― 中国人強制連行 ―
「中国人強制連行」 の実行手段として、日本軍の組織的な「労工狩り」 「ウサギ狩り」 と称する住民狩り(主に農民)が行なわれたとされてきました。連行人数の問題もさることながら、日本軍部の悪辣な手段がここでも非難の的となりました。
8000人という膨大な農民を捕まえたとする機関銃中隊長・小島 隆男中尉 の「証言」の真贋については、すでに報告したとおりです( ⇒労工狩り)。
ですが、「労工狩り」問題は、小島証言をもって結着がついたは言えないのです。というのも、労工狩りについて証言した日本軍将兵はほかにもいるからです。私の知っている証言者だけでも 「10余人」 にのぼります。
特筆すべきことは、10余人全員が中国戦犯 だったという事実です。しかも、ほとんどが第59師団の在隊者だったのです。59師団といえば、『天皇の軍隊』(朝日文庫)に登場する師団でもあります。
もう一つご注意いただきたいことは、中国人強制連行について書いた本には、この戦犯の証言が必ずといってよいほど証拠として引用されますが、この「証言者」が中国戦犯であることに、ほとんど(あるいはまったく)触れられていないことです。これはで、明らかに公正を欠きます。
私の知る10余人のほかにも証言者がいないと断言できませんが(公表されていない「供述書」なども、まだたくさんあることですし)、かりにいたとしても中国抑留者に限られるはずと思っています。
そして、これらの証言は検証もされないまま、「既定の事実」として認知され、これらを土台にして強制連行問題は広がりを見せてきたし、これからもつづくことでしょう。
ここでは、小島中尉をふくむ10余人の証言を対象にして、話を進めることにいたします。
もっとも古いと思われる2人の「証言」から取り上げましょう。古いだけに影響が大きかったのはいうまでもありません。
ひとりは大木 仲治 軍曹(階級は終戦時)、もう一人は大野 貞美 曹長(階級は終戦時)です。2人とも戦犯として中国に抑留されていました。大木仲治軍曹は中国に抑留された際に、「労工狩り」と題した「手記」を書き残しています。
この手記は、他の14人の「手記」とともに、『 三 光 』(カッパブックス、1957年) に所収され、「労工狩り」という名称が日本で知られるさきがけとなりました。「労工狩り」という言葉は、中国抑留者を除けば、日本人になじみのない言葉だったにもかかわらずです。
手記は、独混10旅・第44大隊 に所属していた大木仲治1等兵が参加した作戦、1941(昭和16)年8〜9月頃の“出来事” として記してあります。
独混10旅(どっこん・10りょ) は、1942(昭和17)年4月、 第59師団新設の際に基幹となった部隊でした。ですから、これまでいく度か出てきた独歩44大隊(第59師団)は、独混10旅時代の第44大隊の将兵がほぼそのまま移籍し、編成された部隊でした。
ですから、小島中尉の「8000人強制連行」証言を調査したさいに、大木仲治軍曹の手記「労工狩り」についても調べておきました。
もう一人の大野 貞美曹長は終戦時、独歩79大隊(第63師団第66旅団)に所属していました。大野曹長の強制連行証言は、雑誌「真 相」 (1956=昭和31年6月号)に掲載されたのが最初と思います。
2人の「証言」は、いろいろな本でお目にかかることができますが、その代表として西成田 豊・ 一橋大学大学院経済学研究科教授の『中国人強制連行』(東大出版会、2002年、左写真)を取りあげることにいたします。
この本も、中国人の強制連行について書いた他書と同様、引用した日本側の証言者が中国戦犯であったことは書いてありません。強制連行の「研 究」がどの程度のレベルにあるかを知るうえで、参考になる著作です。
なおこの本の出版にあたって、国からの助成金として200万円が支給されたとのことですから、日本という国は何を考えているのかサッパリ理解できません。
(1) 大木 仲治証言
この本の第2章に、〈「労工狩り作戦」と俘虜収容所〉という項が設けられ、「証言1」として大木 仲治、「証言2」として大野 貞美が出てきます。2人の「証言」は多方面で重用され、強制連行論が展開されています。また、「証言3」として榎本 正代が、〈「労工狩り」の動かぬ証拠だ〉とばかりに登場します。
榎本については、中国人の娘を殺害、肉をスライスして油で揚げ中隊に配ったとする人肉食事件については報告ずみですので、 ⇒ こちら を参照していただき、かかる人物の証言に証拠能力があるのかどうか、どうぞご一考ください。
まず、「証言1」として引用されている大木証言の全文を紹介します。
〈真夜中の12時、たたき起こされた私たちは、
「こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ」 という中隊長池田中尉の怒号のもとに、
重い足を引きづりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、
風一つなくあさげの煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな2百余戸の部落に中隊は停止した。
分隊が部落にはいると、静かであった村が、ガタガタ、ドンドン、バタリバタリ、ガチャンガチャンと
急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した(木本伸治氏の証言) 〉
文中の「木本 伸治」 は間違いで、「大木 仲治」が正しい名前です。
手記「労工狩り」から若干、補足しますと、国井 栄一大佐の率いる44大隊は、1941(昭和16)年8月下旬から9月上旬にかけての博西作戦で、「労工狩り」を実行します。
そして、池田中尉が率いる第3中隊は150名の百姓を捕らえ、トラックで戦闘司令所に送ります。このようにして、各隊に拉致された農民は2000名 になり、貨車に積み込んで日本や東北(満州)に送ったというのです。この間、農民に対する扱いの酷さが強調されていることはいうまでもありません。
ここで注意をして欲しいことは、この出来事 は1941(昭和16)年8月〜のことですから、すでにこの時点で日本への強制連行が組織的に行われていたことになります。「日本国内への強制連行」の項と関連がでてきますので、ご記憶ください。
1997(平成9)年初め、つまり小島 隆男 中尉証言(8000人強制連行)の調査の際ですが、独歩44大隊戦友会の幹事の協力により、全会員に調査票(アンケート)を配布していただきました。総数110通、回答数は59通に達しました。回答者全員が「強制連行を知らない」 と回答しています。
回答者のなかから、独混10旅時代に大木仲治と同じ第3中隊に所属するなど、当時の事情をよく知ると思われる人には、私の方で面談、手紙、電話による聞き取り調査を行いました。
同じ3中隊で大木より1年古参の 飯島 進一 は、
「昭和16年8月〜9月頃にかけての博西作戦を始め、その頃の討伐作戦に数多く、国井大隊長、池田中隊長とともに参加。農民に対して労工狩りを行ったことは1回もなかった」
と回答を寄せてきました。
・ 染谷 鷹治証言
また、大木仲治と同年兵の 染谷 鷹治と私の間で、何度も手紙、電話の往復がありました(ちなみに、氏が他界するまで私との文通はつづきました)。
「彼は香取郡、私は東葛飾郡でしたが、同じ千葉県の出身ですし、初年兵の教育も一緒に受けた仲ですから、おたがいに良く知っていました 」とし、『三光』を読んでいたので、大木証言はよく知っていたと話し、「我々は承知しているからよいが、一般人が読めば真実と受け取ります。正すべきです」 と強調。
また、「池田中隊長の名前は光太郎といい、呉服屋の出で、色が白く小さな声の人でした。号令をかけるのにも恥ずかしそうでしたね」などと電話で話し、次の内容の手紙(上写真)を書き送ってくれました。なお、染谷はソ連に抑留されたものの中国送りは免れました。
手紙(上写真)から一部を書き抜きますと、
「侵略の本 はほとんど衣部隊の人達の記事なのです。
これらはソ連抑留から戦犯として中国に送られた人達が日本軍悪事の代表となったのです。
帰りたいための作文によってこれが日本軍の悪事として日本国民に公表されたのは何とも不思議に思います。」
「大木仲治さんは公表しないことを條件でここだけといわれて書かされたときいております。
日本に帰って片身のせまい思いがしたと漏らしておりました。
戦友会にも出ることをためらうようになりました。」
なお文中、「侵略の本」とあるのは『三光』を指したものです。というのは、『三光』は抗議のため絶版にせざるをえなくなり、のちに中帰連の手で『侵 略』と改題し、発行されているからです。また「衣」は59師団の通称です。
大木仲治軍曹は戦友会に1度だけ出席したことがあったそうですが、戦友のだれも「労工狩り」について触れなかったといいます。染谷鷹治は「あんなもの問題にしていませんから」とその理由を説明しました。
(2) 大野 貞美証言と書籍『草の墓標』
つぎに、大野貞美曹長(63師団66旅団)の証言を見てみましょう。同書掲載の「証言」の全文は以下の通りです。
〈その作戦では北支にいる部隊が、全部山東省の一角に集まったのです。
つまり済南から青島に寄ったほうの山東半島の一角にです。
・・・日本軍だけでも1万人以上 、全部(かいらい軍、保安隊含めて)で2、3万人がその作戦に動いたのです。
その作戦では、普通の戦闘とはちがい、中国では真ちゅうの洗面器が多いのですが、兵隊は銃をかついで、その洗面器をたたいて、
それで海岸線から鉄道沿線にむかって包囲戦を押したわけです。
1里(4キロ)歩くところもあるし、2里(8キロ)のところもある。そのあいだの部落に放火し、ほうぼうで火が燃えあがっていた。
こうして村から村人を押していって、そこにいる18才から45才ぐらいまでの男という男を全部ひっくくって集め(た)・・・。 〉
補足すれば、この作戦について、大野は「昭和17年の秋のことです」 としていますから、あきらかに63師団時代のことではありません。
63師団は1943(昭和18)年6月に編成された新設師団 ですから、昭和17年は63師団誕生前になります。では、昭和17年秋に大野貞美がどの部隊に所属し、階級は何かとなると、資料不足のためよくわかりません。
また、「あの一角に各師団を全部集めて、服装は全部便衣です 。 騎兵だけが制服を着ていました」ともいっているのです。
この証言、どうお考えになりますか。私にはとても理解できません。
まず、1万人以上の日本兵を動員するのは大作戦です。各師団を動員したというのですから、軍、方面軍が動かなければならないでしょう。すると、下士官(?)レベルの大野が軍や方面軍の作戦の概要を知っていたというのでしょうか。下士官レベルでは、お隣の中隊の動きもよく知らなくて不思議はないのです。
それに、わざわざ全員(1万人以上!)が便衣(平服)に着替えて、銃をかつぎ、洗面器をたたいて進軍するなんて、本当ですか。
これでは目標とする農民に、「これから行きますので、どうぞ逃げてください」と教えているようなものでしょうに。
実はこの証言、検討に値しないかも知れません。といいますのも、大野自身が 「私は中隊におって実際作戦に参加しておらなかったが」といっているからです。ですが、この肝心な部分が引用から抜け落ちているのです。
注記によれば、『草の墓標― 中国人強制連行事件の記録』(中国人強制連行事件資料編纂委員会、新日本出版社。1964)からの引用とありますが、実は引用本自体が間違っています。
間違いというより、思惑あって肝心の部分を故意に落としたのです。
新日本出版社が日本共産党系の出版社であることは周知の事実です。この書は「中国人強制連行」等の資料として頻繁に引用されます。
例えば、『中国人強制連行』(岩波新書、2002年、左画像)の著者、杉原 達(大阪大学大学院文学研究科教授)は同書のなかで、
〈『草の墓標』(1964)は『外務省報告書』を批判的に解読した貴重な作業であり、
私たちが繰り返し立ち戻るべき文献として、その歴史的意義は大きい。〉(31ページ)
と、手放しの評価を与えます。『外務省報告書』というのは中国人強制連行についての日本側資料で、しばしば重視、引用されます。
ですが、『草の墓標』は、「歴史的意義は大きい」どころか、プロパガンダ本だと私は判断します。次をご覧ください
1941〜1942年ころ、日本軍の三光政策により、八路軍はいったんは守勢に立ったものの、「中国人民の抗戦力を奪うことはでき」ず、かえって「中国共産党と八路軍と華北住民の結びつきを強めて反撃に転じ、各地に解放区を拡大した」と前置きし、『草の墓標』は以下につづけます。
〈日本軍は、前よりもいっそう困難な状況に置かれた。
そのために、「掃蕩」と「三光政策」は、大運河「衛河」を決壊して何百万人という農民とその家族を罹災させるとか、
「給水部隊」の名でコレラ菌などをばらまくとか、
生活のかてであるなつめの林や粟や米などを刈りはらい文字どおり根こそぎ略奪するとか
徹底的に人間を狩り集めて無人地帯を作るとか狂暴きわまるものとなった。〉(27ページ)
お気づきのことと思います。
日本軍の「掃蕩」と「三光政策」の中身は、中国戦犯の手記集にある「衛河決壊とコレラ作戦」、ナツメ林を伐採する手記「三光」、それに「無住地帯」が該当していることを。
ですが、「衛河決壊とコレラ作戦」および「三光」は作り話であり、「無住地帯」も事実と大きく異なることは証明済みのはずです。
日本軍の悪行を指摘したこの短い記述のすべてが、「虚偽、誇大」と証明された事項で成り立つというのも、珍しいというべきでしょう。それに罹災者「何百万」とさしたる根拠もなく書くのですから、「プロパガンダ本」というにふさわしい書籍と思います。これも、中国戦犯の「証言」をすべて事実とする以上、当然の帰結でしょう。
「衛河決壊とコレラ作戦」はこの項の終わりのリンク先から、また、「三光」の検証は ⇒ こちらを、また「無住地帯」は ⇒ こちらと ⇒ こちらをご覧ください。
また、「三光」と「衛河決壊とコレラ作戦」のより詳しい検証は、電子書籍『検証 中国人強制連行と「中国戦犯」証言の信頼性』に記してあります。ご希望の方は下記のリンク先からどうぞ。
なお、興味のある方は、『天皇の軍隊』(朝日文庫)の82ページをご覧ください。鈴木丑之助上等兵(59師団独歩45大隊)の証言と大野貞美証言と対比するのも面白いかもしれませんので。
『中国人強制連行の記録』(石飛 仁、三一書房。1997)という比較的、新しい本があります。この本も5人の中国抑留を登場させ、「労工狩り作戦」 論を展開しています。
5人とは登場順に、矢崎 新二、城野 宏、大野 貞美、新井 宗太郎、榎本 正代です。
まず矢崎 新二ですが、
「昭和18年9月、北支の各師団では、労工狩りの実習がありました。野ッ原に円陣をはり、各中隊旗をたて、ドラをならし、うさぎを追い出し、追いつめ、捕らえる演習です。これは、野うさぎを目標にしたわけですが、一か月後には、うさぎが人間にかわるわけです」
などと証言します。
矢崎新二は1942(昭和17)年4月の召集、終戦時は59師団独歩109大隊・機関銃中隊の伍長といいますから、昭和18年9月といえば、1等兵か上等兵でしょう。
この証言も大野貞美証言と同様、最下級の1兵士が「北支の各師団」の実習内容を知っているわけがありません。だれかに聞いたのでもないかぎり、ありえない話なのです。とすれば、戦犯時代に知った可能性がもっとも高いということになるでしょう。
かりに上記の証言内容が事実に近いとしても、これは農民相手ではなく、敵に対する包囲戦の演習でしょう。59師団を含む第12軍は、包囲作戦をしばしば実行したのは事実です(後述)。それに、本物のうさぎを追いだすために、演習でドラをならすというのなら、わからなくもありません。
そして、1ヵ月後の作戦では、「兵たちは10メートル間隔くらいにならび、山東半島をおしあげる形で、人狩りをやっていたわけです。付近の海上は海軍が船をうかべて封鎖するというものものしさです。」と証言します。
この証言が事実としても、この作戦は武器を持たない農民相手でないのは明らかですから、ごく普通の戦闘行為に違いありません。
もっとも、この証言も検討に値しないかも知れません。というのも、この「労工狩り作戦」について、「私はこの作戦には参加しませんでしたが」と言っているからです。
つぎの証言者・城野 宏 は、
〈山東省でやった労工狩り作戦は、59師団が中心で、村をとりかこみ、50人1組に縛りあげて人狩りし、済南の収容所にもってきて、各地へ「配分」するわけです 〉
などと証言します。
城野証言については、 ⇒ こちらで取りあげましたので参照ください。
軍歴が示すように、城野の活躍の舞台は山西省で、第1軍の管轄ですから、第12軍下にあった59師団の警備地区、山東省を知るわけがないのです。もちろんこれも、戦犯時代に得た知識でしょう。
次の大野 貞美 は上に取りあげた通りです。
次の榎本(= 新井)正代 は上述したように、中国人の娘を殺害し、スライスしたうえ油であげて食ったという「人肉食」の証言者でした。
1944(昭和19)年5月、109大隊在隊の榎本軍曹(階級は当時)は、1個小隊の「便衣隊」と現地の保安隊を指揮、みずからの蛮行を証言します。
〈日毎に凶暴さをましたわが隊は、ある日、約100人の農民を駅の周囲に集結させ、
拷問を繰り返したあげく、かれらの持ちものをことごとく奪いつくしたのである。
そのなかに、泣き叫んでわたしの足元にすがりつく婦人がいた。たしか45歳くらいだったろうか。
鬼と化していたわたしは、その婦人を丸裸にしておいて、農民たちにどなった。
「もし、小麦の隠し場所を教えねばこの婦人を殺すぞ」。だが、農民たちは「もうない、もうない」と繰り返すばかり。
怒り狂ったわたしは、駅前にある柳の枝を折り、丸裸の婦人をめった打ちに殴打した。
悲鳴とともに、その婦人は背中と脇腹あたりからドッと血を吹き出し、その場に昏倒し、間もなく息をひきとった。
わたしはその婦人の死体を編上靴(へんじょうか)で、そばの池に蹴落とした。
さらに26人をつぎつぎに虐殺し冷たい池にほうりこんだのである。・・ 〉
この証言が信じられるのですから、お話になりません。榎本軍曹1人でこのような方法で26人を虐殺したとでもいうのでしょうか。
こうした蛮行を繰り返した後に、「わたしの所属する109大隊は1メートル間隔に並び、ハンチャン地区(中国人で編制され、日本軍に協力している部隊の集落)を包囲した。かれらは、抵抗らしい抵抗もせず、姿を現わした。大隊はそれらの中国人を有無をいわさず縛りあげた」 といい、200人の農民を済南の俘虜収容所に送ったというのですが。
日本軍に協力していた部隊をどうして包囲攻撃したのかわかりませんし、捕らえた中国人が農民というのもよくわかりません。この種の「証言」に共通するのは場所、時、隊名などがなく、事実を確認する手がかりがないことです。作り話であるがために書けなったのでしょう。とにかく、榎本の証言は猟奇的な行為で突出しています。
次の新井 宗太郎 (終戦時、59師団独歩43大隊第4中隊伍長)の「うさぎ狩り」証言も、「昭和20年2月半ば、冷たい雨が降りそそぐ寒い日。しらじらと夜が明け始めたころ、うさぎ狩り作戦は清河付近の部落で開始されたのです。偽軍(中国人で編制された日本軍の協力部隊)を根こそぎ捕らえるのが目的でした。・・いっせいに兵舎に手榴弾を投げこんだのです。・・」
そして、「農民50人を含む約200人の偽軍が、捕まったのです」というのですが。
“偽軍”をどうして攻撃したのか、理由が書いてないからわかりません。中共側に寝返ったからでしょうか。それなら、相手は武器を持っていたはずですし、正当な戦闘行為と思いますが。
その他の証言者として、難波 博、菊池 義邦 らがいますが、難波は主に済南の俘虜収容所について証言しています。
2人は「731部隊とコレラ作戦」 の証言者ですので、そちらを参照ください。
(追 記) 日本軍による「897人」の労工を獲得した記録があります。「仁集団司令部」が1942(昭和17)年6月1日に作成した「第2次魯東作戦経過概要」がそれです。
ここに「総合戦果一覧表」という詳しい統計表が付いています。「仁」は第12軍の通称で、第59師団もその隷下にありました。「戦闘詳報」や「作戦経過概要」等の公的資料で「労工獲得」の記述があるのは、今のところこの1点だけかもしれません。
第2次魯東作戦は進出の目覚ましい共産軍(山東縦隊第5旅)を主敵に、その根拠地を覆滅するための作戦でした。日本軍は、たぶん独混5旅、独混6旅から編成された部隊と思われます。
作戦では、「半径10余キロ」の包囲網等を作ることもなく、よく見られる掃蕩作戦といってよいでしょう、
ここで取り上げるには長くなりすぎますので、詳しくお知りになりたい方は、電子書籍『検証 中国人強制連行と「中国戦犯」証言の信頼性』をご覧いただければと思います。
関連すると思われる事項を以下、補足いたします。
@ 土橋一次・第12軍司令官の包囲作戦について
独歩20大隊(独混5旅)大隊長・田副 正信中佐 の回想録に次の一文があります。
〈この戦法は完全包囲、ローラー式である。敵根拠地を中心とする円周上に、攻撃開始日の払暁直前に各部隊が到着し、分隊単位で500米間隔に配置し、包囲網を構成し、次いで中心点に向かい包囲網を圧縮するというものである。
中共側も「包囲鉄環」と称して恐れていた。この戦法は効果があるが大兵力を必要とする。小部隊の警備隊では、何よりも不急襲が必要であった。〉
この戦法、とくに違和感はありません。洗面器を叩いたり、日本兵が便衣に着替えて参戦したなどというアホな話を除去すれば、既述の「労工狩り」証言と骨格は酷似しています。
つまり、労工狩り証言は「通常の戦闘行為(包囲作戦)を農民狩りに置きかえた」 ものと考えて間違いないものと思います。またこの間、巻き添えになった農民が多少、出たであろうことは想像がつくところです。
A 「うさぎ狩り」という呼称について
山西省に駐留していた41師団の通信隊の回想録『戦塵の回想』(1992年刊、私家版)のなかに「兎追い戦法」 という1項がありますので、摘記します。冀中作戦(3号作戦、1942=昭和17年)の記述です。
41師団は第1軍の管轄下でしたが、この時点では方面軍の直轄師団でした。
〈これは各歩兵中隊が、1列縦隊の各分隊を約500米の距離間隔に分散し、大隊はこの中隊を並列して全担任正面を被い、所在の敵を求めて この網中に追い込むという方式である。
この隊形で問題となるのは、指揮連絡と戦力の集中である。これがため、あらかじめ第2線部隊であるいは予備兵力を控置するとともに部隊相互間の通信連絡、指揮の軽快を特に重視し訓練した。〉
この例から見て、敵を追いつめる包囲作戦を、うさぎ追いになぞらえていた部隊もあったことがわかります。
B 多数が酷似した証言をしていることについて
10余人の証言で成り立っていた「運河決壊とコレラ作戦」が虚構であったことと考え合わせれば、労工狩りにおける「証言の一致」は別に不思議ではありません。
抑留中、10人前後が1グループとなって「学習」する「グループ認罪」という課程があり、「ある出来事」がグループの共通認識になるように仕向けられたからです。
もちろん「ある出来事」が事実起こったかどうかとは関係ありません。「グループ認罪」の実例として、「731部隊コレラ作戦」 がありますので、 ⇒ こちらを参照ください。
さらに詳しく全体像、証言内容等を知りたい方は、アマゾンの電子書籍『検証 中国人強制連行と「中国戦犯」証言の信頼性』をご参照ください。2021年5月発行、約16万字、価格は316円です。
⇒ こちらからどうぞ