南 京 虐 殺(8−2)

―大虐殺派の主張(その2)―
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3 笠原 十九司・・20万人あるいはそれ以上


 笠原教授は、著書『南京事件』(岩波新書、1997年。下写真)で、以下のように総括します。

〈 南京事件において10数万以上、それも20万人近いか
あるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。〉


 巻末には一覧表として、「日本軍が集団虐殺した中国軍民の数」 が師団別に示されています。
 この膨大な数を主張する根拠は何なのでしょう。将兵虐殺の上限を示す南京守備兵力数、民間人殺害の上限を示すであろうスマイス報告、「南京暴行報告」などと、どう整合するのでしょう。

(1) 虐殺数20万人の内訳
 まず、20万人以上とする虐殺数ですが、軍民別にどう捉えているのでしょうか。
 笠原教授は兵の虐殺数を 「8万人以上」と判定します。
 したがって、民間人の虐殺数を明示してはいませんが、「20万人以上」と「8万人以上」の差、つまり「12万人強」が民間人の犠牲者になるはずです。
 兵の方から見ていきましょう。

(2) 虐殺数8万人以上・・防衛軍15万人

〈わたしは総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再集結し、
約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、
残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する。〉


 とします。

 そして、15万人のうち戦闘兵11〜13万人、残りは雑役を担当した少年兵、輜重兵などの後方勤務兵、陣地工事に動員された軍夫、民夫等々、膨大な非戦闘兵が加わっていたとします。そしてこの数は、

〈豊富な原資料を整理・分析した孫 宅巍・江蘇省社会科学院研究員の
『南京保衛戦史』も、南京防衛戦に参加した中国軍の総数を約15万人としている。〉


 として、自らの推定の確かさを補強します。
 まず、守備兵力15万人の信頼性です。すでに見た通り(⇒7ー1)、日本側の記録(日記類)は10万人、ダーディン記者によれば約5万人、台湾公刊戦史は10万人であって、15万人が突出した数であるかは歴然でしょう。

 南京戦当時、「南京衛戍司令長官部 参謀処第1科長」であった譚 道平参謀が軍団、師別に書き残した兵力数の合計、つまり総兵力は8万1000人でした(⇒ 守備兵力数一覧表)
 8万1,000人の内訳は、戦闘兵4万9000人 、雑兵が3万2000人でした。また死者は3万6500人 、生存者が4万4500人になっていますから、死亡率45.1% 、ほぼ2人に1人近くが死亡したことになります。
 ですから、笠原教授が推定する「戦闘兵11〜13万人」は、譚参謀のほぼ2.5倍 になり、「虐殺者数8万人以上」 にいたっては、総兵力8万1000人が戦死ゼロ、1兵残らず虐殺されてもなお、追いつかない数になってしまいます。常識的に、きわめて考えにくいといってよいでしょう。
 もちろん、しっかりした根拠が提示されていればいいわけですが、総兵力15万人を主張する孫 宅巍の算定根拠がとうてい受け入れられないことは、すでに指摘したとおりです。

 「(笠原教授の主張する総兵力)15万は笠原氏が高く評価する孫宅巍氏の所説そのままであり、 (虐殺数)8万は孫説10万を若干割り引いた数字で、共に笠原氏の算定根拠が示されていない。」

 と板倉 由明は指摘します。板倉の指摘には理があり、算定根拠を示さない説は考慮外においていいはずです。もっとも藤原彰教授は、笠原説を「精密なもの」と評価していますが。

・ 孫宅巍の「南京大虐殺」定義
 参考までに、孫宅巍が来日(1997年)したおり、「南京大虐殺60年国際シンポジュウム」で藤原 彰の質問に答える形で、「南京大虐殺」の定義を述べていますので、紹介しましょう。
 藤原の問い、〈孫先生の「南京大虐殺の規模について」という報告のなかで、範囲はどのようにとっておられるのか伺いたい。これがはっきりすると日本側との間で整合性ができると思うので。〉に次のように答えました。

〈私は南京の周りの県を含めるという笠原先生の意見に賛同する。
しかし犠牲者数については問題がある。
私たちが言っている30万というのは、まわりの6県その他の地域を入れていない。〉
―『南京事件をどう見るか』(藤原彰編、青木書店、1998年)より―


 つまり、「南京大虐殺」は笠原教授の主張するように周囲の県を入れて考えるべきだが、「30万虐殺」は城内と城の周りのごく狭い範囲内で起こったのであり、したがって、周囲の県を含めれば、さらに10万、20万人といった数が上乗せされるというのでしょう。現に中国は40万人、50万人という数を出しています。
 30万人以上が不動の政治的数字であることを考えれば、孫宅巍の研究結果である守備兵力15万人、虐殺数10万人は30万人虐殺説を裏付けるためのものと言っては言いすぎでしょうか 。

(3) 民間人の虐殺数・・12万人以上と推定
 一方の民間人の虐殺数はどうでしょうか。笠原教授は「きわめて困難なのが民間人の犠牲者数の推定である」とします。そして、推定の参考になる当時の資料として、次の3点を挙げます。

・ ラーベの「ヒトラーへの上申書」
・ 埋葬諸団体の埋葬記録
・ スマイス調査報告

 もっとも3点で新書版2ページ足らずの解説ですから、つけ足しの感は否めません。ラーベの「上申書」はすでに紹介してありますので、埋葬記録とスマイス調査報告をとりあげます。

@ 埋 葬 記 録
 「南京の諸埋葬団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8674体になる。」とし、つづけて以下のように書きます。全文わずか4行です。

〈これには戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブリの問題もある。
しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことを考えると、
南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する材料になる。〉


 これで終わりです。
 崇善堂の埋葬記録がデッチあげだとの指摘を完全に無視し、触れようとしません。いくらなんでも、ひどい扱いです。

 ということは、崇善堂記録を事実と認定しているはずですから、ダブリがあるにせよ約18万体のほかに、「揚子江に流された膨大な死体」があったことになり、合算すれば20万人、いや25万人といった死体が存在したことになるでしょう。
 もっとも、こうでもしなければ、民間人12万人虐殺など出てくる余地はありません。自説を補強するのに都合のよい中国側の説を最大限認める、大虐殺派の面目躍如といったところでしょうか。

A ス マ イ ス報告
 スマイス調査報告もわずかしか記されていませんが、都市部と農村部に分けて紹介します。

・ 都市部調査について

〈市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、
拉致されて殺害された可能性の大きい者4200人を算出、
さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害 されたとしている。〉

 とスマイス調査について解説します。
 これをお読みになって、調査報告では、民間人殺害は3,250+4,200+12,000=19,450人であったと思うのではないでしょうか。笠原教授はそうではないというでしょうが、スマイス報告にとくに知識がなければ、こうとる人が多いことでしょう。(⇒ スマイス調査)をご覧になってください。

 調査から得た兵士の暴行による死者2,400人がベイツ教授説の12,000人と大きな差があったため、スマイス教授がベイツ教授説を「注」に書き加えたものです。ですから、12,000人は調査から得たものとは別の数字で、足し合わせできるものではありません。
 それにしても「南京暴行報告」にふれないのは公正ではないでしょう。かたや50人程度の犠牲者、かたや2,400人(または6,750人、あるいは12,000人)の犠牲者というのですから、説明があってしかるべきでしょう。

・ 農村部調査について
 つづいて農村部調査と都市部の調査結果を含めた解釈になります。

〈近郊区では4県半の県城をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出している。
この調査は38年3月段階で自分の家にもどった家族を市部で50軒に1軒、
農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、
犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている
それでも、同調査は当時おこなわれた唯一の被害調査であり、犠牲者はまちがいなくこれ以上であったこと、
および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。〉


 調査では都市部が50軒に1軒、農村部が10軒に1軒のサンプリング調査であるから、「犠牲の多かった全滅家族や離散家族は抜けている」ゆえに、犠牲者は「まちがいなくこれ以上」であったとします。
 この解釈は洞元教授がスマイス報告を取り入れない理由と同じです。ならば、「全滅家族」「離散家族」がどの程度含まれるかという点にはまったく触れません。ただ「多かったはず」というだけなのです。

 そして、「民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる」というのが、スマイス報告から得た結論なのですが、では民間人虐殺12万人以上とする自説にどう影響しているかは書いてありません。
 都市部の12000人(ベイツ説)、農村部の2万6000余人を日本軍によるものとかりに認めても、合計で3万8000人程度。12万人との差はどうするのでしょう。埋葬統計を見ろとでもいうのでしょうか。

 南京城内の150倍にもなる広い調査域(4県半)から得た農村部の数字を、そのまま南京虐殺に加えることの是非、中国軍の「清野作戦」によって、南京の近県が少なからず無人地帯になっていたという点を考慮外におくなど、粗っぽいことおびただしいといわなければなりません。
 スマイス調査報告の前文を書いたベイツ教授は、「(スマイス)博士は調査の方法について全般的な経験を持つばかりでなく、この地域の惨害についてこれ以前にも2次にわたる調査に責任者として参加したのである」とし、調査完成は「博士の比類のない手腕と精力に負うところが大きい」と高い評価を与えています。

 まあ、仲間誉めもあるでしょうが、スマイス金陵大学社会学部教授は、調査経験もある調査の専門家といってよいでしょう。少なくとも素人ではありません。そのスマイスの指導する調査で、洞元教授や笠原教授のいうように、「全滅家族や離散家族は抜けている」ことを考慮することなしに調査を進めるでしょうか。これでは素人丸出しで、スマイス博士も形無しです。
 城外に避難した「全滅家族や離散家族は抜けている」例はあったでしょう。ですが、都市部調査において、前述した「この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表したものであろうし、・・」とスマイス博士が記しているように、全体に与える影響は大きくないと判断していたはずです。
 ですから、農村部調査においても考慮に入れたことは間違いないでしょう。これは単なる推測ではありません。専門家ならごく当たり前に検討するはずだからです。

(4) 城内人口30〜40万人とする怪
 どうにも理解できないのが、城内人口です。笠原教授はこう書きます。

〈中支那方面軍と支那方面艦隊による大包囲網の中には、
南京防衛軍のほかに近郊区には100万以上の住民と難民
南京城区には40万〜50万人の市民および難民がまだ居住し、あるいは避難していた。〉


 この文では、南京城区の人口が40〜50万人と断定していませんが、別のページに「南京攻略戦が開始されたときに、南京城区にいた市民はおよそ40〜50万人であったと推測される」とありますから、城区人口を40〜50万人と判断していたことが分かります。
 では、城内残留者、つまり城内人口を何人と笠原教授は推定したのでしょう。別の著作『南京難民区の百日 ―虐殺を見た外国人』(岩波現代文庫、2005年)によれば、南京残留市民を「30〜40万人」とします。
 根拠は「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」という11月27日のアメリカ大使館の電報だというのです。
 ですが、これより半月後、さらには1ヵ月後の安全区国際委員会の公文書には、城内人口は20万、25万人といくたびとなく記されています。これを無視、軽視し、市長のいう「30万〜40万人」を取るのは実におかしな話で、大虐殺を主張せんがため都合のよい材料だけを拾い集める恣意的論法でしょう。

(5) 「2万件強姦」に至る道筋
 大虐殺派がしばしば見せる論法は、埋葬記録、スマイス報告等を都合よく取捨し、自説を否定する材料に目を背けていることです。
 一方で、「日記」類や「従軍日誌」、検証の難しい「証言」などから殺害など残虐行為を並べ、これに定性的な説明を加えて「15万人、20万人以上」という数が論理的に説明できたように見せ(かけ)るというものでしょう。
 ですが、これでは並べた事柄と「15万人、20万人以上」 とのつながりが希薄であって、ほんの一部しか説明できていません。
 この論法を具体的に確認するため強姦問題を見ておきましょう。「2万件強姦」との結論にいたる道筋が、「20万人以上」と結論づけるた論法と共通点があり、参考になると思うからです。

・ とにかく「日記」「証言」等を列挙
 「入城式後に激発した強姦」と小見出のついた「強姦」の記述は、「入城式がおこなわれた17日前後から城内の強姦が激増したことを、フィッチは日記に記している」とし、以下の日記(「南京日記」)を引用することからはじまります。

〈略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。
ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて千人の婦人が強姦されました。
ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。
別の婦人は5ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。
野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。
抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。〉(12月17日 金曜日)


 37回の強姦なんて考えるまでもなくおかいしでしょう。一体、誰が数えたというのでしょうか。ですが笠原教授は自明の事実と受けとめたのでしょう、何の論評も加えません。それどころか、これが事実であると補強するためでしょう、次のように書き進みます。

 前日の12月16日には「敗残兵狩り」のため、民家や難民収容所に入った日本兵が婦女子を見つけて凌辱する事件が多発。このため、恐怖にかられた婦人が何百人と街頭に逃げ出し、婦女子だけを収容した金陵女子文理学院のキャンパスに逃げ込みます。キャンパスは1万人近い難民であふれかえります。
 そして、学院の教授であり、難民キャンプの開設責任者であるミニー・ヴォートリンの日記が引用されます。

〈12月16日までに、難民は4千人以上にふくれあがり、もう収容限度を越えていると思われました。
・・日本兵たちは若い女性を探しては野蛮にふるまっていました。
・・最高時にはわたしたちのキャンパスに1万人の婦女子を受け入れなければなりませんでした。・・
市内では、12歳の少女も、50歳さらには60歳の老女でも日本兵の凌辱から逃れられなかったのです。・・
女性に対する恐ろしい野獣の行為は、あいかわらず続き、それは安全区においてさえ進行しています。〉


 この日記引用につづいて笠原教授の説明がつきます。
 「17日にも城内で1千件を超える強姦事件が発生したため、18日も恐怖にかられた婦人が助けを求めて街頭にあふれた。ヴォートリンは彼女らを集め、午後になっておよそ500人を金陵大学の構内につれたきた。・・・」

 そして、再びフイッチの日記を引用した後、マギー牧師の日記を引き合いに次のように説明を加えます。

〈入城式後のマギー牧師の日記には、強姦された11歳の少女を病院に連れていく話、
「少女狩り」の現場へ行って18人の少女を救急車に乗せて鼓楼病院に保護する話、等々、
まさに強姦、強姦また強姦の話で埋められ
「まるでホラーの夢でも見ているようだが、目が覚めるとそれが現実だった」と記している。〉


 さらに、ベイツ教授のアメリカのキリスト者に対する手紙に、日本軍の強姦についてこう記しているとし、以下を引用します。

〈有能なドイツ人の同僚たちは(安全区国際委員会委員長ラーベらのこと)強姦の件数を2万件とみています。
私にも8000件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。・・
金陵大学構内だけでも11歳の少女から53歳になる婦人まで強姦されています。
他の難民グループでは酷いことにも、72歳から76歳になる老婆が犯されているのです。
・・実に強姦事件の3分の1は日中に発生した事件なのです。〉


 これらを引用する前に、事実かどうかの検証が必要だとは思わないのでしょうか。
 だって、そうでしょう。「72歳から76歳になる老婆」を犯すなんてことが事実であるはずがないでしょう。並みの大人にとって常識以前の問題です。また、この記述を否定する材料は考慮の外なのです。
 「強姦事件の3分の1は日中に発生」とありますが、逆に言えば「3分の2」は夜間なります。日本軍兵士が夜間、勝手に歩き回っていたとでも思っているのでしょうか。兵士は許可(命令)なく夜間外出はできません。それに、月夜でもなければ夜は鼻をつままれても分からない闇の世界、地理不案内のところを歩き回れるわけもないでしょう。日本兵の話を聞いていないと、真偽の判断は歪んできます。
 そして、第6章の「南京事件の全貌」に、ベイツ教授の

〈南京事件のなかできわだって多かったのが婦女の強姦・輪姦および殺害だった。
日本軍の南京占領後12月16日から強姦事件が多発するようになり、
南京安全区国際委員会の計算では1日に千人もの女性が強姦され、
占領初期には控えめにみても8000人の女性が強姦され、
翌年の2、3月まで何万という女性が強姦された(アメリカキリスト者へのベイツの回状)。〉


 を引用することによって、「2万件強姦」を疑いのない事実と認定したことになります。

・ 「南京暴行報告」との整合性は?
 となりますと、「南京暴行報告」をどう解釈するのでしょう。南京暴行報告は日本軍が入城した12月13日から翌年2月7日までの57日間ですが、板倉集計では「 強姦361件(他に多数3件、数名数件)」でした⇒「暴行報告集計」

 フイッチ日記にある
 「昨夜から今日の昼にかけて千人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。」

 は、12月16日・17日のことですから、この2日間を見てみますと、暴行報告は23件、強姦は35人と多数1件となっています。
 「多数」というのは、「12月17日、日本兵が五台山の一小学校内に多数の婦女を引きずり込み、徹宵凌辱し、翌朝初めて釈放した」(第45件)とあるからで、人数はわかりません。この「多数」をかりに10名程度としても、これを加えてせいぜい50名程でしょう。
 となりますと。フイッチの1,000人との差は大きすぎます。それに、「37回も強姦された」にいたっては、書く方も書く方ですが、それを信じてそのまま資料に使う方も使う方です。

 同様に、「2万人強姦」は、「強姦361件(他に多数3件、数名数件)」に対応するはずですから、約500名程です。もちろん、「暴行報告」がおおむね事実とした場合の数字ですから、福田 篤泰やシャルフェンベルクが「第一、暴行事件といっても、すべて中国人から聞いているだけではないか」と指摘していることなどから考えれば、実際の件数は「強姦361件」を大幅に割ることだって考えられるでしょう。「2万件強姦」とは結びつきようもありません。
 以上のように、日記などから、未検証を含む個別の事例、事項を並べ、あたかも「2万件強姦」があったごとくに導いているのです。

 そう言えば、笠原教授の著作『南京事件』の207ページに、〈県城や村においても「敗残兵狩り」の名による虐殺、強姦、放火がおこなわれたのであった。その一端だけを簡単に記す〉として、中国の『江寧県誌』から以下を引用しています。
 江寧県は南京城を取り巻く一帯で、人口43万人。スマイス調査の対象県です。
 〈(1937年)12月下旬、上坊で婦女10名が強姦され、陰部に鉄棒を刺して殺害される。38年1月18日、陸郎村で県城から避難していた市民が、「敗残兵狩り」で100余人殺害される。そのとき婦女8人が輪姦され、腹を割かれて殺害される。
 岔路郷では南京城から近く、交通の便も良いため、日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」のために頻繁に襲来、婦女250余人が強姦され、多くは殺害された。・・〉
 こうした未検証の例、というより荒唐無稽の「資料」でも並べる、私には理解の外です。
 
 「20万人以上虐殺」も同様の論法です。日本側兵士の「従軍日誌」「証言」等に見られる殺害記録を並べ、これらをもって兵の虐殺8万人以上の根拠にしたところで、情緒的、感情的にはともかく、両者の間に論理的なつながりはごく一部しかないのです。
 一つ付け加えます。笠原十九司教授は、「万人坑」「三光作戦」を全面肯定、百科事典などに解説を加えています。

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