―釈放、収容した例―
⇒ ま と め
ここまでご覧になって、日本軍は投降兵・捕虜をほとんどを殺害したとお考えになったかもしれません。
もちろんそんなことはありませんでした。ここでは釈放または収容した例のうち、代表的な2例を見ておきます。
南京城の南方から兵を進めた第10軍(第6、114師団基幹)は、中国軍屈指といわれた第88師が防御する堅陣の一つである雨花台を激戦の後に抜き、12月12日にははやくも城壁に迫りました。
中華門がその後の主戦場になりましたが、ここも弾雨をついて、城を巡る泰淮河を鉄舟で渡り、城壁を登りはじめるなどしたため、12日の夕方には、88師は城内へと退却に追い込まれました。
第6師団主力が雨花台で死力をつくしていた12月10日、最左翼にあった第45連隊(鹿児島)は、敵の退路を断つために、城の西側、つまり城壁と揚子江の間を突破し、下関に向かうよう命じられました。
三叉河付近の概略図
城壁と揚子江の間は湿地帯で、第3大隊が左翼を上河鎮、新河鎮方向に、第2大隊が右翼をになってほぼ並列して兵を進めました。第3大隊は12月13日朝、上河鎮、新河鎮で南下してきた敵の大軍(第74軍団=51師+58師)と遭遇、白兵戦を含む4時間の激戦の末、破ったことはすでに記しました(⇒4 上新河の戦闘)。
・ 三叉河の戦闘
一方の第2大隊(成友 藤夫少佐)は江東門を占領、敵と交戦、排除しながら三叉河へと向かいました。ちなみに、江東門は「南京虐殺記念館」が建っている所です。
南京城の南側を囲うように流れる護城河は揚子江から分流しますが、この分流した付近では三叉河と呼んでいたようです。三叉河は下関(シャーカン )の南約1キロ少々のところに当たり、ここで南下してきた中国軍の大部隊と遭遇します。
中国軍は付近の部落、あるいは三叉河の南岸にあった倉庫(大同麺粉公司)にたてこもるなどして、猛烈な銃撃を浴びせてきました。日本軍は十余名の死者を出しながらも撃退、敵は泳ぐなどして三叉河を渡り、北に向けて撤退していきます。
三叉河の多数の遺棄死体について、成友 藤夫少佐は回想記『追憶』(私家版、1975年)のなかで、「 幅20米(メートル)のクリークは長さ4〜50米にわたり、まったく敵の屍体を以って埋められ、これを踏んでわたるという奇観を呈した」と戦闘の激しさを書いています。
・ 大量の投降兵
三叉河を渡った第2大隊は、途中、抵抗を受けることなく14日の午前中、下関に到着します。
北方から進軍してきた佐々木支隊の下関到着および江岸、江上掃討は前日の13日午後でしたから、第3大隊は下関の南地区に着いたのだろうと思います。
第3大隊がそこで目にしたのは、広場一杯にあふれた中国兵だったのです。この広場が下関のどこかは特定できませんが、下関には広場と呼べるような場所がいくつかあったようです。
「幹部らしい者を探しだして集合を命ずるとおとなしく整列した。その数、5〜6千、腰をおろさせて周囲を警戒すると、これからどんなことをされるかと思ったのであろう。おどおどした表情の者が多かった」
といいますから、話半分としても大量の投降兵でした。しかも「ことごとく丸腰」と成友大隊長は上記『追憶』に書いています。
おそらく、逃げようにも八方ふさがりだったため、自ら武器を捨てるなどして、広場にたむろしていたのでしょう。
前田 吉彦少尉(第7中隊小隊長)は「陣中日記」に次のように記しています。
〈今朝、6中隊が先頭で、いよいよ下関だとハリキッて行ったら、敵の奴、あっけなく白旗をかかげて降参さ。・・大隊長を先頭で山男の行列が行ったところが、道の両側は中国兵がいや居るの何のって、まるで黒山のように集ってるもんで、通訳に、山本大尉が「銃を捨てろ」と云わせると、たちまち銃や剣の山が出来る有様さ。
馬に乗っているうちの大隊長が余程偉く見えたんだろうね。中国兵が一斉に拍手したよ。あの心理はどう云うのだろうね、どうやら戦いが済んだ、これで殺される心配はないと云うところじゃかい。・・ 〉
この話は前田少尉が直接、目撃したものではなく、日高・第7中隊長が前田少尉に語ったこととして記してあります。
・ 釈 放
この大量の投降兵にとった第2大隊の対応は、以下のものでした。
前田少尉の陣中日記(『南京戦史 資料集1』)には、
〈山本大尉が演説したとよ。「君達は良く戦った。然し、もう戦いは終ったんだ。御互い仲良くせにゃいかん。
蒋介石総統はよう懲せにゃいかんが、君達忠勇な将兵には怨念はないのだ。
宜敷く武器を捨て鍬(くわ)をとり、新中国新平和の建設に働き給え。
・・懐かしい肉親や同胞郷里の人達の待つ故郷に帰り、平和をとりもどすようにしたまえ。サラバ」と云う訳さ。〉
とあります。演説した山本大尉は第6中隊長・山本 隼人大尉のことでした。
この捕虜について、成友大隊長の回想記には、
「かれこれしているうちに、城内から第16師団が進出してきた。また、江上には数隻の駆逐艦が遡航してきた。威容堂々と碇泊し、その乗組員の一部が上陸してきた。折から、“江東門に下がって宿営すべき”連隊命令に接したので、第16師団に申し継いで後退した」
前田少尉も同様に「・・この膨大な捕虜をそっくりそのまま、あとから来た9師団(16師団の誤り)に渡して、さっさと帰って来た。とこうさ」と日記に書いています。
そして、演説どおりに全員が釈放されたのは間違いないところです。釈放された中国兵は数十人、あるいは100人ほどに分かれ、白旗を持ち下関を離れます。その多くは舟・いかだを利用して揚子江を渡り、残りの多くは南方(蕪湖方面)へと向かったようです。
ただ、状況が状況だけに、途中、また日本軍に捕虜になり、殺害にいたった例がありました。
白旗を持った一団(40〜50名または100名説)が江東門付近まで来たとき、第3大隊に捕まり、護送されることになりました。前田吉彦少尉の陣中日記によれば、途中から護送に当たったのが、たまたま居合わせた准尉の引率する第2回補充兵だったといいます。
内地から来たばかりの「逆上気味の補充兵」にこのような任務をあてがったのは、「まずかったのだね」となります。
〈原因はほんの僅かなことだったに違いない。道が狭いので、両側を剣付鉄砲で同行していた日本兵が、
押されて水溜りに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに、怒鳴るか叩くかした事に決まっている。
恐れた捕虜がドッと片っ方に寄る。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。
・・パニック(恐慌)が起って、捕虜は逃げ出す。「こりゃ、いかん」、発砲する。
「捕虜は逃がすな」「逃ぐるのは撃て」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだと云う。
第3大隊長小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降した丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は
何とも弁解出来ない、ことだった。かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態と云わざるを得ない。〉
前田少尉のこの記述は、後日聞いた話として書いていますが、ほぼ事実と思われます。
このように、投降兵、捕虜を釈放した大隊、「僅かの誤解」から起こった惨事を聞いて激怒した大隊長、またかかる事態を「弁解できない」「皇軍の面目を失墜する失態」と考えた将校がいたことは、日本軍の良質の面を見せた例でしょう。
中島今朝吾・第16師団長の陣中日記(12月13日)に次の下りがありました(再掲)。
〈3 後に到りて知る処に依りて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約1万5千、太平門に於ける守備の1中隊長が処理せしもの約1300、その仙鶴門附近に集結したるもの約7、8千人あり、なお続々投降し来る
4 この7、8千人これを片付くるには相当大なる壕を要し、中ゝ見当らず一案としては100、200に分割したる後、適当のヶ処に誘きて処理する予定なり〉
この7000〜8000人の投降兵がその後どうなったのか、日記が示唆しているように殺害(処刑)したとする側、死体が確認されていない、殺害したとする資料、証言がないなどの理由から殺害はなかったとする側、これらの間でさまざまな議論がありました。
今日では、資料の突き合わせなどの研究が進み、殺害説は否定されたといってよいでしょう。
・ 襲撃そして投降
まず、大量の投降兵についてですが、戦前に市販された『小戦例集』(教育総監部編、1939=昭和14年)に次の下りがありますので、ご覧ください。
@ 「12月13日1時、仙鶴門鎮付近に約5千の敵夜襲し来たり、ラッパを吹奏し、再三突撃を試みたるも、集成騎兵隊(3個連隊より成る)及び第1中隊1門の力闘に依り撃退せられ、其の一部は東方に、主力は北方に壊走し、・・」
A 「12月14日8時、堯化門南方の揚坊山、新庄(攻城重砲兵第1中隊主力)に約2、3千の敵が来襲、12時頃、約7千名が堯化門付近にて投降せり」
堯化門、仙鶴門鎮付近の概略図
このように、仙鶴門鎮、堯化門付近にあった日本軍を襲ったのは、第66軍(159師、160師)、第83軍(154師、156師)で、12日夜半に城内から太平門を抜けて集結地(寧国付近)に向かう一団でした。途中、教導総隊や他の部隊も加わったとされ、総兵力2万ともいわれる大部隊です。
12月13日午前1時、この大部隊の襲撃を受けた日本軍は、独立野戦重砲兵15連隊、集成騎兵隊(各師団から集めた騎兵隊)でした(上記の@)。
もともと接近戦に弱い重砲部隊であったために大苦戦となりましたが、死傷者を出しながらも、なんとか敵を壊走させます。
飯沼 守・上海派遣軍参謀長は日記に、
〈集成騎兵は本日午前1時頃、敵の敗残兵約3千と衝突、天明頃までに撃退、
我が死傷70、馬の損害204、敵の遺棄死体は700を下らず、・・〉
とあるのは、この戦闘を指したのでしょう。
これとは別に、13日朝6時頃、下関に急行する佐々木支隊(38、33連隊)もこの一団の襲撃を受けました。
午前6時というのは、支隊に対し下関へ向かうよう命令が出た時刻とほぼ一致します。支隊は「数里」(1里は約4キロ)にわたって伸びていたため、側面のあちこちで攻撃を受けることになりました。
〈くるわ、くるわ、あっちにもこっちにも実に夥しい敵兵である。
彼等は紫金山頂に在った教導師の兵で、血路をわが支隊の間隙に求めて、戦線を討って出たものであった。
銃声の間に、怒号罵声すら聞こえている。」
(佐々木到一少将私記、再掲)
とあるような接近戦で、高性能と定評のあるチェコ製軽機関銃を腰に構えた敵は、「何回も何回も5、6百一所になって」撃ってきます。
このような戦闘は各方面、各所で繰り返えされました。しかし、しだいに敵の部隊は分裂し、一部は揚子江を渡り、また一部は南方へと向かったとされます(中国側160師「戦闘詳報」に記述されているとのこと)。
12月14日早朝、仙鶴門鎮から撤退した一団でしょうか、堯化門南方の揚坊山にあった独立攻城重砲兵等を攻撃します(上記のA)。
この攻撃の模様、つづく投降の様子を、沢田 正久少尉(独立攻城重砲兵第2大隊第1中隊)は次のように証言します。沢田少尉は観測隊長として、砲列を敷いた墓地より約1キロ離れた揚山(標高約50メートル)に観測所を設け、観測任務につきます。
〈(14日)午前8時頃、衛兵所に行ってみると、驚くなかれ、
揚山に向かって西方から続々と敵の大部隊が登ってきます。
中隊長に報告すると、中隊長は“友軍ではないか”と疑ったほどでした。
・・われわれは墓地を利用して、接近する一部の敵と相対しました。
やがて友軍増援部隊 が到達し、敵は力尽き、
白旗を揚げて正午頃投降してきました。その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず
道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。
俘虜の数は約1万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約8千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、
“直ちに銃殺せよ”と言ってきたので拒否しましたら、“では、中山門まで連れて来い”と命令されました。“それも不可能” と断ったら、
やっと、“歩兵4個中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い”と言うことになり、私も中山門近くまで同行しました。〉
―「証言による南京戦史D」、機関誌「偕行」―
かけつけた「増援部隊」とあるのは38連隊第10中隊で、この10中隊に中国軍は白旗をかかげて降伏したのでした(後述の「戦闘詳報」参照)。
・ 城内刑務所へ護送
このようにして出た大量の投降兵は、仙鶴門鎮付近に集結されました。その後、沢田少尉の証言にあるように、中山門まで連行したことは何人かの目撃証言から確認できます。
ただ、ただちに中山門へと連行したのではなく、竹矢来で囲んだ程度の「捕虜収容所」を急造して、ここに2日ほどとどまっていたようです。連行はその後のことと思われます。護送の遅れは17日に予定された入城式と関連していたのかもしれません。
この間、捕虜にメシを食わせるのも大変だったとの証言があります。
小原 孝太郎(輜重兵第16連隊)の従軍日記(『日中戦争従軍日記』、法律文化社、1989)に、
「12月15日・・そこに驚くべき光景にぶつかった。
竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮2000人の捕虜が我が軍の警戒裡にうようよしているのだ。
これには驚いた。後で分かったのであるが、・・話によると、約7000人の捕虜があったそうだ。」
とありますから、15日の目撃時刻には、まだ移動していなかったことが分かります。
上海派遣軍の郵便事務官(野戦郵便長)であった佐々木 元勝も目撃者の一人でした。
佐々木郵便長は12月15日上海を出発、翌16日に南京に到着しています。この大量の捕虜と思われる集団を2度、目撃したことを「日記」に書き残しています。
1度目は12月16日で、「麒麟門から少し先、右手の工路試験所の広場には、苦力みたいな青服の群がおぴただしくうずくまっている。武装解除された4千の支那兵である。道端にもうんといる。ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか」と記録していますので、ここまで移動したのでしょう。
2度目は、17日、中山陵見物に出かけた帰りに目撃したもので、
〈タ靄(ゆうもや)に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇う。
乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。7200名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、
引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。
暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか、・・〉
と記してあります。
ですから、中山門まで捕虜が連行されてきたのは間違いなく、それも17日の夕方といいますから、入城式(17日)も終わった後のことで、話のつじつまは合います。
なお、佐々木元勝は「日記」をもとに『野戦郵便旗』 (現代史資料出版会、1973)を著しました。
・ 38連隊「戦闘詳報」
以上の記述の骨格は、戦闘詳報で確認できます。38連隊戦闘詳報の第12号付表に次のように記されています。
〈昭和12年 2月14日
俘虜 将校70 准士官・下士官 7,130
備考 俘虜7,200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命を受け、同地に在りしが、14日午前8時30分頃数千名の敵白旗を揚げて前進し来り、午後1時武装を解除し、南京に護送せしものを示す〉
12号付表が示すところによれば、堯化門付近の守備にあたっていた38連隊(連隊長・助川静二大佐)第10中隊が、投降兵の武装解除にあたり、その後7,200名を南京(城内)に「護送した」というのでしょう。
となりますと、日付け(14日)に矛盾があるように見えますが、「無錫・南京38連隊行動表」の12月18日の項に、「10(中隊)は捕虜を南京刑務所に護送す」(鈴木 明、『「南京大虐殺』のまぼろし』)とあるとのことですので、12号付表は何日か後に記したものと考えられ、日付けの矛盾はなくなります。
なお、この「無錫・南京38連隊行動表」は鈴木明が助川連隊長から借りた資料の一部とのことです。
捕虜は第10中隊(38連隊)が途中まで護送していますが、下麒麟門付近において38連隊と同じ16師団に属する第20連隊(大野宣明大佐)が引き継いだことが分かっています。20連隊の第3および第6中隊が捕虜を受け取り、馬群を抜け中山門に向かい、城内の「南京刑務所」に護送しました。
となれば、この捕虜を城内で殺害したとは考えにくいでしょう。処刑するつもりなら、わざわざ城内に連行するはずはなく城外で果たせば済むはずですから。
一方、この捕虜全員を殺害したとの説が大きく取り上げられたことがあります。なかには20連隊の捕虜は38連隊第10中隊に投降した捕虜とは別口だという説も出、書籍(下里正樹 『隠された連隊史』、青木書店、1987)にもなりました。
・ 殺害説について
殺害説の主な出所は、20連隊第1大隊第3中隊の上等兵であった東 史郎の“日記”でした。
この日記はリアルタイムに書かれたものではなく、当時のメモなどをもとに約4年後に書かれたものであることが分かっています。ですから、「日記」というより「回想記」といった方がよいのでしょう。
この記録は『わが南京プラトーン』(青木書店、1987)として出版され反響を呼びましたが、上記の『隠された連隊史』と同一出版社から同時に出たものでした。
以下は、中国でも翻訳出版された『わが南京プラトーン』からの引用です。
16日、突然、捕虜収容の命令があり、捕虜は2万人だとのこと。収容に向かった一隊(2個中隊)はすっかり暗くなっても歩きつづけます。
〈3、4里も歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧騒をきいた。
約7千人の捕虜が畑の中に武装を解除されて座っている。・・我々には2個中隊いたが、
もし7千の彼らが素手であるとはいえ、決死一番反乱したら2個中隊位の兵力は完全に全滅させられたであろう。
我々は白旗を先頭に4列縦隊に彼らを並べ、ところどころに私たちが並行して前進を開始した。
・・夜が深まるにつれて冷えびえとした寒気が増した。
下キリン村のとある大きな家屋に到着し、彼らを全部この中へ入れた。
彼らはこの家の中が殺りく場ででもあるかのように入ることをためらっていたが、仕方なくぞろぞろと入っていった。・・
翌朝私たちは群馬鎮(注、馬群鎮の誤り)の警備を命ぜられた。私たちが群馬鎮の警備についている間に
捕虜たちは各中隊へ2、3百人ずつあて、割り当てられて殺されたという。・・
なぜこの多数の捕虜が殺されたのか私たちにはわからない。
・・7千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。〉
「7000人殺害」の記述は東が目撃したものではありませんが、それにもかかわらず「信じられないような事実」だとしています。まあ、個人の回想ですから、伝聞と実見とを厳密に区別して書くわけではありませんので、ありがちな記述といってよいでしょう。
ところが、この東日記をほとんど唯一の拠りどころに、殺害説が幅を利かせたのです。
まず、各中隊へ200人、300人ずつ割り当てたといいますが、一体、何個中隊必要になるというのでしょう。1個連隊(12個中隊)すべてを動員しても足りません。無論、このような動員を裏づける記録はありませんし、殺害に加わったとする隊員の証言もありません。
それに、佐々木元勝郵便長の日記からも分かるように、中山門付近で捕虜を目撃しているのですから、この目撃記録が間違いでもないかぎり、馬群付近で殺害していることはあり得ないはずです。
そこで、東日記のいう20連隊の捕虜殺害は38連隊とは「別口」という論がひねり出されたのでしょう。となれば、合わせて約1万4,000人の殺害が行われたことになります。ですが、別口を肯定する客観的事実はなく、否定する材料なら結構あります。
例えば、第16師団の参謀長・中沢三夫大佐は、16師団の得た捕虜を7000人とし、20連隊の戦果を1,000人と概算しています(中沢メモ)。20連隊の7000人殺害が事実なら、戦果に加えたはずでしょう。
あるいは、「東史郎」と聞いて、例の名誉毀損裁判になった橋本訴訟を思い出した方もおいででしょう。この“事件”も東日記に書いてあるもので、東上等兵の属する分隊の長だった橋本が、一人の中国人を郵便袋に押し込むとガソリンをかけて火をつけ、そのうえ手榴弾を結わえつけて、沼に投げ込んだというものです。
これを事実無根とする橋本分隊長がかつての部下、東を名誉毀損で訴え、その訴えが全面的に認められたものです(⇒ 橋本訴訟=郵便袋事件)。上に引用した20連隊7,000人殺害のくだりは、この郵便袋事件のすぐ後に書かれています。
この訴えのため、東の所属する第3中隊から森 英生中隊長をはじめ沢山の戦友がかけつけました。当然、この7000人殺害も問題となりました。なにせ、裁判は約5年にわたる長丁場でしたから、この間、森中隊長をはじめ、かなりの数の戦友が駆けつけ、直接私も話を聞きました。
38連隊第10中隊から捕虜を引き継ぎ、城内まで護送したことを認めているものの、殺害については全面否定です。また、第2中隊とともに護送にあたった第6中隊の池田 早苗中隊長は、この捕虜を護送し城内の軍司令部に引き渡したとの証言もあります。
・ 捕虜その後
こうして、大量の捕虜が城内の刑務所に連行されたことは間違いないでしょう。人数についてですが、7,000人をはじめは約4,000人(中沢 三夫・師団参謀長証言)など、例によってさまざまです。この捕虜は、この後、使役に使われていたという記録(従軍日記)がありますので、紹介しておきます。
先に登場した小原孝太郎(輜重兵16連隊)が書いた「従軍日記」、12月17日および23日分です。
〈12月17日・・捕虜が来た!一昨日見たあの村にいた捕虜だ。銃剣つけた1個小隊位の兵の間に挿まれて、くるはくるは数知れず来る。駆けていって聞いてみたら、約4,000人の捕虜だという。みんな33や38や20連隊が此の方面の戦闘で捕えたものであると・・。〉
〈12月23日・・8時出発。南京波止場に馬糧を受領に行く。・・こっち側の港には、今や軍用船から内地から送られた荷物をチャンが何百人と列を作って桟橋から陸へ運んでいる。
此のチャン公は、先般、湯水鎮のこっちの村で見た敵の捕虜をこうして使役に使っているのだ。4,000人もあそこにいたのだから使い切れない位いるだろう。〉
捕虜がここ以外でも使役されていたのかもしれませんが、資料がないためはっきりしたことは分かっておりません。
使役後、捕虜の半数は年末頃に上海に送られ、復興事業や飛行場建設などに使われ、また炭鉱に送られた者、汪兆銘の南京政府軍に編入され、劉啓雄少将のように高官になった例もあったとのことです(『南京戦史』)。
なお、洞 富雄・元早稲田大学教授は7000人殺害(38連隊)の可能性が高いとし、笠原十九司・都留文化大学教授も「殺戮された可能性が強い」とし、7000人殺害説を主張しています。
この他、戦闘詳報や従軍日記などに記録された出来事があります。以下は、よく取り上げられるもので、この他にもないとは言えません。
また、1桁あるいは2桁程度の出来事は、ほかに相当数あっただろうことは想像がつくところです。
1 獅子山 33連隊第2大隊(16師団) 100余名
2 馬群付近 20連隊機関銃中隊(16師団) 100? 200名?
3 敗残兵狩り 30旅団(33、38連隊)(16師団)1,000名以上?
4 中華門外 13連隊(6師団) 1,000名以上?
以下、概略を見ます。
(1) 獅子山での出来事
城内の掃討のため、ゆう江門からの入城した33連隊(第16師団)は、あらかじめ割り当てられた掃討区域(城内最北部)の作戦に入ります。
12月14日、獅子山付近で敗残兵と遭遇します。
島田 勝巳大尉(第2大隊、第2機関銃中隊長)は次のように証言します。
〈獅子山付近で百四、五十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した。中国兵は小銃を捨てても、
懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者がかなりいた。紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理をふり返ってみると、
「敵を殺さなければ次の瞬間、こちらが殺される」という切実な論理に従って行動したというのが偽らざる実態である〉
―『南京戦史』、160ページ ―
島田証言は鈴木明に証言したものがあり、ほかに『歩兵第33連隊史』(連隊史刊行会、1972年)があります。
島田大尉は鈴木明にも、中国兵の中には銃を捨てても、手榴弾・拳銃を持つものもかなりいたために、兵が「やってしまえ」と襲いかかるケースもあったといい、「私が止めても無駄だった」と話しています(『「南京大虐殺」のまぼろし』、1972年)。
ただ、この出来事については島田証言以外ないようで、詳しいことはわかりません。
この殺害が「虐殺」に当たるのかどうか、意見が分かれるのは目に見えています。ですが、このような例は戦場ではありがちなことで、外国の軍隊も同様の状況下であれば、十中八九、相手を殺害しただろうと思いますし、問題視されることもないはずです。
殺害を躊躇すれば自分が殺されるのが戦場の実態であってみれば、好い悪いの判断のみで片づく問題ではないでしょう。
(2) 馬群における処刑
16師団の輜重隊が12月14日午前8時過ぎ、弾薬の集積地であった馬群において数百の中国軍に襲われました。輜重部隊はもともと戦闘能力が低いため、襲撃されれば多くの損害を出しますし、前日の13日にも襲われ、6名の戦死者を出していました。
しかし、輜重隊は果敢に戦い、壮絶な白兵戦ののちに敵を撃退するとともに、敵兵を捕まえました。『小戦例集』(上述)は、遺棄死体60、捕虜95名を得たとします。
この捕虜の扱いについて、牧原 信夫上等兵(第20連隊第3大隊機関銃中隊)は日記に次のように記します。
〈12月14日 午前7時起床す。午前8時半、1分隊は12中隊に協力、馬群の掃討に行く。
残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで、直ちに自動車にて出発す。
而し到着した時には小銃中隊で310名位の敵の武装解除をやり、待って居たとの事、
早速行って全部銃殺して帰って来た。昨夜は此地の小行李を夜襲し、小行李も6名戦死して居た。〉
「小行李」は戦闘部隊に随伴し、武器弾薬等を輸送する輜重部隊を指します。
佐々木元勝(野戦郵便長)は、「弾薬集積場であった馬群鎮では、敗残兵200名の掃討が行なわれた」と記しています。
ですから、人数はまちまちですし、殺害方法も刺殺(小原 立一主計少尉の日記)、銃殺と分かれますが、殺害自体は間違いない事実でしょう。
前夜、味方に死者6名とたぶん多くの負傷者を出したでしょうし、なかには手榴弾等を隠しもっていた兵もいたでしょうから、虐殺とは言えないという見方もあるでしょう。
ただ、武装解除のうえで待機していたとある以上、この殺害は虐殺と判断しています。
(3) 30旅団による敗残兵殺害
城内の掃討が一段落した後、各師団は南京を離れはじめます。はやくは12月16日から移動し(6師団)、多くは12月20頃に新たな任地へと向かいました。
南京の警備は12月21日から翌年の1月22まで、第16師団が担当することになり、佐々木 到一少将(第30旅団長)が「南京地区警備司令」に任命され、采配することになりました。
なお、12月20までは第9師団が担当、1月22日以降は天谷直次郎少将の率いる第10旅団(天谷支隊、11師団隷下)が警備を引き継いでいます。
佐々木旅団長は早速、12月24日から城内住民の査問を開始し、良民と便衣兵など敗残兵との選別にかかりました。いわゆる兵民分離で1月5日まで続行されます。
外見などから良民と認めれば「良民証」(居住証明書)を発行し、その数は16万人(老人、女、子供を除く)にのぼりました。また、城外にあってはまだ敵対行動をとる敗残兵がいたため、この対策も同時に進められました。
佐々木旅団長は回想記のなかで次のように書いています。
〈1月5日 査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約2000、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
城外近郊にあって不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す〉(『南京戦史 資料集1』)
・ 城内摘出の「2000人」
城内から摘出した「約2,000名」もまた殺害したのではと思う人が多いに違いありません。また、2,000人のなかには、多数の一般市民が含まれていたと考える人も少なくないでしょう。
一般市民と敗残兵の選別は、内田義直通訳(16師団警備司令部)の以下の証言があります。
〈身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、
一般市民を狩り立てるようなことはなかった。〉
中国人立会いのうえで選別を行ったことは他の資料(中沢師団参謀長の口述書)にもありますので、確度は高いと思われます。
また、東中野教授の『再現 南京戦』のなかに「約2000名収容」を裏づける1938(昭和13)年1月10日付け読売新聞の報道が紹介されています。
〈敗残兵一掃のため行われた難民調査は、暮から始められて7日漸く一段落を告げて、
敗残兵1600名とその他のものは安民居住の証を与えられ、今では大手を振って城内を歩けるようになった。〉
報道にある「敗残兵1600名とその他のもの」は、旧外交部に収容されたとする敗残兵の可能性がかなり高そうです。となれば、殺害説が消えるだけでなく、強制労働等に服することもなく、良民証を得た一般市民と同じ扱いになったわけです。
この佐々木旅団長の回想を受けて、城内の敗残兵摘出・掃討は、すでに記した13日にはじまる7連隊(9師団)などによる「安全区」を主とする城内掃討と合わせて、前後2回にわたって行われた大規模な「城内および近郊」における虐殺とする解釈が有力(?)です。
・ 城外摘出の「数千人」
処分(処刑)した「数千人」が2000人程度なのか5000人にもなるのか、資料不足でわかりません。また「不逞行為をつづけつつある敗残兵」摘出の実態についても同様で、断定的なことはいえません。
ですが、数千人といえば、少なくとも1日平均で見れば、100人単位で処刑を行った計算(12月21日頃〜1月5日までの約15日間)になりますから、多い日には相当数(200人とか300人とか)に上ぼったことになるでしょう。
その割りに「数千人」を裏づける資料、証言が見当たらず、他の事例と較べるとおかしな話ではあります。
この時期に下関での処刑を目撃した例、例えば井手 純二軍曹(飛行第8大隊付)などがありますが、残虐な光景が描かれていても、人数となるとそう多くはないのです。
井手軍曹が寄せた一文(「私が目撃した南京の惨劇」、「歴史と人物」1984年10月号)には、「収容所から運ばれてきたらしい20人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く」とあり、100人以上を思わせるようなものではありません。
・ 『南京事件』の記述について
この30旅団の敗残兵について、『南京事件』(秦郁彦、中公新書、1986年)には「再開された便衣狩り」の小見出しのもとで記述されています(166ページ)。
記述中、当然のことでしょうが、佐々木回想録が引用されています。問題だと思う部分を同書より引きますと、
「この日までに城内より摘出せし敗兵約二千・・城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す」
とあります。
較べればわかるように、「敗兵約2000」の後にある「旧外交部に収容」という部分が引用されていません。
この敗残兵が殺害されたのであれば、この引用もれは実害はないでしょうが、読売新聞の記事が見つかったことを考えれば、問題だったといえるかもしれません。
『南京事件』を読んだ全員が、井手純二軍曹の斬首場面などの目撃証言(定性的なもの)の引用が加わることによって、「約2000人」もまた殺害されたと読みとったはずですから。
(4) 第13連隊の殺害
13連隊(第6師団 第11旅団)は、いちはやく南京を離れ、次の任地である蕪湖へと向かいました。その途中、「1000名以上」 の敗残兵を捕らえたうえ、山の上に据えた機関銃をもって「集団射殺」したというものです。
この話、あまり知られていないのではないでしょうか。
というのも、この殺害について書いたものが少ないように思われるからです。私自身、事件についての知識がほとんどありません。
上記『南京事件』によれば、12月16日、蕪湖へ向かう途中、13連隊が捕らえた「1千名以上の敗残兵」(萩平 昌之助大尉の「手記」)を中華門外で集団射殺したというもので、現場にいた児玉 房弘上等兵(第2大隊機関銃中隊)の次の「証言」が記されています。
〈山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。
そこに、突然「撃て」の命令。・・「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきりと分かりました」〉
この児玉証言は毎日新聞(1984年8月15日付け)からの引用(下記注を参照ください)とのことですが、秦教授自身も多分電話と思いますが、児玉上等兵から話を聞いたと思われます。というのも、巻末の「ヒアリング、書簡など」の項に、児玉上等兵の名前が出ているからです。
この「1000人以上」の「集団射殺」、多少の違いはあるにしても、おおむね信じていいのでしょうか。どうも、引っかかるのですが。
(注) 1984年8月15日付けの毎日新聞縮刷版を見たのですが、記事が見つかりませんでした。日付の誤記なのか、あるいは毎日新聞が途中から記事を削除したため、最終版を基準に作成する縮刷版に載らなかったためとも考えられますが。
・ 1940年の「転戦実話」から
昭和15(1940)年11月、『第6師団 転戦実話』が編纂されました。
兵士の手によるガリ版刷りの簡素なものだそうです。杭州湾に上陸、南京・蕪湖までの間に経験した約半年間の戦闘体験談などが、「南京編」にまとめられました。
その4分の1ほどが東中野教授の手で選択され、『1937 南京攻略戦の真実』(小学館文庫、2003年)として発行されています。
そのなかに、13連隊歩兵砲小隊のO・K曹長の「続々敗残兵が出てきました」とする一文があります。姓名は原本に明記されているとのことです。
短いながらO・K曹長の描く投降時の様子およびその後の処置は、「集団射殺」と対比すると興味深いと思いましたので、概要を記します。
なお、全文はこちらに用意しました ⇒ 全 文。
「昭和12年12月16日 0800頃(注 午前8時頃)、進路右方200メートルの村落に、とても長い竹竿(たけざお)に白布をつけた物を盛んに打ち振っているのが目につきました。
遠くてよく分かりませんが、随分人がおる模様です。
それは南京を落として間もなく、我が部隊が入城にも参加せず、蕪湖に向い前進している時であります。」
と書きはじめています。
12月16日という日にち、蕪湖への途中という点から見て、「集団射殺」事件の時期、場所などかなり一致しています。
上は同書にある挿絵で、投降兵が3方から整然(?)と白旗を掲げてやってくる状況が読みとれます。右下の一隊は銃を担いで前進する日本兵でしょう。
まず、50名の1団が恐る恐る近寄ってきましたが、いずれも正規兵で武器は所持していません。危害が加えられないことを知って、続々と5、60名の集団がつづき、やがて「500名は下らない」数になり、途中、さらに100名くらい増えます。
午前11時、江寧鎮に到着。途中、飛行場(の作業)に約20名を引渡し、各隊は(宿舎の設営のために)使役に使い、202名が残ります。他の部隊でも100名程度使っているため十分だったというのです。
その後、この202名を旅団に引き渡したとして、この短い文は終わっています。
まず、この記録が事実を記したものかどうかですが、脚色はあったでしょうが、大筋は信頼できると思っています。もし、このとき投降兵を殺害していたのなら、また殺害行為が非難に値するものと考えていたなら、殺害を隠してまで、つまりウソをついてまで記録に残す必要性はないからです。黙っていればすむことでしょう。
そこで、「集団殺害」との関係ですが、この記録をもって「集団虐殺」が虚構だとはもとより言えません。ほかにも投降した敗残兵が1000人以上、出ていたのかも知れないからです。ですが、何となく違和感が残るのです。
萩平昌之助大尉 の「手記」にあるという「1千名以上の敗残兵」、この記録の「約600人(500+100)の敗残兵」、それに山上から機関銃で「集団殺害」したという「数え切れないほどの中国兵捕虜」の関係が、はっきりしません。
ただ言えそうなことは、「1千名以上の敗残兵」が「集団殺害」されたと結論づけるのは、ムリがあることです。
調べていないのでこれ以上のことはいえませんが、直感的にいうならば、児玉上等兵一人の目撃証言というのは、危ういと思うのです。一応の推断をするにも複数証言、または児玉証言が信頼できるとする何らかの根拠は、調査経験から欠かせないものと思います。もし何かわかれば、書き加えることにして、この“事件”はここまでにしておきます。
・ 曽根 一夫の偽証
ついでといっては何ですが、一つ、つけ加えます。
『南京事件』の「第8章 蛮行の構造」で、
〈『私記 南京虐殺』(正続)は略奪、強姦、殺人をふくむ自身の残虐行為を率直すぎるほどの姿勢で語るとともに、
そこに至る兵士たちの心情を冷静に記録している点で、類書にない特色を持つ。〉
と高評価し、
〈上海戦では一応軍紀を守っていた兵士たちが、なぜ、南京追撃戦の段階で残虐行為に走るようになったのか、集団心理の推移を要約、紹介しておこう〉とし、秦教授は集団心理を記しています。
この『私記 南京虐殺』の著者、曽根 一夫が、実は野砲兵3連隊の馭者(初年兵)であったにもかかわらず、歩兵の分隊長だったと経歴を偽り、知らないはずの第1線について、あれこれと書いたことが板倉 由明によって証明されました。
ですから当然、「第8章 蛮行の構造」は訂正が必要ですが、そのまま残っていますので、読むにあたっては、十分な注意が必要です。
それにしても、このような虚偽証言が多く、これが案外に「良心的な記述」として遇されるのですから、「事実の確定」にとって実に厄介な問題です。
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