―主 要 な 事 件(1) ―
⇒ (その2)へ
以降。主要な事件を見ていきます。
はじめは、ここまでいく度となく顔を出し、最大の犠牲者数を出したとされる幕府山事件です。
57,418人の殺害現場を目撃したとする「魯甦証言」 (⇒4 草鞋峡における大量殺害 )に関連する出来事です。
(1) 山田支隊、幕府山へ
幕府山は標高200メートルの低い山で、ここに揚子江を航行する船舶をにらむ砲台が設けられていました。この砲台は未完成との話もありますので、揚子江を遡上する日本海軍にとってどの程度脅威であったかはよくわかりません。
幕 府 山 付 近 図
この幕府山砲台を占拠したのは、第13師団・第103旅団長の山田 栴二少将が率いる山田支隊 で、幕府山事件の当事者となりました。
山田旅団は上海戦に参戦の後、12月11日、「仙台など足許にも及ばない」大都会・鎮江に宿泊。翌12日、鎮江の西3里に移動したところ、「午後1時頃、突然歩兵第65連隊と山砲兵第3大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよ」との命令を受けたため、65連隊(会津若松)を基幹に山田支隊が編成され南京に向かいました(山田旅団長日記)。
一方の13師団主力は揚子江の対岸に渡り、北岸添いに南京方面に進みます。
山田支隊主力の第65連隊(連隊長・両角 業作大佐)は補充兵中心の急造部隊で、激戦となった上海戦で兵力を半減させ、約1500名(補充があって2200人説も)になっていたといいます。
揚子江南岸にそって進む支隊は、それでも13日に烏龍山の砲台を占領、さらに前進します。
揚子江は下関の下流から分流し、支流の方は草鞋洲(そうあいす=八掛洲)と呼ぶ大きな中洲(なかす)の南側を抜け、また本流に合流します。支隊は支流沿いに進み、幕府山砲台へと向かいました。
支隊は一戦あるものと覚悟したものの、意外にも抵抗らしい抵抗を受けることなく12月14日、ここを落としました。ところが、そこにおびただしい数の投降兵が白旗を掲げて現れたのです。城内から脱出してきた敵兵でした。
(2) 万余(?)の投降兵
この間のいきさつは、旅団長・山田 栴二少将(やまだ・せんじ)の「日記」(『南京戦史資料集U』、偕行社、1993)がよく表しています。
〈12月14日 他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前4時半出発、幕府山砲台に向う、
明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。
幕府山は先遣隊により午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、
14,777名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり。・・〉
山田旅団長に報告(連絡)のあった14,777人 という膨大な数は、数えた結果かもしれませんが、精度については疑問があるところです。ただ万、あるいは万に近い(?)膨大な人数であったことは間違いないようです。
また確かな人数はわかりませんが、非戦闘員(南京市民)や女・子供が多数含まれていたと、両角連隊長の「手記」に記されています(後出)。
(3) 苦難に直面した日本軍
この前代未聞の投降兵をめぐって、朝日新聞(1937=昭和12年12月17日付け)は、
〈持余す捕虜大漁 22棟鮨詰め 食糧難が苦労の種〉の見出しで、日本軍の困惑ぶりを以下のようにつたえました。
〈両角部隊のため、烏龍山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた14,777人の南京潰走敵兵 は、
何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕らえた部隊の方が聊(いささ)か呆れ気味で、
こちらは比較になるぬ程の少数のため手が回りきれぬ始末、
先ず銃剣を棄てさせ付近の兵営に押し込んだ。・・
一番弱ったのは食事で、部隊でさえ現地で求めているところへ、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。
第一、茶碗を1万5千を集めることは到底不可能なので第一夜だけは到頭食わせることが出来なかった。・・〉
両角(もろずみ)部隊とあるのは、第65連隊(会津若松)を指し、連隊長・両角 業作大佐 の名を冠したものです。
この光景は投降兵を収容した12月14日のものでしょう。銃剣を捨てさせたとはいえ、日本兵の数倍という捕虜を前に、当惑する両角部隊がこの朝日報道からもわかります。
上写真は『アサヒグラフ 支那戦線写真』に掲載されたもので、〈両角部隊によって南京城外部落に収容された捕虜の一部(12月16日上野特派員撮影)〉と説明がついています。
大変な数の投降兵のわりに日本兵の少なさが目につきます。また、投降兵の後ろの建物は、窓が一定の間隔でついているように見えますので、部落というより兵舎か学校のように見えます。
問題となるのは、この投降兵はどうなったのか。また14,777人という、一見もっともらしい人数が、正確といえるのかという点でしょう。
洞富雄教授はこの数を信頼できると判断、「約1万5千人全員虐殺」したとし、笠原 十九司教授は従軍兵士の「陣中日記」などから、「2万1千人以上虐殺」を主張します。「陣中日記」等については、後述します。
(4) 事件解明へ向けて・・山田旅団長日記
この事件に踏み込んだ先駆者の一人が鈴木 明でした。その著作『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋、1972)で、山田旅団長、また65連隊と終始、行動を共にした平林 貞治少尉(後出。終戦時少佐)らに会い、話を聞き取っています(このとき、両角連隊長は故人)。
「それは、あまり、しゃべりたくないな」という山田旅団長に子息(河北日報の論説委員長)の説得もあって、重い口を開きました。そして、「日 記」に基づいて要点を記したのでしょう、「メモ」が示され、このメモは「山 田 メ モ」として同書に記されています。「日記」は後に公表されました。
山田旅団長の話の要点は以下の通りです。
・ 捕虜の数について両角部隊長は8千人位といっていた。
・ 無抵抗のまま捕らえられた捕虜に、「抵抗しないものは保護する」と(自分は)言った。
道端に投げられた鉄砲だけで5千挺。
・ 捕虜を「正規の手続きをへて保護したい」という旅団方針に対して、そのような余裕はない、
山田旅団長の手で「始末せよ」との命令であった。
(命令者について少将は沈黙し語らなかったが、話の順序から長 勇(ちょう・いさむ)参謀に間違いないと
鈴木明は記しています。なお、長中佐は上海派遣軍司令部参謀でした。)
・ 船を徴発し、捕虜を揚子江を渡して北の方に逃がそうと、
「数千人の捕虜を連れて数百人の日本軍」が江岸に向かう。
江岸につくまで、かなりの時間を要し、たどりついた時は、陽はとっぷりとくれていた。
・ 突如、捕虜の暴動が起こり、深夜の暗黒のなかを一斉に逃げ出した。
その中に小銃と機関銃が撃ち込まれた。日本側も不意をつかれたため、何がどうなったかわからなかった。
・ 朝、千あまり(数千ともいう)の捕虜の死体に交じって、日本軍将校1名、兵8名の死体があった。
以上ですが、鈴木は〈この事件が、単に「捕虜への一方的虐殺」ではなかったことを、この一人の将校の戦死の記録が、充分に物語っている。〉と記しています。
なお、山田日記は上述の『南京戦史資料集 U』に収められています。事件の背景を知るためにも参考になりますので、すでに紹介した12月14日につづく12月15日以降を引用します。
・ 山田旅団長「日記」
12月15日 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す
12月16日 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊(注、第1大隊 )大役なり、砲台の兵器は別とし小銃5千、重機軽機其他多数を得たり
12月17日 晴の入場式なり
車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後1・30より入城式祝賀会、3・00過ぎ帰る、仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る
12月18日 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す
12月19日 捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
(5) 両角連隊長の手記
捕虜の処置について、議論がさかんに行われています。全員虐殺とする論者、人数はもっと少なくやむを得ない処置とする論者、ともに見解を著作にするなどしています。
両者はどう違うのか、また違いはどこからくるのか、まず両角連隊長の「手記」(『南京戦史 資料集U 』)の要点を原文を生かしながら紹介します。「手記」といっても、ごく短いものですが。
・ 新聞は2万とか書いたが、実際は1万5千300余人で、婦女子、老人、非戦闘員(南京から落ちのびた市民多数)がいたため、これをより分けて解放。残りは8千人程度であった。
・ 炊事が始まり、某棟が火事になった。火は延焼し、その混雑はひとかたならず、連隊から1中隊を派遣、沈静にあたらせた。出火は計画的なもので、混乱を利用して約半数が逃亡した。
射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると見えないため、少なくも4千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
・ 私は部隊の責任にもなるし、その他のことを考えると、少なくなったことを幸いぐらいに思って上司(山田支隊長)に報告しなかった。
・ 12月17日は南京入場式で、万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処 置 ”するよう」にと山田少将に頻繁に督促がある。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。
私も丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。だが、軍は強引にも実施をせまったのである。
ここにおいて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。
・ しかし私にはどうしてもできない。考えたあげくに、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつ」、私の胸三寸で決まることだとし、田山(芳雄)第1大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」と。
17日、山田少将とともに入城式に参列。もどると田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受ける。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
12時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまなかった。いきさつは次の通り。
「軽舟艇に2、3百人の俘虜を乗せ長江の中流まで行ったところ、前岸に警備していた支那兵が、日本軍の攻撃とばかりに発砲。舟の舵をあづかる支那の土民はキモをつぶして江上を右往左往、しだいに押し流されるという状況。
ところが、北岸(注、南岸の間違い)に集結していた俘虜は、銃声を日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断、たちまち混乱となった。
2千人ほどが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので、いかんともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもって制止につとめたものの暗夜のため、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、銃火により倒れた者は、翌朝私も見たのだが、「僅少の数に止まっていた。
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。」
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将も安堵の胸をなでおろされ、「我が意を得たり」の顔をしていた。
「自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは〈逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが〉・・なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。」
以上が手記の概要です。お読みになって気づかれたと思いますが、この手記は終戦後しばらくして書かれたものです。
1962(昭和37)年1月、福島生まれの事件の研究者・阿部 輝朗(福島民友記者)が両角連隊長から「手記」を借り、これを筆写・保存しておいたもので、手記原文はノートに書かれ、当時の「日記」(後出)をもとに書いたとのことです(『南京戦史 資料集U 』)。
それから約25年後の1988年、『南京戦史』の刊行1年前ですが、阿部は戦史編集委員会に協力を申し出、新資料が公になったという次第です。阿部は鈴木 明の調査に先立つ10年近くも前から、現地を訪れる一方、関係者の「証言」等を集めていたようです。
そして、『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』(教育書籍、1989)を著し、入手した資料、証言等を公表しました。
もし、阿部の努力がなかったなら、この書に登場する関係者の証言は陽の目を見ることはなかったでしょう。人を得て「よかった」と思っています。
(6) 「手記」への疑問
「両角手記」の信頼性にとくに問題がなければ、話の大筋はこれで決着となるでしょう。ですが、手記には無視できない矛盾があり、鵜呑みにできないのです。このため、手記は連隊長の弁明あるいは虚偽ではないかとの疑問、反論が出てきます。
・ 殺害事件は2夜連続
事件自体を否定する声は出ませんでしたが、いつ、どこで、なぜ、どのくらいの人数だったのかなど、確かな資料・証言に欠け、手探りの状況でした。そのなかで、殺害事件は1夜だけでなく、2夜にわたったのではという疑いが、一部研究者の間で言われていました。
ところが、山田日記、両角日記に2夜と書いてありませんし、鈴木明の山田旅団長のインタビューでもふれられておりません。鈴木自身が2夜とは考えなかったために、聞き損じたのかもしれませんが。
2夜連続としたのは上記の阿部輝朗が最初(?)と思います。阿部の研究によれば12月16日夜、草鞋峡の海軍倉庫付近で捕虜の一部を殺害、翌17日夜、残りの大部分を幕府山の北、揚子江が分流するあたりで殺害したとします。
現在は研究も進み、2夜連続は事実と考えられています。となりますと、旅団長の話、連隊長の手記は17日の1夜だけしか言及しておりませんので、この点だけでも信頼性にゆらぎがでてきます。
さらに、肝心の人数について「我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた」としていますが、これは後述の証言、資料により、「僅少の数」などというレベルの話ではないことがわかります。
・ 火災と逃亡者
両角業作連隊長の手記は、
〈捕虜総数15,300人、婦女、子供など非戦闘員を解放して残るは8,000人。
ところが捕虜が計画的に火災を発生させ、少なくとも4,000人が逃亡〉
したとします。火災は「暗に鉄砲」と書いてあるところから、夜間の火災であったと読み取れます。夜間の火災であれば、「計画的火災」もさもありなんと考えられそうです。
ですが、火災は昼間、それも正午ごろであったと複数の「陣中日記」にあり、夜間火災に疑いを持つ人もいます。
もっとも、「夕方」(陣中日記)としたもの、「夜の炊事どき」とした「証言」もあり、こうしたことのため、収容所が複数箇所、火災も1件ではなく複数件あったのではという見方もでてきます。
(7) あらたな証言と資料
〈その1〉 栗 原伍長証言・・毎日新聞
1984(昭和59)年8月7日付け毎日新聞は、「南京捕虜1万余人虐殺」などの見出しを立てて、
〈当時のスケッチ、メモ類をもとに中国兵捕虜1万余人の殺害を詳細に証言した。
問題の捕虜大量射殺事件はこれまで上級将校の証言などから
「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛措置」とされてきた。
今回の証言はこれを覆すものだ。〉
とリードに記し、田山大隊(第1大隊)の栗原 利一伍長の証言を報じました。証言によれば、
〈捕虜殺害は12月17日か18日夜で、昼過ぎから捕虜を後ろ手に縛って、
ジュズつなぎにし、収容所から約4キロ離れた揚子江に連行した。
1万人を超える人数のため全員がそろったときは日が暮れかかっていた。
沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、
突然「撃て」の命令が下った。約1時間一斉射撃が続いた。捕虜は必死に逃げまどい、
水平撃ちの弾を避けようと死体の上にはいあがり、高さ3〜4メートルの人柱ができた。〉(要 旨)
鈴木明、戦史叢書などがとる山田旅団長ら上級将校の証言に基づく「自衛発砲説」に対しては、
〈後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。
虐殺は事実。はっきりさせた方がよい。〉
と、明確に否定しています。
この報道を読む限り、沖合いにある中洲といいますから、草鞋洲を指すのでしょう、「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたというのですから、「釈放計画があった」 と受け取れます。
ところがどうしたわけか、俘虜の混乱についての言及がなく、突然「撃て」の命令が出たというのですから、話がわかりにくくなってきます。
となりますと、射手への命令は両角連隊長から釈放の指示を受けた田山芳雄・第1大隊長の独断でしょうか。まさかそれはないでしょう。
この報道、必ずしも証言を正確につたえていない節があります。これはよくあることで、珍しいことではありません。
証言者が記事内容を事前に見る機会はないのが普通ですので、掲載紙を見てはじめて全容を知ることになります。そこで、「真意が伝わっていない」との不満を、話し手が持つことにつながってきます。
・ 板倉 由明の要約
この報道の後、栗原元伍長に「南京戦史」編集委員であった板倉 由明が話を聞きとっています(本多勝一も)。その結果は『南京戦史』に掲載されていますが、ここでは板倉が記した「要約」を『間違いだらけの新聞報道』(閣文社、1992)から抜粋します。
〈・・14日朝、幕府山付近で莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。
捕虜は4列縦隊で延々長蛇の列となった。武器の山は私たちが燃やした。
15日と16日、第1大隊135名はこの13,500人と公称された捕虜の大群を
幕府山南麓の学校か兵舎のようなワラ葺きの10数棟の建物に収容し、3日間管理した。しかし、
自分たちの食糧にもこと欠く有様で、捕虜に与える食糧もなく、・・粥(かゆ)を1日1回与えるだけが精一杯であった。
多分17日と思うが、捕虜を船で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。
4列縦隊で出発したが、丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、4列では歩けなかった。列の両側に50米くらいの間隔で兵が付いた。・・
2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで・・やや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。
周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には船も2、3隻見えた。
うす暗くなった頃、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」 という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。
銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。・・
死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。
これは「戦闘」として行ったもので、その時は「戦友の仇討ち」という気持ちであり、
我が方も9名(正しくは7名)が戦死した。殺したなかに一般人は一人もいない。
当時日本軍の戦果は私たちの1万3500を含め7万といわれていたが、
現在中国で言うような30万、40万という大虐殺などとても考えられない。
私達も真実を言うから、真の日中友好のために、中国も誇大な非難はやめてもらいたい。〉
・ 毎日報道は公正か
ご覧のように毎日記事と、板倉「要約」とは重要な点で違いを見せます。
前者を読めば、〈突然「撃て」の命令が下った〉としていますので、意図した殺害(虐殺)と受け取れますが、後者では〈 突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり〉、その後に射撃が始まったというのですから、予期しないことが発生したため、射撃を誘発したと受け取れます。
また、前者は「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない」とし、暴動に基づく自衛発砲説を否定していますが、後者は「形だけだが手を縛り」となっていますので、「暴動を起こすわけない」は間違いで、したがって「虐殺」だったとは言えないでしょう。
また、後者によれば、13500人は「公称」であり、捕虜を捕らえた時点の人数を指していることは明らかです。
となりますと、火災について何も触れていないこと、また16日の殺害について触れていないのも、分かりにくい点でしょう。ただ、16日について、栗原伍長は知らなかったのかも知れません。隣の中隊の動きを一般兵士は分からないのが普通ですから、十分考えられることなのです。
このように差のあること、原因はいろいろ忖度できますが、ありがちなことと思います。ですから、他の証言等との突き合わせが欠かせないことを、この例も教えてくれています。
また、秦郁彦の『南京事件』(147ページ)に、「日本側関係者の間では、捕虜のほぼ全員という点では一致するが、江岸への連行=殺害数は5千〜6千(栗原)、・・」とあり、この記述に間違いがなければ、江岸へ連行した1万3500人のうち半数以上が難を逃れたと栗原が認識していたことになるでしょう。毎日新聞の見出し「1万余人虐殺」とは大変な違いです。
なお、栗原伍長が証言に踏み切ったキッカケは、栗原証言が掲載された半月前、同じ7月22日付けの毎日新聞が、〈南京大虐殺、中国側が“立証”〉とし、中国側公式記録として『証言 南京大虐殺』(既述。左写真)を大きく紹介、「犠牲者30余万人」とした報道への反発だったとのこと。
そこで、毎日記者に当時のスケッチを示して実情を説明したところ、記事は「30万大虐殺の証明」に使われ、意図とは異なっていたと、板倉は記しています。
〈その2〉 資 料 発 掘
次は従軍した両角部隊の兵士の「陣中日誌」「証言」など、まとまった数の資料の発掘です。発掘者は小野 賢二で、この事件の調査に4年がかりであったといいます。
この調査の成果を報じたのは朝日新聞(1990年9月19日付け、左写真)で、〈死者数は「14,777人」か〉の大見出しのもと、「130証言掘り起こし」「岸に数十メートルの死体の半島」などと小見出しをとり、ほぼ1ページを費やす大報道となりました。本多勝一記者の署名記事です。
〈両角部隊の中で小野氏が生存を確認した2百数十のうち、直接会って証言を求めたり日記を見せてもらった例が約120人、電話による取材が約10人。〉
捕虜殺害は12月16、17日の2回。16日は中国軍関係設備の魚雷営、17日は同じ魚雷営のほか、その2,3キロ下流の大湾子付近で、17日の方が大量だったなどと調査の要約を記しています。
そして、調査の「一応の結論」は、「虐殺された捕虜の数は14,777人に限りなく近い」というものでした。
〈『南京戦史』が虐殺数を千人ほどとしている理由は、
捕虜の多くが釈放されたり逃亡したりの結果だが、
小野氏の取材した中には、捕虜を一部といえど釈放したとする証言や日記は1例もない。
また釈放を目的として連行したという例も絶無(注2)。逃亡は、虐殺時に仮にあったとしても
数十人から多くても数百人まで。何千人も逃亡したとは考えられないという。〉
文中の(注2)は、〈捕虜に対する口実として「釈放」とだました可能性はありうる。〉と欄外に記してあります。
120人を超える日記、証言のなかに、捕虜の釈放例が一例もなく、また釈放目的とした連行記述も皆無という「調査報告」には興味を引かされます。
もし、釈放を計画し、実行に移されたことが事実と判明したなら、「日記」と「証言」をどう解釈すべきなのでしょう。
そして、虐殺数について、「約2万千人」「2万人」・・「3、4千人」「約千人」などあるが、『南京戦史』(偕行社)は「約千人」を採用し、南京事件調査研究会が『南京戦史』を検討した結果、〈「各現場の資料によって虐殺数が違う場合は、たいてい少ない方を採用している」などの批判が続出し・・〉と、『南京戦史』批判を強く打ち出しています。
「南京事件調査研究会」は、本多記者も会員の一人で、朝日新聞が事実上、後押しする「大虐殺派」が集う研究会です(⇒8−1)。
『南京戦史』が「約千人」を採用したというのは「約3千人」採用の誤りで、戦史編集員会の抗議の結果、朝日は後日、「訂正」を出しています。
そして、「釈放とか逃亡が何千人という説は部隊の主な幹部が戦後に口裏をあわせて発表した可能性もなしとしない」という、例のごとく根拠を示さない洞富雄談などで記事をしめくくっています。
なお、小野が発掘した「陣中日記」などから19点を選択、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二、本多勝一ほか。大月書店、1996年)として出版されました。
(8) 17日事件は釈放目的
こうなりますと、殺害は16日、17日の両日に起こったことに関しては異論はないとして、計画的殺害か、釈放途中に発生した事故が発端なのか、また殺害人数はとなると、少々水かけ論の様相を帯びてきます、
まず、17日事件ですが、証言などから紛れはほとんどないと言えます。つまり、釈放目的で江岸に連行、ここで予期しない出来事が発生したため、発砲に至ったことです。朝日の「釈放を目的として連行したという例も絶無 」と書くにいたっては、予断、願望と取材不足からきた恣意的なものと言って間違いないでしょう。
まず、両角連隊長の「日記」と山田旅団長の「日記」をご覧ください。
・ 「両 角 日 記」
12月15日 俘虜整理および付近掃蕩
〃 16日 同上。南京入場準備
〃 17日 南京入場参加。Tは俘虜の開放準備、同夜開放
〃 18日 俘虜脱逸の現場視察、ならびに遺体埋葬
〃 19日 次期宿営地へ出発準備
上記のとおり、両角日記(12月17日)に「Iは俘虜の開放準備、同夜開放」とあり、「T」は第1大隊を表し、「開放」は「解放」の書き違いとしか考えられませんから、少なくとも釈放計画があったことはわかります。
もっとも、この日記が「創作」と証明されれば別ですが。
・ 田山 芳雄第1大隊長の証言
まず、釈放を指示されたという田山第1大隊長の「証言」を見てみましょう。
「第1大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある」とし、阿部輝朗は著作『南京の氷雨』に以下の証言を記しています。
〈「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃8挺を準備させました。
舟は4隻、いや7隻か8隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。
でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、
揚子江の対岸には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。
あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。
解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから・・・」
南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、
その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。
「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。
味方が何人か殺され、ついに発砲が始ってしまったんですね。
なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです。」〉
田山証言は具体的で、これといった両角手記との矛盾は見られません。連隊長、第1大隊長の2人が口裏あわせをしたと疑っている洞富雄、本多勝一らの見方は次の「証言」で打ち消されているはずです。
・ 箭内 亨三郎准尉の証言
捕虜の集合場所をあらかじめ河原で設定したという箭内亨三郎准尉(機関銃中隊)の「証言」があります。
「私とは懇意にしており、生前その状況について詳細に語ってくれている。私は回想談を速記メモしていたが、それを紹介しよう」と阿部輝朗は箭内証言をこう記します。証言のうち重要と思われる部分を以下、引用します。
〈「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。
河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。
確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは
連隊の一部の人たちが集成1個中隊をつくって出かけたはずです。
私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、
ノコギリやナタを持って、4キロか5キロほど歩いて河川敷に出かけたのです」(略)
「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように、
それに舟も捜しておくようにと、そんな命令を受けていたんですよ。
解放の件は秘密だといわれていましたがね。
ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。」
「実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。
刈り払い、切り払いしたのですが、切り倒した柳の木や、
雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。
河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。
ところが、後でこれが大変なことになるのです」(略)
「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が・・。
突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけに始ったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し、
巻脚絆(まききゃはん)などで軽くしばっていただけですから、
その気になれば縛を脱することは簡単だったのです。」〉(略)
縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。
昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。
近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。
持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。
「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。
私の近くにいた第1大隊長の田山少佐が
『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。
目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね・・。
万一を考え、重機関銃8挺を持って行っていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです。」〉
―『南京の氷雨』より―
事件に至るまでの経過、現場の様子がこれでかなりハッキリしたと思います。
同時に朝日報道がある期待をこめ、予断に彩られた報道、いやプロパガンダであったことが分かります。
・ 平林 貞治少尉の「証言」
また、終始、65連隊と行動を共にし、福島で電気工事会社の専務をしている「65連隊の生き字引」という平林貞治少尉も、次のように鈴木明に語っています。
〈たしか2日目に火事がありました。そのとき、捕虜が逃げたかどうかは憶えていません。もっとも逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、1万人ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。・・ 〉
と言い、だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来たときはむしろホッとしたとし、「捕虜は揚子江を船で鎮江の師団に送り返す」と聞いていたとしています。そして、
〈江岸に集結したのは夜でした。その時、私はふと怖ろしくなってきたのを今でも憶えています。
向こうは素手でも10倍以上の人数です。そのまま向かって来られたら、こちらが全滅です。
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、
はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。
突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。
それを合図のようにして、あとは大混乱でした。・・向こうの死体の数ですか?
さあ・・千なんてものじゃなかったでしょうね。3千ぐらいあったんじゃないでしょうか・・・〉
と平林少尉は証言します。また、『南京の氷雨』では平林貞治中尉(65連隊、連隊砲中隊小隊長)の階級で、次のように話しています。
〈17日夜の事件はね、連行した捕虜を1万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。
4千か5千、それぐらいが実数ですよ。
私たちは「対岸に逃す」といわれていたので、
そのつもりで揚子江へざっと4キロほど連行したんです。途中、とてもこわかった。・・
あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、
兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません。〉
以上のことなどから、17日事件は釈放計画のもとに行動中、予期しない出来事から銃乱射となって、大量殺害に至ったと断定して間違いないでしょう。
本多勝一記者による上記朝日報道は、どうしたわけか先行研究であり、重要「証言」の多い『南京の氷雨』を紹介するでもなく、また、証言内容等についても一切触れていません。
この疑問についての朝日新聞社の回答は、「小野研究と比較して、同書を取り上げる必要はないと判断した」というのですから呆れ返ります。これで報道と呼べるでしょうか。
今に始まったことではありませんが、朝日報道がいかに偏ったものかが改めてわかりますし、公正さなど期待すべくもないでしょう。
(9) 16日事件は?
一方の16日夜の殺害ですが、17日事件のように明確とはいえず、多少の紛れがあるのです。
殺害に加わった兵士の日記は7、8例はあるでしょうか、そのなかから2、3見ておきます。
・ 佐藤 一郎1等兵
〈12月16日 朝7時半、宿舎前整列。
中隊全員にて昨日同様に残兵を捕えるため行く事2里半、残兵なく帰る。
昼飯を食し、戦友4人と仲よく故郷を語って想いにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。
直ちに残兵に備えて監視。あとで第1大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。
あんなに2万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。
夕食を食してから寝ようとして居ると、急に整列と言うので、また行軍かと思って居ると残兵の居る兵舎まで行く。
残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。
考えて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思えば、にくくもある。
銃撃してより1人1人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になってものすごい。
これも戦争か。午後11時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思いながら、
近頃は手紙も出せずにと思いつつ4人と夢路に入る。(南京城外北部上元門にて、故郷を思いつつ書く)〉
―『南京の氷雨』―
翌12月17日にも、〈夕食の準備をして居ると、また残兵の連行だと言う。入城式で疲れた足を引きずりながら行く。幕府山下まで行き、昨夜同様の事が起こってしまう。午後12時に宿舎へ帰る。〉とあり、佐藤1等兵は16日、17日事件の参加者だったことがわかります。
なお、佐藤一郎は仮名ですが、信頼性に問題はないと判断し引用しました。
・ 宮本 省吾第4中隊少尉
〈16日 警戒の厳重は益々加わりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、
しかし其れも束の間で午食事中、俄に火災起り非常なる騒ぎとなり 3分の1程延焼す、
午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す。
戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。〉(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』より)
なお、宮本少尉は17日事件にも加わったことを、この「陣中日記」に書いています。
・ 遠藤 高明第8中隊少尉
〈12月16日晴 定刻起床、午前9時30分より1時間砲台見学に赴く、
午後0時30分捕虜収容所火災の為、出動を命ぜられ同3時帰還す、
同所に於て朝日記者横田氏に遭い一般情勢を聴く、捕虜総数1万7025名、
夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し、Tにて射殺す。〉(同 上)
この「陣中日記」から、遠藤少尉が現場に行ったのかどうかがはっきりせず、あるいは伝聞かもしれません。というのも、16日事件は第2大隊が主要な役割を果たしたと思われ、第1大隊を示す「Tにて射殺す」に疑問があるからです。
殺害事件が起こったのは確かですが、どのような経過だったのか、また目的は何だったのでしょうか。これに答えた次の「証言」があります。
・ 角田 栄一第5中隊長の「証言」
角田証言も阿部輝朗が聞き取ったものです。
鈴木明も阿部から紹介をうけ、角田中尉宅に予告なく訪れていますが、酩酊状態で話はよく聞けなかったとしています。以下も『南京の氷雨』からの引用です。
〈火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。
しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。
だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか。
私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。
結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。
いや、千人はいたかなあ・・。あすは南京入城式、
早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ。」(略)
「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、
殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」
夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、2挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。
しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、
血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。
修羅場といっていい状況がそこに現出した。(略)
「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。
で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。
4、5人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。
これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって・・。これが騒動の発端さ。
あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と・・。
地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。
ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。
まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」
銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、
江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。
5隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。(略)
偶発、それが結果として虐殺になった。〉
16日の江岸連行が釈放目的であったとする具体的証言です。角田中隊長は17日事件にも参加したとのことで、こうも証言しています。
〈前夜の失敗があって、私は両角連隊長に叱られました。
「なぜ静かに解放できなかったか」というのです。
しかし、説明を聞いてすぐ納得してくれました。・・〉
角田証言による16日事件の大筋は17日事件とよく似ています。ただ、捕虜解放について、他の証言などで補強されていれば問題ないのですが、角田証言一例のようなのです。
両角連隊長に呼ばれ、意を含められたのが事実なら、なぜ両角連隊長は「手記」「日記」に何も書かなかったのでしょう。16日の記述がスッポリ抜け落ちているのは、両角手記の信頼性にとって欠陥でしょう。山田旅団長日記、メモについても同じことが言えるかもしれません。
また、角田中尉が上官である後藤第2大隊長について、何も語っていないのも気になります。このような重要命令が中隊長に直接きたというのも、何かの理由があれば別ですが、やはり引っかかります。
というような次第で、16日事件は、上層部からの圧力に抗しきれずに殺害におよんだ可能性も排除できないと思うのですが。もちろん、釈放を示す他の証言等があれば訂正します。
(10) 「従軍日記」に見る投降兵数、殺害数
ここで、日本軍将兵が記録した「日記」などから、投降兵の数、殺害数について主なものを拾っておきます。
・ 投 降 兵 の 数
既述したように、1万4,777人(山田旅団長「日記」、朝日報道ほか)、1万5,300人(両角「手記」)、栗原伍長(証言)の1万3,500人などが出てきました。
ほかにもあります。飯沼 守少将・上海派遣軍参謀長の「日記」は「1万5、6千人」としていますし、中沢 三夫大佐・16師団参謀長は「1万3千人」としています。このように、数が定まらないのは、報告(伝達)ルートの問題ではなく、ちゃんと数えた数字がないからでしょう。
・ 殺 害 数
一方、小野賢二の発掘した「陣中日記」のなかに、殺害数、投降兵数を記したものがあります。
・ 前出の宮本省吾少尉は、16日「約3千射殺」、17日について「夕方、漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上の事とて終に大失態に会い、友軍にも多数死傷者を出してしまった」とありますので、「2万人以上」となり、16日、17日を合計すれば2万3千人以上を殺害した勘定になります。
捕虜数より殺害数が多いのはおかしいという点は、大虐殺派は、捕虜は14日の大量投降以降もあって、増え続けたのだとしています。さて、この説明、どうでしょうか。
・ また、遠藤高明少尉(前出)は16日「捕虜の3分の1を射殺」、つづく17日には「捕虜残余1万余処刑の為」とありますので、合わせれば2万人内外 となるでしょう。
・ 本間正勝(第9中隊2等兵)は、捕虜数を2万余とし、16日 「捕虜3千名揚子江岸にて銃殺す」とあり、17日は「中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、今日1万5千名」とありますから、合わせて1万8千人となります。
・ なかには、高橋光夫(第11中隊上等兵)のように、18日の「日記」に、「午後には連隊の捕虜2万5千近くの殺したものをかたつけた」とあり、額面通りに受け取れば、「2万5千名近く」の死体を目撃したことになります。
以上の数字をご覧になって、この「従軍日記」にどの程度の信頼性があるとお考えでしょうか。
(11) 闊歩する誇大数字
当時の「陣中日記」に書かれたこれらの数字がどの程度信頼してよいのか。これを計るために、「兵力数の上限」との対比が一つの判断基準になると思います。ここでは、南京守備兵力数が該当するでしょう。
中国軍は12日夕には総崩れとなり、一部は退却をはじめますが、唐 生智司令部の退却命令(12日夜)とともに、退却は本格化します。中国軍のうち、一部は安全区へ逃げ込みましたが、城外にいた中国軍はそのまま、あるいは城内を経由し、ごく大雑把にいって4方向に逃れました。
その1つが、ゆう江門から下関に出て、ここ北方の幕府山方面へ、もう1つが逆に西南方の上河鎮、新河鎮方面へ向かいました。
3つ目が太平門方面の兵力で、東方約10キロ離れた尭化門、仙鶴門鎮方面へ、4つ目は下関から舟で対 岸に渡った一団、および舟がないため渡れずに下関一帯で日本軍と遭遇した一団でした。
・ 中国軍兵力を「日記」類から足し合わせると
便宜上、12月15日を念頭において(理由は後述)、日本軍側の「日記」類から、中国軍の兵力がどのくらいの数になるかを見てみましょう。
・ まず、上河鎮、新河鎮方面に逃げた中国軍ですが、退路を遮断するために進軍した日本軍(第6師団45連隊第3大隊)と12月13日朝にぶつかり、白兵戦を含む激しい戦闘になったことはすでに記しました( ⇒7ー3)。
中国軍の兵力をどのくらいと書かれていたのでしょう。
「4万程の敵に包囲された」と、第11中隊・福元 続上等兵の「陣中日記」にあり、敵の死者は、「6,000人余は有り との事だったから、足の踏み場もなかった」と記しています。
この光景を見た高橋 義彦中尉(独立山砲2連隊)は、「死体は枕木を敷きつめたように泥濘地帯を埋め」(証言)と表現し、谷 寿夫師団長は「河岸一面死体を以て覆われたる状況」と「日記」に記しています。
報告を受けた遺棄死体数(6000人余り?)が過小と判断したのか、遺棄死体数の調査を命じます。そこで、1個小隊が現場に行って数えたところ、2,377人(福元日記ほか)だったというのでした。
「4万程の敵」のほかに「数万の敵軍」(第3大隊MG、軍曹)としたもの、また「2万」としたものもあるとのことです。
・ 次に東方に逃げた兵に関連し、次の記述があります。
〈後に到りて知る処に依りて、佐々木部隊丈(だけ)にて処理せしもの約1万5千(次項に記述)、
太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300、
仙鶴門鎮附近に集結したるもの約7、8千あり。尚続々投降し来る。〉
と中島 今朝吾・第16師団長は13日の「日記」に書いています。このなかで、太平門の1300、仙鶴門鎮の7〜8000人は東方に逃げた中国軍です。
・ 次は下関一帯の中国軍です。
京都第16師団の隷下で、33連隊、38連隊を率いる第30旅団(佐々木 到一少将)は、中島師団長の命により38連隊と33連隊の一部(第1大隊)をもって佐々木支隊を編成、紫金山の北を迂回し下関へ急行、13日に下関に達しました。
また、紫金山に向かった33連隊主力は激戦を経て、支隊よりやや遅れたものの13日に下関に達しました。ここで対岸に逃れる渡江中の敵に遭遇、銃砲撃によって大損害を与え、また、江岸に残った中国兵とも戦闘になりました。
佐々木回想記は、
〈此の日(注、13日)、我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千にのぼり、
その外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて
2万以上の敵は解決されているはずである。〉
としています。
以上を整理しますと、中国軍兵力は、
@ 幕府山方面 1.5万人〜2万人程度
A 上河鎮、新河鎮方面 2万〜4万
B 太平門、仙鶴門鎮方面 8〜9千人
C 下関方面 2万人以上
となり、合計すると、なんと6.3万〜8.9万人という数になります。この数にダブリはないはずで、日付を追えばわかることと思います。
ここでもうひとつ、NYタイムズのダーディン記者を想起してください(⇒5−1)。
南京守備兵力を5万人と見積るダーディン記者は、12月15日までに、日本軍が処刑した将兵は2万人と報じたことです。
ダーディン記者はこの2万人をゆう江門の同士討ち遺体、 安全区を含む城内掃討による兵士処刑をもとに考えていたと思いますので、上記の兵力とはまた別で、佐々木支隊とのダブリがあったとしても、そう多くないはずです、
となりますと、12月15日時点(幕府山の殺害発生前)で、兵力は8.3万人〜10.9万人になってしまいます。上河鎮の「4万」が多すぎるというのであれば、2万人で計算しても8.3万〜8.9万人です。
この中には、南方に位置する雨花台方面など、他地区の中国軍、また日本軍が到着するまでに江岸を渡った一団(36師等)は勘定に入っていません。加えれば、万単位で増えるはずです。
この兵力数を譚 道平参謀のいう総兵力8.1万人と比較すれば、いかに誇大かがわかりますし、台湾公刊戦史の10万人と較べても同様です
(⇒守備兵力数一覧表)。
つまり、下級兵士の「陣中日記」も師団長、旅団長クラスの「日記」も、ジャーナリストの報道のどれをとっても、遺棄死体、殺害数など数字に関するかぎり、鵜呑みにできないことを示しています。
とくに下級兵士は情報源が限られ、仲間内でささやかれた数字を書きますから、数人の記述が一致したからという理由だけで、数字が正しいとは言えません。
幕府山での1.5万〜2万人殺害が事実なら、譚 道平の記録する南京戦での損失数(=死者数)3万6500人の実に半数を超える数になってしまいます。そのまま信じろいうのは、無理な話です。
ですから、これらはせいぜい「参考程度」であって、他からの裏づけがなければ使える数字ではないでしょう。
(12) では、何人か
資料不足のため、もとより確定的な数字は示せませんが、以下のように考えています。
まず、捕虜ですが、約1万5千人内外とする数は信じられません。それでも「前代未聞」といえる程度に達していたのは間違いないと思います。
具体的な数字を出せば、8千人以下ではないでしょうか。8千人は、『ふくしま・戦争と人間1 白虎篇』(福島民友新聞社。1982)にでてくる数ですが、ある程度、納得しています。
また、捕虜は教導総隊ともいいますが、紫金山で敗北した部隊に1万余の兵力が残存したとは思えません。ちなみに、譚 道平は教導総隊の当初兵力を1万1千人としています。
そして、女子供が含まれていれば解放したと思いますし、16日火災で数は言えませんが逃亡者はでたでしょう。兵舎(?)を半数(または3分の1)近く焼いたのですから、飢えと寒さから夜間に脱走者がでても不思議はないでしょう。また、射撃中にも逃亡者はかなりでたことでしょう。
そして殺害数ですが、遺体数などの証言を勘案して私なりの判断を記せば、16日事件で1000〜2000人未満、17日事件は2000〜3000人未満、合わせて3000〜4000人未満と思っています。この数字がまるまる「虐殺」に当たるのか、「戦闘行為」ではないかという見方はありえます。
(13) 参 考 ま で に
大虐殺派の洞富雄は「1万5千人全員殺害」とし、笠原十九司は「陣中日記」を根拠に「2万1千人以上虐殺」と結論づけました。
一口に2万人といいますが、大変な数に違いありません。上の写真をご覧になってください。
写真は2009年に開催された東京マラソンのもので、スタート直前のものと思われます。
参加者は抽選で、3万5千人に限定されていたはずです。ですから、2万人は3万5千人の約60%に当たります。
参加者の何割くらいがこの写真に写っているのかわかりませんが、ある程度、数を実感できるでしょう。写真を見て、1.5万人、2万人殺害を信じられますか。
スタートの合図とともに一斉に走り出すわけですが、全員がスタートラインを通過するのに20分以上かかったとのことです。