「三光政策」の核心

抗日根拠地 掃討作戦

―百団大戦と反撃作戦―
⇒ 興隆県「無人区化」政策


1 わが国の教科書記述から


 中国のいう「三光作戦(政策)」の代表例は、日本軍による抗日根拠地への掃討作戦でしょう。
 わが国のほとんどの歴史教科書に載っている記述をのぞけば簡単に確認できます。

〈 中国共産党の指導する軍民の抵抗に悩まされた日本軍は、
1940〜43年にかけて、華北の抗日根拠地に対する攻撃のなかで、
「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」いわゆる 「三光作戦」をおこなった。〉
―実教出版、「高校日本史」3訂版 1990―


 また、1998年春から使用された中学社会科(歴史分野)の例では、

〈日本軍は、ナンキン占領後から翌年2月半ばまでに、
女性・子ども・捕虜をふくむ少なくとも15万人から20万人ともいわれる中国人を虐殺した。
また、日本軍は、共産ゲリラ勢力の強い華北の村々で、1940年ごろ
「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦をおこない、民衆におそれられた。
こうした事実は日本国民に知らされなかった。〉( 日本書籍 )


 南京事件の犠牲者が「少なくとも15万人〜20万人」虐殺というのは、教科書とも思えない一方的記述ですが、このころの教科書はこんな調子だったのです。それに「三光作戦」が加わります。
 こうした教科書を使って教育を受けたのですから、たまったものではありません。中学生の頃から叩き込まれれば、日本人の歴史観がおかしくなってむしろ当然のことでしょう。

 両教科書とも「三光政策」を使用せず、「三光作戦」と表記しています。このころは「三光作戦」が広くつかわれていたことを示しています。
 三光は、「殺しつくし」「焼きつくし」「奪いつくす」の順に記すのが中国では普通でしょうが、上の教科書では「焼きつくす」が最初に登場します。
 生徒に対する配慮なのか、今一つ自信が持てないために腰が引けたのか、理由は分かりません(下の付記参照)。

 「付 記」
 2006(平成18)年春から使用の中学社会科(歴史的分野)で、「三光作戦」の記述のある教科書は、日本書籍新社の一社だけです。
 日本書籍新社の前身は「日本書籍」ですので、事実上、同一出版社の教科書というわけです。最近まで4社が記述していましたが、ようやく1社に減少しました。もう一息でしょう。もっとも、高校用はまだまだですが。
 「三光作戦」は本文ではなく、「欄外注」 に以下のように記してあります。

〈 日本軍は、1940年ころから華北の抗日根拠地をつぶすための軍事行動をおこなった。
中国はこれを、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦として非難した。〉


 1998年春以降に使用された上記のものと比べると、内容が後退しているのが読みとれます。日本軍の作戦を「三光作戦」と明記せず、中国側がそう言っているという記述になっている点です。
 ですから、「こうした事実は日本国民に知らされなかった」という記述が成立するわけがなく、削除せざるを得なかったのです。

 もっとも、このように後退した記述になっても、大して変わらないかもしれません。教える内容は教師しだいだからです。

 上の2例だけからも分かりますが、わが方の歴史教科書は「三光作戦」は抗日勢力に対する掃討作戦を指して非難しています。
 2つの教科書の「作戦時期」が違うこと自体、「三光作戦」なるものが、あやふやなものかを示していると思うのですが、わが国の教科書にたずさわる専門家は、大して気にならないようです。

 以下、「抗日根拠地に対する掃討作戦」について、検討します。


2 毛沢東のいう「三光政策」


 まず、中国が何をもって「三光政策」と主張しているのかを見ることにします。なにせ、中国のいうことに追随するのがわれらがメディア、学者らの慣習になっていますので。

 代表的なのが、1944(昭和19)年4月、延安の高級幹部会議で毛 沢東が行なった「学習と時局」でしょう。
 毛沢東は、「抗日の時期におけるわが党の発展は3つの段階に分けられる」とし、1937(昭和12)年〜1940までの第1段階につづけて、以下のように述べています(再掲)。

〈第2段階は1941年と1942年である。
日本帝国主義者は反英反米戦争を準備し遂行するために、彼らが武漢陥落のあと、
既に改めた方針、つまり国民党攻撃を主としたものから共産党攻撃を主にしたものに改めたその方針を、

 より一層強化し、その主力を共産党の指導するすべての根拠地の周囲に集中し、
連続的な「掃蕩」戦争、残忍な「三光」政策を行ないわが党に打撃を加えることに重きをおいた。

 そのため、わが党は1941年と1942年の2ヵ年の間、きわめて困難な地位に立たされた。〉


 1941、42年の2ヵ年間というのは、前年の「百団大戦」を起点とする日本軍との攻防を指したものでしょう。
 そこで、百団大戦の説明に入るのが順序ですが、その前に、この作戦(百団大戦)を指揮した彭 徳懐 (ほう とっかい、左画像)は次のように述べ、百団大戦より前に、日本軍が「三光政策」を実行していたとします。

 〈この殺光、焼光、搶光 ― 殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす ― という三光政策は
日本軍が1939年の夏にもちだしてきたものである。〉
―『彭徳懐自述』、サイマル出版会、1984―


 具体的に、「1939年の夏」の作戦がどれを指しているかわかりません。彭徳懐の記憶違いという話もあります。
 というのも、この書は彭が文化大革命で「査問」にかけられた期間に書いたために、資料が十分でないことなどの事情があったからとの指摘があります。

3 市民権を獲得


 「三光作戦(政策」」なるものが、わが国で「歴史的事実」として取り扱われていることに疑いありません。
 まず、終戦50年の節目の年(1995年)に発行された野党第1党・社会党 (当時)の「国会決議実現にむけて」とした約30ページの冊子(左画像)をのぞいて見ます。
 この冊子は公党としての社会党の「歴史認識」を記したものでしょう。

 「過去に眼をとざすことはできない」とするタテ書きの副題を読めば、おおよその見当がつくように「ドイツは過去を清算した」のに、「日本は・・」というわけです。
 南京虐殺につづく「三光作戦」は、次のように記しています。

〈また、日本軍は中国全域で三光(奪い、殺し、焼きつくす)作戦を展開し大きな被害を与えるとともに
強制連行、強制労働などによっても膨大な犠牲者を出しています。〉


 「中国全域」で三光作戦が展開されたというあたりが、まあユニークといえるのかもしれません。
 また、広辞苑以下の辞典、百科事典にも載っていることから分かるように、また新聞を中心とするメディアがいく度となく報じたことでも分かるように、日本で市民権を得てしまいました。

・ 思わぬ効用があるかも
 もっとも、「三光作戦」の市民権獲得には思わぬ効用もあります。
 それは、日本の近・現代史研究の水準がどの程度のレベルにあるのか、どうしてこういうバカなことが大手を振って歩けるのか、それを判断する格好の材料になりうるからです。

 中国のいうことを真に受け、嬉々として報じたわがメディア、それに待ったをかけるどころか追随した学者。


 上画像は1994(平成6)年11月24日付けの河北新報で、「半世紀の検証」と題した連載(♯16)の紙面です。

 この時期、河北新報は宮城、山形、福島の3県で発行部数約50万、仙台市を中心に宮城県では圧倒的なシェアを有していました。また、頻繁に旧日本軍を断罪する記事のでること、朝日新聞も顔負けするくらいです。

 もっとも社長が朝日OBでしたから当然なのかもしれません。おそらく、地方紙の多くがこういった調子なのでしょう。
 「事実遠ざける検定」の小見出しのもと、次のように書いてあります。

〈「焼いて、殺して、奪い尽くす」三光作戦。
 16万人以上を無差別に殺したといわれる南京大虐殺。
 「天皇の軍隊」が、アジアで殺した数は1千万人を超えるとされている。
日本人は300万人が死んだ。
 しかし、戦後の歴史教育では、こうした事実は検定によって遠ざけられ、
長い間教科書には載らなかった。〉


 そして、「ドイツの態度と対照的」とお決まりのコースへと話が進み、「希薄な加害者意識」の見出しのもと、国民に「正しい歴史を」とばかりに警鐘を鳴らします。

4 「百団大戦」といえば「三光政策」


 しばしば「三光政策(作戦)」の実行例として、中共側の作戦「百団大戦」に対する日本軍の反撃作戦が引き合いに出されます。
 「百団大戦」は中国側の呼称で、「100個連隊による攻撃作戦」を意味するものだといいます。この作戦を中国は非常に高く位置づけています。もちろん、輝かしい勝利としての位置づけです。

 具体的には、1940(昭和15)年8月 、従来のゲリラ作戦とは異なり、中共八路軍は大兵力をもって鉄道、通信網、鉱山などの生産施設、あるいは日本軍を急襲した作戦をいいます。日本側から見た八路軍のこの攻撃は大別すると前後2度にわたりました。

 第1次 1940年8月22日〜 9月上旬
 第2次  同 年 9月22日〜10月上旬

 予期していなかった日本側は、各地で大きな損害を出しました。
 北支那方面軍は、「作戦記録」に次のように記しています。

〈特に山西省に於て其の勢熾烈にして、
石太線及北部同蒲線の警備隊を襲撃すると同時に、
鉄道、橋梁及通信施設等を爆破又は破壊し、 井徑炭坑等の設備を徹底的に毀損せり。

本奇襲は我軍の全く予期せざる所にして、其の損害も甚大にして
且(かつ)復旧に多大の日時と巨費を要せり。〉


 具体的な損害を記せば、線路破壊114件、橋梁破壊73件、通信施設破壊224件、電柱の切断、倒壊2440本、また、井徑炭鉱の被害も大きく半年間にわたって出炭できなかったと記録されています。

 日本軍でいえば、独立混成第4旅団(司令部、陽泉)、第110師団(司令部、石門)の損害がもっとも大きかったといいます(下画像、独立混成第4旅団守備の娘々関)。
 この攻撃が方面軍の方針変更、つまり共産軍の根拠地覆滅を促す誘引となったことは間違いないでしょう。

 中共側は次のように見ていました。

〈 (1940年)8月、百団大戦では
第120師、山西新軍および地方武装勢力の全力をあげて参戦し、
太原(たいげん)、・・大同に進入し、
 50日間に316回の戦闘を交え、敵に甚大なる損害を与えた。

敵は報復のため急きょ、2万余の兵力をもって、冬季大掃蕩を発動し
晋西北に対し残酷な「三光政策」を行なった
 わが軍は35日間、300余回の戦闘を交え、遂に敵の掃蕩を粉砕した。〉
― 人民出版社『抗日戦争時期における解放区概況』、『北支の治安戦1』より―


 「注 記」
 上記の2万余の兵力を動員した「冬季大掃蕩」に対応する日本側資料(作戦記録)はみつかっていないとのこと(防衛庁戦史室、2003年確認)。もともと「ない」可能性もあります。

 また、次の記述もあります。 

〈更に本作戦(百団大戦)では戦闘が激烈をきわめ、わが損害も甚大であったが、
敵の死傷は我に数倍し、敵の心胆を寒からしめた。〉


 日本側の人的損害が中共側の数倍に達したというのですから、「百団大戦」は八路軍が日本軍に行なった「殺しつくす」作戦だったのでしょう、たぶん。

・ 中国側から見た「戦果」

 以下は、中共側の資料による中共軍の「戦果」です。
 井本熊男著『作戦日誌で綴る支那事変』(芙蓉書房、1978)から引用しました(注、『北支の治安戦1』にも同一内容の記録あり)。
 井本は1934年に陸軍大学校を卒業。1939年9月・支那派遣軍総司令部参謀、1940年10月・参謀本部部員、1942年12月・ラバウル第8方面軍司令部参謀に就任しています。
 したがって、「百団大戦」に関心を寄せる立場にあったと言えます。

 〈3ヵ月半にわたるこの大戦は、緊張と苦難の連続であった。
 全期を通じ交戦回数1,824、敵の死傷は日本軍20,645名、偽軍5,155名、捕虜は日本軍281名、偽軍18,400名、
 攻略した敵守備拠点2,993個、鹵獲した小銃5,400挺、軽機関銃200余挺、破壊した鉄道948支里、公路3千支里、橋梁、駅、トンネル等206ヵ所、鉄道工人2,000名等を解放した。
 わが軍も死傷22,000余名を出した。〉

 日本軍の死傷者20,645名、中共軍の死傷者も22,000余名ですから、死傷者数から見れば、「百団大戦」と日本軍の反撃作戦はほぼ互角で終わったと言えるでしょう。

 これらの数字の信頼性の問題はあります(後述)が、ここで重要なことは、「三光政策」が行われたとするこの作戦は、武器を持った中共軍と日本軍の戦いであったと、中共側も認識していたことです。
 八路軍の支配下にあった抗日根拠地の「住民」を「三光」の対象にしたなどと、中国側も考えていないことが読みとれるはずです。

 なお、井本は次のように記しています。
 〈以上が中共軍発表の資料による彼等のいう「百団大戦」の概貌であるが、この資料はずっと後でわが方が入手したものである。而して中共側の述べているところの大筋はその通りであったが、わが方に与えた損害などは過度に誇張されていて、実際と大きく異なる〉と。

 なお、日本軍の反撃作戦の記述もありますが、「三光政策(作戦)」なる字句はでてきません。

(1) 日本軍の反撃作戦
 当然のことながら、この2次にわたる敵の攻撃に対応、日本軍は2期わたって反撃を開始しました。

第1次反撃 ⇒第1期晋中作戦
 1940年9月1日 〜18日(18日間)
参加部隊 独立混成第4旅団 同9旅団
  
第2次反撃 ⇒第2期晋中作戦
 1940年10月11日〜12月4日(約50日)
参加部隊 同第4旅団 同16旅団 第36師団

 この後、日本軍は中共軍の根拠地を覆滅する掃討作戦に力点をおくことになります。
 なお、「晋中作戦」の「晋」(しん)は山西省の別称です。

(2) 根拠地攻撃の実態は?
 さて、この2期にわたる日本軍の反撃とこれにつづく根拠地攻撃が「三光政策」だったというのですが、実態はどうだったのでしょうか。

@ 片山中将の「回想」
 独立混成第4旅団長・片山 省太郎中将 の「回想」は次のように記します。
 独混4旅は「百団大戦」でもっとも大きな損害(人的、物的)を出した部隊です。また、第1期、第2期と2次にわたる「晋中作戦に主力部隊として参戦しました。

〈 住民に対する八路軍の工作が浸透しており、部落は文字どおり「空室清野」
住民はほとんど逃避して姿を見せず、積極的に八路軍側に協力していたようである。
 これがため作戦間の日本側の動向は、微細にわたり、八路軍側に筒抜けであったのに、
日本側には八路軍の情報が皆目不明であった。

 しかも八路軍の動向は数日以上、同一地点に止まるようなことはなく、
終始変転自在に行動し、険峻な山嶽地帯における遊撃行動に卓越していた。

 これに反し日本軍の行動は徒歩部隊とはいえ、駄馬による行李輜重を随伴し、部隊及び個人の装備の過重で、
猿のように軽快な八路軍に比べて鈍重であった。
従って、いかに八路軍の補足追及に努力しても、その成果は大したことがなかった。〉


 日本軍の動向は、「八路軍側に筒抜け」なのに、逆に「八路軍の情報が皆目不明」で日本軍が翻弄されたこと。出動先に着いたところで、部落は「空室清野」でもぬけの殻。
 また、日本軍は「猿のように軽快な八路軍に比べて鈍重」 だから、八路軍を追及しても「成果は大したことがなかった」 というのです。

 この記述、河北省の警備にあたった鈴木 啓久中将(第117師団長)の「回想」、つまり日本軍の攻撃のほとんどが 「空 撃」であったとする記述と共通します。⇒こちらをご覧ください。

 また、万里の長城に接する興隆県(満州国)の「無住地帯」に登場する部隊(240連隊第1大隊)の将兵から聞き取ったことと、ほとんど差は見られません。
 八路軍は地理に知悉していて神出鬼没、日本軍が追いつける相手ではなかったというのです。ここでも片山中将の「回想」と酷似しています。⇒こちらをどうぞ。

A ある「老兵」の投書から
 独混4旅のある兵士(匿名)は、「私はその作戦に参加した老兵です」として、月刊誌「正論」に次のように投稿しています。私は他の兵からこの論者の実名を知りました。

 〈・・あれは共産八路軍が百団攻勢ということで起こした作戦です。
 石家荘から太原までいわゆる石太線をメチャクチャにして沿線各駅を襲い、そこに居た小警備隊と在住の日本人を虐殺し、駅舎は元より鉄道線までバラバラにした事件です。

 私はその時分、他の地区で討伐作戦を行っていて無電でその事件を知りました。部隊は軍の命令で急きょ反転して現地に急行したのですが、物凄いほどの八路軍の兵隊で、その中に付近の住民も加わっていたそうです。
 目を覆うような惨状で、我々も怒り心頭に発するといった感じでした。

 それから掃討作戦に入ったのですが、その後の行動が三光作戦の虐殺ということでしょう。しかし、私たちが虐殺をやろうにも行く先々、どこの集落に行っても無住で、住民は皆逃げていて一人もいませんでした
 他の部隊はどうか知りませんが、日本人の受けた虐殺の方がずっと多かったのではないかと思います。・・〉

 とし、さらに、

〈 事の真相を知らぬ世代の人たちが中国人の言っていることを真に受けて、
日本が悪い悪いと謝罪しているとどうなるでしょう。
ますます彼等は増長して、いずれ日本は彼等に侵略される時が来るのではないでしょうか。〉


 と、この「老兵」は憂慮します。
 事実、憂慮する方向へと進みつつあると思います。
 片山中将や「老兵」の語るような、つまり日本軍が共産軍に翻弄される「戦闘実態」はしばしば耳にするところで、決して例外的なケースではないことです。

(3) 「三光作戦」の証拠発見!
 戦争ですから、ある局面をとれば、悲惨な、また残虐な場面も起こったであろうことくらいは想像がつきます。これは古今東西、世界中の戦争、紛争について回るのが現実だからです。

 「百団大戦」で最大の被害を出した独混4旅の「第一期晋中作戦闘詳報」が発見されると、これが「三光作戦」の実態とばかりに日本の学者は飛びつきました。
 というのは、とくにこのなかの別紙「第一期晋中作戦復行実施要領」に、「二 燼滅目標及方法」という6項目の記述があって(下画像)、その中に、

〈 1、 敵及土民を仮装する敵
  2、 敵性ありと認める住民中、15歳以上、60歳迄の男子 殺 戮

 などとあったからです。


 「殺戮」という言葉に驚くのはわからないでもありませんが、注意して読めば、相手は「敵」「敵性ありと認める住民」という条件がついていますし、女、子どもを除外しているなど無差別殺害になっていません。

 また、15歳以上ともなれば当時、必ずしも子供とはいえず、武器を持てば日本兵にとって厄介な戦闘員になる可能性は十分に持っていたのです。子供と思って近づくといきなり発砲をうけ、死傷したという話は結構、つたわっています。

〈 八路軍の抗戦意識は甚だ旺盛であり、共産地区の住民も女、子供が手榴弾を、
「ざる」に入れて運搬の手伝いをするなど民衆総がかりで八路軍に協力した。〉
―朝枝・第1軍参謀「回想」―


 中国の中学校用歴史教科書(中、高用)に百団大戦は取り上げられ、そのなかに以下の記述が見られます。

〈根拠地防衛の戦いにおいて、民兵は地雷戦、地下道などの独特な戦法を採用し、
人民大衆は老若男女を問わずいっせいに出陣して敵を打ち殺した
日本の侵略者は人民戦争の洋々たる海原に陥った。〉


 こうした「事実」がある以上、この1、2行をもって、「殺 光=住民を殺しつくす」などと一足飛びに結論に結つくわけがありません。

5 晋中作戦の戦果は


 晋中作戦の参加部隊は第1期が、独立混成第4旅団(4ヵ大隊)および独立混成第9旅団(3ヵ大隊)で、第2期は1期に参加した独混4旅と独混16旅団および第36師団でした。
 百団大戦でもっとも大きな損害を出したとされる独混4旅が、2次にわたる反撃作戦に主力部隊として参加していることは注目しておく必要があるでしょう。

 2期にわたる作戦の戦果は下表のとおりです。
 ただし、第1期における独混9旅の戦果は入手できていません。独混4旅の方は「戦闘詳報」からわかります。
 第2期の戦果は下画像の綜合戦果表の通り、判明しています。

 この綜合戦果表があるにもかかわらず、「三光作戦(政策)」存否の議論に引用されることはほぼ皆無と言ってよいでしょう。というより、日本軍の「反撃作戦」の戦果を表したこの資料を知らないのかもしれません。
 資料抜きで想像逞しく、中国の言い分に追随したものだと私は理解します。

 この戦果表を最初に公開したのは、もう15年ほど前になるでしょうか、「日華事変と山西省」というタイトルのホームページです。今はないのかもしれませんが、一応、⇒こちらを参照ください。
 ただ、「晋中作戦における戦果」の小見出しのもと、上記綜合戦果表にもとづき、短いながら「三光作戦」を否定したページは見つかりませんでした。

 下画像が、〈第二次作戦総合戦果〈第一軍参謀部「第一軍作戦経過ノ概要(第二十一章 晋中作戦)」1940年〉です。
 また、その下の「晋中作戦 戦果一覧」は第二次作戦綜合戦果と独混4旅の「「第一期戦闘詳報」の戦果を1表にしたものです。独混9旅は不明です。
 


晋 中 作 戦 戦 果 一 覧

作 戦 名 部 隊 名 敵 兵 力 遺 棄 死 体  俘  虜 鹵  獲  品
小 銃 重機関銃他 その他
第1期
晋中作戦
(9月1日〜
18)
独立混成
第4旅団
1,840 227374 手榴弾
 817
ダイナマイト
225K
黒色火薬
400K
電線5千米
独立混成
第9旅団
第2期
晋中作戦
(10月11日
〜12月4日)
独立混成
第4旅団
18,6501,211 184512
(自動小銃
13含む)
重 機 4
迫撃砲1
独立混成
第16旅団
25010
第36師団7,38028464 735
重 機 4
 合  計3,335 4851,623
(自動小銃13)
重 機8
迫撃砲1


 上記の表から、日本軍による反撃の主役は独混4旅であって、他部隊の「貢献」はわずかであったことを示しています。
 1期、2期を通した独混4旅の戦果は遺棄死体3035、捕虜411名となっています。この数の評価について見方が分かれるでしょうが、突出した数(戦果)とは言えないように思います。
 むしろ、この数は「水増し」ではないかと思ってしまいます。日本軍の“戦果”の水増しは「常識」のようなものですので。

 また、この戦果を見れば、中国の百団大戦に対する日本軍の反撃が、言われるような八路軍の影響下にある「住民皆殺し作戦」とする解釈は間違いで、武装した部隊間の戦闘であり、「三光政策」だの「三光作戦」だのと呼ぶようなものだったとは、とうてい読み取れません。

 と書きますと、日本軍が「住民殺害数」を書くわけがないとの反論がくるのでしょうが、感想めいた一般論ではなく、それなりの根拠が必要でしょう。

・ 第1軍、独混4旅の作戦命令
 ここで、百団大戦にかかわる作戦命令(要点のみ)を見ておきましょう。
 まず、第1軍の作戦命令(甲第155号、8月26日)で、以下の通りです。

一、 石太線南方地区ノ敵第129師主力ハ全面的ニ退却ノ兆アリ
二、 軍ハ該敵ヲ捕捉撃滅セントス
三、 独立混成第4旅団長ハ所在ノ敵ヲ索メテ撃滅スヘシ
七、 予ハ太原軍司令部ニ在リ
 注、「予」とあるのは第1軍司令官・篠塚義男中将です。

 この命令を受けた独混4旅の作戦命令(甲第626号)は以下の通りです
一、 敵ハ依然 石太沿線ニ蠢動シアルモ全面的ニ退却ノ兆シアリ
二、 旅団ハ独立混成第9旅団ト協力シ 主力ヲ以テ概ネ陽泉和順遼県楡社線ヨリ松塔鎮ヲ含ム地区ニ向イ進攻シ、敵ノ129師主力ヲ捕捉撃滅セントス

 以上が作戦命令の概要で、この反撃作戦が江口圭一元教授のいう「住民殺害」を目的にしたとは読めそうもありません、

・ 日本軍の損害
 「本作戦における彼我全般の損害は明らかではないが」とするものの、『北支の治安戦1』に独混4旅の損害が記載されていますので、抜き書きします(359ページ)。「戦闘詳報」の記載数字です。

 最も損害の大きかった独混4旅の「戦死71名、戦傷66名、行方不明2名」、また旅団戦死者名簿によると、8月20日から12月3日までの独混4旅の戦死者は276名です。
 月別内訳は、8月60名、9月142名、10月62名、11月8名、12月4名となります。

 上述した中共側資料「日本軍死傷者20,645名、中共軍の死傷者も22,000余名」とは似てもにつかない数であり、中共側の「言い分」を信じればとんでもない結論に結び付くでしょう。

6 国府軍の「三光政策」


 1931(昭和6)年11月、江西・福建の2省の境、瑞金に中華ソビエト政府(主席・毛沢東)が成立します。以降、蒋介石は瑞金のソビエト地区を占領するため、数次にわたって攻撃しますが占領することはできませんでした。
 1933年10月、封鎖線を敷いて1歩1歩進攻する蒋介石軍の作戦に対して、後方かく乱、輸送線の破壊という共産軍のゲリラ戦術が功を奏せず、大打撃を被ってしまいます。蒋介石軍から見た「第5次掃共戦」の勝利というわけです。これ以降、共産軍の撤退、いわゆる長 征 が始まります。

 この、「掃共戦」を指して、中共は「三光政策」と呼び、非難しているのです。
 京都大学名誉教授であった貝塚 茂樹 は、自著『毛沢東伝』(岩波新書、1956年)のなかで、朱 徳の考えとして次のように記しています。

〈いかに(外国人顧問が)有能であっても、外国人による軍隊の指揮は、異国人であるがため、
軍民に対する同情を欠如しているので、敵味方を問わず、
人命を無視した残酷な極端な作戦が強行される傾向がある。
もちろんこの反面には思い切った処置を下しうる利点が存在するけれども、
このような非人道的作戦は、戦争の大局からみると、重大な損害を味方にあたえずにはおかない。
ゼークトにより蒋介石軍がとった、ソヴェート地区の壮丁をみなごろしにする殺光、住家を焼きつくす焼光、
食料を略奪しつくす槍光のいわゆる三光政策は、この例である。〉


 重要なことは、日本軍がとったという「三光政策」より以前に、国府軍の「三光政策」が非難されていることです。
 ということは、「三光政策」は日本軍の作戦に特定されたのものではなく、相手を非難するさいに恣意的に使うものだという疑いがでてきます。
 そして、この疑いが確からしいということが、次の項が証明していると思います。

7 文化大革命、ベトナム戦争でも三光政策が


 次に、「三光政策」という相手を非難する言葉が、こんなところにも手軽に使用されているという例をあげましょう。
ここにも「三光政策」が  1987(昭和62)年9月、PHP研究所より 『中国文化大革命』という本が発刊されました。著者は厳 家其・高 皐という中国人夫妻の共著で、上下2巻の興味深い本です(左画像、上巻)。岩波から文庫本となっていたと思いますので、目にする機会はあると思います。
 なお、厳 家其は中国社会科学院政治研究所長を歴任、夫人とともにアメリカに亡命しています。

 上巻の副題は「毛沢東と林彪」となっているように、2人を軸に文化大革命(1966〜1976)の内情が記されていますが、このなかに、次のように書かれたヵ所がありますので、引用します。

〈彼ら(注・林彪一派)は軍内部において自己と異見を異なる幹部に対して、
「三光政策」(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)に近い中傷迫害を実行した。
葉 剣英、・・、彭 徳懐ら高級幹部は
彼らの打撃からのがれ出ることは不可能に近かった。〉


 ここに名のあがった彭 徳懐は、「百団大戦」を指揮した人物です。彭は文革中に失脚(左画像)、失意のうちに世を去りました(後に名誉回復)。

 また、ベトナム戦争(中越戦争、1979年2月〜3月)時に、中共軍の残虐さを「三光政策」として非難する例があり、ベトナムの教科書に載っているとのこと。間違いないようです。
 逆に、ベトナム側の戦闘行為が「三光政策」と非難する例もありました。いずれも、中国の検索エンジン、「Baidu」(百度百科)で私が以前に見たものです(注、前者の掲載は今もありますが、後者は確認できませんでした)。

 こうなると、「三光政策」 なんて、相手を非難するさいに気軽に使う形容、ということになりそうです。それをご丁寧にも日本の学者先生が「三光作戦」と言い換えて、さもさも日本軍固有の作戦であったかのように、教科書や百科事典などに載せて断罪する、まともとは思えません。そういえば日本の高校用教科書「世界史」に日本軍の三光作戦として槍玉にあげている例がありました。

― 一部加筆のうえ、2024年6月掲載 ―

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