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 脱・洗 脳 史 講 座
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脱・洗脳史講座


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「自虐史観」を決定づけた残虐行為


 昭和の初めから日本の敗戦(1945=昭和20年8月)に至るまで、つまり昭和前期を中心とするかつての日本は、中国をはじめとするアジア諸国を「侵略」し、1千万人、2千万人(以上)という膨大な住民を殺害。しかも殺害にいたる過程は、吐き気をもよおす「残虐行為」の連続であったとされました。

 このことは、新聞、テレビなどメディアを通じ、また学校教育などの経路をたどって国民に浸透したため、「あの時代の日本は何もかも悪かった」「恥ずべきものだ」とした捉え方が、一般の日本人が持つ歴史イメージ( ≒ 歴史観 )となってしまいました。よくいわれる「自虐史観」です。
 こうした歴史観は罪悪感も同時に醸成するため、今日なお、日本という国家はもちろん、われわれ自身の言動が何かにつけ拘束されています。

・  パール博士の危惧

 1952(昭和27)年10月、サンフランシスコ講和条約の発効によって日本の独立が回復した半年後にあたりますが、インドのラダ・ビノード・パール博士(1886〜1967年)が来日しました。

 パール博士は東京裁判における11人の判事のうちの1人で、インドを代表してこの裁判にかかわりました。博士は11人の判事のうち、国際法に通じたただ一人の学者だったのです。

 その博士1人が、日本の国家行動は国際法に照らして無罪であると終始主張、また「東条 英機」(とうじょう ひでき)以下の被告全員を無罪とする判断を少数意見ながら表明したのでした。
 そのパール博士は日本の侵略の問題、あるいは日本人の罪悪感などについて、以下のように述べています。

〈 要するに、彼ら(連合軍)は
日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、
自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、
日本の過去18年間のすべてを罪悪であるとの烙印を押し、
罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いない。・・ 〉

〈 日本の子供たちが歪められた罪悪感を背負って
卑屈・頽廃に流されていくのを、わたしは見過ごして平然としているわけにはいかない。
彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。
誤れる歴史は書きかえられねばならない。〉


 この短い文章に、日本を取り巻くあの時代の「真実」が凝縮されていて、メディアや学者、文化人(有識者)らによって思い込まされた、つまり「洗脳」された日本人が心して読むべきものと思います。

・ 残虐事件、残虐行為が歴史観を決定づける

 パール博士の来日から、すでに70余年の月日が流れました。パール博士が望んだ「誤れる歴史は書きかえられねばならない」は、多少とも進展したのでしょうか。
 実態はといえば、日本軍・民の常軌を逸した数々の「残虐行為」 は、朝日新聞を筆頭とするメディア等によって暴かれ、日本の国家行動は悪逆非道な「侵 略」 の歴史であったと断罪されました。

 今は成人、あるいは初老に入った当時の子供たちの心に、漠然ながらも抜きがたい歴史イメージが刷り込まれたのでした。つまり、日 本=悪、連合国=善 という単純な歴史観が広まりを見せたのでした。

 このような日本=悪 とした歴史観を大した抵抗もなくわれわれが受け入れた理由は、アジア諸国を「侵 略」したことに主な原因があるのではなく、日本軍および民間人が行ったとされる「残虐行為」に因っているのだと私は理解します。

・ アウシュビッツ収容所が証明
 このことはナチス・ドイツが周辺諸国を侵略したことで非難されるより、アウシュビッツ強制収容所 に象徴されるユダヤ民族抹殺という想像を絶する非人道的行為に、今なお、非難が途切れないことを考えれば足りると思います。
ダッハウ収容所の遺体
 左画像は連合軍によって撮影されたドイツ南部のダッハウ強制収容所の一場面です。
 この収容所を撮影したフイルムは、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク法廷において、被告・傍聴人らの前で映し出されました。あまりの凄まじさに法廷内は静まり返ったそうです。

 これらを見れば、傍聴人ならずともこの実行者に対して、それこそ「吐き気をもよおす」嫌悪感と怒りをおぼえるに違いありません。
 つまり、残虐行為は戦時下であっても許されない、いわば「絶 対 悪」 と大多数の人が考えるために、この問題は永続性を持ちつづけます。

 ですから、ドイツによるユダヤ民族の迫害ぶりは、ドキュメンタリー映画(番組) にとどまらず、娯楽映画にもしばしば登場します。ドイツ人が内心、どう思っているのか知りたいところですが、こうした状況は永くつづくことでしょう。

・ 「吐き気をもよおす」 日本軍の“残虐”
 一方の日本軍の残酷な所業について、アメリカのラントス下院議員(故人)が「吐き気をもよおす」 と非難したことがあります。


 ラントス議員は下院外交委員会委員長など要職にあった有力者で、ハンガリー出身、第2次大戦後にアメリカに帰化、ナチス・ドイツによるユダヤ人抹殺の生き残りとして知られているとのことです。「吐き気をもよおす」とした感想は、『ザ レイプ オブ ナンキン』(アイリス・チャン著)を読んでのことと思われます。

 また、「南京大虐殺」 に関する知識を得ようとする英語圏の人は、この書を必ず読むでしょうから、政治家、歴史学者、ジャーナリストとを問わず、ラントス議員と同様の感想を持ち、「sex slave」と非難された慰安婦問題など他の出来事とあいまって、日本に対する歴史イメージを形成していったに違いありません。
 ですから、こうした日本軍・民の残虐行為の問題をわれわれ日本人が克服できなければ、日本人はもちろん、欧米人の日本に対する歴史イメージは変えられないし、また「変えようがない」 というのが私の基本的な認識です。

 言葉を換えていえば、人間の所業とは思えない行為の数々、しかも膨大な犠牲者をともなう「残虐行為」の存在こそが、「侵略問題」に対する疑問や異論が存立できないほどに決定的な影響を及ぼしてしまったのだと思います。
 しかも、日本の「悪 行」が悪質であればあるほど、過酷な植民地運営、人種差別政策、原爆投下等を行った欧米諸国にとって、決して悪い話でないだけに、克服の困難さは倍加するでしょう。

・  二つの流入経路

 こうした残虐事件、残虐行為はおおむね2つの経路によって私たちは知ったと言えるでしょう。

(1) 朝日「中国の旅」を代表とする「現地ルポ」
 一つは朝日新聞連載の「中国の旅」を筆頭とする活字メディアによる「現地ルポ」の類です。
 1971年夏、朝日・本多勝一記者の手になる現地ルポ「中国の旅」が朝日紙上に連載されるや、大反響を巻き起こしました。そこに描かれた日本軍の残虐ぶりは日本人の想像をはるかに超えるものだったからです。
 即座に全国紙の毎日新聞をはじめブロック紙、地方紙が、さらに学者、研究者らが競うように中国にわたり、日本人(軍)の「残虐事件」を聞き出し報じたのです。

 ですからこの連載こそが、われわれ日本人の歴史観に決定的な影響をおよぼす下地を作ったのだと私は考えます。「中国の旅」は、“加 害 者”である日本側の裏付け調査を行っていない等の批判に対し、本多記者は「私は中国の代弁ををしただけ」だから、「抗議するのであれば中国側に直接やって」と言い退けたのです。

(2) 「中国戦犯」の「証言」
 もう一つは終戦後、共産中国に戦犯として囚われた約1000人の日本人将兵を中心とする、いわゆる「中国戦犯」(=中共戦犯)の「証言」です。
 「証言」を
@ 「自筆供述書」
A 「手 記」
B 「帰国後証言」

 の3つに分けるとわかりやすいでしょう。

 @「自筆供述書」は中国側の取り調べの結果、自らの犯罪行為を認めた自筆の供述です。死亡、病気等の特別の事情がないかぎり、ほぼ全員が書き残したようです。

 A「手記」は供述書とは別に、“戦犯有志”が自らの悪行を記した懺悔の記録です。300人(弱)ほどが書いたとつたわっています。
 1957年、「手記」15編が選定され、『三光』としてカッパブックスから出版されました。凄まじい残虐さのせいでしょう、わずか2ヵ月間で20万部が売れるベストセラーになったそうです。
 以下、同様の懺悔録として『新編 三光 第1集』など数点が出版されました。


 次のB「帰国後証言」ですが、代表的なものとして以下が挙げられます。
 「中国の旅」連載と同じ時期、月刊誌「現代の眼」に「天皇の軍隊」と題した取材報告が連載されました。「熊沢京次郎」の名で書かれていますが、筆者は朝日・本多勝一と長沼節夫(時事通信記者)です。
 連載は同名の単行本となり、のちに2人の実名をもって文庫本『天皇の軍隊』(朝日文庫、1991)に加えられました。

 内容はといえば、中国山東省に駐留した第59師団による数々の残酷な行為を「日本人将兵」の証言をもって断罪したものです。軍紀は死語同然、やりたい放題の日本兵の姿があぶり出されたのです。
 女と見れば強姦は当たり前、あげくに妊婦の腹を裂くなどの異様な手段での殺害も珍しくありません。男の方は拷問、菜きり包丁で胸から腹まで絶ち割るといった凄まじさです。

 ですが、自らの行為と証言する日本人将兵というのが曲者で、調べてみますといずれも「中国(中共)戦犯」なのです。ただ、「中国戦犯」と記された証言者がいる一方、何も書いてない証言者もいるため、読者は「残虐行為」の証言者が「中国戦犯」ばかりであることが分かりません。

 以上のように、『三光』『中国の旅』『天皇の軍隊』を合わせ読めば、日本軍の凄まじいばかりの残忍さに国民は驚き、あの時代の日本軍・民に嫌悪感をつのらせたのは間違いないでしょう。「自虐史観」の下地はこうしてできあがったのだと思います。

・ 「残虐事件」とは何を指すか

 中国が重視する「残虐事件」が具体的に何を指すのか、以下の記事が参考になります。
 「抗日戦争勝利66周年に思う」とした新華軍事評論家・鄭 文浩の一文で、2011年8月16日付け 「中国網日本語版 (チャイナネット) 」 に掲載されたものです。

〈1945年8月15日、日本ファシズムは無条件降伏を宣言した。
だがドイツファシズムが完全に滅びたのに対し、日本の降伏は軍国主義の輩を一掃しなかった。
悪名高い靖国神社にA級戦犯の位牌が残っているのがその一例だ。
日本人の多くは、当時日本が宣言したのは「終戦」で、「降伏」とは距離があると思っている。
 2011年8月15日、日本ファシズムの暴行を証拠付け、糾弾するため、体験者の記憶をまとめると、
平頂山事件、南京大虐殺、万人坑、細菌戦、重慶大爆撃、三光無人区など
日本ファシズムの数々の暴行が白日の下に晒されている。その歴史を我々は忘れてはならない。 〉


 この時点で指摘のなかった中国人労働者強制連行、中国人慰安婦強制連行、それに毒ガス使用などの問題もあります。

 このホーム・ページの目的は、メディア等によって知らされ、事実と認知された中国発の「残虐事件、残虐行為」が事実かどうか、検証することにあります。
 同時に、朝日新聞を筆頭とするメディア、それに歴史学者、文化人らが果たした役割にも焦点をあてること、これがもうひとつの目的です。

 重慶大爆撃を除いて、平頂山事件、南京大虐殺、万人坑、細菌戦(731部隊コレラ菌散布作戦)、三光作戦(抗日根拠地覆滅作戦、無人区ほか)、中国人強制連行(労働者および慰安婦)等について、不十分ながら言及しました。
 また、中国に抑留された日本人戦犯(中国戦犯=中共戦犯)の「証言」についても記してあります。

 これらの「残虐行為」は、専門家でもない一私人である私の常識から見て疑問があり、さらに「個人的事情」(⇒事情はこちら)もあって調査を始めたのですが、その調査を通して強く感じたのは、次の2点でした。

@ ほとんどの場合、不可欠であるはずの「加害者」側、つまり日本側(軍・民)の裏づけ調査を行なわず、中国のいうがままの結論および事実関係を受け入れていること。
 このように断定的に書くのも、日本側の調査中、産経新聞記者を除く朝日はじめ他社の記者、および学者らに出会ったことがなかったからです。また、調査に来たという痕跡もありませんでした。

 ただし、南京事件関連を除きます。すでに先人(大学教授、野外研究者など)の手で調査が行われていました。
 また、メディア、学者らの重要な情報源である「中国戦犯」証言についても除きます。というのも、彼らの証言には疑義があり、検証抜きに「日本側の証言だから信用できる」とは認められませんので。

A 2番目は方法論です。
 必要な事実を積み上げて結論に至る、つまり帰納的に結論を得るのではなく、初めに中国が主張する、例えば「三光政策」「万人坑」等が「事実である」との前提に立ち、そこに断片的な「事実」を加えることによって、あたかもこれらが「証明された事実」であるかのごとく主張するのです。
 ですから、事実を積み上げ、それらが虚偽(デッチ上げ)、あるいは誇大だと主張しても、彼ら(新聞社、学者等)のほとんどは無視をもって応じます(無視の理由は他にもあるとは思いますが)。

 「中国戦犯」の証言は、上記のごとく「供述書」「手記」「帰国後証言」の3通りに分類できますが、これらについても同様の経過をたどりました。
 つまり、彼らが帰国後に組織した「中帰連」(中国帰還者連絡会)の「証言のすべてが事実」とする主張に、朝日、NHK、ジャパン・タイムズ、共同通信社、岩波書店等が肩入れ、さらに学者らも加担したため、彼ら(中国戦犯)の証言に大きな影響力を与えてしまったのです。

・ 「手記」完成までの内実判明

 ただ、彼ら「戦犯」証言のうち、「手記」ができあがるまでの過程が、2009年末、一人の尉官級戦犯の「証言」によって明らかになりました。
 ですが、この時期は「中帰連」の解散(2002年)後、7年も経過していたために、この証言を記した書籍に気がつく人が少なかったのか、ほとんど話題にならなかったようです。私自身もこの本を手に取ったのは6、7年後のことで、うかつだったと思っています。ですが、

この「証言」は重要かつ決定的であり、
知る人が増えることにより、中国戦犯証言に対する評価が
劇的に変わる力を有していると確信します。
この「尉官の証言」を知った新聞記者、学者らがどう反応するのか、
つまり、彼らの「証言」が事実であるとの前提に立って、
多くの報道、著作物をものしてきた彼らが「知らぬ顔の半兵衛」をきめ込み、
今まで通り無視しつづけるのか、注視する必要があると思います。


 尉官の証言がどのようなものか、以下に要点を記しましたので、ぜひご覧になってください(⇒ こちら)。そして、この「事実」を多くの方々に知っていただくために、発信手段をお持ちの方のご協力が得られればと思います。

 とくに「新しい歴史教科書をつくる会」の関係者の方々に目を向けていただければと思います。といいますのも、この尉官は、1997年8月創刊の季刊誌「中帰連」の企画段階から参画し、第6号から編集長に就いています。
 その彼が、「中帰連」発刊の目的を「つくる会」に「対抗するため」だったと明記していますので。

 軽い気持ちというか、HPとはどんなものか、体験しないことにはと始めたのですが、20年近い間にかなりの量になってしまいました。整理の必要は分かっているのですが。

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1  類書なし!  『検証 中国人強制連行と「中国戦犯」証言の信頼性

 朝鮮半島の慰安婦および戦時労働者(徴用工)の陰にかくれたためか、中国人慰安婦、中国人労働者の「強制連行」問題が報じられなくなりました。おそらく中国が問題として取り上げないため無風状態にあるのでしょう。
 ですが、政治状況次第で風向きが一変、いずれ問題化すると思います。そのとき、しかるべき根拠をもって反論できればよいのですが、現状から考えてまず無理と思います。というのは、事実関係の研究がお寒い状態にあるからです。

 そこで現状を知っていただくために、論考「朝鮮人・中国人『強制連行』問題の起源」(勝岡寛次・明星大学戦後教育史研究センター、『歴史認識問題研究第3号』、2018.(⇒ こちらの49ページ,57ページ))から次の下りをご覧に入れます。
 勝岡は「保守派の文献で手薄なのは、中国人『強制連行』の批判である」として、次のように記します。

 〈筆者の作成した文献目録で確認する限り、田辺敏雄のものしか存在しない。
「強制連行」派の中国人「強制連行」に関する文献は175点ほどあるわけだが、
田辺の文献はそれに対して11点しかなく、
保守派の批判は“蟷螂の斧”のように孤立無援な戦いを強いられているのが実情だ。〉


 保守派というのでしょうか、中国人強制連行問題を調査・検証し、現行の認識に異を唱える研究者が極端に少ないのは事実で、「中国人強制連行」の著作等を検索しても、異論を記した書籍、論考にまずお目にかかれません。
 単行本を含む175点に対し、無視されがちな私の反論11点では勝負になりません。

 膨大な強制連行数
 中国は、支那事変(日華事変)の起こった1937年7月から1945年8月までの抗戦期間中、中国軍民の死傷者を2168万人(死者932.5万人、負傷者947万人、行方不明289万人)だったとし、盧溝橋(北京郊外)の中国人民抗日戦争記念館に公式数字として掲示してきました。
 この数には旧満州(中国東北部)、台湾の死傷者は含まれないとのことでした。

 ところが1995(平成7)年5月の村山富一首相の訪中時になると、日本の中国侵略期間、つまり1931(昭和6)年9月の満州事変から1945年8月終戦までの約14年間における死傷者数を3500万人、経済的損失を5000億ドルと記念館の数字を書き換えたのです。

 そして1995年7月、江沢民・国家主席はロシア政府主催・第2次世界大戦終結50周年記念式典の演説で、日本軍による中国人民の「死傷者3500万人」という認識を示しました。対外に表明した最初の数字です。
 さらに、日中平和友好条約20周年にあたる1998年、江沢民が国賓として来日したさいにも、早稲田大学における講演で死傷者3500万人と公言しました。

 これに対して日本政府も主要な政治家も否定するでもなく黙過しただけでした。「日本政府から反論がなかった」となれば、日本政府が認めたという理屈だって出てきます。毎度のことと言えばそれまでですが、ことを荒だてまいとするこうした対応は、度が過ぎて臆病であり国益を著しく害します。習近平時代の今日も変わりがないでしょう。
 この膨大な犠牲者は、いやでも強制連行と関連してきます。

 笠原十九司・都留文科大学名誉教授は、『中国侵略の証言者たち─認罪の記録を読む』(編者・吉田裕ほか、岩波新書、2010)の第3章「三光作戦とは何だったのか」で、中国側資料にもとづく強制連行数を以下のように記します。

 〈1934年から45年にかけて華北から華北以外へ送られた労工は1000万人近くに上った(内訳は「満州国」が780万人、・・華中が約6万人、・・)。また37年から45年にかけて、華北地方で奴隷労働をさせられた労工は2000万人以上に上った。〉(・・も原文)

 笠原教授といえば、南京事件における「大虐殺派」の一人として著名であり、同じ岩波新書から『南京事件』(1997)を出しています。
 出所が今一つ明確ではないのですが、中国のネット上に「4000万人強制連行」を見かけます。

 内訳は満州国内で1640万人、華北から主に満州に向けた連行が2000万人、これに華中、華南の分を含めると4000万人以上になるというのです。これも「死傷者3500万人」の国際的認知を狙った布石の一つなのでしょう。いずれこの数が表面に躍り出てくるかもしれません。
 また、日本国内(内地)に強制、半強制的に連行された労働者が4万人弱いたことなどが日本政府の資料「外務省報告書」で分かっています。

 では、こうした膨大な強制連行を裏づける日本側の資料なり証言は存在するのでしょうか。4万人弱の日本国内への連行は「外務省報告書」で一応の説明がつくとしても、残る満州を中心に連行された数百、1千万人単位を裏づける資料・証言は存在するのでしょうか。

 また、日本人将兵の証言で成り立つ「うさぎ狩り」「労工狩り」といった連行方法は事実なのでしょうか。実は、よく見かける「うさぎ狩り」「労工狩り」と称する連行手段は、共産中国に囚われた日本人戦犯(以下、「中国戦犯」)の証言によって支えられているのです。
 強制連行にかぎらず、「中国戦犯」の加害証言は多方面にわたるため、今日なお、われわれ日本人の歴史観に大きな役割を果たしています。彼らの証言は信頼できるものなのか、また信頼性に欠けるとすればどの程度なのか、本書に提示した「決定的証拠」によって、白・黒の見分けがつくはずです。

 この書では、中国人強制連行証言に焦点をあて、これに関連する出来事についても検討します。それに、連行された労働者らの落ち行く先、「ヒト捨て場」万人坑の存否についても略記します。また、中国人慰安婦強制連行についても言及しました。
 ここに記した「事実」がヒントになり、あるいは核となって、現在流通している「事実関係」の認定に根本的な欠陥が存することを知っていただく、と同時に現状認識を正すことがこの書の目的です。
 2021年5月発行、約16万5千字、価格は316円です。 ⇒ こちらからどうぞ


2  『中国の巨大なウソ「万人坑」―歴史戦にまた敗北か  事実と強弁した朝日、毎日、学者らは沈黙


 中国各地に建つ展示記念館の中は、一方には整然と並ぶ人骨が、一方では頭部や脚部が雑然と山をなし、参観者に日本人の残酷さを印象づけます。
 これら人骨は、ろくな食事も与えられずに苛酷な労働を強いられた中国人労働者が、ケガや病気、栄養失調などで働けなくなると、生きながらも捨てられた大きな穴、万人坑(まんにんこう)の発掘跡なのだそうです。

 これらの万人坑は、中国東北部(旧満州)を中心に、日本人が経営する鉱山や大きな工事現場に必ずできたといい、万人坑の数が約30ヵ所、犠牲者30万人の撫順炭鉱をはじめ、犠牲者7万人以上(13万人とも)の阜新炭鉱などがあります(写真は遼源炭鉱の発掘現場で謝罪する日本人僧侶)。

 言葉では実感がわかないでしょうから、どうぞ「万人坑」を検索し、アップされている写真(集)をご覧になって下さい。こんなにもあるのかとビックリすることでしょう。世界がこれらを事実と認知すればどのような結果を生むか、考えて欲しいと思います。

 私たち日本人が万人坑の存在を知ったのは、1971年、朝日新聞連載の「中国の旅」を通してでした。
 連載は平頂山事件、万人坑、南京事件、三光政策の4部に分かれて報じられ、中国を舞台にした日本軍・民の常軌を逸した残虐行為が一大反響を巻き起こしたのです。この連載こそが、言われるところの「自虐史観」が形づくられた原点だと私は思っています。

 万人坑を事実とするには疑問があるため調査し、その結果を論文および単行本(『「朝日」に貶められた現代史―万人坑は中国の作り話だ』1994年)に著しました。この結果でしょう、日本の高校用歴史教科書から記述が消えるなど一定の成果があったかと思います。
 それ以来、万人坑が報じられることはほとんどなくなりました。ですが、これで終わったわけではなく、問題はこれから先と思います。

 というのも、今日なお中国はこれら万人坑を「発掘」しつづけ、全国各地に展示記念館を建てているからです。中国はいつでも好きな時に、これら発掘跡をもって、日本の「旧悪」を世界に向けて糾弾することができます。
 その時に、おそらく日本のメディア、学者、文化人の少なくない人達が、中国の主張に同調するだろうと思います。すでに、これを信じてか、運動している人も少なくないようですので。

 新たに発見、発掘される万人坑に対し、論陣を張って粉砕できればいいのですが、研究者がほとんどいないために、このままでは「物量」の前に押し切られてしまう可能性も少なくないと思います。

 そこで、上記本の出版後に知った事実を加えて再吟味し、また調査の済んでいた阜新炭鉱、鶴岡炭鉱をあらたに加え、ここに電子書籍として出版した次第です。
 ここには、各地で新たに発見、発掘される万人坑への対処として、いくつかの「共通する事実」をもってすれば、対処は難しくないことも記してあります。
 2019年9月末発行、価格は215円です。ぜひ読んでいただければと思っています ⇒ こちらへ


3  『(続)追跡 平頂山事件 ― 守備隊長不在説が「瓦解した」の愚説


 『追跡 平頂山事件』を出版したのは1988年ですから大分前になります。事件というのは、旧満州の撫順炭鉱(ぶじゅんたんこう)を舞台に起こった軍部による住民殺害事件です。
 今はこの出来事を知る人も少なくなりましたが、1971年に朝日新聞に連載された「中国の旅」の冒頭に取り上げられた事件で、大きな問題となったものです。

 ところが、重要な部分で私の記述に間違いがあるとの指摘がでてきました。指摘したのは井上 久士・駿河台大学教授で、2004年発行の〈 季刊『中帰連』第30号 〉に掲載されました。この号は、「平頂山事件」を特集したもので、ほかに傳 波・撫順市社会科学院院長らも書いています。

 私の間違いというのは、事件の発端となった抗日勢力が撫順炭鉱を夜襲したとき、守備隊長であった川上大尉が隊員の過半数を率いて討伐出動中であったとした点で、実際は川上守備隊長は撫順にいたことが2点の新発見資料で明らかになったというのです。
 事件は実際に起こったのですから、守備隊長が撫順にいようが(在隊説)、討伐出動中であろうが(不在説、出動説)大した問題ではないと思うかもしれません。ですが、在隊説、不在説の行方によって、中国側の公的報告書『平頂山大屠殺惨案始末』の評価が決定づけられることになるなど、大きな影響を持つのです。

 つまり、在隊説をとるこの報告書は、守備隊長が事件時に出動中であったことが証明されれば、中国側の主要な証言者・于慶級(通訳)をはじめ、多くの証言は大嘘であり、報告書自体がウソで固めた内容であることが確定するからです。

 さらに、井上教授らが編んだ大版600余ページの『平頂山事件資料集』(柏書房、2012年、2万4000円)という大冊は、「解題」はもちろん、恣意的な資料の選択等の偏向ぶりが浮き彫りになり、資料集としての信頼性が揺らいできます。
 井上論考に対する私の反論は、このホームページに掲載してきましたが、もっと丁寧に書き残しておく必要があると判断し、井上論考は誤りで、「不在説」が正しいことを電子書籍版『(続)追跡 平頂山事件』で明らかにしました。

 井上教授は不在説は間違いで、在隊説が正しいと講演などでさかんに発言しているようです。
 一例をあげれば、2017年6月に行われた「撫順未来実行委員会」主催の講演会で、井上教授は「平頂山事件研究の第一人者」として、次のように紹介されています。

 〈井上先生の業績といえば、平頂山事件実行部隊の責任者である撫順守備隊長・川上精一大尉の不在説が流布される中で、川上精一が確かに撫順にいたことを証明する「撫順新報」号外や「月刊撫順」を発掘したことで知られています〉


 「撫順新報」号外は新発掘ではありませんが、「月刊撫順」は新発見資料といって間違いないと思います。問題なのは、おそらく日本側関係者から幅広く話を聞いていないために、「生きた知識」が不足しているからでしょう、井上教授は中国側の証言、資料をはじめ、これら新発見資料の問題点を見抜けていないことです。

・ 『 レポ−ト「撫順」1932 』に見る資料改ざん、証言の捻じ曲げ
 井上教授は「在隊説」をとる小林実の『レポ−ト「撫順」1932』(私家版)を引合いに、小林が私の不在説を「批判している」として、教授自らの「在隊説」を補強しています。
 終戦時に撫順中学の生徒であった小林が著すこの書は、資料の改ざん、悪質な証言の捻じ曲げがあり、信頼できる代物ではありません。井上教授が見抜けなかっただけの話です。

 ですが、引用されることが結構多いようですので、今回の電子書籍に〈資料改ざん付き「小林レポート」〉の一項を設けました。ご覧になっていただければと思います。
 副題の〈 守備隊長不在論は「瓦解した」の愚説 〉が電子書籍の内容です。
 アマゾンから、2018年5月末に発行(加筆版)しました。価格は200円です。関心をお持ちの方に、ぜひ読んでいただければと思っています (⇒ こちらへ)
 少し硬い内容かも知れませんが、偽証を崩す「推理もの」として読んでいただいても面白いかもしれません。
 なお、事件の概要を知りたい方は、(⇒ こちら)(⇒ こちら)をご覧ください。

― 2022年6月23日改訂 ―

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