自国の歴史を貶めた功労者

― 旗振り役を演じた人たち ―


 私たち日本人が持つ昭和前期の歴史イメージ( ≒ 歴史観 )といえば、中国をはじめアジア諸国を「侵 略」し、各地で「残虐行為」に明けくれたという負のイメージが大勢を占めているといってよいでしょう。そしてこの負の歴史イメージを決定づけたのは「侵略問題」というより、日本軍・民が犯した「残虐行為」にあるのだと私は理解しています。
 では、私たちは何をとおして、日本軍、民間人による残虐事件や残虐行為を知ったのでしょう。また、出所はどこなのでしょう。さらに、それらはおおげさな点は割り引くにしても、確かな事実なのでしょうか。

1 二つの流入経路


 こうした残虐事件、残虐行為は概ね2つの経路によって私たちは知ったのだと思います(以下、一部重複します)。

(1) メディアによる「現地ルポ」
 一つは朝日新聞連載の「中国の旅」を筆頭とする活字メディアによる「現地ルポ」の類です。1971年夏、朝日・本多勝一記者の手になる「中国の旅」が朝日紙上に連載されるや、大反響を巻き起こしました。

 ベストセラーになった著作『日本人とユダヤ人』等で知られた山本七平(元、陸軍少尉)は、当時の状況を「集団ヒステリー状態」と形容し、満州事変直前の「中村震太郎事件」や支那事変直前の「通州事件」報道が巻き起こした状態と非常によく似ていると書いています(月刊「野生時代」、1975年4月号)。

 朝日連載は「平頂山事件」 にはじまり、「万人坑」「南京事件」「三光政策」 の4部に分けられ、各部が10日程度、都合40日間つづきました。これこそが「自虐史観」などと呼ばれる歴史観を形づくる上で決定的影響を果たしたと思います。
 朝日報道に影響されたのでしょう、毎日新聞など他のメディアも競うように中国に出かけては日本軍・民の残虐行為を聞き出し報じたのでした。

 問題なのは加害者、つまり日本側の裏づけ調査をほとんど(あるいはまったく)行わずに、一方的に報道したことにあります。にもかかわらず、事実かどうかを検証すべき学者(主に大学教授)が役目を果たすことなく逆に追随したのでした。


 ですから、教育界にいちはやく浸透、上記4つの出来事すべてが高校用歴史教科書に、南京事件、三光政策など一部は中学用教科書にも採用され、市民権を得てしまったのです。もちろん、多くの百科事典にも採用されました。
 また、本多記者らが同時に取材した他の出来事、例えば「防疫惨殺事件」等を加えて、単行本、文庫本『中国の旅』(共に朝日新聞社)となり、さらにその写真版という『中国の日本軍』(双樹社、1972)が出版されました。累々とした人骨の写真等が教育に有効だとして、『中国の日本軍』を「必読文献」とした高校用歴史教科書もあったのです。

 内容はといえば、読んでいて気持が悪くなったと感想をもらす人もいるくらい、日本軍および民間人が行った残虐非道な行為であふれかえっていました。
 こんな具合です。


〈・・ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、
高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。
電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。
集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。
苦しさに七転八倒した死体の群れは、
他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。
『永利亜化学工業』では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、
その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。
日本兵はあとで煮て食ったという。 ・・ 〉


 以上は『中国の旅』の「南京」からの引用ですが、三省堂・高校用歴史教科書の教師用『指導資料』(通称、「虎の巻」)に授業の指針として同一文章が掲載されています。こんな話が事実として教育界で通るのですから、まったく怖ろしいことです。これで生徒の歴史に対するイメージが歪まないわけがありません。

(2) 「中国戦犯」の「証言」
 もう一つは終戦後、共産中国に戦犯として囚われた約1000人の日本人将兵を中心とする、いわゆる「中国戦犯」(=中共戦犯)の「証言」です。
 証言は、「自筆供述書」「手記」「帰国後証言」の3つに分けるとわかりやすいでしょう。
 「自筆供述書」(以下、供述書)は中国側の取り調べの結果、自らの犯罪行為を認めた自筆の供述で、死亡など特別の事情のないかぎり、ほぼ全員が書き残したと思われます。

 「手記」は供述書とは別に戦犯“有志”が書いた懺悔の記録です。1957年、カッパブックスから「手記」15編が選定され、『三光』(上画像)として出版されました。わずか2ヵ月で20万部が売れるベストセラーになったそうです。以下、同様の懺悔録として『新編 三光 第1集』など数点が出版されています。

 次の「帰国後証言」ですが、代表的なものとして次が挙げられます。
 「中国の旅」連載とほぼ同時期、月刊誌「現代の眼」に「天皇の軍隊」と題した取材報告が連載されました。「熊沢京次郎」の名で書かれていますが、筆者は朝日・本多勝一と長沼節夫(時事通信記者)です。連載は同名の単行本となり、のちに2人の実名をもって文庫本『天皇の軍隊』(朝日文庫、1991、上画像)に加えられました。

 内容はといえば、中国山東省に駐留した第59師団による数々の残酷な行為を「日本人将兵」の証言をもって断罪したものです。軍紀は死語同然、やりたい放題の日本兵の姿があぶり出されたのです。
 討伐作戦とは「女あさりにカッパライ」で、女と見れば強姦は当たり前、あげくに腹を裂くなどの異様な手段での殺害も珍しくありません。男の方は拷問、菜きり包丁で胸から腹まで絶ち割るといった凄まじさです。

 ですが、自らの行為と証言する日本人将兵というのが曲者で、調べてみますといずれも「中国戦犯」なのです。ただ、「中国戦犯」と明記された証言者がいる一方、何も書かれていない証言者もいるため、読者は残虐行為の証言者が「中国戦犯」ばかりであることが分かりません。

 以上のように、『三光』と『中国の旅』『天皇の軍隊』を合わせ読めば、日本軍の凄まじいばかりの残忍さに国民は驚き、あの時代の日本軍・民に嫌悪感をつのらせたのは間違いないでしょう。自虐史観の下地はこうしてできあがったのです。
 中国戦犯(中共戦犯)については、この項の終わりにも記述がありますので、ご参照ください。

2 素晴らしい教育の「成果」


 「平和教育」 の名のもと、過去の日本を断罪する「日 教 組」は、これら一連の残虐報道に飛びつきました。残虐行為ほど生徒に分かりやすいものはなく、効果を期待できると踏んだからでしょう。
 戦後の日本の平和運動は「反米親ソ」路線をとってきました。その理屈はというと、アメリカは帝国主義国家ゆえに「戦争勢力」であり、ソ連は社会主義国ゆえに「平和勢力」だとしました。したがって、ソ連の核兵器(原水爆)はよいけれど、アメリカの核兵器はダメという理屈が堂々まかり通っていたのです。
 ところが、1970年代になると、スターリンが1930年代に行った大規模な党員処刑をふくむ残酷な政治弾圧(大粛清)に見られるごとく、ソ連共産主義の実態が暴かれるにつれて、ソ連への幻想が失われていきました。かれらにとって、いわば心の故郷の喪失です。

・ カチンの森事件
 ソ連の悪の一例をあげましょう。画像は有名な「カチンの森」 事件の遺体発掘現場です。日米開戦前の1940年(昭和15年、第2次大戦の最中)、侵略したソ連軍に収容されたポーランド軍の将校中心に、ソ連秘密警察によって2万人以上がスモレンスク(白ロシア、現ベラルーシ)の近郊に連行のうえ処刑された事件です。


 ソ連はナチス・ドイツの悪行と戦時中から執拗に宣伝につとめましたが、多くの証拠の前に、やっと1990年に入ってゴルバチョフ・ソ連大統領が処刑はスターリン以下、ソ連指導者の命令で行われたことを認めました。実に50年が経過したことになります。

・ 反 米 ⇒ 反 日 へ
 1980年代に入ると、日教組は戦争被害を教えるだけでは平和教育の目的は達成できず、加害の事実を教えること、つまり日本軍国主義の悪を教え込むことに力点を移していきました。「反 米」から「反 日」へのシフトです。日本軍による残虐行為は報道されただけでも山のごとくあるのですからネタには事欠きません。

 そんなとき、「教科書誤報事件」(1982=昭和57年)が起こりました。事件というのは、高校用歴史教科書の文部省検定で、検定前の教科書に「侵 略」とあった記述を「進 出」に書き換えさせたとして、日本のメディアが日本政府、文部省を集中非難したものでした。あたかも、中国や韓国からの非難を期待するような報道ぶりだったのです。

 ですが、書き換えの事実はありませんでした。にもかかわらず、中国、韓国の抗議に屈した日本政府は、教科書記述にあたっては中国、韓国など近隣諸国の批判に十分配慮するとしたいわゆる「近隣諸国条項」を検定基準に加え、学問的に裏づけのない残虐事件も事実上フリーパスとなりました。このような動きに教科書出版会社が反応しないわけがありません。

 南京虐殺、三光作戦、強制連行など残虐行為を競うように取りあげ、教科書売り込みのセールスポイント になったのです。ですから、日本の歴史教科書と教師用の「虎の巻」(= 指導書)は残虐事件の記述で溢れかえりました。

 大阪やほかの各地に建設された「平和博物館」(=平和祈念館)だって視点は同じです。全国自治体に平和博物館を建てようと1983年、「平和博物館を創る会」が発足しました。
 呼びかけ人は永井 道雄(朝日新聞論説委員、三木内閣で文部大臣)、家永 三郎(教育大学教授)らでした。そこでの展示は、歴史教科書と同様、日本軍による加害を強調したものでした。
 こうした教科書、あるいは「平和博物館」を通じ、日本の過去断罪、国家否定という刷り込みが教室内で日常的に行われているのです。

・ 国旗を踏みつける生徒の出現
 こうした教育の結果でしょう、国旗を踏みつける中学生 の出現です。報道(下画像)によれば、

〈卒業式終了後、生徒たちが国旗を降ろし、
雪に埋めて踏みつけていたことが分かった。
式自体も、教職員らが国旗掲揚と国家斉唱を妨害するなど大混乱になった。〉


 というのです。こんな例もありました。
 2000年3月の卒業式で、東京都・国立市立小学校の生徒が、掲げた国旗を降ろすよう校長に要求。あげくに興奮状態になった学 童 は校長に向かって「あやまれ」「土下座しろ」と迫り、なかには泣き出す生徒もでてきたとのこと。そのうえ、保護者までもが「子供たちに謝ってほしい」と校長に向かって言い出す始末。

 世界のどこに父兄も参列する厳粛な卒業式で、自国の国旗を踏みつける生徒がいるでしょうか。また世界のどの国に校長に土下座を要求する小学生がいるでしょうか。判断力のない生徒たちは左がかった教師にそそのかされ、正しい行為のごとく錯覚し、ことにおよんだに違いありません。なんという教育の成果でしょう。
 卒業式での国旗掲揚、国歌の斉唱時に起立をしない(不起立闘争)ばかりか、気勢をあげるなどの妨害行為に出る教師が後を絶ちませんでした。その数も、例外などといって済まされない数に達しているのです。

・ 「はだしのゲン」で育った学童たち
 2013年8月、マンガ本 「はだしのゲン」を小・中学校の図書室で、生徒が自由に読めることが妥当かどうか、大きな問題となりました。
「はだしのゲン」  というのは、松江市教育委員会がこの本を「発展段階の子供に適切かどうか疑問」とし、生徒が自由に手にとって読めない処置をとりました。
 〈閲覧制限はすぐ撤回を〉と朝日が社説で主張すれば、毎日新聞も〈戦争を知る貴重な作品だ〉と書き、教育委員会の処置に反対を唱えたのです。

 「表現の自由を侵す」「戦争の悲惨さを覆い隠す」などとする論調を前にすると、多くの国民は「もっともな主張である」と反射的に思ってしまいます。ですから、自由閲覧を禁じる措置をとった同委員会に抗議が殺到したのです。おそらく、本を手にしたこともなく、内容を知らないままに抗議した人が大部分だったに違いありません。

 この本に描かれた日本兵の残虐行為は、朝日などメディアが報じてきたことが、見事に反映されたものといってよいでしょう。そこで、この「はだしのゲン」に描かれた日本兵の残虐行為を中心に要点をまとめましたので、⇒ こ ち らをご覧ください。
 この内容を知った後でも、朝日や毎日が主張する自由閲覧が妥当とする意見に賛成しますか。

3 日本軍民の「悪行」を発掘した功労者


 日本軍・民の過去を断罪した功労者を以下のように分類することも可能でしょう。
・ 朝日新聞を筆頭とする活字メディア
・ 大学教授、文化人など、いわゆる有識者
・ 中国抑留者(=中国戦犯)
・ NHKほか放送メディア


・ 朝日、毎日を筆頭に
 最大の功労者は日本の報道機関で、団体賞を受ける資格は十分です。わけても、朝日新聞社 が文句なしの筆頭選手です。朝日新聞だけでなく、「週刊朝日」や廃刊(休刊?) となった「アサヒ・ジャーナル」のいずれもが目の色を変えて断罪に邁進しました。

 南京大虐殺30万人、百人斬り競争、万人坑、三光作戦、従軍慰安婦などなど、かなりの部分は朝日が発信源ですから、かりに朝日新聞がこの日本に存在しなければ、歴史問題にかぎっただけでも、こうまで歪むことはなかったでしょう。また、国益が損なわれることもなかったはずです。
 活字メディアに限れば、毎日新聞が2番手というのが大方の見方でしょう。もっとも、ブロック紙、地方紙の多くも大いに励んだとみて間違いないようです。毎日記者OBの某氏が、毎日新聞をして、「朝日の病める妹」と表現したことがあります。言いえて妙と感心した覚えがあります。

・ 共 同 通 信
 中央紙をふくめ、とくに地方紙の紙面づくりには、共同通信社 が配信する記事が欠かせません。
 共同通信社も日本軍の残虐事件、残虐行為となると熱心に加盟各社に配信しました。
 紙面に載せるかどうかは各紙の判断ですが、配信をうけた新聞社がいちいち事実かどうか確かめるわけではありません。目立つように見出しを工夫し、読者にとどけるのが普通でしょう。ですから、より誇張された印象を読者にあたえることになりがちです。
 上写真はその一例(福島民有)で、共同通信の配信記事にもとづいて、中国人慰安婦の強制連行が軍命令であったことが陸軍中将の「供述書」によって証明されたと報じたものです。

 陸軍中将というのは鈴木 啓久・第117師団長で、会津若松(福島県)出身であったためにより大きく報じられたものと思います。鈴木中将はいわゆる中国戦犯で、師団長という最高位の軍人でした。同中将の「供述書」に書かれた中国人慰安婦の強制連行等については、⇒ 鈴木啓久中将の回想にまとめてありますのでご覧ください。

・ ジャパン・タイムズ
 また、ジャパン・タイムズ を代表とする英字新聞も見逃せません。この新聞も共同通信、朝日などと同様、いやに残虐行為の糾弾に熱心だったのです。日本を任地とする欧米の報道記者、各国大使館関係者などは、言葉の関係から英字紙、とくにジャパン・タイムズを購読しているといいますから、影響は甚大です。ほんの一例ですが、⇒ こ ち らの検証例をご覧ください。
 全国紙(朝日、毎日等)が発行元の英字紙も同じ理由から重要と思いますが、英語力不足から調べたことがありませんので指摘にとどめます。

 ケント・ギルバートの論考(月刊誌「VOICE」、2015年3月号 )に「ジャパン・タイムズ」 に触れた下りがありますので、引用しておきます。

〈ここで、忘れてはならない情報をお伝えしましょう。
日本の代表的な英字新聞『ジャパン・タイムズ』のことです。
あの天下の『朝日新聞』 さえ「慰安婦の強制連行はなかった」と認めたのに、
『ジャパン・タイムズ』はいまだに「慰安婦問題を引き起こしたのは日本のせい」の一点張りです。
極左とでもいうべきか、まったく日本側の立場を取材して書かない。
もはや読む気が失せますが、『ジャパン・タイムズ』が海外から見ると、
「日本の声」として判断されてしまう。この現実から目を背けてはいけません。〉


 ギルバート氏の抗議等が功を奏したのでしょう、ジャパン・タイムズの経営陣も変わって、改善に向かっているそうです。だからといって、過去の報道がチャラになるわけもなく、責任の所在を明らかにする必要があります。

・ 皆 様 の N H K
 NHKなど放送メディアはそうなのですが、多くの人がビデオなりDVDにとっておかないかぎり、番組批判や見直しは難しくなります。新聞のように縮刷版を見、コピーをとればというわけにはいきません。ですから、放送メディアの監視は手薄になってしまいます。
 テレビの功労者ではやはりNHKが横綱で、TBS(毎日放送)あたりがこれにつづくと思います。

 毎年8月、12月になると、NHKは日本軍を断罪する番組を大量放送しました。それも繰り返し繰り返し。8月は6日の広島原爆投下につづく敗戦(15日)、12月は日米開戦(8日)、南京攻略戦というわが国にとって歴史の節目となった年ですから、ある程度、放送が集中するのは自然でしょう。
 ですが、戦後70年に近い2010年代だって大差はなく、数多くの番組が流されました。それも、通年になったように思います。


 NHKは日本が過去に犯した「大 罪」を忘れないように、国民教育が不可欠と判断したのでしょう。
 日本軍の侵略とそれに伴う残虐行為、また無謀な戦争に突き進んだ日本軍部の愚かさなどとともに、戦争の悲惨さを強調した番組を大量に放送します。以前は2月26日(2・26事件)、7月7日(蘆溝橋事件)などでも集中して放送があったものでした。
 「従軍慰安婦」報道は、思い込み、偏向のもとに行われた大量報道の一例です。この問題に関連する執拗な放送が、肝心な部分において、いかに誤った事実で成り立ち、われわれ日本人に誤った知識を刷り込み、日本軍への憎悪を駆り立てたかを証明しているものだと思います。
 ですが、NHKも他と同様、自らの番組を検証するでもなく、傍観者のように済ましています。⇒ こ ち ら をどうぞ。

4 中国戦犯(=中共戦犯)


 終戦とともに、ソ連に抑留された後、中国に送られた兵士を中心に、約1000人が、「中国戦犯」(=中共戦犯、中国抑留者 )といわれる人たちです。ほとんどの人は中国で約6年間、「戦犯管理所」と称する2つの「監獄」に抑留されました。

・ 想像を絶する残虐さ
 日本軍の残虐行為を考えるさい、中国戦犯の「証 言」 を外すことはでません。並外れた日本兵の残虐が語られているばかりでなく、メディア、学者らの手を経て、広く国民の間に浸透したからです。
 「証 言」を大別しますと、上述のごとく
1 抑留中に書いた「供述書」
2    〃   「手 記」
3 帰国後の「証 言」

の3つです。
 とくに「手 記」は何冊もの本になり、また彼らの口から語られた帰国後の「証 言」は、多くのメディアが取り上げ多くの日本人学者の論文や著作に引用されました。
 一例をあげれば、「中国人強制連行」について書いた本のほとんど(全部?)が、中国戦犯の「証言」を事実としてとりあげ、日本軍の悪辣さを強調します。そのうえ、証言者が「中国戦犯」だとは書いてないために、読者はごく普通の日本将兵の証言と思ってしまうのです。


 彼らは帰国後、「中 帰 連」(中国帰還者連絡会の略称)を組織、さまざまな活動を行ってきました。自らが中国で犯した数々の残虐な行為を本にする人もありました。テレビ、新聞の取材に積極的に応じ、日本軍がいかに非道のかぎりをつくしたかを「告白・証言」する人もありました。ただ、同じ顔ぶれという特徴はありましたが。

 中帰連を主な取材源にして番組をつくり、あるいは紙面に紹介したのは、やはりNHKと朝日新聞 が突出しています 。これにジャパン・タイムズや学者も加わりました。
 幅広くメディアを利用することは中帰連の戦略の中心を成し、両者は協力(利用)しあいながら、あたかも「供述書」「手記」「証言」などが疑いのない事実のように報じ、人間の所業とは思えない日本軍の悪行を告発したのでした。

 上の画像は、1989(平成1)年8月15日にNHKが放送した番組のタイトルです。このあともかれらを取り上げた番組が放送されています。このため、中帰連の知名度はたかまり、かれらに多くの発言の機会が与えられたのです。「中国戦犯」については⇒ こちらをご覧下さい。

・ 大学教授、文化人などの有識者
 大学教授や作家、文化人など“有識者”と呼ばれる人たちも日本叩きに一役も二役も買いました。朝日、NHKなどの報道を肯定するという形が多いと思います。「南京大虐殺」はもとより、「三光作戦」や「中国戦犯」が犯したとする犯罪を肯定するなどはその典型でしょう。
 また、自ら中国、韓国などに出向いては現地の説明を聞いて丸呑みにする、あるいは提供された資料を鵜呑みにし、それらを事実として日本(軍)を断罪するケースもありました。

 でなければ、「現代用語の基礎知識1996」(自由国民社)の「歴史」分野で、「南京大虐殺」 の説明として、「南京市民にたいする無差別の掠奪により、中国側の見解によれば100万人の、あるいは少なめにみても2、30万人の命が奪われた」 とした樺山 紘一・東大教授、あるいは「40万人」 と高校用教科書に書いてしまった東大の加藤 陽子・助教授(当時)らが出てくるわけがありません。後者については原稿段階で文部省側からチェックが入り、事前修正されましたが。

 また、南京問題で「大虐殺派」といわれる学者らが集まる「南京事件調査研究会」という会がありました。この研究会に朝日新聞の後押しがあるのは、本多 勝一朝日記者もメンバーの一人ということからも明らかでしょう。
 ですから、学者、文化人ら有識者については、朝日、NHKなどで報じられた問題を取り上げれば、そのなかに自然とでてくることになります。

5 WGIPについて


 ここまでお読みになって、東京裁判とGHQ(General Headquater 占領軍総司令部)のいわゆる

「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」
( war guilt infomation program =WGIP)


 が抜けているではないか、と思った方もおいでかと思います。
 GHQの宣伝プログラムが、当時はもちろん、今日にいたるまでも、いわれるような影響をわれわれの歴史観(歴史イメージ)におよぼしているとは私には思えません。

 もちろん、大きな影響を受けた人が、「インテリ層」を中心にいたことでしょう。でも、その影響はとなるとどうでしょうか。こう考える私なりの理由はありますが、この問題の議論は生産的でないと思いますので、ここまでにします。
 なお、WGIPについては、⇒ こちらに少し触れていますのでご覧ください。
 また「東京裁判」と「東京裁判史観」、あるいは「自虐史観」等について大分前、⇒ ブログに書いたことがありますので、参照いただければと思います。

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