては、基礎知識不足のために書けず、ソ連、国民政府、それにアメリカから言及がなかったことなどについても、ほとんど触れられませんでした。
 また、撫順監獄に収容された日本人戦犯と関係する考察は、これも知識がなかったため書けませんでした。

 この調査報告に対し朝日・本多勝一記者は「正論」誌に反論を寄せ、私を「売国奴」だの世界に恥をさらしている「右翼国粋主義者」だのといい、調査を「かなしい調査結果」 だとし、頭から否定したのでした。また「調査人員が少ない」ともいいます。
 ですが、否定する日本側を調べてみるとは、本多は一言も発しないのです。いやしくも新聞記者というのなら、どちらが真実か、何が真実か自分で確かめようとして当然でしょう。
 ですが、本多記者は「超多忙」だといい、遠くから批判したり罵声を浴びせても、決して日本側の調査をしようとはしないのです。朝日新聞にしたって同様で、今日まで知らぬ顔で無視しつづけてきました。

(2) 東京撫順会が全会員調査
 「調査人員が少ないというのなら、全員に聞いてみようではないか 」 と本多記者の言い分に反発、立ち上がったのが、最大の会員を持つ全国組織「東京撫順会」でした。


 会員は炭鉱職員を中心に家族、撫順市に居住するなど撫順と関係のあった人たちも含まれています。
 同会は1990(平成2)年9月、例会の案内状に私と同じ質問を記したアンケート用紙を同封、全会員ちょう度1000名(消息不明者も含む)に発送しました。
 例会への出欠回答のあった550人のうち469人から、以下のように回答が寄せられました。

見たことも聞いたこともない ・・445人(94.9%)
見たことはないが、聞いたことがある ・・・ 12人
見 た ・・・ 1人
白 紙 ・・・ 10人
 などでした(上写真は調査報告を報じた1990年12月4日付け産経新聞)。
 同会では、「見た」「見たことはないが聞いたことはある」とした答えを重視、電話や往復ハガキで再調査をしました。

 このなかで、「見 た」と答えた人は、
 「終戦の1、2年前、撫順の新屯公園付近で、犬や鳥に食い荒らされている10数体ほどの死体の投棄場を見た。近くに共産ゲリラの宿舎があり、そこで病死したゲリラの死体ではないか」 としています。

 「見たことはないが、聞いたことがある」とした12人のうち、中国に長期残留していた4人は、「階級教育などで聞いた」(2人)、「解放軍から聞いた」(1人)、「展示館で聞いた」(1人)とし、残る8人の1人は「中国人の死者の共同墓地が各所にあり、それを万人坑というのではないか」とし、3人は「聞いたように思うが、はっきりしない」と答えています。
 なかには、平頂山事件と混同した人もあり、「聞いたことはあるが過去にこだわりたくない」とした答えもありました。
 この調査結果、資料等を添え、同会の会長(庵谷 磐)は朝日新聞社に赴き、抗議とともに記事撤回、『中国の旅』 の回収などを申し入れました。抗議に対する朝日の回答は後述いたします。

(3) 統計は30万人を否定
 中国は犠牲者30万人以上といいます。そこで、撫順炭鉱に残る統計資料のなかから、「死傷者統計」をご覧にいれます。
 下画像は「撫順炭鉱統計年報」 のなかの一つ、「傷 害 及 扶 助」 とした統計(278、279ページ)で、明治40(1907)年度から昭和16(1941)年度までの35年間が調査対象期間になっています。

 ただし、昭和16年度(一番下)はいずれも空欄ですので、実際に分かっているのは昭和15年度までの34年間ということになります。昭和16年度以降は日米開戦後のことで、多くの炭鉱人も応召したため、手が回らなかったのではと説明する炭鉱関係者が多いようです。
 下のページを見ますと、「死 亡」とした欄(赤いマル印)があり、「計」「日 人」「満 人」の3つに内訳されています。右(または下)ページの方は、左から「入 院」「休業通院」「就業通院」となっていて、それぞれが「計」「日人」「満人」とに分かれています。


 重要な数字の載る左ページの下欄を拡大したのが下画像です。


 少し説明を加えますと、右側の赤で囲んだ3欄の数字は、左から昭和15年度の死者合計(293名)、日本人の死者(9名)、中国人(満人)の死者(284名)となります。
 左端の赤で囲んだ「9,694名」というのは、統計的にさほど意味のある数字とは思えませんが、次のように計算されています。
 つまり、死者合計(293名)に、右ぺーじの昭和15年度の入院者数959人(日本人73、満人886人)、休業通院者数6,784人(日本人238人、満人6,546人)、および就業通院者数1,658人(日本人355人、満人1,303人)を合算したものなのです。
 この表から読みとるべきものの1つは、中国人労働者に対しても入院措置がとられていたことで、就業しながら通院していた労働者もたくさんいたことです。

@ 死者累計、6,006人
 まず、撫順炭鉱で何人の死者が出たのでしょうか。「死 亡」欄を見ますと、はじめて死者がでたのは明治43年度(上から3番目)で、満人21名、日本人(=日人)7人と出ています。
 上から下まで34年間分を足し合わせますと、満人 6,006人、日本人 138人 になります。

 つまり、撫順炭鉱創業以来34年間で、中国人労働者(= 満人) の死者が6,006人であったことがわかります。ですから、年平均で180人弱となります。
 また、最大の死者を出したのは、大正5(1916)年 で、死者は日本人28人、中国人1,098人、計1,176人 となっています。
 これらの数は中国が主張する「犠牲者30万人以上」 とかけ離れすぎます。炭鉱側の数字操作でもないかぎり、中国は根拠不明の政治的数字をもって、とんでもない言いがかりをつけていることになるでしょう。

A 統計は信用できる
 では、これらの数字、信用できるのでしょうか。結論を言えば信頼性は高いと判断して間違いないものと思います。
 例えば、上に記したように最大の年間死者を出した大正5(1916)年、大事故が起こったことは、手元の「世界年表」(三省堂、1976年初版)に短いながら、〈 満鉄経営の撫順炭鉱で炭塵爆発おこる :死者917名 〉と出ていて、炭鉱側の統計数値とつじつまがあっています。

 炭塵に爆発性があって大惨事を招くことは大正5(1916)年、6年当時は世界的にまだ分かってなく、この後の大正の中期、後期を経て少しづつ分かってきたようです。また、爆発を誘因するのはメタンガスの存在です。
 撫順炭鉱の炭層はこのメタンガスを多く含んでいました。ですから、炭塵爆発の起こりやすい炭鉱だったといえます。
 したがって、大規模な爆発の起こった年は死者数が突出します。例えば、昭和3(1928)年度の死者873人(日本人8人、満人965人) も、おそらく炭塵爆発による大惨事の結果なのでしょう。

 一方、死者に対する慰霊際が毎年行われていました。また死者が年平均で180名弱というのも、次の「満洲日報」(1932=昭和7年8月12日付け)の記事が裏づけています。

〈撫順炭鉱では恒例により16日(旧盆)午前9時から、
御霊ヶ岡殉職社員追悼碑前に於て盛大なる追悼会を断行する由であるが、
今回の新仏は邦人2名、華人111名の計113名で、当日は在住遺族230を招き、
炭鉱並に日満市民多数参列の上、仏式供養を営み、
終って遺族には折箱入りの供物を、参拝人には銭撒き供養が行わるることとなっている。
尚去る明治40年4月撫順炭鉱創始以来の殉職者は、今年で4,995人に達し、
1年にざっと200人の殉職者を出しているが、近年は安全デー其の他の方法で、
当局でも極力職員の災厄を少なくするよう努めているためか、
昨年は167人、今年は更に減じて113人に逓減したと。 〉


 という次第で、統計数字は信頼できるといえます。
 したがって、「ヒト捨て場」だの「犠牲者30万人以上」「人肉開発」などとする中国の話が、いかに事実をねじ曲げたものかが証明されているはずです。

B 死者は中国人に集中したのか
 次のような疑問を持つ人がいるかもしれません。それは、危険を伴う作業は中国人にさせていたために死者数が多く、日本人の方は安全な場所で楽をしていたから死者が少なかった、という疑問です。
 「日本人、工人を選んで事故が発生するわけではない。事故はいつ起こるかわからない。だから、炭鉱自身が厳しい保安規則を定め、その順守と改善に懸命に努力してきたのだ」と坑内で働く何人もの日本人から聞きました。

 「撫順炭鉱 坑内掘採炭事業ニ於ケル満人労働者ニ関する調査」という資料が残っています。この資料の「第2号第2編 労働条件」の中に年度別、採炭所別等に、労働時間、賃金などが詳しく記され、「就業延べ人数」もわかります。
 大分前に調べ、本にも載せたものですが、その数値をそのまま引用しますと、昭和14(1939)年の満人の「就業延べ人数」は1307万人、日本人は82万人ですから、比率は16対1となります。この年の死者数(満人250人、日本人12人)の比率は21対1となります。この数字を見ても、さほど大きな開きではなく、中国人労働者の死者が突出していたことにはならないでしょう。

(4) なぜ、保存、発掘がされないか
 各地に今も展示館の建設、増築が行われているというのに、なぜ30ヵ所〜40ヵ所もあったという最大規模の万人坑が1ヵ所として保存も発掘もされずに今日に至っているのでしょう (これから先はわかりません)。
 中国はこの事実をどう説明しているのか、澤地 久枝 の次の一文が 「理由」の一端を教えてくれます。

〈坑夫たちは任意でここを職場とし、あるいは強制的につれてこられて坑夫として労働に従事した。
しかし、病気、過労、凍死、餓死による死者のほか、栄養失調、怪我などで使いものにならなくなれば
生きながら捨てられ埋められる。そういう場所が撫順だけで20から40あったといわれる。
その「墓」は、そこに埋められた死者の数にかかわらず、「万人坑」とよばれ、
特に大きな埋葬地には万人坑の碑を建てたというが、いまはその碑もなくなって住宅が建っているという。
これが「万人坑のあとえゆきたい」という私の希望がかなえられなかったことへの説明であった。(中 略)
その無念の死者たちが眠る場所をすべてなくしてしまったのか、日本人である私への配慮なのか。私にはわからない。〉
―『もうひとつの満州』(1982年、文藝春秋)―


 30も40もあった万人坑の保存は1ヵ所もなく、跡地のすべてが住宅になったというのですが、まともな説明とはとても思えません。それに、あったとする場所も1ヵ所として特定されてなく、写真1枚もでてこないのですから(上記「遼瀋日報」の人骨写真が第1号? これから先、つじつま合わせにいろいろと出てくるかもしれません)。
 この引用文の前段部分は、「中国の旅」の引き写しといってよく、澤地は万人坑の存在自体に何の疑いも持っていないようです。もちろん、炭鉱側を調べたうえでの推定でもありません。
 こうして中国のいうがまま、次から次へと活字になってはもっともらしく広まっていくわけです。

(5) 土葬だったことをお忘れなく
 大量の白骨遺体を見せられ、その死因の説明を中国側から受けると、素直に日本人は信じてしまいます。

 信じてしまう最大の理由は、白骨遺体の出所が中国の説明以外にも可能性があることを、基礎知識の不足のために考えつかないこと、また、そこまで中国がウソをつくとは思いも寄らないからでしょう。
 なにせ、元にさかのぼれば、日本のメディアが疑問を抱くこともなく報道を垂れ流し、学者もまた尻馬にのってはもっともらしい解説を加えて肯定したのですから。

 たしかに、日本に生まれ、日本で育っていれば、こんなケタ外れのウソが存在すると考えなくて当然かもしれません。ですが世界は広いし、中国の歴史は日本の歴史とは違います。また、違って当たり前でしょう。
 それを「同文同種」だの「一衣帯水」 だのと強調され、一方では中国を批判するようなものは、ほとんどのメディアは載せようとしなかったし、事実、載りもしなかったのですから、両者の違いを考える機会が持てなかったのでしょう。

 それに、日本軍の残虐行為はイヤというほど日本のメディアは報じ、学校でさんざん習ってきたのでしょうから、この日本人の残酷な仕打ちについてとくに疑問が起こらなかったとして不思議はないのでしょう。
 当時は遺体など珍しくもありませんでした。死体を埋めた小さな墓地「土饅頭」(どまんじゅう)は車窓からも見えた満州の風景の一つでした。
 俗にいう「行き倒れ」(行路病者=こうろびょうしゃ)という引き取り手のない遺体も珍しくありませんでした。
 中国は土葬であり、火葬は戦後も大分経ってから、毛沢東の主導でしだいに行われるようになったのです(後述の「貧民義地」を参照ください )。

 中国の炭鉱事情はというと、事故が日常茶飯事だったようで、2003年(?)には7,000人以上の死者を出したと中国の国営通信、新華社はつたえています(上画像)。
 別の報道によれば、2004年に6,027人が炭鉱事故による犠牲となり、事故そのもを隠蔽する例も多く、「炭鉱で働くのは貧しい農民などが多く、多少の補償金で遺族は沈黙する。また、遺族に支払う数十倍の金が地元政府幹部の接待や取材記者の口封じのために使われている」 と国家炭鉱安全監察局の関係者の一人の話をつたえています。
 ですから、土葬が一般的であった戦後も、犠牲者の遺体がどう始末されていたのか、ある程度想像がつくでしょう。

⇒ 検証目次 ⇒ 万人坑まえがき