―欧米人が残した虐殺数(2)―
⇒ ティンパーリィ『戦争とは何か』(3)
マイナー・S・ベイツ・金陵大学歴史学教授(アメリカ人)は1946(昭和21)年7月29日、東京裁判の法廷で日本軍により4万2千人が虐殺されたと証言しました。
(1) ベイツ教授「4万2千人」証言
4万2千人の内訳は、女・子供をふくむ一般市民1万2千人、兵士(元兵士を含む)が3万人です。
・ 一般市民1万2千人
まず一般市民ですが、次のように証言しています。
〈我々は安全地帯およびその付近の地方について、できるだけ調査をしたのであります。
スミス(スマイス)教授および私はいろいろの調査、観察の結果、我々が確かに知っている範囲で、
城内で1万2千人の男女および子供が殺されたことを結論といたします。
その他市内で多数殺された者があります。我々はその数を調査することは出来ませぬ。〉
・ 兵士3万人
残る3万人については、
〈中国兵の大きな1群は城外のすぐ外で降伏し、武装を解除された72時間後、
機銃掃射によって射殺されたのであります。これは揚子江の畔であります。
国際委員会は3万人の兵士の亡骸を葬るため労働者を雇ったのであります。
・・揚子江に葬られた屍体および他の方法によって葬られた屍体の数は数えることが出来ませぬ。〉
とし、ハッキリしているだけで4万2千人が「虐殺」されたと証言しました。
また、婦女暴行についても次のように証言しています。
〈安全区内での婦女凌辱事件は、ごく内輪にみても8千を数えることができます。
同僚であったドイツ人は2万件と見込んでいます。〉
・ ベイツ教授と『戦争とは何か』
ベイツ教授は安全区国際委員会委員、国際赤十字の委員でもあり、同時に宣教師であったことなどから、権威ある証言と受け取られたのでしょう、東京裁判、南京裁判の判決に大きな影響をおよぼしました。
これより前、南京陥落2、3ヵ月後、つまり1938(昭和13)年初めですが、ベイツ教授は自らの手紙のなかで、「4万人近い非武装者」が殺害されたと記しました。また、日本軍の南京攻略にいたる途上、華中における中国軍および市民の死傷者が「それぞれ30万人」であったとも書いています。事実関係はしばらくおき、30万人という数が出ていること自体、注目に値するでしょう。
このベイツ教授の記録は、ティンパーリィの編んだ『戦争とは何か』(原著は英語)に匿名ですが掲載され、英語圏の知識層中心に相当程度、読まれてもいます。また、この本が両裁判に与えた影響が大きかったため、記述の真偽が日本における南京論争の争点の一つになったのも当然のことでしょう。
『戦争とは何か』を知ることは、書かれた記述の事実関係はもちろんのこと、中華民国政府が力をいれた情報戦(宣伝戦)を知ることにもつながります。この後⇒ 5−3で紹介します。
なお、『戦争とは何か』は中国語に訳され、さらに中国語訳から日本語に重訳され、ともに出版されています。このため、原著の英語版と日本語版『外国人の見た日本軍の暴行』とは違いがでてきています。
(2) ベイツ教授「4万人近い非武装者」
殺害数が書いてあるのはこの書、『戦争とは何か』の第3章です。この章はベイツ教授が1938年1月25日 に書いたとされる手紙で構成されています。
原著第3章「PROMISE AND PERFORMANCE」で殺害数に触れているところを、訳文と原文でご覧ください。
〈埋葬による証拠の示すところでは、4万人近い非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、
その内の約30パーセントはかつて兵隊になったことのない人びとである。〉
( Evidences from burials indicate that close to forty thousand unarmed persons were killed
within and near the walls of Nanking,of whom some 30 per cent had never been soldiers.)
(注) 原著から引用したのは、引用部分が中国語版から抜け落ち、したがって重訳である日本語版には出てこないためです。ただし、日本語版に次の記述があります。「1万以上の非武装難民が残酷な虐殺によって犠牲となった。ある人達は1万ではきかぬとも主張した。事実死体処理による統計では4万人以上に達していた」(第4章)。この章もベイツ教授の記述ですので、内容自体に大差ないものといえます。
ベイツによれば、4万人に近い非武装者の約30%は兵隊ではないというのですから、「非戦闘員約1万2千人」と「非武装の兵士2万8千人」が殺害されたことになり、東京裁判の判決文にでてくる「非戦闘員1万2千人殺害」と一致します。
また、判決の「2万件強姦」についても、「友人のドイツ人の統計によると強姦事件は2万件におよんだ。私は最低限度8千件と見ている」(第4章)とする記述と一致しますから、証言とこの書の記述が、東京裁判の判決に決定的な影響を与えたことがわかります。
さて、この約4万人という殺害の根拠ですが、「埋葬による証拠の示すところでは」とありますので、埋葬による証拠つまり「埋葬統計記録」に根拠を置いていることは明らかです。
(注) 強姦2万件とした「友人のドイツ人」はラーベを指していると思われますが、ラーベの日記に「強姦2万件」とする記述はでてきません。
(3) 主張の根拠「埋葬統計」
東京法廷と南京法廷に検察側から「埋葬統計」が提出されました。それによりますと、遺体の埋葬のほとんどは「紅 卍 字 会」「崇 善 堂」という2つの慈善団体があたり、それぞれが埋葬した遺体数が報告されています。下表はここで必要な所だけをピックアップしたものです。
城内、城外などに分けたより詳しい埋葬数は、別項(7−1)で取り上げていますので、一覧表はこちらからご覧ください。
紅卍字会 崇善堂
3月前 38,778 7,546
4月後 4,345 104,718
合 計 43,123 112,266
総 合 計 155,389人
上の表は1938年3月以前とそれ以降に分けた埋葬数を示しています。この埋葬数も検証の必要がありますが、ここではこのまま話を進めます。
実際に提出された埋葬統計は城内と城外に内訳され、例えば紅卍字会の38,778体は、城内1,793体、城外が36,985体になっています。
ベイツ教授のいう「4万人近い非武装の人間」に該当する埋葬記録は、紅卍字会の38,778体(3月以前)がもっとも近く、東京裁判で証言した「4万2千人」に該当するものは、紅卍字会の38,778体(3月以前)と4,345体(4月以降)と合わせた数、43,123体がもっとも近い数となり、ベイツはこの数字を根拠にしたのかもしれません。
いずれにしても、1938年3月末の「4万人近い非武装の人間」も、1946年7月の証言「4万2千人」も、出所の同じ埋葬統計を基にしているのは間違いなさそうです。ただ、どうして崇善堂の埋葬数を勘定にいれずに無視したのか、疑問をお持ちかも知れません。理由はもちろんあります。
(注) ベイツが手紙を書いた1938年1月25日時点で、まだ本格的な埋葬作業は始まっていないのだから(ラーベは2月1日を埋葬開始日と日記に書いています)、ベイツがそもそも埋葬統計を知らなかったはずという疑問についてです。この疑問はもっともなことで、現に洞 富雄・元早稲田大学教授も1月25日という日付けは誤りではないかとしています。
ですが、1938年4月、ベイツがティンパーリィ編『戦争とは何か』の出版予告を書き、このときに最終原稿を点検していた事実を東中野教授が指摘しています。となれば、ベイツ教授が3月末頃の埋葬状況を知っていたとして思議はないことになります(ただし、4月以降の分はこの時点では知らなかったことになりそうです)。
・ 姿なき崇善堂
もう一方の崇善堂を見ますと、3月以前に7千500余体。4月以降に至っては10万4000余体という膨大な埋葬をしたことになっています。
ここでは簡単に触れておきますが、崇善堂の埋葬記録は戦後の2つの裁判(東京、南京法廷)に提出され、はじめてその存在がクローズアップされ、驚きをもって受け止められました。というのは、紅卍字会をはるかに凌ぐ膨大なものだったにもかかわらず、それまで崇善堂の埋葬活動はまったくといってよいほど伝えられてなかったからで、奇妙なことでもありました。
一例をあげましょう。既述の金陵女子文理学院のヴォートリン教授の日記(「南京事件の日々」)の4月15日のところに、「紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた」として、次の記述があります。
〈彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち1月の中旬ごろから4月14日まで、
紅卍字会は城内において1,793体の死体を埋葬した。そのうち約80パーセントは民間人であった。
城外ではこの時期に3万9,589体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。
そのうち約25パーセントは民間人であった。
これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三沙河の地域は含まれていない。〉
ヴォートリンのあげた埋葬数は紅卍字会本部から得たものでした。城内の1,793体は上表の数と完全に一致していますし、城外の3万9,589体を合わせた4万1,382体が、4月14日までという点を勘案すれば、紅卍字会が手がけた全期間の埋葬数4万3,123体とかなり近似しています。
となれば、東京裁判におけるベイツ教授の「城内で1万2千人の男女および子供が殺された」とする証言のいかがわしさが、いやでも目につきます。
一方の崇善堂はといえば、4月以降、10万余体という目覚しい活動をしていたにもかかわらず、ヴォートリンはまったく言及していません。ヴォートリンにかぎらずラーベの日記にも崇善堂はまったく姿を現しません。これは奇怪な話といってよいでしょう。
ベイツ証言にしても、4万2,000体以外は、「揚子江に葬られた屍体および他の方法によって葬られた屍体の数は数えることが出来ませぬ」というだけで、この崇善堂による埋葬数について、具体的に何も触れていません。
紅卍字会の埋葬活動はいろいろと当時の記録が残っていますが、小さな団体であった崇善堂は当時ほとんど活動をストップしていたことが阿羅 健一の研究等で分かっています。ですから、このような大規模な埋葬活動していた記録があるはずもなく(実際にありません)、せいぜい紅卍字会の下請け程度の活動しかしていなかったと考えられるのです。
ですから、11万2,000余体という崇善堂の埋葬数はデッチ上げも極まれりといってよいでしょう。なかには、虚偽の証明がなされたとはいえないと言い張る学者、研究者もいるのですが。
(4) 兵士死傷者30万人、民間人死傷者30万人・・華 中
約4万人殺害とは別に、ベイツ教授は『戦争とは何か』のなかで、華中について次のように書いています。
〈華中における中国軍の死傷者は
少なくとも30万人で、
ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した。〉
この部分は第1章の冒頭にありますが、数字の根拠は示されていません。板倉 由明の研究によれば、匿名で書かれたこの章の前半はベイツ教授、後半はフィッチと考えられるとのこと。事実、ベイツ自身の言からもこの推測の正しさが判明しています。
編著者ティンパーリィは第6章に、「1人の外人調査員はこの地方に日本軍占領前および以降にわたって何回も赴き、慎重調査した結果、今回の揚子江三角地帯の戦闘によって少なくとも30万の中国人が犠牲となったと発表した。」(第6章)と書き、ここでも30万人という数が顔を出します。やがて、この殺害数が一人歩きすることになります。
エドガー・スノーはアメリカ生まれ(1905=明治38年)、中国通の新聞記者としてあまりに有名です。
1936(昭和11)年6月、外国人としてはじめて毛沢東の根拠地、陝西省(せんせいしょう)北部のソビィエト地区に入るや大歓迎を受け、毛沢東、朱徳、周恩来ら政府要人と会談。毛の口から語られた自叙伝をもとに、『中国の赤い星』(1937年)をスノーは出版します。それまで知られていなかった赤軍の実情は欧米人を引きつけベストセラーとなりました。
南京戦当時、スノーは南京には行かず、上海を拠点にしていました。後に出版された『アジアの戦争』(1941=昭和16年刊、左下写真の翻訳本はみすず書房、1956年)のなかで、スノーは次のように書いています。
〈南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世界に聞こえている。南京国際救済委員会 ― ついでながら、これは後年ヒットラーからナチ最高の勲章が授与されたドイツ商人ジョン・H・D・ラーベ氏を偶然その頭にいただいていた ― の委員が私に示した算定によると、日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人子供だったのである。
また、上海・南京間の進撃中に、30万人の人民が日本軍に殺されたと見積られているが、これは中国軍の受けた死傷者とほぼ同数であった。いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者はすべて強姦された。難民は泥酔した兵士にしばしば銃剣で刺し殺された。母親は赤ん坊の頚が切られるのを見た上で強姦を受けねばならぬことがしばしばであった。・・〉
この話の出所、国際救済委員会(前身は南京安全区国際委員会)の委員というのは、ベイツ教授らを指しているのは間違いないでしょう。また、スノーが『戦争とは何か』を参考にしていたのも事実に違いありません。
ただ、非戦闘員1万2千人殺害が霧散してしまい、「女、子供4万2千人虐殺」に変わっています。聞き伝えというのは当てにならないという好例で、そこに個人的感情、政治的立場が入りこめば、悪意を込めた方向に際限もなく変形していきます。
また、30万人殺害を上海戦以降としている点について、既述した産経・古森 義久記者の質問、「日本軍は上海から南京への進撃途中に中国人を多数、虐殺した」ことの真偽について、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は次のように答えていました。
「中国軍はすべての建造物を焼き払って撤退したので
住民も大多数は日本軍の進撃してくる前に避難しており、
虐殺というような話は当時、聞いたことはなかったし、目撃もしなかった。」
住民の大多数は日本軍進撃の前に避難していたとの答えは非常に重要で、他の資料、証言からも肯定できる内容なのです。
30万人殺害が上海戦以降としている点は、大虐殺派・朝日・本多 勝一記者らの主張と重なっていて、スノーの文章からヒントを得たのかも知れません。「30万人大虐殺」のルーツをたどれば、スノーの『アジアの戦争』とスノーが参考にしたティンパーリィの『戦争とは何か』に行き着くでしょう。
ルイス・スマイス(=スミス)・金陵大学社会学教授によって行われた被害調査報告、通称「スマイス報告」と呼ばれる報告書があります。正式な名称は、「南京地区における戦争被害 ― 1937年12月から1938年3月・都市および農村調査」で、“民 間 人”の人的、物的被害などが調査されました。
この報告書は証拠として東京裁判に提出されず、検討の対象になりませんでしたが、スマイスは宣誓口述書を提出、この中で「南京地区の戦争被害を検分して書物にしてある」と記しています。
もっともベイツ教授は上に引用したごとく、スマイス教授とともにいろいろ調査をしたとし、「4万2千人虐殺」を証言していますので、スマイス調査は事実上、東京裁判に提出されたことになるのでしょう。
このスマイス調査のほかに“科学的”に行われた被害調査はありませんので、貴重な資料としてあつかわれる一方、「非科学的」とばかりに資料価値を認めない、無視または軽視する研究者もいます。
無視、軽視する研究者は大虐殺派に多く、どうやら期待に添えないほど、被害者数が多くなかったかららしいのです。ともあれ、『スマイス報告』について簡単に触れておきます。詳しくは⇒ 7−2をご覧ください。
(1) 調査結果の概略
調査は南京陥落の翌年、1938(昭和13)年3月から6月にかけて行われました。調査を主導したのはスマイス博士で、報告書の名称が示す通り、調査は都 市(南京市内)と農 村に分けて行われました。農村の調査で対象となった県は江寧県など郊外の6県ですが、実際に調査できたのは4県と1県の半分でした。
この農村部の調査結果について、注意すべき点があります。その一つ、調査対象となった4県と半分は、「南京大虐殺」の定義(城内とその近郊)よりはるかに広い範囲、具体的には100倍以上の面積を持つ広い地域から得た結果であったことです。
もう一つは、得られた数字は発生原因、つまり日本軍によるものか中国軍によるものかが不明確なため、とくに農村部の調査結果をもって、ただちに日本軍の所業と決められないことです。
詳しい統計数字などは、あらためて 「スマイス調査報告」(7−2)で検討しますので、ここでは「被殺害者数」だけを抜き出しておきます。
都 市・・兵士の暴行による死者2,400人
(他に不明者150、拉致4,200人)
農 村・・暴行により殺害された数26,870人
この数字を見て、とくに都市部の数字を見て、死者数が思っていたよりはるかに少く、奇異に感じたのではありませんか。
・ 都 市 部
都市部の死者2,400人のうち89%にあたる2,136人が日本軍によるものとスマイスは結論づけています。また、拉致された人の大半が殺されたとします。合わせれば4,000〜5,000人になるのでしょう。
ただ、拉致された人が女子供とは考えられませんので、ベイツ教授のいう「城内で1万2千人の男女および子供が殺された」という主張とは両立しえないでしょう。
スマイスは「市内および城壁付近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、1万2千人の一般市民が暴行によって死亡した」と注記しますが、自らの調査結果を否定するような内容ですから、ベイツの主張を入れざるを得なかったのかもしれません。
・ 農 村 部
一方の農村部の26,870人は、かなりの数ともとれるでしょう。ですが、南京周辺の県は中国側の「清野作戦」によって、日本軍の進軍時にはほとんど無人状態だったはずなのです。このことを証明しうる記録、証言は数多く存在します。
ですから、この調査数字がかりに正しいとしても、相当程度、中国軍が原因していることはありうることなのです。
農村部の死者が全員日本軍によるものと仮定しても、「30万大虐殺」はもとより、「大虐殺派」の主張する10万、15万、20万以上とは両立できない調査結果でしょう。
となれば、まあ当然といってよいのでしょうが、スマイス調査を「信頼できる」とする人と「信頼できない」とする人が現れます。
(2) 大虐殺派はご不満?・・少ない死者数
大虐殺派の先駆者・洞 富雄教授はスマイス報告をまったくといってよいほど評価しておりません。
田中 正明は次のように「虐殺派」の痛いところをつきます。
〈スミス博士は金陵大学の学生多数を動員して、2人1組となり、
50戸に1戸の割合で家族の被害状況の聞き取り調査を行っている。
スミス博士は「兵士」の暴行によって殺害された2,400のうちには、中国兵による殺害もあり、
日本軍によるものその89%の2,136人 と計算している。
戦争直後のこの科学的な貴重な証拠を東京裁判は却下した。
その理由は死亡者数があまりにも少なかったからである。
以後「虐殺派」はこの第1級資料である調査データを用いることをしない。〉
田中正明の指摘するとおり、たしかに大虐殺を主張する人に、この調査結果を用いない傾向は見てとれます。それに、スマイス調査の性格から考えて、死者数が大きくなることはあっても、小さくなることはまず考えられません。
ですから、実際の数(神のみぞ知るでしょうが)はこれらの調査数字が小さい方に振れる可能性は十分に考えられることなのです。