―主要な事件 2―
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柳川中将率いる第10軍隷下の127旅団・第114師団・歩兵第66連隊(宇都宮)は、第6師団と連携しながら、南方より南京城に迫りました。
12月14日朝、同師団の102連隊(水戸)につづき第66連隊は中華門(=南門)から入城します。
(1) 戦闘詳報にみる戦闘経過
第66連隊第1大隊の「戦闘詳報」(抜粋)が偕行社発行の『南京戦史』に掲載され、戦闘経過を次のように記録しています(211ページ)。
〈 12月12日の戦闘
第4中隊(注、第1大隊)は邁進し来たれる配属の軽装甲車中隊と協力し、擲弾筒、手榴弾を以て頑強に家屋に拠り抵抗する敵を制圧しつつ侵入す。
敵は最初歩兵砲を撃ち、手榴弾を屋上より投擲(とうてき)して抵抗せるも、装甲車の威力と歩兵の勇敢なる突進に惧(おそ)れをなし、逐次白旗を揚げて投降するもの続出せり。〉(原文カナ、以下同じ)
第1中隊方面は当初、敵に阻まれたものの、第4中隊の進捗に伴って「之に呼応して猛突し逐次掃蕩し、之又、多数の捕虜を得」、第3中隊は大きな抵抗を受けることなく進捗しました。
〈(12日)午後7時頃、手榴弾の爆音も断続的となり、概ね掃蕩を終り、我が損害極めて軽微なるに反し敵700名を殪(たお)し、捕虜1500余名及多数の兵器弾薬を鹵獲し、諸方面に遁入、南門城扉を鎖され、退路を失いし敵を城壁南側「クリーク」の線に圧迫し、殆んと殲滅し其策動を封ずるを得たり〉
「戦闘詳報」を読む限り、戦闘は日本軍にとって順調な展開になりました。「南門」は中華門の通称です。
(2) 「旅団命令」による捕虜殺害
この大量の捕虜、通常の扱いであれば問題はないのですが、上記『南京戦史』(317ページ)に以下の記述があります。
〈雨下門外において、第114師団歩兵第66連隊第1大隊は12月12、13日の間、
投降兵1,657名を捕虜とし、13日午後全員を処断した〉
(66連隊第1大隊戦闘詳報)
雨下門は中華門の東隣りに位置する城門で、66連隊第1大隊の「戦闘詳報」は、上記「捕虜1500余名」につづいて、さらに詳しく「1,657名」と記録しているようです。
しかも、この大量の捕虜全員を「処断」したというのです。
次をご覧ください。同じ「戦闘詳報」からの引用です。
最初の捕虜を得た際、うち3名を伝令とし、
〈抵抗を断念して投降せば助命する旨を含めて派遣せるに、其の効果大にして其の結果我が軍の犠牲を尠なからしめたるものなり。
捕虜は鉄道線路上に集結せしめ服装検査をなし、負傷者は労はり、又日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、更に伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり、一般に観念し監視兵の言を厳守せり。〉
日本軍は抵抗を止め、投降すれば「助命する」といわば約束し、投降を勧めたはずでした。ところが、全員を処断したというのです。監視兵の言をよく守ったのにです。
処断の経過といえば、旅団より下記のごとく、「捕虜全員殺害」の命令が下ったためでした。
(3) 連隊長命令
〈午後2時0分、連隊長より左の命令を受く
イ、旅団命令に依り捕虜は全部殺すべし。其の方法は十数名を捕縛し、逐次銃殺しては如何。
(ロ、 省略)
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり。貴大隊の任務は前通り。
右命令に基き午後3時30分、各中隊長を集め、捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果、各中隊(第1、第3、第4中隊)に等分に分配し、監禁室より50名宛連れ出し、第1中隊は露営地南方谷地、第3中隊は露営地西南方凸地、第4中隊は露営地東南方谷地附近に於て刺殺せしむることとせり。
但し、監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し、連れ出す際、絶対に感知されざる如く注意す。
各隊共に午後5時準備終り、刺殺を開始し概ね午後7時30分刺殺を終り、連隊に報告す。〉
大筋は以上の通りで、「捕虜全員処断」に疑問を突きつけるような資料、証言等はないようです。
また、第1中隊は当初の予定(刺殺)を変更(理由の記載なし)、「一気に監禁し焼かんとして失敗せり」とも「戦闘詳報」は短く伝え、各隊の対応が一様でなかったことをうかがわせます。
(3) そ の 他
処断対象になった投降兵(⇒捕虜)「1,657名」が、実数とどの程度差異があるか、つまりどの程度「水増し」されているかがよく問われるのですが、具体的人数を記した信頼し得る資料が出ていない以上、「1,657」名殺害を受け入れざるを得ないでしょう。
とくに書きませんでしたが、この「捕虜処断」は経過から見て「虐殺」に相当すると判断します。
なお、『南京戦史』(317、318ページ)は、捕虜処断について、以下のように記していますのでご覧ください。
〈歩66第1大隊の戦闘詳報をみると、隣接部隊等の戦況の進捗状況とチグハグの部分や、軍事的慣例と異なる記述などがあり、了解し難い部分があるが、13日午後2時の連隊命令「旅団命令により捕虜は全部殺すべし。・・逐次銃殺しては如何」にしたがい全員を処断したと記述されている。
全文を通じその表現は極めて異様である。〉
ただ、66連隊の戦闘詳報が未収のため、「連隊側の下達命令文は不明である」としている。つまり「異様」とはいうものの、資料不足で証明できないというのでしょう。
また、「一旦捕虜として収容したものを何ゆえ歩66連隊長が処断の指示を出したかについては、その経緯を立証し得る資料(連隊側の命令、連隊長の日記等)がなく、不明といわざるを得ない」としています。
当時の参戦者・高松半市(第4中隊1等兵)は、「当時第1大隊各中隊(1,3,4中隊)で満足に行動できる兵は7,80名程度であった。また、捕虜の数も1,657人の半分以下で、第4中隊が処分した数は100名ぐらいであった」と述べているとします。
高松証言の約100名が概ね正しいとすれば、第1大隊の処断数は300名程度(100×3中隊分)となり、戦闘詳報との差が大きすぎるでしょう。
高松証言のみによる処断数の少数判断は参考にできる点はあっても避けるべきと思います。
12月13日早朝、南京は陥落し、日本軍は中山門(東側)、中華門(南側)などいくつかの城門から入城しました。中国軍は崩壊に瀕したとはいえ、主に城内西北部を中心に依然として戦闘力を持った兵力が立てこもっていました。
また、安全区(難民区)にも武器を持った兵多数が紛れ込んでいたのは間違いのないところです。ただ、城内といっても「南京城東部は広漠たる空地」(山崎正男少佐)であったり、畑も多くあり、もともと人影もまばらな地域も少なくありませんでした。
日本軍は下関地区を含め城内を7区域にわけ、それぞれ担当部隊を決め14日より組織だった掃討戦に移りました。
この過程で問題とされる「殺害事件」が発生したのですが、主なものは第7連隊(第9師団)が担当した安全区、それに第20連隊(16師団)が関係した地域でした。まず、20連隊の敗残兵殺害から見ていきます。
(1) 玄武門における処刑
12月13日午前、20連隊は中山門から入城、掃討戦に入りますが、この日はまったくといってよいほど抵抗はなかったと、第1大隊第3中隊の森 英生中隊長らは話していました。
森中尉は例の「郵便袋事件」(東裁判 )であらぬ嫌疑をかけられた橋本分隊長が所属した中隊の長で、名誉棄損裁判では積極的に原告側のために力を注ぎました。
第1大隊の命による第4中隊(坂清中隊長)の掃討、12月14日の模様を増田 六助上等兵は次のように記しています。
・ 増田六助上等兵の記録
〈明れば14日、今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。(略)
各小隊分かれて、それぞれ複雑な支那家屋を一々捜して男は全部取り調べた。
其の中にある大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服と着換へつつある所を、
第2小隊の連絡係前原伍長等が見つけた。それと言うので飛込んで見ると、何の其の壮々たる敗残兵だ。
傍には小銃、拳銃、青竜刀等兵器が山ほど積んであるではないか。(略)
片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂下がっている電線で引くくり珠々(数珠)つなぎにした。(略)
少なくとも300人位はいる。一寸多すぎて始末に困った。
しばらくして、委員会の腕章をつけた支那人に「你支那兵有没有」と聞くと、
向こうの建物を指差して、「多々的有」と答える。其の家に這入って見ると一杯の避難民だ。
其の中から怪しそうな者千名ばかり選びだして一室に入れ、
又其の中より兵隊に違いない者ばかりを選り出して最後に300人位の奴らを縛った。(略)
夕闇迫る頃、600人近くの敗残兵の大群を引き立てて、
玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった〉
―『南京戦史 資料集Ⅰ』―
この記録は、『南京への道』(本多勝一、朝日新聞社、1989年)にも「坂本」という仮名で引用されています(265ページ~)。
増田上等兵の存在は、「平和のための京都の戦争展」実行委員会が捜し出したといい、本多記者もまた増田本人から話を聞き取って、同書に記しています。
また増田上等兵とは別に、銃殺に立ち会った上等兵の「陣中日誌」も同書に紹介されています。日誌は匿名を条件に家族が朝日新聞社に提供したもので、本人は戦死したとのことです。
12月14日(晴天)の分を同書より引用します。
〈大きな一家に千名程難民と一緒になって居たので、
・・約はい残兵らしきもの500名ばかりより出した。
中には連長とか、相当な支那の将校も居た。
1ヶ小隊をもってはとても殺す事が出来ないので、
第1機関銃より機関銃2門をたのみ、なほ中隊の経機6銃で、
小銃兵全部集まり、遠くの城へきの山ぎわにはい残兵を全部集めて、
経機、重機の一声射撃により全部射ち殺した。見るもあわれな光景である。〉(誤字等も原文通り)
増田記録とこの匿名上等兵の「陣中日誌」は、内容がおおむね一致していますので、敗残兵殺害を疑う理由はありません。
また、同中隊の「陣中日誌」 には、
一、 西作命第170号により、午前10時より城内第2次掃蕩区域の掃蕩を実地す
二、 敗残兵328名を銃殺し埋葬す
三、 鹵獲兵器 左の如し(以下略)
とあり、殺害事件を裏づけています。「西作命」は第1大隊長・西少佐の作戦命令の意です。
一言添えます。中隊「陣中日誌」の「328名銃殺」を、本多は最初に見つけた建物の約300人のものとし、次に見つけた司法院の約300人を別の虐殺としていることです。
おかしな解釈をするもので、増田上等兵は「夕闇せまるころ、600人近くの敗残兵の大群を引き立てて玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった」と書いているように、600人(300人+300人)を一度に銃殺したとします。
ですから、「328名銃殺」はこの“600名”に対応した記録であると考えなければならないでしょう。
違うというのなら、2番目の殺害を記した「陣中日誌」など、根拠を示すべきなのです。
・ 国際委員会書簡 第7号
はじめに敗残兵を見つけた大きな建物がどこなのか、増田記録から分かりませんが、支那人が指差した建物が中山路に面した司 法 院(上地図の赤丸、安全区内)であることが、12月18日付け国際委員会書簡文(第7号)から判明します。
同書簡の終わりの方に、「司法部収容所備忘録」として以下のごとく記されているからです。
「12月14日 日本軍官1名は同処の難民半数を検査し、
当時2~300名が兵役に服したる嫌疑により逮捕せられ、残りの350名は市民なることを確認せり。
第1次検査は甚だ慎重にして、右軍官は尚半数の難民あるも15日検査を行う旨宣言せり。・・」
したがって、初めに敗残兵を見つけた大きな建物は司法院(司法部)の近くだったことになります。
さて、この銃殺による処刑をどう考えるかですが、今日の日本人のほとんどの見方は、残酷であり、武器を捨てた兵を処刑するのは人道に反すると考えるに違いありません。
ただ、こうも考えられるでしょう。「殺さなければ殺される」が戦場の現実であり、直前まで自分に銃を向け、多くの戦友の命を奪った敵が、武器を捨て、軍服を便衣に着替えたからといって、それで戦闘が終わりになるわけもないと。
・ それでもなお「虐 殺」
「殺らなければ殺られる」という話は、多くの兵士から耳にしました。また、上海戦以降、多くの戦友を失った兵士の感情は私たちの想像を超えたものでしょう。
同じ状況下であれば、日本軍と同じ行動をとった他国軍も多かったでしょうし、逆に助けた例もあったことでしょう(この南京戦でも大量の敗残兵を釈放した例があります)。
こういった事情を斟酌してもなお、この処刑を正当化することはできず、やはり分類すれば「虐殺」に含まれると思います。
実際に南京で取材にあたった足立 和雄(東京朝日新聞記者)の感想(⇒ 6-2)が急所を言い当てていると思うからです。
インタビューでは「大虐殺なんて見ていない」と答え、また朝日新聞紙面をも批判する足立記者は、1回だけ日本軍が「数十人の中国人を、塹壕を掘ってその前に並ばせ、機関銃で射った」(要旨)のを目撃したといいます。
そして、「とりかえしのつかぬことをした」「支那人の怨みをかったし、道義的にもう何もいえないと思いました」 と感想を述べています。
この感想は理解できます。現場を目撃すれば、足立記者と同じように、たぶん私も感じたことでしょう。
武器を捨てた兵士を玄武門付近に連行、殺害したことは、足立記者が見た処刑と同様、「支那人の怨みをかったし、道義的に何もいえない」行為であり、処刑を将校に限定したのならまだしも、一般兵士も処刑したのは道義にもとると思います。それに、緊急性も高くなかったと思いますし。
明治の日本軍が義和団事件、日露戦争等で世界から賞賛を浴びた誇れる軍隊であり、その核となる武士道の精神を昭和の軍隊が受け継がなければならなかったはずです。
だからこそ、入城にあたって、全軍に以下の「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」が下達されたはずでした。
1、皇軍が外国の首都に入城するは、有史以来の盛事にして、永く竹帛に垂るべき事績たりと世界の斉しく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組を以て、各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等、絶対に無からしむるを要す。
2、 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬抑せしめ、苟(いやしく)も名誉を毀損するが如き行為の、絶無を期するを要す。
3、 以下略
昭和の軍隊が明治の軍隊の持つ武士道精神を核とする一種の気高さを継げなかったことは、大きな汚点を後世に残したと思います。もちろん、上層部の責任であることは疑いないと思います。
(2) 漢中門における銃殺
この出来事は、上に記した「玄武門における銃殺」につづくものです。
上記国際委員会の第7号文書に、「第1次検査は甚だ慎重にして右軍官は尚半数の難民あるも15日検査を行う旨宣言せり」とありました。
この宣言とは違って「15日には軍官来たらず」、16日になってやってきたことが同じ7号文書に記され、16日の模様を短いながら次のように記しています。
〈12月16日朝 日本兵数名が軍官指揮の下に司法部大楼に赴き、
男性の難民を拘引銃殺せんとし、又警察官50名を同時に拘引せり。〉
つまり、14日に調べきれなかった司法部(司法院)の難民を、16日になって将校(軍官)1名と日本兵数名がやってきて、警官50名ほかを拘引したというのです。「日本兵数名」という点にご注意ください。
前日(17日付け)の第6号文書にも、司法部内に駐屯していた「警察官50名、志願警察官45名」が捕らえられたと記していますが、6号文書、7号文書ともに警察官以外の人数について、まったく触れられていません。
この連行にあたって、マッカラム(アメリカ人、宣教師)、リッグス(アメリカ人、金陵大学)の2人が立ち会っていましたが、「日本軍は3度軍刀を以ってリッグスを脅かし、且つ、胸部を痛打せり」(7号文書としています。
・ 朝日が伝えた同事件
1984(昭和59)年7月30日付け朝日新聞は、〈南京虐殺 教科書裁判に一石〉の大見出し、また小見出しで〈一兵卒の陣中日誌と伍長徳証言〉とし、この事件について報じました。報告者は本多勝一編集委員です。
「敗残兵残らず射殺」「掃射⇒クシ刺し⇒焼く」といった週刊誌顔負けのセンセイショナルな見出しは、またかといった感じですが、読者への影響は大きかったことでしょう。
報道は朝日に提供された匿名上等兵の「陣中日誌」にある玄武門における処刑、および東京裁判に証人として出廷した伍 長徳 (警察官) の「証言」を軸に、漢中門における殺害の模様を記した残酷物語です。
「教科書裁判に一石」とする一見記事と無関係に見える主見出しは、進行中だった家永 三郎 ・元中央大学教授を原告とする第3次教科書裁判への影響を狙ったためでしょう。
「南京虐殺」などにつけた文部省の検定意見は不当であり、検定そのものが違憲という家永側の主張でした。
伍 長徳は東京裁判に出廷、証言していますが、本多記者は伍に直接インタビューし、さらに詳しく話を聞きとっています。内容はこの朝日紙面と『南京への道』で報じています。
伍によれば、司法院に避難していたところ、12月15日朝(16日の間違いの可能性大)、日本兵数十人が突然入ってきて、青壮年男子を片端から外に追い立て、ほかの建物からも追い立てられた避難民を合わせ、「2000余人」に達したとします。
一団は徒歩で漢中門に連行され、そこで100人余りの小グループにナワで分けられる。小グループは順に現場に連れていかれ、機関銃による銃撃をもって殺害された。
後の方のグループに入っていた伍長徳は、銃撃のなかで助かり、うつ伏せになってじっとしていたところ、急に背中に激痛を覚える。
生存者をさがしていた日本兵が銃剣でもって「上に倒れている人体を貫いて伍さんをクシざしにしたのだ」。殺害が終わった午後5時頃、今度は日本軍はガソリンをかけ火をつける。伍は火のついた着衣を脱ぎ捨て、川に飛び込んで助かったというのが証言の内容です。
・ 「4000人虐殺」の根拠なし
必要があって、ちょっと、横道に入ります。
匿名上等兵の「陣中日誌」は『南京への道』(朝日新聞社、1989年)に記されています。
12月14日の日記はすでに引用した玄武門における銃殺場面でした。翌15日は部隊の入城式に関する記述で、次のように記してあります。
〈12月15日 晴天 今日は午後入城式があるので午前中は何もなくて休んだが、午後は中隊は入城式に参加したが、我々一小隊はほかく兵器(野砲、高射砲)の監視で後に残った。・・ 〉
日本軍の入城式は12月17日ですが、16師団の入城式が別に行われましたので、この記述に間違いがあるわけではありません。
つづけて12月16日のところを見ておきましょう。誤解の生じないように、全文を『南京への道』から引用します。
〈12月16日 午前8時集合して、小隊は中隊と同じく、中山門より約3里半の処にて
山中にかくれて居るはい残兵をそうとうすべく位置についたが、
命令が変りて、〇〇〇(不明)で一夜を明かして明日より又城内に帰るとの事だ。
〇連隊のはい残兵のそうとうで、城外に4千人ばかり集めていた。〉
よくご覧になってください。「〇連隊」がどこの連隊か分かりませんし、4000人にしても伝聞なのか、目撃したものかもはっきりしません。「集めていた」と書いてあるだけです。かりに目撃したにしても、「4000人」という数が分かるわけがありません。
その後(12月17日以降)の日誌に4000人がどうなったか触れられておりません(少なくとも『南京への道』に書いてありません)。
にもかかわらず、本多は、〈16日に「〇連隊」が集めた「4千人ばかり」も、この文脈と前例によればすべて虐殺されたことであろう。〉と書いてしまいます。
多くの読者はなんの違和感もなく読み、かつ信じてしまうのでしょう。ですが、実にいいかげんな「論法」なのです。
「この文脈と前例によれば」というように、とらえどころのない理由、不確かな事例を並べ、「だから」といって「全員虐殺」と結びつけるのです。
・ 怪しげな今井・東京朝日記者の目撃談
例をあげましょう。この匿名上等兵の「陣中日誌」の前に、本多は今井 正剛・東京朝日新聞記者が「途方もない大量の虐殺について次のように書いている」とし、今井記者の“2万人虐殺”の目撃談を3ページ以上も使って引用します。
この目撃談は「特集 文藝春秋」(1956年12月号)に掲載された「南京城内の大量殺人」ですが、これが実に怪しげな目撃談なのです。以下、一部を抜きます。
〈ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、ひたひたと、ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。しかもそれが、いつまでもいつまでも続いている。数百人、数千人の足おと。その間にまじつて、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。
外套をひつかぶって、霜凍る街路へ飛び出した。ながいながい列だ。どこから集めて来たのだろうか。果てしない中国人の列である。屠所へひかれてゆく、葬送の列であることはひと眼でわかつた。
「どこだろうか」
「下関(シャーカン)の碼頭だ」
「行つて見よう」(略)
足もとを、たたきつけるように、機関銃の連射音が起つてきた。わーんという潮騒の音がつづくと、またひとしきり逆の方向から機関銃の掃射だ。(略)
何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であつたほかは、その大部分が南京市民であつただろうことは想像に難くなかつた。(略)
「書きたいなあ」
「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」(略)
河岸へ出た。(略)
とみれば、碼頭一面はまつ黒く折り重さなった屍体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、50人、100人ばかり、ずるずるとその屍体を引きずつては河の中へ投げ込んでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パントマイムのような静寂。(略)
やがて作業を終えた“苦力たち”が河岸へ一列に並ばされた。だだだつと機関銃の音。のけぞり、ひつくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行った。終わりだ。
下流寄りにゆらゆらと揺れていたポンポン船の上から、水面めがけて機銃弾が走つた。幾条かのしぶきの列があがつて、消えた。
「約2万名ぐらい」
とある将校はいつた。(以下略)〉
本多記者は、この“2万人虐殺”などを「前例」にあげ、上記の「4000人」が「すべて虐殺されたことであろう」と結論づけます。
ですが、今井レポートがとんだ食わせ物だったことが分かっています。
「今井君は自分で見て書く人じゃなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている。
・・今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった 」
と足立朝日記者は質問に答えていますし、五島広作・大阪毎日新聞記者は今井記者本人が「興味本位に書いた」と白状していることを記しています(⇒6-2 足立、五島、守山記者参照)。
これらは『南京への道』が出る前に公になっていたのですから、本多記者が知らないわけがなく、知らなかったとすれば知ろうとしなかったに違いありません。
ですが、多くの読者は疑問を持たずに今井記者のレポートをすべて事実だと思ってしまいます。ただ、下関で大量殺害が行われたことは事実です。
日本軍の非行となれば、未検証や怪しげなものまで含む証言や資料を数多く並べ、読者が「酷い、残酷だ」 と思うのを見越して、結びつきの希薄な「4000人殺害」もまた事実だと思わせるのです。
本多お得意の印象操作であり、デマゴーグ(大衆煽動家)がよく使う論法です。
・ “4000人”と伍長徳証言は無関係
朝日報道にもどります。
匿名上等兵の敗残兵銃撃の日記(12月14日分)につづく記事は次のとおりです。
「この2日後(16日)には同師団の別の連隊が
4千人を駆り出したのを目撃、これも虐殺されたらしい。」
とします。「〇連隊」が「別の連隊」になり、根拠を示すことなく「虐殺されたらしい」とここでも書きます。
そして、
〈この日誌に出てくる「4千人」よりは少ないらしいが、ともかく千のケタの虐殺現場から生還した一例が伍長徳さんである〉
として、伍長徳証言にバトンを渡します。
この報道を読んだ人は、匿名上等兵の書いた「4000人」と伍長徳の「2000人余り」殺害とが関係があると思い、「2000人余」殺害も事実だ思うはずです。
よく記事を読めば両者は別の出来事と分かりますが、多くの読者は気がつかないでしょう。こういうところが本多のずるいところで、無関係の両者が関係があるかのごとくに読めるように書くのです。
伍長徳(警察官)が連行され、銃撃にあいながらも運よく助かったことは間違いないと思います。ですが、「2000人余り」というのはどうでしょうか。
伍らを連行した部隊の記録が残っていればはっきりしたのでしょうが、見つかっていませんので、確かなことは言えないのです。それに、連行した部隊の特定ができていません(7連隊?)。
「ラーベ日記」の12月16日のところに、
〈たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、
安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。
兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。〉
とあります。伝聞ながら数百人の処刑と記されていて、警察官50名とあることから、この記述が漢中門での殺害を指している可能性が高いでしょう。警察官50名は国際委員会の7号文書と一致しています。
また、フィッチ(YMCA副委員長、宣教師、アメリカ人)が書いた『戦争とは何か』の第1章後半に、司法院と最高法院の避難民全員と警官50名が連行されたと記していますが、具体的人数は書いてありません。
日本側では23連隊(第6師団)の折田 護少尉の「陣中日誌」に次のようにあります。
〈12月16日 晴・・聞くところによれば、本日約1,000名の俘虜を得、これをカンチュウ門外にて全部銃殺又は斬殺せる由にて、之等は全部地下室にかくれ居たるものなりと、正に驚くのほかなし〉
伝聞ですが、日にちおよび場所(漢中門外)が符合していますので、この事件を指しているのかもしれません。
これ以外に、これといった資料がありませんが、人数をある程度絞ることは可能でしょう。
つまり、ラーベ日記の「数百人」を軸に考えれば、間違いの幅を抑えられると思われます。いずれにしても、伍長徳の「2000人余」は相当に水増しした人数といえます。
(3) 安全区掃討にともなう処刑
日本軍が入城すると、軍服を脱ぎ捨てた多数の中国兵が、一般服(便衣)に着替えるなどして安全区内に逃げ込みました。当時撮影されたフィルムにも、安全区に接する道路、中山北路一面に大量の衣類、鉄帽などが散乱している模様がはっきり映っています。
安全区は難民の保護を目的とした「中立地帯」ですから、安全区国際委員会が中国兵の侵入を防止する義務があります。委員会もそう認識していました。
日本大使館に宛てた国際委員会書簡第2号(1937年12月15日付け)に、以下のように書いてあります(要旨)。
〈委員会の本意は、難民区には1名の中国兵も留めないようにし、12月13日午後までは相当に成功を収めていた。
当時、中国兵数百名が北方から難民区に入り援助を求めたため、委員会はただちに彼らに保護できない旨を告げ、
もし武装を解除し、抵抗を放棄すれば日本側はあるいは寛恕を与えるかもしれないと述べおいた。
・・13日夜は混乱の中にあって、武装を解除しようとする中国兵と市民とを隔離できず、
しかも一部中国兵は軍服を脱ぎ去り、さらに判別が難しくなった。
・・貴軍当局が人道を重視し、俘虜を保護し仁慈の態度をとるよう希望する。
当委員会の意見としては彼らを使役にあて、市民生活に帰らせれば誠に結構なことと存じます。〉
いったん軍服を脱ぎ、普通服で難民区(安全区)に入り込めば、中国兵と一般市民との判別が難しくなります。武器を隠し持っていると考えたうえで日本側は掃討に当たらなければなりません。厄介な問題を日本軍は抱え込むことになりました。
逃げ込んだ兵士数について正確な数字はないようですが、「難民区に遁入せる便衣兵数千人」(松井石根大将の「陣中日誌」)とありますので、大量の兵士が紛れ込んだわけです。
NYタイムズのダーディン記者は、
〈南京掃討を始めてから3日間で、1万5千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。
そのとき、さらに2万5千人がまだ市内に潜んでいると強調した。
・・日本軍のいう2万5千人という数は、誇張が過ぎるかもしれないが、・・〉
と記しています。
また、鼓楼病院の医師ウィルソン(アメリカ人)の日記(12月24日)には、
〈今、2万人もの中国人兵士がまだ安全地帯の中にいるということだ。
(どこからこの数字が出てくるのか誰も分からない)が、・・〉(丸カッコ内も原文)
とあって、出所不明ながら、24日にまだ2万人が安全区にいると記しています。24日には安全区の掃討はほぼ終わっていましたので、「2万人」が信頼できる数ではありませんが、とにかくその時々に都合のいい憶測が出回ります。
・ 7連隊が掃討を担任
日本軍は安全区の掃討を第9師団第6旅団隷下の第7連隊(連隊長・伊佐 一夫大佐)に命じました。第6旅団には7連隊(金沢)、35連隊(富山)の2ヵ連隊が所属しています。
上略図が示すように、中山路、中山北路、南側の漢中路、それに城壁(西側)に囲まれた地域が7連隊(7i )の掃討区域で、安全区を含むこの区域を3分割し、北から順に第3、第1、第2の各大隊が担任しました。
掃討の概略を知るために、まず伊佐連隊長の「日記」をご覧ください。別に7連隊の「戦闘詳報」も残っていますが、後に記すことにします。
12月14日 朝来掃蕩を行う。地区内に難民区あり。避難民約10万と算せらる。
12月15日 朝来担任地域内の掃蕩を行う。午前9時半より旅団長閣下と共に地区内を巡視す。
12月16日 赤壁路の民家に宿舎を転ず。3日間に亘る掃蕩にて約6500を厳重処分す。
15日までの掃討で将校の摘発がなかったため、16日に「難民区」掃討を徹底的に行うことになったと7連隊の作戦命令は以下のごとく記します。
1 本15日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れば、ほとんど下士官兵のみにして将校は認められざる情況なり。将校は便衣に更え、難民地区内に潜在しあるが如し
2 連隊は明16日全力を難民地区に指向し、撤退的に敗残兵を掃蕩せんとす(以下略)
徹底的掃討に入った16日は南京入場式の前日にあたります。
16師団参謀長の中沢 三夫大佐らは17日入城式は「治安の責任が持てない」からとし、20日以降にと進言したにもかかわらず、松井 石根大将(中支那方面軍司令官)は、早すぎる感なきにしもあらずだが、あまり入城を遅らすのも面白からず、「断然、明日入城式を挙行することに決す」とゴリ押ししたために、16日掃討が荒っぽくなったと指摘されています。
いずれにしても問題は、「厳重処分」した6500人という数の信頼性と「厳重処分」が具体的に何を意味し、それが虐殺にあたるかどうかにあるでしょう。
・ 兵士の「日記」に見る掃討の実態
掃討の実態がどのようなものだったのか、7連隊の2人の兵の記録が参考になります。
水谷 荘1等兵(第1大隊第1中隊)と井家 又一上等兵(第1大隊第2中隊)の残した日記で、『南京戦史 資料集1』に収録されています。
・ 水谷 荘1等兵の日記「戦塵」(摘 記)
12月13日 引続いて市内の掃蕩に移る。市内と言っても大都市南京、ほんの一部分の取りついた付近の小範囲に過ぎないが、おびただしい若者を狩り出して来る。色々な角度から調べて、敵の軍人らしき者21名を残し、後は全部放免する。
12月14日 昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当り、若い男子のほとんどの大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の21名と共に射殺する。
12月15日 今日も又移動。昼食携行で日本領事館の方向、難民区に行く。経路は中山路だろうか、広い道はぎっしりと路面を覆いつくして、逃走の間際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋めつくされていた。
弾薬等も多数放置され散乱していたが、兵器の類はその割合に少なく感じられた。
行けども行けども、どこ迄歩いても衣服は道路を埋め尽くし、これを踏みつけては歩き通した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。その膨大な数量にも驚いたが、この軍服を脱ぎ捨てた敵将兵がことごとく市内に潜伏していたとしたら、城内にはおびただしい残敵が、便衣をまとって好機を狙っているのかも知れない。
この点は特に十分な警戒が必要であろう。 今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。
12月16日 午前、中隊長と2人だけで、宿舎北方の山寺へ行く。由緒ある古寺らしく、その規模の壮大さに先ず圧倒された。ここは敵の憲兵第2団が置かれた跡であることが、遺留された書類や物品で判明した。
憲兵隊らしからぬ戦闘部隊用の兵器、弾薬等がおびただしく集積されていて、水冷式重機関銃1挺を発見する。其の他被服類の梱包等数えきれない物資が、年輪を経た巨木の繁みの陰に積み上げられていた。
午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃討する。目につくほとんどの若者は狩り出される。
子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第1中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。
その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。
市民と認められる者は直ぐ帰して、36名を銃殺する。
皆必死に泣いて助命を乞うが致し方ない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだい(ろ?)う。多少の犠牲者は止む得ない。
抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。
12月17日 昨夜12時頃、非常呼集があって、第1機関銃中隊は揚子江江岸に1200名の銃殺に行っていたが、夜に入り、それまで死体を装っていた多数の相手に包囲され苦戦中とのこと。急遽出動したが、途中で大隊本部よりの命令で、概ね鎮圧した由、長以下10名が応援に行き、他は帰る。
この日記を見るかぎり、水谷1等兵が行動を共にした第1中隊は、百数十名を摘出、うち36名を銃殺した(16日付け)というのですから、そのまま解釈すれば2~3割り程度を処刑、残る7~8割程度は釈放したことになりそうです。ただ、38名の銃殺が、いつ、どこで行ったのか分かりません。
とにかく、こうして連行された“1200人”は揚子江沿岸に集められ、16日深夜から17日朝にかけて銃殺されたようですが、抵抗もまた受けたようです。
ただ、水谷1等兵は現場に行っていないため、その模様は日記に書かれていません。この1200名が第1大隊だけのものか、他の大隊分を合わせた数なのかはっきりしません。
ただ言えることは、揚子江沿岸に集められた「摘出された兵士」は武装解除されたはずですから、抵抗があったにしても丸腰であることを考慮しなければならず、殺害の完全な正当化は困難と思われます。
つづいて、井家又一・第2中隊上等兵の「陣中日記」を見ます。
・ 井家 又一上等兵の「日記」(摘 記)
12月13日 午前4時行動を起こして城壁に迫る。星夜ながらおぼろに城を見る事が出来る。昨日あれだけの弾が来たのに何たる静かな事、遠く敗残兵でも撃ったのか歩哨演習の様、ポンポンと銃声を聞くのみ・・。
我々は城壁占領の拠点を作り壕を掘り陣地を作る、空は晴れて左手の方の東天も明けたので銃声は全くなし。その儘いると敗残兵が5、6名いるので呼ぶと走り来る。全く己の敗戦を知ってか銃を捨て、丸腰のシナ人である。
12月14日 南京占領の第一公園近くの儒教の寺院にて一夜を過ごす。昨夜2時過ぎに床に入った為とてもねむかった。
然し軍隊の事朝7時起床だ、一寸体の具合の悪さを考える。あの上海戦から南京入城までの追撃戦の疲れか全く頭が痛い。
午前8時半整列して昨夜の地点を今一度残敵掃除に行く。然し自分は行きたくなかった。昼の南京市街を見たく又出る。昨夜の地点は国際避難地区を米国人が経営しているのである。中立地帯として日本に願いに出ているが日本人はこれは認めないのである。
南京の避難民はこの地区に外人の建物の大建築にあふれて居る。朝日新聞記者の報にて現場にかけつける。約600名の敗残兵が外人の建物にあふれているのである。南京落城の為、逃げ場を失ったのである。この処置を日本大使館に委任す。
午後4時迄残敵掃蕩終わり帰る。市街にある自動車を徴発して日本兵が市内を乗り廻している。南京の町は日本軍の完全なものになってしまった。
12月15日 午前8時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。日本領事館の横を通って外国人の居住地たる国際避難地区の一帯の残敵掃蕩である。先日の風邪で腹工合いが悪くて歩くのに困る。道路では早くも店を張っている。
食料品がおもであり、散髪を大道でやっているのやら、立って喰っているもの、家屋や大道には人の鈴なりであり、40余名の敗残兵を突き殺してしまう。
外国家屋、避難民家屋には日の丸の旗をこしらえて戸毎にかかげられている。道路とか広場とか掩蓋壕と立て札を立てられている土嚢を作り銃眼を作りて市街戦に備えていたかが分かる。敗残兵の脱ぎ捨てた衣服が至る所に捨てられている。
外人の家屋に9人の敗残兵が入っていて、避難民9名居住宅と堂々と掲げてあるのも笑止の至りである。警察隊が黒服いかめしく警備している。日本軍布告文を辻々要所に巡警共がはり歩いているのを見る。
12月16日 12月も中を過ぎ去ってしまった。金沢招集を受けて満3ヶ月になってしまった。只無の世界の様である。午前10時から残敵掃蕩に出かける。高射砲1門を捕獲す。
午後又で出かける。若い奴335名を捕らえて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。
全くこの中には家族も居るであろうに。全くこれを連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる、全く困った。新聞記者がこれを記事にせんとして自動車から下りて来るのに日本人の大人と想ってか、十重二十重にまき来る支那人の為、さすがの新聞記者もついに逃げ去る。・・
揚子江付近にこの敗残兵335名を連れて、他の兵が射殺に行った。この寒月14日、皎々と光る中に永久の旅に出ずる者ぞ何かの縁なのであろう。皇軍宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で2度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである。
井家上等兵が行動をともにした第2中隊は、摘出した335名を揚子江付近に連行しています。ですから、水谷1等兵のいう「36名銃殺」も、揚子江沿岸に連行した後のことかもしれません。
・ 下関における殺害
このようにして連行された敗残兵は揚子江沿岸(下関、シャ-カン)に集められます。
「自分たちの小隊だけでも200名ばかり、他の中隊では500~600名として、その総数は1万ともいわれた」と記す「某1等兵」は、この下関での殺害を目撃し、日記に書き残しました。
12月16日の要点を板倉由明が自著『本当はこうだった南京事件』に記しています。
「某1等兵」としたのは事情があってのことでしょうが、今に思えば所属、名前を板倉に聞いておけばよかったと思います。板倉の収集した資料類は偕行文庫に寄贈されたはずですので、調べればわかるかもしれませんが。
とにかく、某1等兵の見た敗残兵摘出、江岸連行、さらに刺殺処分の模様を半分程度ですが同書から引用します。
〈全部取調べが終わったのは午後4時くらい、人数は214~5名位いた。大隊本部に連絡したところ全部処分せよ、という。
自分たちは取調べの後は返すとばかり思って、手当たり次第に連れてきたもので、
明らかに良民と見られる中年の男たちには気の毒な気がした。難民の母や妻が代わる代わる
自分たちのところに自分の子供や夫であるという嘆願にきた。しかし、もう処分することに定まってしまったので、
1人でも返すことになれば、誰も彼もほとんど返すことになるだけにそれはできない。
捕虜は宿舎の裏のネギ畑におき、夕食後ものものしい警戒の中を夕暮れの中山北路を連行する。
隊伍が乱れると声高に叱咤し、彼らは羊のように従順だった。・・日が暮れてゆう江門を通り下関の埠頭に着いて、・・。
満月が晃々と江岸を照らした。先に来た部隊が刺殺処分を始めた。子羊の群を5,6名ずつ江岸の柵に連れて行き刺殺する。・・
処分を知った海軍士官や付近の部隊から見物や手伝いが多く、10名ばかりくれないかと申し込んでくると、
卵でも売るように繋がったまま10名でも15名でも分けてやった。・・一通り終わったのは11時頃で、・・。〉
この記述に疑わしいとする特別の理由があるとは思えません。不明確なところはありますが、他の日記、資料から考えてほぼ事実と思います。となれば、これを虐殺といわずに何というのでしょう。
ただ、「総数1万」という人数をそのまま信じるのは問題でしょうし、「1万人」がこのように刺殺処分されたわけでもありません。
この下関殺害と関連すると思いますので、梶谷 健郎・碇泊場司令部軍曹の「陣中日誌」から抜いておきます。
梶谷軍曹の日誌が「15万体処理」を供述した中国戦犯・太田寿男少佐の「供述書」の真贋判定に大きな役割を果たしたことは既述しました⇒ 太田寿夫少佐「供述書」。
以下は、梶谷軍曹が下関に着いた直後の12月16日、17日の2日間の記述です。16日記述は伝聞と思われますが、17日は実見したものでしょう。
12月16日 午前2時頃機関銃の音盛んに聞ゆ。敗残兵約2千名は射殺されたり。揚子江に面する下関に於て行はる。・・
12月17日 午前1時頃より約1時間に亙りて残兵2千名の射殺あり。親しく之を見る。・・
・ 7連隊「戦闘詳報」
第7連隊の「戦闘詳報」が残っていますので、「12月13日から12月24日までの南京城内掃蕩成果表」の要点を書き写します。
なお、12月13日は入城した日、12月24日は第9師団が城内警備任務を16師団へと引き継いだ日に当たり、7連隊も城内掃討の任を解かれています。
〈1、消耗弾 小銃 5000発
重機関銃 2000発
2、刺射殺数(敗残兵)6670
3、鹵獲品
15糎砲 2門 同弾薬 約600発
小 銃 960挺 同実包 39万発
重機関銃 12挺 軽機関銃 33挺
迫撃砲 10門 弾薬5万7218発
手榴弾 5万5122発
戦 車 4台 戦車砲弾 3万9000発(以下略)〉
先に見た伊佐連隊長の日記は14日、15日、16日の「3日間に亘る掃蕩にて約6500を厳重処分す」としてありましたが、「戦闘詳報」では敗残兵の刺射殺数6,670名となっています。
「戦闘詳報」は公式記録ですから、この数字が優先されるべきでしょうが、どの程度、実際の数を反映したものかは「水増し成果」が慣例(?)だったがゆえに疑問が残ります。
なお、17日~24日まで、掃討が少なくなったとはいえ、まったく行われなかったわけではありません。
先に引用した井家 又一上等兵は以下の記録を日記に残しています。
〈12月22日 夕闇迫る午後5時大隊本部に集合して敗残兵を殺しに行くのだと。
見れば本部の庭に161名の支那人が神妙にひかえている。
160余名を連れて南京外人街を叱りつつ、・・池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。
家屋から5人連れをつれてきて突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、
全く最後を知るに及んでやはり落つきを失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。
針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。
・・中には逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。
いくら呼べど降りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって2・3人がとんで出て来たのを突殺す。
暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時この付近を地獄の様にしてしまった。
終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。
後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。
帰る道振り返れば赤く焼けつつある。向こうの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。
そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。〉
とくに、書き加えることもありません。この記録も虐殺というべきでしょう。とくに抵抗を受けたわけでもなく、抵抗の意思も感じられないのですから。
以上あげた下関殺害が、「便衣兵」は国際条約(「陸戦の法規慣例に関する規則」)に違反し、捕虜になる資格を有しないがゆえに、処刑は合法であり、「虐殺にあらず」とする説明がどの程度、説得力を持ちうるでしょうか。
・ スマイス報告との関連
殺害数6,670人を考えるにあたって、スマイス調査との関係はどうなるのでしょう。
同調査によれば、拉致された人数(都市部)は4,200人でした。うち、 3,700人は12月14日から1月13日までに拉致された人数です(調査期間は12月12日から3月15日まで)。
城内の住民(および城外からの避難民)のほとんどが安全区内に避難していた間に、安全区掃討が行われましたので、拉致された人の多くはこのときに連行されたと考えてよいのでしょう。
ですから、「虐殺総数」を算定するのであれば、両者を単純に加えるのは間違いとだけは言えます。