― 欧米人が残した殺害数(1)―
⇒ その (2) へ
見てきたとおり、蒋介石の国民党政府は南京、東京裁判の両法廷で「30万人大虐殺」を主張、これを受け継いだ共産中国もまた、「大虐殺記念館」などを通して事あるごとに「30万人大虐殺」を世界に向けて発信します。
では、大虐殺が起こったとされる当時、南京に居住していた欧米人、あるいは取材のために南京を訪れていたアメリカや他の新聞記者は、日本軍の虐殺、掠奪、強姦、放火など暴虐ぶりをどうつたえていたのでしょう。
「虐殺数」を中心に代表例をたどりますが、これら欧米人の記録、証言、それに新聞報道がどう東京裁判に影響を与えたかを知るために、「殺害数20万人以上」とした東京裁判における「殺害数の内訳と強姦件数」を再掲します。
南京城の攻略が始まる前に、多くの外国人ジャーナリストは外交関係者とともに南京を去りました。ですから、南京陥落時(12月13日)に城内にとどまっていたジャナリストは、ダーディン記者(ニューヨーク・タイムズ)、スティール記者(シカゴ・デーリー・ニューズ)、それにロイター通信のスミス記者とAP通信の記者1人を含め、わずか5人でした。
とどまった記者は12月15日(1人は16日)、つまり南京陥落の数日後に、日本軍の要請(強要?)によって南京を去ることになり、南京にジャーナリストはいなくなりました。
ですが、アメリカ人16人を含む20余人の欧米人が残り、そのほとんどが安全区国際委員会、国際赤十字南京委員会のメンバーとなるなど、2つの委員会と関わりを持ちます。顕著なのはアメリカ人の多くが 宣 教 師であったことです。
海外に発信された南京の状況は、当初はこのジャーナリストによって行われ、その後は委員会のメンバーによる記録を通して、世界(といっても、アメリカとイギりスなど欧州の一部)に知られることになりました。
殺害数については、
@ 2万人の捕虜処刑、数千人の民間人殺害(12月15日まで)・・ダーディン記者による報道
A 5〜6万人殺害・・ラーベ安全区国際委員会委員長のヒトラー宛「上申書」
B 約4万人殺害・・ベイツ教授の説。ティンパーリィ編著『戦争とは何か』の記述
C 婦人子供4.2万人。上海、南京間で30万人・・エドガー・スノー著『アジアの戦争』
D スマイス教授による被害調査から得られた死者数
が代表例でしょう。
もちろん、殺害=虐殺ではありませんから、上記数字がすべて虐殺数を表しているわけではありません。ただ、非戦闘員、とくに女性、子供の場合は巻き添えになった証拠がないかぎり、虐殺の可能性が高くなるでしょう。虐殺に該当するかは個別に判断していくしかなさそうです。
留意すべきことは、これら欧米人からは「南京虐殺30万人」はもちろん、10万人といった2桁万人は出てこないことです。
ですが、後述するように、華中における「死傷者30万人」という記述があって、単なる誤解、誤読の結果なのか、あるいはうまく利用された結果かは分かりませんが、「南京虐殺30万人」に変形したのではと思われる例があります。
以下、順に見ていきます。
(1) NYタイムズ第1報と続報から
1937(昭和12)年9月から南京に滞在し、12月15日に南京を去ったNYタイムズのティルマン・ダーディン記者は、アメリカ軍の砲艦オアフ号から特別に使用許可された電信(special cable)で社に向け第1報を送り出しました。
12月18日付けで掲載された記事(左写真は記事の一部)は、シカゴ・デーリー・ニューズのスティール記者の12月15日付け報道につづくはやいものとなりました。
ご覧のように、「捕虜全員殺害される」(ALL CAPTIVES SLAIN)、「市民もまた殺害」などの見出しをとって、ダーディン記者は次のように書きはじめています。
Through wholesale atrocities and vandalism at Nanking the Japanese Army has thrown away a rare opptunity to gain respect and confidence of the Chinese inhabitants and foreign opinions there.
(南京での大規模な残虐行為と蛮行の結果、日本軍は中国住民や外国人の見解に、尊敬と信頼を勝ち取るまたとない機会を失ってしまった。)
そして、歓呼の声で日本兵を迎えた住民もいたものの、占領してから2日間に事態は一変。大規模な略奪、婦女暴行、市民の虐殺、捕虜の集団処刑などで南京は恐怖の町になってしまったと報じます。
第1報では人数に触れてはいませんが、ダーディン記者は上海行きの軍艦(オアフ号)に乗り込む直前、「埠頭で200人の男が処刑されるのを目撃した」と書いています。
上海に着いたダーディンは続報を送りつづけました。12月22日、航空便で送った記事は、翌年1月9日付けで大きく掲載されます。今度は殺害数が明記されていました。
上写真は記事の一部ですが、「NANKING INVADERS EXECUTED 20,000」の見出しが示すとおり、侵略者日本軍は2万人を処刑したとあり、さらに下に33,000の数字が読み取れます。
民間人(civillians)を含め33,000人の中国人が死亡したというのです。うち、殺害された民間人は、日本軍が南京に入城した13日から15日までに「数千人」 であったとしています。
したがって、ダーディン記者によれば、軍人2万、民間人数千人を合わせた2万数千人が、12月15日までの犠牲者数 となります。
(2) ダーディン記者へのインタビュー ・・ 古森産経記者
1989(平成元)年8月、産経新聞の古森 義久記者が存命のダーディン記者(このとき81歳)にインタビューし、「30万人虐殺の根拠わからぬ」「市民など犠牲者は2万数千人」等の見出しのもと、その詳細を報じました。
殺害数に関する記述を次のとおりです。
〈南京を日本軍が占領してから3日目の12月15日までに、日本軍に処刑された中国軍の将兵や捕虜は約2万人と推定して、当時、報道したが、私自身は15日に城壁のすぐ外の揚子江岸で中国軍捕虜が約50人ずつまとめられ、順番に機関銃で射殺されるのをみた。目撃した死者だけでも200人はいた。
機関銃の連射の最中、別の日本軍兵士たちがすぐそばでたばこを吸ったり、大声で話していたのをよく覚えている。〉
〈日本軍は南京占領後、市内の民間人をも銃や銃剣で無差別に殺した。老人や女性、子供を含めて民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。・・民間の犠牲者の数は15日までに「数千」と推定して、私は当時、報道したものの、正確な推定はきわめて困難だった。〉
また、古森記者の質問、「日本軍は上海から南京への進撃途中に中国人を多数、虐殺した」 という一部に伝えられている説について、次のように答えています。
〈中国軍はすべての建造物を焼き払って撤退したので
住民も大多数は日本軍の進撃してくる前に避難しており、
虐殺というような話は当時、聞いたことはなかったし、目撃もしなかった。〉
上の記述によれば、「2万人」処刑というのは推定であること、市民の犠牲者「数千人」もまた推定であり、正確な推定はきわめて困難であったこと、また、ダーディン記者自身が目撃した殺害は捕虜200人であったことです。ただ、こうした推定に至った根拠については何も書かれていません。
(3) 推定の根拠は
ダーディン記者はこれらの数字を報道した以上、何らかの根拠があったのでしょう。記事を見てみますと、日本軍側の発表に根拠を置いていたのではと思える記述がでてきます。
〈南京掃討を始めてから3日間で、1万5千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。
そのとき、さらに2万5千人がまだ市内に潜んでいると強調した。
この数字は、南京に取り残された中国軍の正確な兵力を示唆している。
日本軍のいう2万5千人という数は、誇張が過ぎるかもしれないが、
およそ2万人の中国兵の処刑はありそうなことだ。〉
ダーディン記者は、「およそ2万人の中国兵処刑はありそうなことだ」という不確かな推測を書いているのであって、見出しの断定的表現とかなり開きがあります。それにしても、2万人の根拠がよくわかりません。
2万人という数は日本側から出ていませんので、逮捕者1万5千人と市内に潜んでいる2万5千人を合わせて4万人。4万人は誇張された数なので、まあこの半数程度が処刑されたと推定すれば、大きな間違いはないのではとでも考えたのでしょうか。
なお、ダーディン記者は南京を守備する中国軍兵力を約5万人としています。
ダーディン記者は南京を去るにあたり下関門(=ゆう江門。「ゆう」は手偏に邑)を抜けました。ここで目にしたのは、第1報(上記12月18日付け)がつたえるおぞましい光景でした。
〈日本軍の下関門占領によって、守備隊の大量虐殺が起きた。
中国兵の死体は砂嚢の間に山積みにされ、高さ6フィートの塚をなしていた。
15日の夜がふけても日本軍は死体を片づけず、しかも2日間にわたり軍用車の移動が激しく、
死体や犬、軍馬の死がいのうえをふみつぶしながら進んでいった。〉
ダーディン記者は、“大量虐殺”と認識した下関門を出た先の揚子江岸で、200人という捕虜殺害を目撃していますので、日本軍に捕まった多くが処刑され、また捕まれば同じように処刑されると推定しても不思議はないでしょう。
ただ、この下関門(ゆう江門)における“大量虐殺”というのは、日本軍にすれば誤解以外のなにものでもありませんでした。というのは、山積みになったこの死体、城外に逃げるため城門に殺到した中国軍兵士が、自軍の督戦隊によって機関銃等で撃ち殺されたものでした。つまり同士討ちです。このことは多くの証言や資料があり、間違いない事実と思います。
しかも、この退散する兵士の多くは道路に武器を投げ捨て、さらに軍服を脱ぎ、便衣(べんい。一般服)に着替えるなど、民間人と変わりのない格好でしたので、その遺体も外国人記者から見れば民間人に見えたことでしょう。
死体を片づけるまでの間、死体のうえに板を渡し、日本軍の自動車が通る光景を見たダーディン記者、スミス記者(ロイター通信)らは日本軍による大虐殺と受け取った可能性は小さくはないはずです。
もう一つ、2万人の根拠と考えられる事柄があります。
城内にある鼓楼病院の医師ウィルソン(アメリカ人)の日記(12月24日)に、
〈今、2万人もの中国人兵士がまだ安全地帯の中にいるということだ。
(どこからこの数字が出てくるのか誰も分からない)が、
その兵士をすべて捜して撃ち殺してしまうと言っているそうだ。〉
とあります。
この記述が12月24日時点のものであってみれば、安全地帯(安全区)に逃げ込んだ兵士のほとんどは捕まっていないことになります。そして、捕まれば殺されるというウワサ話があったことです。
2万人の兵士数も出所不明ですから、これもウワサの域を出ないことになるでしょう。
ダーディン記者の「2万人処刑」は12月22日以前に書いたものですので、このウワサ話を耳にしていた可能性は否定できないでしょう。となれば、このウワサ話と記者の思い込み(下関門の山積み死体)が相まって、「NANKING INVADERS EXECUTED 20,000」と書いた可能性も十分、考えられることです。
いずれにしても、2万人処刑は事実に立脚したものでないことだけは間違いないでしょう。
一方の民間人数千人の殺害ですが、これも根拠らしきものは書かれていませんが、ダーディン記者の記事を参考に掲げておきます。よく読むと、自ら実見したこと、伝聞、推測がないまぜになっていて、区別がハッキリしていないと思いますが。
〈年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。
日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。
日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のように目にした。
老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、
兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。〉
(4) 国際連盟における顧維鈞演説
この2万人報道が実態と離れた数字であっても、一度、活字となって報道されてしまえば、それらは引用され、あたかも事実のように利用されるのは、この当時も今日も似たようなものかもしれません。
1938(昭和13)年2月2日、ジュネーブでの国際連盟理事会で中国代表の顧維鈞が演説し、そのなかにダーディン記者の記事を引用したところがあります。その部分の議事録は次のとおりです。
〈ただその一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起った
恐怖に対する『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。
このリポートは1月20日付けの『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものです。
特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな掠奪、強姦される女性、市民の殺害、
住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男達」
・・南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は2万人と見積もられ、
その一方で若い女性を含む何千人もの女性が辱めを受けました。〉
ダーディン記者は捕虜2万人処刑と書きましたが、この顧維鈞演説は演説では市民2万人虐殺と変わっています。こうして人の手を経ながら捕虜処刑⇒市民虐殺へと歪んでいくのでしょう。
ただ、この顧維鈞演説は日本の支那侵略を非難した長いものですが、南京について言及しているのは上記の短い引用部分だけでした。しかも報じられた新聞に根拠をおいたものでした。つまり、南京を表に立てた非難演説ではなかったことです。
なお、これより5年ほど前、満州事変にかかわるリットン調査団の報告書を審議する連盟理事会で、「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず」で始まるいわゆる「田中上奏文」を引き合いに、日本の大陸政策を非難する演説が行われました。
演説者は同じ顧維鈞で、この非難の文脈のなかで「平頂山事件」がでてくること、この南京の場合と類似しています。
(5) 連載「太平洋戦争史」とラジオ放送「真相箱」
そういえば、2万人という虐殺数、終戦の年(1945=昭和20)年12月8日からGHQ(占領軍総司令部)の命令で新聞各紙に連載された「太平洋戦争史」(全10回)にも顔を出しましたし、新聞連載につづくNHKのラジオ放送「真 相 箱」にもでてきます。
重複しますが、双方を掲げます。
〈このとき実に2万人の市民、子供 が殺戮された。
4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。
婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。〉
―1945年12月8日付け朝日新聞―
一方のラジオ放送「真相箱」は、「日本が南京で行った暴行についてその真相をお話し下さい」の問いに以下のように答えています。
〈我が軍が南京城壁に攻撃を集中したのは、昭和12年12月7日でありました。
これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、
その1週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。
この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、
実に 婦女子2万名が惨殺されたのであります。
南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、
またバラバラに散乱した死体で街全体が覆われたのであります。
この間血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕え手当り次第に殺戮、掠奪を逞しくし、
また語ることも憚る暴行を敢て致しました。〉
この女、子供を含めた2万人という虐殺数がダーディン記者の「捕虜2万人処刑」とどう関連するのか、はっきりしません。ダーディン記者は東京裁判に「口述書」を提出していますので、何らかの関係はあったとも思えます。
かりに無関係とすれば、市民2万人虐殺の出所、根拠を明らかにしなければならないでしょう。
この殺害数は国際安全区委員会の委員長であった ジョン・ラーベ(ドイツ人)ら数人の外国人による見方です。
(1) 「ラーベ日記」発見される
1995(平成7年)になって、ラーベの書き残した「日記」の存在がドイツで明らかになりました。日記は資料と合わせて800ページという膨大なものです。
ラーベの孫娘のところにヒッソリと保管されていた日記の存在を、孫娘からの連絡をうけて知ったヴィッケルト(ドイツ人、歴史家として著名とのこと)は、第1級の資料価値があると判断し出版を決意したといいます。
その結果、ドイツ、アメリカ、中国、および日本でほぼ同時の出版となりました。日本では『南京の真実』(講談社、1997年)として出版され、メディアは早速、「日本と友好関係にあったドイツ人」が客観的に記した貴重な資料などとし、「犠牲者5〜6万人」をはじめ「暴行」「略奪」に焦点をあて報じました。
編者のヴィッケルトはこの書に「帰国後のラーベ」「ヒトラーとラーベ」等を書き加え、また「日記」の編集にあたってはドイツ大使館員の記録を該当箇所に収録するなど工夫しています。
ヴィッケルトは学生だった1936(昭和11)年11月、南京のラーベ宅を訪ねたことがあり、また翌年の南京陥落当時は上海の領事館に勤務していたといいます。
そのヴィッケルトによれば、1882(明治15)年11月生まれのラーベは、1908(明治41)年に中国にわたって以来、1938(昭和13)年、中国(南京)を離れるまでの30年間を、一時の中断を除きほぼ中国で過ごしました。
ドイツでジーメンス社に入社したラーベは、1931(昭和6)年に同社南京支社の責任者になります。1934(昭和9)年にナチ党に入党しましたので、南京戦当時はナチ党員であり、この時は55を数えていました。
ヒトラーに心酔していたラーベは、ヒトラーの肖像を目の前に日記を書きつづけたといいます。また、ラーベは英仏語に堪能だったものの、中国語はダメで満足に話せなかったとのことです。
30年もの間、中国で商売をしながら中国語ができないというのは、そもそも憶える気がなかったのでは疑いたくなる事柄です。
本社の命で帰国することになったラーベは、1938(昭和13)年2月22日、南京を離れます。ドイツに戻ったラーベは、講演、映写(マギー牧師が撮影したとされる有名なフィルム)などを通して日本軍の残虐行為の非を鳴らしました。
(2) 講演で「およそ5〜6万」
編者・ヴィッケルトが記した「帰国後のラーベ」のなかで、
「ラーベの日記にも残された資料にも、虐殺の犠牲になった中国人の人数は記されていない。
それは、当然だ。当時の南京で、死体の数を数えた人はいなかったのだから。
今日では、20万から30万人が犠牲になったという説もあるが、
それについてラーベは講演で次のように述べている。」
とし、以下のように講演での言を記しています。
〈われわれ外国人はおよそ5万から6万人とみています。
遺体の埋葬をした紅卍字会(こうまんじかい)によりますと、1日200体は無理だったそうですが、
私が南京を去った2月22日には、3万の死体が、
埋葬できないまま郊外の下関に放置されていたといいます。〉
上の記述を見るかぎり、ヴィッケルトは「殺害」と「虐殺」の区別をしていないようで、少々引っかかりますが、それは置くとして、ラーベの残した「日記」「資料」に人数は書いてなかったといいます。
では、講演で話した「およそ5〜6万人」の根拠はどこにあるのでしょう。軍民の内訳をどうなのでしょう。また、「われわれ外国人の見方」とありますが、「われわれ」とは具体的にだれだれを指すのかも明らかでありませんし、日記にそれを思わす記述、例えば死者数について委員たちと意見を交わしたといった話がでてきません。
どうも、伝聞をもとにした不確かな話と受け取れますが。
(3) ヒトラー宛「上申書」
講演会のほかに、「5〜6万人」とした文書の存在が明らかになりました。ラーベがヒトラーにあてた「上申書」です。
ヴィッケルトの解説によれば、ナチ党員であった「ラーベの切なる願いは、アドルフ・ヒトラー総統に、南京占領の実態と中国人民の苦しみをじかに報告することだった」とのこと、総統の謁見がかなわないと知り、講演の草稿をヒトラーに宛てて書留で送ります。
これが、1938年6月8日付けの長文の「上申書」です。このなかに、次の文章が出てきます。
〈中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、
これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人は5万から6万人とみています。
遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、1日200体以上は無理だったそうですが、
私が南京を去った2月22日には、3万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。〉
「上申書」は講演の草稿ですから、「およそ5〜6万人」とした講演記録とほぼ同一内容なのは当然のことでしょう。ですが、これでは文脈から民間人の殺害が「5〜6万人」と読めてしまいます。
また、下関に放置されていたとする3万体がこの5〜6万人のなかに含まれているのかどうか、この短い文からははっきりしません。
・ 下関の3万人の遺体
この下関の3万の死体をラーベが見ていなかったことは確かです。
南京ドイツ大使館書記官・ローゼンの報告にも3万という数がでてきますが、これも目撃したわけではありません。
また、ミニー・ヴォートリン(金陵女子文理学院教授、宣教師、アメリカ人、女性)は婦女子用の避難民キャンプを金陵女子文理学院内に設け、彼女らを日本兵から守ろうとしたことで知られていますが、その苦闘の日記(『南京事件の日々』)にも次のように書いてあります(2月15日)。
〈南京防衛のために、どのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。
下関の周辺でおよそ3万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、
また、きょうの午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまった・・という別の情報を聞いた。何とかわいそうに。 〉
以上のことから、下関の遺体3万は埋葬にあたった紅卍字会を情報源とし、欧米人の間に広く伝わっていた可能性がありますし、この遺体が兵士であったとも読み取れます。
もっとも、この類の話が他にもあったことは、ヴォートリンの翌日(2月16日)の記録からもわかります。
「占領の初期に三沙河で1万人 が、燕子磯では2万人ないし3万人が、下関ではおよそ1万人 が殺害されたと聞いたそうだ」と、知人の中国人が話してくれたことを記しています。こういった不確かな話、ウワサ話は、混乱の中では起こるべくして起こったのだろうと思います。
ところで、この下関の3万の遺体が民間人ではなく兵士であったことを、ラーベもまた認識していたと思われます。
というのは、翌年の1938(昭和13)年2月15日付けに次の記述があるからです。
〈委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、
いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。
いままで毎日200人も埋葬してきたのに。そのほとんどが下関にある。
この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が
全滅したということを物語っている。〉
となれば、この遺体、ラーベの認識通りならば、虐殺とはとうてい言えません 。それに3万という数の信憑性ですが、ヴォートリンが聞いた1万人と違いますし、埋葬記録と照らし合わせれば、3万人という遺体はかなり過大といえるでしょう。
それに、埋葬記録それ自体に大きな問題があります。埋葬記録(東京裁判に提出)については、⇒ 別項7−3で取り上げます。
・ 東京裁判に出廷せず
ヒトラーあての「上申書」を投函してほんの数日後、ラーベはゲシュタポ(秘密警察)に逮捕されます。ラーベにとって、逮捕は「思いもかけないこと」でしたが、何時間もの尋問の後に放免されます。
そして、「今後、いかなる講演も、いかなる書籍の出版もしてはならないことになった。マギーが撮影したフィルムの上映も禁止された」とヴィッケルトは記しています。逮捕の背景に、日独防共協定の存在が考えられます。
また戦後、中国軍事顧問団はラーベの居所を探し出し、東京裁判へ検察側証人として出廷することを条件に、住居、年金を約束、中国へ移住を勧めたものの、ラーベは断ったといいます。
その断りの理由は、「私はかれらが死刑になるのを見たくはない・・それは償いであり、ふさわしい刑罰には違いない。だが、裁きはその国民自らによって下さるべきだと思うのだ」というのです。
ですが、この断りの理由、少々、キレイ事に思えるのですが。心酔していたヒトラーのユダヤ民族抹殺というおぞましい事実を、ドイツの敗戦直後にはラーベは知ったことでしょう。
なのにどうして東京裁判に出て、南京における日本軍の暴虐を声高に非難することができたでしょう。簡単な口述書でお茶を濁したのも無理からぬことと思っています。
(4) 「5〜6万人」の根拠は
さて問題は、この5〜6万人がどの程度、事実に符合しているかです。その根拠を「日記」に求めますと、数十、数百人以上の大量殺害(伝聞、推定を含む)に、次のものがあります。
@ 「元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、400ないし500人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたに違いない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ」(12月13日)
A 「日本軍が、武器を投げ捨てて(安全区へ)逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは2度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。
さっきの部隊が戻ってきて、今度は1300人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の3人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ100人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されたにちがいない」(12月15日)
B 「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。・・
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。ゆう江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字どおり死屍累々だ。・・
いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された」(12月16日)
C 「私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。
ところが、なんとそのうちの43人が処刑されていたのだ! それは3,4日前のことで、しばられて河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ」(12月22日 )
見落しがなければ、数十、数百人以上の殺害(処刑)は以上と思います(ほかに、数十の死体を沼で見たといった記録はいくつかあります)。
12月13日、15日、16日とほぼ毎日のように、このような「大量殺害」が記録されているのだから、この後も類似の殺害が数多く起こったのではと思った方も多いと思います。
ですが、そうではありません。これ以降に殺害記述はあまりでてきません。日本軍による安全区を含む城内掃討はおおむね12月13日から17日まででしたから、おそらくこのことが日記に反映されたのでしょう。
上記の中、例えばBですが、司法院にいた元兵士、警察官等を連行し処刑した事件(漢中門事件)を指したものと、日本側の資料などからわかりますし、安全区に逃げ込んだ多数の兵士を摘出、処刑したことがわかっています。
これらを含む城内の掃討については、他の事件とともに 別項9−2で取り上げます。
・ 根拠はこの程度?
もう少し、それらしき根拠が示されてないかと捜して見ますと、次の記述にぶつかります。
〈安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。
この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。
安全区の他の区域から、何百人かずつ、追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。
今までにすでに2万人が連行されたという。
一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。なんというむごいことを……。〉(12月26日)
この日までに安全区から2万人が連行されていて、その大部分が「処刑される」というのですが、前述のウィルソン医師の日記(12月24日)にある「今、2万人もの中国人兵士がまだ安全地帯の中にいるということだ。(どこからこの数字が出てくるのか誰も分からない)が、その兵士をすべて捜して撃ち殺してしまうと言っているそうだ」と合わせて読めば、2万人連行の話も処刑(銃殺)の話も、ウワサ話の域を出るものでないことが分かります。また、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者の2万人処刑(推定)とも通じているように見えます。
ですから、12月24日以前から、安全区に逃げこんだ中国人兵士が2万人いて、見つかれば殺害されるという話が広範囲に伝わっていて、これを耳にしたラーベ、ウイルソン医師が書き残したのだと思います。
ただ、ラーベ、ウイルソン医師は聞き伝えであることがわかるように記していますが、ダーディン記者の書いたNYタイムズの見出しは「2万人処刑」と断定していることです。
この安全区の2万人と埋葬されていない下関の3万体を念頭におけば、殺害数は合わせて約5万人。それにラーベが城内で見た死体や、自分の知らない殺害も1万人程度はあったと考え、「5〜6万人」程度と推定したのではないかと私は思っています。
私の推定が外れているとしても、ラーベの「5〜6万人」の根拠は、主に伝聞の上に成り立った根拠の希薄なものだったといって間違いないでしょう。
(5) 婦 女 暴 行
ラーベ日記から婦女暴行の記述をお目にかけます。
〈昨晩は千人も暴行されたという。
金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった(という)。
いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。
見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。〉(12月17日)
70年以上も前の話にしても、たった一晩でこれだけの破廉恥行為。同じ日本人として日本軍の目茶苦茶ぶりにはゲンナリさせられます。1000人の強姦は伝聞にしても、金陵女子文理学院で、100人以上の少女が被害にあったというのですから。
ですが、東中野 修道教授の非常に重要な指摘があります。
「百人以上の少女が被害にあった」と断定的に書かれたこの文章、実は原文(ドイツ語)は違っていて、伝聞として記されたものだというのです。つまり、上記引用文にブルーで挿入した「という」が訳文から落ちているというのです。
当方、ドイツ語の知識は皆無ですが、原文を示した上での同教授の指摘に間違いはないでしょう。伝聞となれば話は全然違ってきますから、この「誤訳」は重大です。
また、フィッチ の同日付けの日記に、似た記述がでてきます。
〈12月17日、金曜日。
略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて千人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。
別の婦人は5ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。〉
フィッチの方は伝聞としてではなく、断定的に書いてあります。ですが、同一人が37回強姦された話を信じる人がいれば、その人の頭(理解力)の方を疑います。
1人にかかるであろう時間を37倍するといった、くだらない計算をする気も起こりません。それに命令があれば別ですが、夜間外出はできなかったと私は日本兵(7〜8人)から聞いています。
フィッチの「ざっと計算してみても」というのは、おそらく中国人の被害申し出を勘定したという意味でしょうから、信頼性は怪しいのです。それに、安全区国際委員会が日本側に提出した公文書「暴行報告」との整合性の問題もありますので、別途、とりあげます。
(6) 略奪ほか
殺害以外の非違行為(略奪等)について、次の例があがっています。
〈(日本側の要請で外国人の受けた物的損害の)リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、2万3千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。
クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。
昼食のとき、兵隊が3人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。おまえらに扉なんかあけてやるものか。
クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。今度は6人。今回もやはり塀越しにご退場願った。思えば、こういう目にあうのもそろそろ20回近くになる。〉(12月23日)
ラーベの家の庭(約500u=150坪程度)は避難民に解放され、多いときで約600人(男女各300人)がここを生活の場にしていたといいます。
上の記述は日本軍が入城して10日後ですので、単純に計算すれば1日に2回ほど日本兵がやってきたことになります。ドイツ人であるラーベはハーケンクロイツの腕章を見せ、ときには「ヒトラー」と叫ぶと日本兵は退散したとのこと、もっとも、アメリカ人の家でこうはいかなかったとしています。
この記述が事実かどうかは、疑問が残ります。次の(7)を参照ください。
(7) シャルフェンベルク事務長の記録
南京にあったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長の記録がこの「ラーベ日記」に紹介されています。編者のヴィッケルトが加えたものです。
〈ラーベ氏は委員会代表として、並外れた貢献を果たしたが、私のみるところ、
アメリカ人にうまく手なずけられ、アメリカ人の利害、そして信徒獲得に懸命の伝道団に肩入れしすぎている。〉
〈・・最近またぶり返した日本兵による血なまぐさい事件を阻止すべく、あいかわらず奔走している。
だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ。
ほかに頼る相手がいなくなった暁には、中国人は手のひらを返すように
日本人と兄弟のような交わりするのは目に見えているのだから。
第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。〉
中国人が申告するままに、ラーベら安全委員会の委員が記録していたことは、日本側からも同様な証言(福田篤泰書記官)で裏づけされます⇒ 6−1。
ということは、強姦など暴行事件に関する欧米人の記録は、相当に割り引く必要があることを示しています。
(8) 「ラーベ日記」をどう見る
日本人研究者の間で、ラーベ日記の資料価値を評価する人がいる一方、反対にまったくといってよいほど認めない人もいます。ただ、「日本と友好関係にあったドイツ人」の記録であるがゆえに信頼性の高い資料とした新聞報道はおそらく間違いで、むしろドイツは蒋介石政府と友好的でした。
だからこそ、30余人のドイツ人軍事顧問団が南京に派遣されていましたし、兵器も供給(販売)していたのですから。
それでも、資料価値は高いと思っています。私たち日本人にとって不愉快な記述も数多くでてきますが、日本側の言い分を補強する記述もかなりでてきます。
たしかにラーベはナチ党員でしたし、ヒトラーを敬っていました。またジーメンス社は、電話、発電機、医療機器などを南京市相手に販売していましたから、これらのことをもって「日記」は信用できない、偏向しているというのかもしれません。
ヴィッケルトは、当時ドイツ人は3種類に分けられるとされていたといい、「立派な人間でありながらナチだった人間は、インテりではない。なぜなら、ヒトラーを見抜けなかったからだ」というグループのなかに、ラーベは入るとしています。そして、ナチ党員にならず、ヒトラーの正体を見破っていた人間が「インテリ」だったというのです。
ラーベが立派な人間であったかどうかはともかく、少なくとも悪い人間ではなく、善人の部類に入るだろうと思います。ただ、日本人(そして中国人など)に対する人種的偏見はあったと思います。
南京で生活し、仕事・収入の基盤を中国に置くラーベにしてみれば、迫り来る日本軍に反感を持ち、実際に非違行為を目にすれば日本軍を責め、中国人に同情するのはむしろ自然なことでしょう。
それにラーベは弱い立場にある一般中国人に同情するものの、中国軍それも唐生智ら指導者たちに厳しい批判を浴びせています。
日を追って書く「日記」ですから、前後でつじつまの合わない記述もあるでしょう。記述について、故意による事実歪曲が出てくれば別でしょうが、実見したものと聞き伝えのものとを区別し、他の資料と突き合せなどすれば、十分資料としての価値はあると思っています。