「中共戦犯」と洗脳
ま え が き

― メディアの応援で大きな影響力が ―

― その(1)へ ―


 1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦以降、満州国(現・中国東北部)、朝鮮に駐留していた日本軍将兵を中心に、官吏を含めた日本人約60万人が、日ソ中立条約を一方的に破り、侵入してきたソ連軍によって武装解除され、ほとんどがシベリアに送られました。
 質量ともに最悪の食物しか与えられず、酷寒の地で重労働によって多数が死亡、輸送途中の死者も含め約6万人が命を失ったのです(もっと大きな調査数字もあります)。

1 中国戦犯(中共戦犯)とは


 これら「捕虜」のなかから 969人が中国に引き渡され、「撫順戦犯管理所」と称する監獄に送られました。1950(昭和25)年7月のことです。
 内訳を見ますと、第59師団の将兵260余名、第39師団 の200余名の順に多く、そのほか63師団、117師団、それに満州国高官らが含まれていました。

 一方、中国山西省では、日本の降伏後も国民党系の閻 錫山(えん・しゃくざん)軍と共産八路軍(はちろぐん)が戦闘状態にありました。
 閻錫山は「日本人居留民を帰国させる」などの条件をつけ、日本軍(第1軍、司令部・太原=たいげん)に残留を要請します。日本軍はこれを受け入れ、閻軍とともに八路軍と戦うことになりました。
 結果は共産八路軍の勝利に終わり日本軍は投降します。第1軍関係者それに他の理由で捕まった若干名を合わせた140名が、「太原戦犯管理所」に送られました。


 撫順(ぶじゅん)、太原(たいげん)の両管理所(監獄)に収容された「1109人」が「中国戦犯」といわれる人たちです(上写真は撫順戦犯管理所関連)。ここでは「中国戦犯」「中共戦犯」(または「抑留者」)という言葉も併用します。
 抑留者が釈放され、帰国するのは1956(昭和31)年以降ですので、ほとんどの人は6年間、残りの人はそれ以上の抑留となりました。ですから、ソ連の分と合わせれば実に10年以上も捕らわれの身となったのです。
 中国に抑留されていた6年の間に、「学習」などを通して、「洗 脳」問題があったと言われていることはご存じのことと思います。
 また、抑留者は帰国後に「中帰連」(中国帰還者連絡会)を組織し、さまざまな活動を行ってきたことも、周知の事実です。

2 懺悔の記録「手記」


 1957(昭和32)年11月、光文社のカッパブックスから、『三 光』という小さな本が出版されました。
 本は抑留者が自らが犯した中国での非道な行為を懺悔した「手 記」のうち、15編が選ばれたものでした。これらの「手記」はいずれも抑留中に書いたものです。

 発行されるや、ベストセラーとなって、日本軍が行ったケタはずれの「悪行」が暴露されたのでした。と同時に、彼ら抑留者は洗脳されたのだという指摘が多くなされました。
 編者の神吉 晴夫(かんき・はるお)は「まえがき」に、「手記」を入手した経緯を以下のように記します。

(1) 「手記」が本になるまで
 1956年夏、ヘルシンキで行われた「国際ジャーナリスト集会」の帰りの中国の飛行機の中で、同行の朝日新聞記者・小原 正雄が備えつけの新聞「人民日報」を見、瀋陽(しんよう、 旧奉天)と太原の特別軍事法廷で日本人戦犯の裁判が行われているという大きな記事が出ているのを見つけ、それがキッカケだったとしています。

〈その記事によりますと、日本人戦犯は、みな心からその罪を謝し、
これからは平和人士とし平和のために力を尽くすことを誓ったというのです。
また、日本軍の暴行をうけ、身体に何ヵ所も痛痛しい傷跡のある中国人が証言台に立ち、
こんな拷問をうけた恨みは一生忘れない。
こんなことをやらせたのは一握りの日本帝国主義者の仕業だ。その人たちはあくまでも憎む。
しかし、その手先に踊らされて戦争犯罪をした人たちでも、謝罪するならば、
これを許して、日中友好のために、手をとりあっていこう、ということでした。私たちは感動しました。〉


 そこで、ぜひ読んで見たいと考えた神吉は、北京に着くとすぐ、案内役であった新華社通信記者に「あったら見せてほしい」と申し入れたのでした。そして、雑誌「人民中国」の編集長に会い、手記の目録を見せてもらったところ、手記は「2百数十編」もあったようだと神吉は記しています。
 2ヵ月半の後、東京の神吉のもとに、82編(400字詰めに直すと1589枚)のコピーが送られてきたといいますから、200余編のうち、82編が厳選(基準は?)されたことになります。

〈私は読みすすむうちに、あまりに残虐です、無慚です、なんど原稿を閉じてしまいたくなったか分かりません。
いままでに私もいくらかは、戦争の残虐さについて話を聞いていました。
しかし、ここに告白されているものの中には、想像を絶するものがあります。
いくら戦争といっても、私たちの同胞が、こんなことまではたしてできるだろうか。
しかし、残念ながらこれが事実なのです。私は「これが戦争なんだ!」と思いました。〉


 神吉がこのように書くのも、「手記」にある諸行為が「事実である」という前提に立てばもっともな感想です。
 ここに描かれた日本兵の行為は、残忍、冷酷、陰湿、非道といった言葉では表現できないほど、人間性のひとかけらも見当たりません。まるで、変質者か狂人です。

(2) 「すべて事実」と中帰連
 神吉晴夫の「まえがき」とは別に、中帰連の手になる「あとがき」があります。
 それによると、中国抑留中、「全員の手記が一応完成するまでには、前後約1年の日数がかかった。そうして私たちは出版の便宜を与えられたいという希望をつけて、そのうちの一部を中国政府に委託したのである」と記しています。そして、

ここに収められている15編は、すべて事実であり
なかんずく、戦争の実体を取扱ったものは、あの戦争の規模と被害からすれば、
ほんの九牛の一毛にもたらぬ一部分である。〉


 とし、手記に書かれている日本軍の残虐非道な行為は「すべて事実」と強調します。
 また、この15編以外の「手記」についても、「すべてが事実である」と中帰連は一貫して主張し今日に至っています。

 一方、すべてが事実どころか、「多くは怪しいし誇張もひどい」と私は思い、「手記」のうち、核となりうるいくつかを検証しました。これらは別項で概略を記しました。

(3) 言語を絶する残虐
 この書を読んだ人のほとんど、あるいはすべての人が「底しれない日本兵の残虐」に身を縮め、日本軍に強い嫌悪感を覚えたことでしょう。そしてその日本軍のイメージが昭和前期の歴史イメージとして定着していったに違いありません。
 ちょうど、『中国の旅』や『天皇の軍隊』(ともに朝日文庫)を読んだときと同じようにです。そして今なお、、昭和前期の歴史を規定していることでしょう。

 書籍『三 光』は中国語訳『日本戦犯的自白』となって、香港の出版社(新学書店、1965年)から発行されました。参考のため、中国語訳の分をふくめ、目次をお目にかけます。
 ご覧のように15編のうち10編は実名ですが、5編は仮名扱いになっています。そのうちの1編「三 光 ― 殺光・焼光・略光」がそのまま書名になったものと思います。


 『三光』 の大きな反響に対して、「手記」は「洗 脳」の結果だという声が大きくあがりました。とくに、ソ連に抑留され、帰国した人たちからの反発でした。このため、『三光』は絶版に追い込まれてしまいます。
 しかし光文社に代わり、今度は中帰連が編者となって、『侵 略』(新読書社、1958=昭和33年)と改題のうえ発行されました。この本は15編に1編を加え、16編の構成となりました。
 その1編とは「無住地帯」で、書いたのは抑留者の中で最高位にあった鈴木 啓久中将(第117師団長)でした。鈴木中将と「無住地帯」については、別項を参照ください。

(4) 検証の痕跡ナシ
 こうしたゴタゴタがあったとき、つまり昭和30年代初めに、しかるべき調査をし、しかるべき根拠をあげて「手記」の信頼性について系統的に検証しておくべきでした。ですが、調査した痕跡が見つからないのです。
 何か活字になって残っていないかとずいぶん捜したのですが、発見できませんでした。「手記」が果たした役割を考えたとき、われら日本人の先見性のなさ、呑気さには情けない思いがします。

3 4半世紀ののちに


 『三光』騒動も時の経過とともに、しだいに忘れられていきました。いや、忘れられたというより、1971(昭和46)年の「中国の旅」報道にはじまったメディアの日本叩きに主役が移ったと考える方が妥当かもしれません。
 ところが、25年を経た1982(昭和57)年頃を境に、中帰連による出版活動、平和運動が目立つようになりました。
 メディアとの協力を目標にした中帰連の狙い通りに、朝日、NHK、共同通信、それにジャパン・タイムズなどが積極的に取りあげたため、中帰連の知名度と影響力は急激にたかまったのでした。
 これらの報道は「一片の疑い」を差しはさむむことなく、彼らの言い分を丸呑みにするばかりでした。

 1982年という年は、高校用歴史教科書の文部省検定で、「侵略」とあった表現を「進出」に変えさせたとする新聞などメディアの早とちり報道のため、大騒ぎになったいわゆる「教科書誤報問題」の起こった年でした。この年の前後、昭和の歴史の評価(歴史認識)をめぐって何かと騒がしい時期でした。
 中帰連の活動の活発化とこれを支援する朝日、NHKの報道はこうした背景のもと密接に連動していたのだと思います。

(1) ぞくぞく「手記集」が
 まず、『三 光』とは別の手記を選別し、『新編 三光 第1集』(下左写真。カッパブックス、中帰連編、1982年8月)が発行されました。妊婦の腹を割いて胎児を取り出して投げつけるという「胎 児」、あるいは赤ん坊を殺し母親を犯すという「強 姦」など15編が収められています。


 ここに登場する日本兵は一片の人間性も持ち合わせない異常者、変質者の集団であり、彼らが犯した醜悪な所業に、善良な読者であればあるほど驚愕し、心に深い傷が刻み込まれたでしょう。同時に、暗い歴史観が形作られて何の不思議もありません。
 つづいて第2集も計画されましたが、第1集に掲載された写真の誤用問題などで、発行には至りませんでした。

 しかし2年後の1984(昭和59)年、第1集および第2集掲載予定分を合わせ、『完全版 三 光』(同連絡会編、晩聲社、1984年、写真中央)が出版されました。「人間の鬼」(農民を火あぶりにし生き埋めに)を含め22編が収録されています。
 ただし、第1集に収められていた上述の「胎 児」ほか4編が、理由は不明ですがカットされ、『完全版 三 光』に収められていません。つまり『不完全版 三 光』になりました。
 この「胎児」については、(⇒ 日本兵の凄まじい残虐1)を参照ください。

 この書は、「森村 誠一氏のお骨折りと晩聲社 和多田 進氏の決断によって」発行されたと、中帰連が「あとがき」に記していますから、270万部を超える大ベストセラー『悪魔の飽食』を著した森村 誠一とのつながりがあり、後述するように朝日・本多勝一とも協力関係にあったのです。
 その後、『天皇の軍隊 〈中国侵略〉』(日本機関紙出版センター、1988年)という書名の手記集も追加、発行されました。本多勝一らの『天皇の軍隊』(朝日文庫)と同じ名称が使われたのも、出版の目的が本多らの活動目的と一致していたからでしょう。

(2) 政治目的化した中帰連の活動
 『新編三光 第一集』の「まえがき」に、本多勝一・朝日新聞記者が〈「反省なき民族」のために〉を書いています。「反省なき民族」が何を指すのか、具体的には次の2点が示されます。

 その1は、アジアと自国民を惨憺たる目にあわせたA級戦犯を平気で総理(岸信介首相。1957.2〜1960.7まで)にする神経を日本人が持っていること。
 その2は、また日本が軍国主義の道を進んでいるということです。
 この2点は日米安保条約(60年安保)を進める岸首相への批判を含め、朝日の論調と同一のものでした。

@ 本多記者と中帰連
 そして以下のように記しています。

〈本書は、第2次大戦中に中国で行われた日本軍の残虐行為に、
当の行為者自身が自ら裁いた稀有の記録である。なぜ、稀有か。
それは「反省なき民族」の中で行われたからだ。・・
真の反省、真の謝罪、真の行動。それが見事に実行されている本書の執筆者に敬意を表したい。
「反省なき民族」が変わる日が来るかどうかは、このような芽が大きくなるか、つぶされるかにかかっている。〉


 ここでも「手記」に疑いをはさむことなく、すべてが事実であるという前提に立って論述しています。
 また、富永 正三(中帰連・常任理事。後に会長)が本多記者にあてて書いた本書発行の意義を記した文書の一部が、「まえがき」に引用されていますので、そのままご覧にいれましょう。

〈・・私たちが到達した認識は、まず自分の犯した罪行に対しては実行者として自ら責任をとる、
その上に立って命令者の、またそのような状況を作り出した為政者の責任を徹底的に追及する、ということであった。
ここに発表される手記はこのような認識に基づいて1955年ごろ書かれた手記の一部である。
私達が帰国直後(1957年)同じ出版社から出した『三 光』は読者に大きな衝撃を与え、かつ共鳴を得たが、
一面「何という恥知らずな ―」という非難と同時に悪質な妨害を受けた。
今再びその続編ともいうべき『新編 三光』を世に問うゆえんは何か。
全世界的にくりひろげられている「反核・軍縮」の大きなうねりの中で、
わが国では低成長下に財政再建・緊縮財政を唱える政府が防衛予算だけ特別扱いにして大きく突出させて危機感をあおり、
一方、映画「連合艦隊」「大日本帝国」等による「軍国日本」へのノスタルジアの喚起、
現職の大臣が「金鵄勲章―武功抜群の軍人にだけ与えられる」の復活を公言等の状況にある。
いったい日本は中国で何をしたか。

私たちが体験した加害者としての戦争体験を訴えることによって戦争の実態を暴露し、
あのような過ちを次の世代の人達に2度と繰り返させてはならないという悲願をこめ、
私達をあのような状況に陥れた当時の為政者 ―その残党は今尚健在である―を告発し、
現在の為政者に警告を与える。これが本書を世に問うゆえんである。〉


 手記が書かれた「1955年ごろ」というのは、抑留者がまだ起訴される前のことで留意が必要です。
 抑留者に絶えず強調されていたのは、「二つの態度と二つの道」 ですが、これは「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」とする論法です。
 となれば、「何としても帰国したい」彼らが、どう行動するか、ある程度想像がつくでしょう。この「二つの態度と二つの道」については、(⇒ 洗脳について)をお読みください。

 富永は、日本が世界的な「反核・軍縮」のうねりに反し、防衛予算を突出させている、つまり「軍国主義の再来」をそこに見て批判をします。この当時、左翼人士がさかんに防衛予算の増加などを「世界の潮流に逆行」するものだとの論をかかげていたのと同じ見方です。
 それにしても、「連合艦隊」「大日本帝国」などの映画までも批判の対象にするのはどんなものでしょう。私も見ましたが、特定の思想のもとにつくられたものとは思えず、娯楽性の高い作品であったと思います。

A 天皇制の否定が目的
 そして、手記集『天皇の軍隊』の長文の「あとがき」の最後で、中帰連会長になった富永正三は以下のように記しています。

〈されば天皇の股肱(ここう、家臣のこと)である私達が犯した戦争犯罪は
ただちにその頭首である天皇の犯した戦争犯罪となるのである。
これでどうして天皇に戦争責任がないと言えようか。
私達は天皇の命令によって行った自分の戦争犯罪に基づき、
その責任の一端を果たした者として、私達の被害者に対し、天皇の戦争責任を追及する義務があるのである。
 よってこの手記が、正に天皇の戦争責任を追及する有力な武器となることを期待するものである。〉


 天皇の責任を追及する、つまり「天皇制の否定」が中帰連の目指した目標というわけです。
 「天皇の責任追及」という目標は抑留中に「学習」した内容でしたから、何の不思議もありません。ただこの目標が中帰連の見解そのものかとなると疑問も残り、富永会長個人の思い入れという側面が強いのかもしれません。

(3) 登場! 富永会長の主張を覆す「決定的証言」
 2009年末、『生きている戦犯 金井貞直の「認罪」』(歸山則之)と題した著作が発行されました。
 この書は中国戦犯であった金井(旧姓・田村)貞直中尉の証言を丁寧に記したもので、「手記」が書きあがるまでの実態についても、具体的に説明されています。
 これを読めば、「手記」が事実を書いたなどという主張など吹き飛んでしまいます。(⇒ こちら)に要点を書きましたのでご覧ください。

4 検証抜きの「供述書」


 「手記」のほかに、抑留者は「供述書」を残しています。「手記」は300人ほどが書いたようですが、「供述書」の方は裁判に必要だったでしょうから、特別な事情がないかぎり全員が書いたはずです。

 これまでに公表された「供述書」はごく一部、それも中国のお眼鏡にかなった報道機関、学者、研究者らの手を通して日本に持ち込まれ、一方的な解釈をつけて公表されたものです。そして、これに反論する側はよく「洗 脳」されたものだから信用できないというわけです。
 ですが、では「洗 脳」とは具体的に供述した内容のどの部分を指し、事実とどこがどう違うのかといった指摘がないのです。これでは説得力に欠けるといわざるをえません。
 「供述書」の方も「手記」同様、ほとんど「検証」とは無縁でした。一、二の例外はありますが。

 抑留者1069人のうち、中国開催の軍事法廷で45人が無期懲役を含む有罪、残りは起訴免除となり、即時に釈放されました。
 1998(平成10)年、有罪となった45人の「供述書」が、中帰連とごく親しい関係にある報道写真家が入手、朝日新聞社と共同通信社に持ち込みました。
 このため、全国紙では朝日、地方紙も多数が大々的に報じました。師団長クラスの大物の「供述書」が含まれていたというわけで、〈行為の「全体像」浮かぶ〉〈『慰安婦連行』軍の命令」〉などなど、紙面をにぎわしたわけです。

 ここでまた、日本国民は日本軍の底知れない蛮行を思い知らされたことになります。供述に対する何の裏づけ調査も行われていないことなど読者が知るわけがありません。
 2014年7月になって、中国中央公文書館は上記45人の「供述書」(筆供自述)を公式サイトで公開しました。
 公開理由は、

〈日本の右翼勢力が種々の悪行などを否定していることに反撃し、
侵略中の反人道的な暴行を暴き出す〉


 ためとのことです。
 さらに2015年8月、起訴免除者31人の供述書の一部がネット上に公開されました。また、起訴免除者800人の供述書が2巻120冊の本になるとの報道がつづきます。実際に出版されたようです。

5 NHK放送で知名度が飛躍的に


 帰国してすぐに、抑留者が「中帰連」を組織したことはすでに書きました。中帰連について『三 光』などの出版物を通して知る人もいたでしょうが、知名度という点ではそれほどでもなかったと思います。


 知名度を劇的にあげたという点では、1989年8月にNHKが総合テレビで放送した「戦犯たちの告白―撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」だったでしょう。この放送は再放送され、そして再々放送もあったようです。
 この放送の後、中帰連に取材やら講演依頼やらが多数、舞い込んだといいます。中帰連はただちに今までもあった「反戦平和部」を強化し、「中国人強制連行」などさらなる残虐行為の告白と糾弾に取り組みました。

 それらは、出版活動や講演のほか、報道に積極的に応じるなど言論人とのつながりを強化するなどの手段をもって進められました。これは大成功だったようです。こうして「中帰連」はNHK、朝日新聞社などの有力な取材源となって、一大影響力を持つことになったのです。
 報道機関、言論人は彼らの「証言」を確かな事実かのように受けとめているようですが、実におかしな話が多いのです。『天皇の軍隊』(朝日文庫)にでてくる異様な残虐行為の証言者が全員、中国抑留者だったことと合わせて考えてください。

 彼らが抑留中に書いた「手記」「供述書」あるいは「帰国後証言」が、中帰連の主張通りに「すべて事実」なのかどうか、議論をしても仕方のないことで、検証例も合わせてお目にかけることで決着をつけるしかないでしょう。
 以下、「洗脳とは何か」につづけて、検証例(概要)をご覧いただきます。

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