朝日は何をどう報じてきたか 1

― 反日報道の原点「中国の旅」 ―
⇒ 朝日は何をどう報じたか(2)

 昭和前期(〜1945年8月)の私たちの国は、中国をはじめとするアジア諸国を侵略し、そこで軍・民が犯した残虐行為などをとおして断罪され、いわれるところの「反日史観、自虐史観」が形成されました。その最大の「功労者」は朝日新聞であり、その先駆けとなったのは1971(昭和46)年8月に始まった連載「中国の旅」と断じて間違いないものと思います。

 「中国の旅」という一新聞社の一連載(約40日間)をもって、ただちに反日史観、自虐史観が形成されたわけではもちろんありません。当時の風潮はメディアが絶賛する中国の「文化大革命」にも影響されたでしょう、日本を覆う「なんとなく左翼気分」も手伝って、大きな影響力を持たせたのだと思います。

 「天下の朝日」が報じ、大反響を巻き起こったとなれば、一部を除くほとんどの活字メディアがバスに乗り遅れるなとばかり、さらなる日本軍民の悪行発掘に精を出したことでした。
 また近現代史を専門とし、歴史学会をリードする左派系の大学教授がソレっとばかりに日本断罪で足並みをそろえます。日教組が牛耳る教育界も「平和教育」という大義名分のもと、教科書、授業をとおして、日本軍・民の残虐行為の生徒への叩き込みが加速しはじめました。

 社会党(当時)、共産党などの政党および政党人、法曹界に籍をおく人、作家や文化人、有識者からも、少なからぬ人たちが連載の影響を受け、進んで日本糾弾に走りました。こうなれば、日本断罪という流れは決定づけられます。あとは黙っていても反日史観、自虐史観は完成します。
 ですが、日本断罪の原点であった残虐行為自体、中国をはじめ各地で聞き取ってきたもので、

当然、なされなければならない検証は
ごく一部を除いて行われなかったのです。


 先にも引用しましたが、藤岡 信勝・元東大教授(元・新しい歴史教科書を作る会会長)は、高校生時代に読んだカッパブックスの『三光』(日本兵が中国で犯した残虐行為を懺悔した14人の手記集)を例にとり、

〈第2次世界大戦はファシズム陣営対反ファシズム民主主義陣営の戦いであった、
などという歴史の大枠の説明よりも、右のような具体的なナマナマしい証言が、
はるかに深く歴史のイメージを規定していることに、右の例から思い至るのである。〉


 と記し、体験にもとづいた分析を加えています(⇒ 決定的一冊)
 日本軍民の残虐行為が事実上、歴史イメージを規定し、反日史観、自虐史観を育てたというわけでしょう。
 そりゃあそうでしょう。あんな目を背けたくなるような残忍な行為が、日本軍・民の手によって日常的に行われたとなれば、日本の行動にも理があったなどという言い分に説得力などあるわけがありません。ただ下を向き、昭和の歴史を全否定し、次いで国家の存在を否定的に捉えることになって何の不思議はないと私は思っています。
 
 以下、朝日新聞が戦前、戦後をとおして、どのような報道姿勢をとってきたか、代表的な例で経過を見ておきたいと思います。
 便宜上、「中国の旅」連載の1971(昭和46)年で区切り、これ以降を先に記し、戦前を含む「中国の旅」までを後に記すことにします。多少、記述に前後はありますけど。

 戦前について一言記しておきます。
 「日中15年戦争」の出発点になった満州事変(1931=昭和6年9月)を契機に朝日の論調が劇的に変化したことです。事変以前の論調は軍縮を支持するなどリべラルなものでしたが、事変を境に軍部と歩調を合わせる方向へと大きく舵を切ったのでした。そして、1945(昭和20)年8月の敗戦まで、軍部ベッタリ報道、戦争推進報道にみがきがかかることはあっても、決して元に戻ることはなかったのです。

1 GHQによる洗脳計画


 敗戦直後からGHQ(占領軍総司令部。東京・日比谷の第一生命ビル)によって行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(WGIP)について概要は記しました。
 「中国の旅」に入る前に、「南京大虐殺」を例に振り返っておきましょう。


 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」(全10回)の掲載を始めるよう新聞各社に命じました。
 もちろん、12月8日の初回は、日本人の誰もが知っていた日米開戦の発端、真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。

 この連載は後に単行本(上写真)となりますが、学校教材として使用が命じられたため、10万部が売れたとのことです。今の時点で考えれば、10万部は大した部数ではありません。
 でも、当時はベストセラーと言えたのかもれません。連載初日、「南京虐殺」が取り上げられました。日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道です。


〈このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。
4週間にわたって南京は血の街と化し、
切り刻まれた肉片が散乱していた。
婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。〉
― 1945年12月8日付け朝日 ―


 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されます。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。

 「南京事件」のところでは、銃を撃つ音、暴行を暗示する女性の悲鳴などをバックに、「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」のセリフが繰り返し入れられていたとのことです。

 あまりに日本将兵の実感と離れていたというか、ウソで固めた放送内容だったためでしょう、NHKに抗議が殺到します。このため放送は10回で終わります。
 が、すぐに化粧直しのうえ、「真相箱」として登場しました。今度は質問を受けて答えるという形式をとります。
 「日本が南京で行った暴行についてその真相をお話し下さい」の問いに対する回答(抜粋)は次の通りです。


〈この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります。
 南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、
またバラバラに散乱した死体で街全体が覆はれたのであります。・・
この間血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕らへ手当り次第に殺戮、略奪を逞しくし、・・。
日本軍兵士は、街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、
老いたるは60歳の婦人から、若きは11歳の少女まで見逃しませんでした。・・〉


 GHQは日本軍の悪逆行為を執拗に言い立てます。もちろん、彼らに都合の悪いこと、例えばこの放送に対する活字による反論等は検 閲によってカットさせます。
 反論を認めず一方的に言いまくる、こうした一連の過程は日本人の「洗脳工作」といえるものでした。
 このような工作を進める一方、裁判は進行していきます。結局、判決(1948=昭和23年11月)は、

「日本軍が占領してから最初の6週間に、
南京とその周辺で殺害された
一般人と捕虜の総数は 20万人以上」

 となりました。

 東京裁判も終わり、その後、サンフランシスコ対日平和条約の調印・発効(1952=昭和27年4月28日)をうけ、独立国として日本は再出発しました。
 この日の東京は風が強く、薄日の差すホコリっぽい校庭で、私の通う中学校長から話がありましたが、声がよく聞き取れませんでした。当然、GHQによる検閲はなくなりました。

 さて、「南京大虐殺」はどうなったのでしょう。メディアは報道を継続し、日本軍の責任追及に出たのでしょうか。
 飛び飛びですが、8月を中心にいくつかの新聞を調べたことがあります。ですが、「南京大虐殺」報道にお目にかかれませんでした。
 おそらく、報道はなかった、あるいはあっても見落とす程度の目立たない記事ではなかったかと思います。

 留意しておきたいことは、「洗脳工作」の効果をより発揮させようとすれば、「万人坑」「従軍慰安婦」 などは、GHQにとって絶好のネタだったに違いありません。ですが、この時点でヤリ玉にあがった事実はなく、また東京裁判で問題になったこともありませんでした。この意味するところは大きいはずです。

2 朝 日 新 聞 登 場


(1) 「中国の旅」が引き起こした“集団ヒステリー状態”
 ところが約20年を経た1971(昭和46)年、GHQにとって代わったかのように、日本軍の“悪行”を告発し、断罪する人たちがでてきたのです。口火を切り、先導役をつとめたのは朝 日 新 聞 社です。


 この年の8月から12月まで、現地ルポと称する「中国の旅」の連載をもって、朝日新聞社による日本軍断罪一大キャンペーンがはじまりました。報告者は本多 勝一記者で、万人坑、南京、三光政策 の4部に分けて報じられました。
 各部は約10回でしたから、通算で約40回、40日間の長期連載になりました。
 また連載とともに、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」など、朝日新聞社は手持ちの活字媒体を総動員します。例えば「週刊朝日」は「大河ルポ 中国の旅」と題して、「防疫惨殺事件」などを、本多記者に同行取材した古川万太郎記者が報じました。

 これらは後に単行本、文庫本『中国の旅』(共に朝日新聞社)になりますが、「中国の旅」連載こそが昭和の歴史を貶めた原点だった思います。
 なにせ中国における日本軍および民間人がやったことといえば、残虐行為以外のなにものでもなかったと描かれていたからです。
 それも中国のいうがままを鵜呑みにし、あたかも事実であるかのように装った悪質なルポであり、報道の名に値しないものであったと断言して誤りはないと思います。
 報道時の日本人の反応を終戦時、陸軍少尉であった山 本 七 平 は、以下のように「集団ヒステリー状態」と表現しました。

〈 日中国交前に本多勝一記者の『中国の旅』がまき起こした集団ヒステリー状態は、
満州事変直前の『中村震太郎事件』や日華事変直前の『通州事件』の報道が
まき起した状態と非常によく似ているのである。〉

― 「野生時代」1975年4月号 ―


 中村震太郎事件は1931(昭和6)年6月、満州奥地を調査中の中村震太郎大尉と井杉曹長の2人が中国兵に射殺された事件、通州事件は1937(昭和12)年7月29日、つまり盧溝橋事件(7月7日)の直後、北京の東約30キロ弱の通州で通州保安隊により日本人260人が惨殺された事件(一部朝鮮人を含む)です⇒ 通州事件

 この2つの事件は、連日の大報道となって日本人は激高一色に染まったのでした。
 「中国の旅」による「集団ヒステリー状態」、いかに強烈なインパクトを日本人が受けたかがよくわかります。読んでいて気持ちが悪くなったと感想をもらす人も多く、想像を超えた日本軍の残虐さであふれかえっていたからです。

 例えば「南京大虐殺」。犠牲者は30万人、殺害手段となると、強姦のうえ殺害、生き埋め、火あぶり、さらには肝臓を抜き取って食うなどの凄まじさでした。民間人も負けてはいません。炭鉱や工事現場で労働者を酷使し、使えなくなれば生きたまま捨てた「ヒト捨て場」万人坑。ここには、万、十万単位の犠牲者を各地で出したといいます。

 さらに、単行本『中国の旅』の写真版と称する『中国の日本軍』(双樹社、1972年)も出版されました。
 ここに掲載された日本軍民が殺害したとする大量の白骨遺体の写真は、視覚に訴えるだけに強烈な印象を読者に残したはずです。

 問題を深刻にしたのは、「中国の旅」報道が加害者とされる側から裏づけを取らない一方的なものだったにもかかわらず、新聞記者、学者、研究者、有識者の多くが、つまり情報を発信する側にいる人たちが、このルポを事実と信じてしまったことでした。つまり、彼らも扇動役に回ったのでした。

(2) われもわれもと中国へ
 日中国交回復(1972=昭和47年9月)の後、訪中の制約が少なくなるにつれ、新聞記者、学者、研究者らは競うように、日本軍の残虐行為を求めて中国に渡りました。そして、人間とは思えない日本軍の冷酷な行為がこれでもかこれでもかと報じたのです。
 これらもまた、「中国の旅」同様、ほとんどが日本側の取材を欠いたもので、本多記者と同じ轍を踏んだものでした。ですから「中国の旅」の内容と大同小異だったのは当然のことでしょう。
 もちろん、この間、異論も反論もありました。しかしその声は小さく、また肝心のメディアは無視します。となれば、日本軍民断罪の流れは動かしようもありません。

(3) 中国批判を許さない日本のメディア
 中国にとって朝日ほど利用しやすい報道機関はなかったに違いありません。朝日の論調に「右へならえ」する日本の報道界、言論界の習性を考えれば、朝日をコントロ−ルすることによって、ほんの一部を除く日本の言論界をコントロールできるのです。中国にとって朝日はいたって便利な存在であったはずです。

 曽野 綾子が産経新聞に連載しているエッセイで、「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」と題し、起こったばかりの尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています(2010年10月29日付、一部抜粋)。
 短いものですが、この指摘は上記の山本七平の引用文とともに読めば、言論界の異常さを理解できると思います。

〈今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず脅しを受けながら、
特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けた。
朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、
中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者にも書くことを許さなかった。
 私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、
その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかった。〉


 40年前といいますからまさに1970年頃になります。共同通信社を含むほとんどの新聞は、日頃の言とは裏腹に己の目先の利益のために紙面を中国に売り払ったのです。裏を返せば、紙面に載る中国関連物は、報道、論説、論壇等を問わず中国へのオベンチャラがまかり通ったことになります。
 「北京の空は青かった」「ハエが一匹も見当たらない」「子供たちの眼は輝いていた」式の報道を私も読まされました。同時にアホくさいという反論も週刊誌などで読みましたが。

 曽野綾子は〈 私にいわせればマスコミは正気で「発 狂」していた〉と表現、当時の報道の責任を厳しく問い、

〈 マスコミは戦後一切の抵抗の精神を失い、
今も部分的に失ったままなのである。〉

 と結びます。

 私たち日本人は、正気で「発狂」していた新聞を無邪気に信奉したがゆえに、彼らは部数をのばし、絶大な権力を持つモンスターにまで成長させてしまったのです。私たちは朝日の「偽 善」を見抜けなかっただけでなく、良心的な新聞だと錯覚してしまったと思いますし、今なお、この状態から抜け出ていないのでしょう。
 なにせ、偽善に流されやすいのはわれらの国民性でしょうから。

(4) やがて教育現場に
 「中国の旅」で報じられた平頂山事件、万人坑、三光政策、南京大虐殺のいずれもが百科事典に採用され、やがて歴史教科書に登場します。夏休みに文庫本『中国の旅』を渡し、読後感を課題とする学校も少なくなかったようです。
 また、写真集『中国の日本軍』を副読本として推薦する歴史教科書(高校)の例もありますから、教育現場に広く浸透したのは間違いありません。

3 「楽な取材」と本多記者


 詳しくは後述いたしますが、1967(昭和42)年から北京駐在の日本人特派員は「文化大革命を中傷した」などの理由で、次々国外退去処分になりましたが、朝日新聞一社がこの処分をまぬがれました。このため、朝日が中国取材を半ば独占するなかで、「中国の旅」取材は行われたのです。
 ではその取材の実態はどうだったのでしょう。当の本多記者が次のように書いています。


〈本舞台での取材そのものは、ある意味では楽な取材だと言えるでしょう。
レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。
だから問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、
しかも正確に聞き出すかと、そういう問題になる。〉


 「中国の旅」報道の実態を表したビックリ発言です。中国側が用意した"被害者"などから大量に聞き出してそのまま掲載したというのですから。

 まさに、中国側の手でレールは敷かれていたのです。しかも、このことに本多も朝日新聞社も何の疑問を持たなかったようで、「楽な取材」だったと臆面もなく言いのけます。
 読者は「大朝日」 が報じたのだから、十分な調査をしたうえでの報道と思ったことでしょう。まさか、中国側の用意した被害者だけが取材源だったとは思いもしないでしょうから、とんだ食わせ物を読まされたわけです。

 加害者とされた日本側の裏づけ調査をまったくしなかったのですから、「中国の旅」記述がどのようなものか見当がつきそうなものです。
 なのに、人がよいというのか、日本軍叩きが正義とでも思ったのか、報道人、学者、文化人をはじめ、多くの日本人が信じてしまったのです。その様が「集団ヒステリー状態」とあっては話にもなりません。

・ 藤原 彰 元一ツ橋大学名誉教授の解説
 この中国ルポを絶賛ともいえるほど高い評価をくだす人たちが大勢います。
 わけても近現代史を専攻している大学教授、教職員、法曹界に多く、彼らが教科書、百科事典、歴史事典、辞書の執筆をするなど社会的影響力を持つ面々だけに厄介な問題です。その一人が「大虐殺派」の大御所・藤原 彰 元教授です。

 藤原は『南京への道』(本多勝一、朝日文庫、1989年)のなかで「解説」を加え、『中国の旅』の影響力、評価を以下のように書いています。


〈この『中国の旅』の反響は深刻であった。
日本軍による虐殺事件をあばき出し、
かつての戦争における加害責任の問題を、事実にもとづいて日本人につきつけたからである。
日本でのそれまでの戦争への批判は被害者の立場からのものが多かったから、
このルポが読者にあたえた衝撃は大きかったのである。
もちろんそれまでにも、日本軍の残虐行為についての告白や記述はあったのだが、
小出版社から出された部数の少ない著書で、影響力はそれほどなかった。
それにくらべてこのルポの発表の舞台が発行部数の多い朝日新聞であったこともあり、
事実の重さと、その事実によってのみ証言するという著者の真摯で明快な語り口が、
多数の読者の胸を打ったのである。〉


 『中国の旅』が「多数の読者の胸を打った」かは知りませんが、記述が事実にもとづいたものと頭から信じていて、何の疑いも抱かない素直さに感心します。
 ただ、反響は深刻だった、また大部数を持つ朝日だからこそ大きな影響力があったとする見方は、そのとおりだと思います。結局のところ、「事実」とは縁のないところで、声の大きい方が主導権を握る、毎度のパターンでしょう。
 ⇒ 朝日「中国の旅」報道を検証するをお読みになれば、この「解説」がいかに見当はずれであるかが分かると思います。

 「事実にもとづいて日本人につきつけた」だの、「事実の重さと、その事実によってのみ証言するという著者の真摯で明快な語り口・・」などとする見方がどの程度、説得力を持ちうるか、興味のある問題と思いますので。

4 「代弁しただけ、抗議をするのなら中国に」


 このルポがいかにいいかげんなものなのか、証拠を一つご覧に入れましょう。
 下写真は文庫本『中国の旅』に掲載されたものの1枚で、日本人経営の南満州の鉱山(南満州鉱業株式会社。以下、南満鉱業)で、中国人労働者を酷使し、病気、ケガ、栄養失調などで使いものにならなくなると、ときには生きたままで捨てた「ヒト捨て場」の発掘跡だというものです。


 この「ヒト捨て場」を「万 人 坑」(まんにんこう)と呼び、この南満鉱業の発掘例では、ここ1ヵ所だけで推定犠牲者が実に1万7000人 にのぼるとあります。
 つまり、万人坑の一つひとつが万単位の「ヒト捨て場」で、南満鉱業には分かっているだけで5ヵ所の万人坑があるといいます。

 一方、満州最大の炭鉱、満鉄・撫順炭鉱には約30ヵ所の万人坑が存在し、推定犠牲者25万〜30万人とされました。「南京大虐殺30万人以上」に匹敵するの膨大な犠牲者数になります。
 「中国の旅」の効果に味を占めたのでしょう、中国はこのほかにも多数の万人坑があったとし、各地に遺骨記念館を建てています。2015年現在で、20地点近くに達していると思われます。

 例えば大同炭鉱には20ヵ所あって、推定犠牲者を6万人(後に15万5千人に)とし、現地の山西省大同市に記念館を含む大規模な施設があります。
 撫順炭鉱、南満鉱業、大同炭鉱の万人坑が「100%でっち上げ」だと私が言ったら信じますか。おそらく、まさかと思うでしょう。

 かつて、ここに勤務した人など関係者にとって、万人坑の存在は寝耳に水でした。朝日連載に対して抗議の声があがったのは当然のことでしょう。撫順炭鉱に勤務した久野健太郎は、万人坑なるものは存在せず、また同鉱に関する「中国の旅」記述は事実と著しく異なるなどと、自著を添えて本多記者に抗議の手紙を送りました。


 本多記者はどのように答えたのでしょう。返事のうち、「追記」の部分を引用します(上写真は本多記者の返信)。


〈 ・・また私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、
抗議をするのであれば中国側に直接やっていただけませんでしょうか。
中国側との間で何らかの合意点が見つかったときには
それをまた本で採用したいと思っております。 〉
― 1986年3月9日付け書簡 ―


 人を愚弄した回答だとは思いませんか。
 いったい誰が取材し、誰が書いたというのでしょう。取材し、書いた本多記者と掲載した朝日新聞社が記事の責任を負うのは決まりきった話ではありませんか。
 自らの責任をそっちのけにしてこのようなことをヌケヌケと書く、しかも相手は1902=明治35年生まれですから、このとき83歳か84歳のお年寄りですよ。卑劣さもきわまれりと思います。

 朝日新聞社への抗議の例はこれだけではありません。ですが抗議に対して朝日は、無視あるいは玄関払いを以って応じました。
 こんな怪しげなルポを核にして、朝日は日本軍・民叩きの先導役をつとめ、われわれの歴史を貶め、中国に「歴史カード」をもたらす大きな原因となったのです。

5 「天皇の軍隊」の落し穴


 「中国の旅」報道と時を同じくして、「天皇の軍隊」という題名のもう一つの連載が始まりました。「現代の眼」という月刊誌です。今は廃刊となっていますが、当時はよく売れていたものです。

 熊沢 京次郎という名で出版されましたが、本多勝一記者と長沼 節夫・時事通信記者との共著です。連載後すぐに単行本(画像左)となり、のちに本多、長沼の実名をもって文庫本(画像右)となって朝日文庫に加えられました。

 この本も『中国の旅』と同じように一部を読んだだけで、日本軍が軍紀などと縁のない「ならず者集団」であったかがわかります。「ならず者集団」ならまだましです。残忍な手口による殺人、女とみれば強姦のうえ殺害するなど、まさに鬼畜以下の存在です。
 しかも、戦地にいた将兵(将校と兵士)の口から、「これでもか、これでもか」と語られているのですから、少々おおげさかなと思う人はあっても、大朝日の花形記者の名を見て、おそらく信じたことでしょう。
 これらが事実なら日本軍はまさに鬼畜以下の存在、何をいわれようと仕方がないのかも知れません。

(1) 娘を殺害、油で炒めて副食に
 とにかく、例を一つ見てみましょう。榎本 正代という名の曹長の証言です。できるだけ、先入観を持たないようにお読みください。

 伊藤 誠少尉が率いる1個中隊約70人はとある山村に宿営する。1日目は部落から略奪してきた食料で何とか間に合わせたが、2日で食いつくした。手に入るものは畑の野菜ぐらい、ブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源がまったく見当たらない。
 そこで、「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」 と伊藤中隊長は言うと宿舎を出ていった。そして、以下に引用する「人肉食事件」になったというのです。


〈ほどなく中隊長が戻ってきた。彼が連れてきたのが、年のころ、17、8歳と見える中国人の娘だ。(中略)
少尉が少女のうしろに回り、どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、
曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。(中略)
2人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を「料理」してしまった。
最も短時間に「処理」できる部分として、2人は少女の太股の肉のみを切りとって、
その場でスライスして油でいためてしまった。
1個中隊分といっても、最前線にあっては70人ほどだったのだが、
人肉の分量は意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。〉


 この話、おおむね事実と信じますか。それとも、信じられませんか。信じるにしても、信じないにしても、その理由を考えてみていただけませんか。
 この残虐話を例にとり、「酒鬼薔薇聖斗」 (さかきばら せいと)で有名になった「神戸児童殺傷事件」の原因が、われわれがこのような日本軍の暴力に向き合わなかったことにあるとした論考を、毎日新聞に寄せた著名な精神科医(野田 正彰教授)もいるのです。
 この話は ⇒「榎本 正代証言」に書きましたのでご覧ください。

(2) 証言者はすべて「中国戦犯」
 このような残忍な例があとからあとから出てくるのですから、話半分にしても日本軍のメチャクチャ振りにゲンナリさせられます。ですが、ご存知ない方も多いと思いますが、これらの話が事実だとするには大きな問題が横たわっているのです。
 それは戦後、中国に戦犯として抑留された「中国抑留者」(=中国戦犯、中共戦犯)に関わる問題なのです。

 『天皇の軍隊』に登場する残虐行為の証言者がすべて中国抑留者という事実です。
この事実を知らなければ真実がわからず、落し穴になっているのです。


 このことを指摘したのは、私が最初だろうと思いますが、別項(⇒ 中国戦犯証言を検証する)にまとめてありますので、こちらもご覧ください。

(3) 吉田 裕・一ツ橋大学助教授の解説
 吉田裕助教授(当時)が巻末に文庫版解説を書いています。内容はベタ誉めといってよく、「天皇の軍隊」と本多記者らを持ち上げること、藤原彰教授の「中国の旅」への賛辞と双璧といってよいかもしれません。
 1例をあげると、同書に記された59師団の「治安粛清作戦」を取り上げ、

〈「敵性部落」への無差別の銃砲撃、住民の殲滅、掠奪と放火、
食器や炊事用具などの日用品に至るまでの生活基盤の徹底した破壊、
拷問による情報の収集、婦女子に対する強姦など、その内容は、まさに「三光作戦」とよぶにふさわしい。〉


 とし、もう一方の側面は「収奪」だとし、「うさぎ狩り」「労工狩り」などと呼ぶ「中国人青壮年の強制連行」、小麦や綿花などの収奪をあげます。

 〈以上のように、本書は、第五九師団の行動を執拗に追うことによって、侵略戦争の実態をみごとに再現しているが、ルポルタージュの方法としては、次の二点に注目したい。
 一つは、著者たちが、加害者、それも中国民衆に対する蛮行の直接の担い手であった兵士や下士官の証言を重視する立場をとっていることである。〉

 もう一つは、
 〈著者たちが、侵略戦争のいわば「生活史」とでもいったものに、こだわり続けていることである。取材に際して著者たちは、戦場における蛮行の問題にだけ焦点をあわせるのではなく、一人一人の兵士の出身階級や学歴、あるいは彼らの生い立ちや生活観を丹念に記録するという姿勢を、最後までくずさない。〉

 といった按配です。
 でも、後者の「生活史」、「階級史観」に立つ中国が力を入れていたもので、「戦犯」各自の個人履歴をよく把握しています。本多記者らは苦労することなく、「中帰連」等の提供する資料で間に合ったことでしょう。
 さらに、「本書を通読して、あらためて驚かされるのは、日中十五年戦争とベトナム戦争との類似性である」との解説があり、

 〈本書、『天皇の軍隊』は、そうした、あやふやな戦争観を一撃で打ち砕いてしまうような強烈な衝撃力を持っている。日本人と日本国家の戦争責任という問題が、国際的にも大きな論議の的になり、湾岸戦争への対応にみられるように、日本人の「平和意識」にもあるかげりが現われ始めているように感じられる時だけに、一人一人の日本人が本書によって自分自身の戦争観を、もう一度、見つめ直してみる必要があるのではないだろうか。〉
 と締めくくります。

 以上のごとく、同じ時期に、「中国の旅」「天皇の軍隊」という2つの連載。そして単行本・文庫本『中国の旅』『天皇の軍隊』と写真集『中国の日本軍』の発刊。
 これらを真に受ける学者、教職員、有識者とくれば進む道は一本、いかに昭和の歴史が歪んでいったか見当がつくはずです。

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